近藤喜文さんの訃報を伝える新聞記事
「スポーツニッポン」1998年1月22日
去る1月21日午前4時25分、スタジオジブリの代表的アニメーターであり、「そらいろのたね」「耳をすませば」の監督でもあった近藤喜文さんが、解離生大動脈瘤のため東京都立川市内の病院で急逝されました。享年47歳、余りも早すぎたご逝去でした。
この突然の事態に、1ファンとして謹んで哀悼の意を表します。ファンの皆様と悲しみと無念の思いを共有すべく、以下葬儀の御報告をさせて頂きます。
私叶は、21日当日、まず大塚康生さんと電話でお話したのですが、「自分より20歳も若かったのに。今後は近藤さん・友永さんの世代がリードする時代だった筈なのに…」とガックリされていらっしゃいました。大塚さんは宮崎監督から直接伺ったそうです。大塚さんは、近藤さんがツメエリの高校生の見学者の頃からアニメーターとしてのノウハウを近藤さんに教えた「最初の先生」だったのです。その胸中はたまらないものがあったと思います。
葬儀は東京都清瀬市の全龍寺(曹洞宗)で行われました。周辺は畑が多く、都内とは思えないほど一面に雪が残っていました。
22日の晩に行われたお通夜は、ご親族の方々、地域の方々、アニメーション制作関係者の方々など500人前後の人で溢れていました。ジブリの方々も、道案内・交通整理・受付事務など、方々にお見かけしました。「耳をすませば」で主演声優を務めた本名陽子さんもいらしたそうです。
御霊前に添えられた献花には、宮崎監督、高畑監督、徳間社長、鈴木敏夫氏、男鹿和雄氏、ほかジブリの方々、「耳をすませば」原作者の柊あおいさん、声優の高山みなみさん、日高のり子さん、ガイナックスなどアニメ制作会社、徳間書店関係などの名札がならんでいました。遺影の近藤さんは、いつものように優しく微笑んでいらっしやいました。
御焼香をすませて、奥座敷でジブリの動画スタッフの方々と少しお話しました。宮崎監督は、田中敦子さんらテレコムの方々と色々お話されていらっしゃいました。私は「コミック・ボックス」編集部の方々と合流し、ジブリ制作部の田中千義さんから事情を伺いました。それによれば、年末に危険な大手術をして無事成功した矢先のご逝去だったとのことです。若い頃の無理がたたったのか、一番悪い所が取り除かれたにも関わらず、別の所が悪化してしまったようです。ジブリの皆さんは、「時間はかかっても必ず元気になる」と信じていただけに、余計にショックが大きかったようです。田中さんもジブリのホームページに報告を書かねばならないのは、さぞ辛かったことでしょう。
23日の告別式は、さらに大勢の弔問の方々がお見えになっていました。7〜800人くらいだったかも知れません。昨日に続き、大塚康生さん、小田部羊一さん、庵野秀明監督ら錚々たる方々のお顔が見られました。
弔辞は、始めに地域代表として虫プロダクションの有原誠治さんから、近藤さんが地元のゴミ処理問題の運動に深く関わっていらしたこと、地域の運動や祭などに積極的に関わっていらしたことなどが語られました。
次に友人代表として宮崎駿監督が弔辞を述べられました。監督は、「純粋なものへの愚直なまでの憧れ」を描ける随一のアニメーターとしての近藤さんを、ラナを励ますコナンのシーンなどから振り返り、最近は「せっかちで強引な宮崎と仕事するのはこりた」と思われていたかも知れないと自戒しつつ、20代の近藤さんとの約束を「耳をすませば」で果たしたことなどを話された後、次回作は一緒にやろうと決まった矢先のことだった…と声を詰まらせ、「管だらけになって寝ていても、どこかにまだ健康なコンちゃんがいる気がして」と、涙声になりながら続け、「ぼくは君を忘れない!」と結ばれました。
続いて友人代表として高畑勲監督が弔辞を述べられました。監督は、信じられない事態と語り、「おもひでぽろぽろ」のドンガバチョの歌のエピソードが近藤さんの体験から引用されたものであること、「バンダ・コパンダ/雨ふりサーカスの巻」で洪水の中で屋根の上の食事シーンを22歳にして描いたことの驚き、28歳にして取り組んだ「赤毛のアン」でアンのキャラクター設計に苦心したこと、プリンス・エドワード島のロケハンのこと、アンや「火垂るの墓」の節子のデザインが、その後のアニメキャラクターに大きな影響を与えたことなどを淡々と語られた後、自分との仕事の激務が寿命を奪ってしまったと思うと、いてもたってもいられないと痛切に訴えていらっしゃいました。そして「あなたの仕事はこれからも、影響を与え続けるでしょう」と結ばれました。
弔電は、JA社長、日本テレビ社長、「そらいろのたね」の原作者・中川季枝子さん、テレコム社長の竹内孝次さんなど多数紹介されました。
そして、ご親族の方々の手により出棺がなされました。最期に喪主である近藤浩子さんより、「闘病がほとんどないほど、突然の死でした」「最期まで、仕事のことを考え、書けなくなっても鉛筆を離さずに筆談しようとしていた」「アニメーション一筋の人でした」「今後は現実を受け止め、息子と二人で生きていきます」とお話がありました。
火葬場への葬送には本名陽子さんの「カントリーロード」が流され、告別式は静かに終わりました。
以上、拙い報告文ですが、葬儀の模様が皆さんに少しでも伝えられれば幸いです。
取材の数も少なく、静かで素晴らしい御葬儀でした。
合掌。
1998.1.24.