夢
「…ねえ、それっておじさんとおばさんには…、まさかとは思うけど母さんに言った?」
「…言ってない。教えてくれた人にも口止めされたし、…言えないよ、こんなこと。」
その答えにとりあえず胸をなでおろす。
とりあえず、香織しか知らないのなら。
「ねえ、あんたのことだからおばさんやあたしたちに遠慮して転校とか考えられないんだろうけどさ。
あたしたちはあんたが不幸な状態でいる方が辛いよ。
言い出しにくいならあたしも口添えするし。
今からでもあたしと一緒の学校に…」
「それはできないわ」
できるだけ、揺れる心を隠すようにきっぱり言い切る。
「なんでよ!」
「香織の気持ちは嬉しい。でも、あたしはやめる気はないの」
確かに、あの学園はあたしにとって牢獄にも等しい。
親しい友達もいないし、今いじめの最中だし、ルームメイト最悪だし。
死亡フラグもたくさんあって最悪死ぬかもしれない。
いいところなんかないけど、それでも。
「確かにあの学園の居心地は最悪よ。庶民のあたしには理解しがたいことが沢山ある」
「なら…」
「それでもあの学園には可能性がある」
「可能性?」
そう、あの学園は多分あたしに、可能性をくれる。
叶うはずのなかった夢を叶える可能性。
あたしの今までの人生はずっと我慢の連続だった。
幼い頃に父が病死し、その父の残した借金、女手ひとつの母。
迷惑をかけないよう、わがままを言わないよう常にあたしは抑えてきた。
母に嫌われないよう、他人に裏切られないように、愛想をつかされないように。
でもずっと言いたかった。
仕事で遅くまで帰ってこない母に寂しいと、死んだ父を詰りたかった。
でも言ったところでどうしようもないことはわかっていた。
母が仕事をしなければ、あたしたちは食べられないし、死んだ人間に何を言っても無駄だ。
だから、あたしはずっと気持ちに蓋をし続けた。
それはあたしの将来の夢についても同じだった。
ずっと叶えることも望めないと、誰にも母にも言えずに諦めていた。
あたしにはなりたいものがあった。
弁護士だ。
あたしのとってそれは弱いものを助ける正義の味方と同義の存在。
あたしがまだ幼い頃、父の残した借金問題で家には常に借金取りが来て、あたしと母を脅した。
何度も強く叩かれる扉に男の容赦のない怒鳴り声。
今思い出しても身がすくむ。
だが、家の中にいれば、勝手に入ってくることはなかったし、母も出会わないように細心の注意を払って行動していたので、借金取りがあたしたちに何か手を出してくることはなかった。
だが一度だけ、病院の父を見舞った帰りに家の前にいた借金取りに出くわしてしまったことがあった。
強面の屈強な男を従えた知らないサングラスの男が母に借金を返すようにと迫ったのだ。
怖くて母にしがみつくしかなかったあたしの目の前に現れたのは、スーツを隙なく着こなした大人の女性弁護士だった。
後で知ったことなのだが、その人は父親がまだ破産していなかった時、父の仕事の相談を受けていた顧問弁護士だったらしい。
倒産後、顧問弁護士を解雇されていたのだが、あたしたち親子の惨状をどこかで聞きつけて、顔を見に来てくれたらしい。
その弁護士さんは、強面で腕力では全く敵わないだろう相手に怯むことなく、スラスラと法律要件を述べて、借金取りを追い払ってくれたのだ。
その姿はあたしの網膜に焼き付いた。
かっこよかった。
まるでその当時に流行っていたアニメの正義の味方のように思えたのだ。
もちろん今なら弁護士が必ずしも正義の味方でないことは知っている。
だが、その後も死んだ父の借金で母やあたしが困らないように母の相談に乗ってくれた。
しかも無料だ。
お金にならない仕事なのにどうしてそこまでしてくれるのかと訪ねたことがあった。
その人は、はにかみながら話してくれた。
まだ弁護士としては駆け出しだった彼女を最初に目を掛けて、顧問弁護士にしたのが父だったらしい。
父に雇われて以降、仕事も順調にこなし、今弁護士としての自分があるのは父のおかげで、その恩返しをしているのだと。
もはやほとんど記憶にない父で、あまりよい印象はないのだが、その点でだけは褒めてやりたい。
彼女はあたしたち親子の恩人であたしの憧れの人だ。
今でもたまにメールをしたりして交流を持っている。
あの日の彼女の姿は今でもはっきりと思い出せる。
あたしが弁護士になるという夢を漠然と思い描くようになった最初の日はあの日だった。
しかしその夢が叶えられないと知るのは中学の時。
課題で将来の夢を叶えるために必要なことを調べるという課題が出たことがあった。
そこで、あたしは弁護士になるには法科大学院を出る必要があると知った。
絶望した。
もちろんあたしの家にそんなお金はない。
高校ならば母子家庭の助成金があり、なんとか通えるかもしれない。
でも大学、まして大学院など絶対に無理だ。地元には法学部のある大学はなかったし、大学に通うためには一人暮らしをしなければならず、そんな費用を母に負担させられなかった。
だから、あたしは進学を望まなかった。
幼い頃から思い描いた弁護士になるという夢を諦めた時点であたしに進学の意思がまったく失せていたのだ。
夢を諦めるのなら、できるだけ早く独立し母に負担をかけずに生きようと思ったのだ。
今思えばいじけて、半ばやけになっていたのだと思う。
そこで持ち上がったのが、裏戸学園への推薦の話だった。
「確かに母さんや香織たちに心配かけたくないという気持ちもあるわ。
でもそれ以上に。
裏戸学園でそれなりの評価を得られれば、大学に進ませてくれるわ。
裏戸学園傘下の大学には法学部もあるし、法科大学院も併設されてる。
裏戸学園にいれば、あたしは弁護士になれるかもしれない」
とはいえ、今現在のあたしの生活態度では無理かもしれない。
聖さんに出会って以来のあたしの行動は傍目から見れば、とても優等生とは言えないものだっただろうなあ。…はあ。
…一瞬遠い目をしてしまった。
まだまだ生きてこの一年を乗り越え、評価アップを目指せばまだチャンスはあると信じたい。
あたしの告白を香織は呆然と聞いていた。
一通り話し終えて、少しの間沈黙が落ちた。
それから、ポツリと香織がつぶやいた。
「…初めて聞いたわよ。その話」
「そりゃそうよ。この話話したの、香織がはじめてだもん」
「あたしが初めて…て、あんた、おばさんにも話してないの?」
香織の言葉にあたしは頷いた。
話せるはずがない。
ただでさえ高校進学のことでもめて、進学の費用が出せないことを嘆いていた母に、諦めかけた夢の話など。
「絶対泣かれるもん。母さんに泣かれるのは辛いから」
「話さないことのほうが、泣かれると思うけどな」
至極もっともな香織の言葉に、だが嫌なことは先送りしてしまう性格は自覚している。
でも、先送りさせてください。本当に叶ってから母には言いたいから。
「色々今は辛いけど、将来、笑い話にしたいのよ。
夢を叶えてから、母さんに報告したいの。
あの頃はこんな辛いことがあったけど、頑張ったからって胸を張りたい。
だから、裏戸学園はやめない。わかって、香織」
あたしの言葉に香織はすぐには答えなかった。
しばらく二人で見つめ合う時間が過ぎる。
例え香織にわかってもらえなくても、あたしは裏戸学園はやめない。
でも、できればわかってもらって応援して欲しかった。
幼い頃から一緒で一番の友達だった香織。
事情を知って、相談できたらどれだけ心強いか。
もちろん今まで隠しておいて、虫が好いのもわかっているし、香織があたしの為を思って言ってくれているのはわかっている。
でも、これだけは譲れなかった。
じっと見つめ会った後、先に視線を伏せたのは香織だった。
「…あんたが決めたことならいいわ。あんたの人生だもん。
理由も納得できたし、あたしが口出しすることでもない」
「それじゃ…」
「これ以上学校のことは言わないわ。帰って来いなんてのもね」
「とことんまで可能性を求めればいいじゃない」と突き放しているようでその実、叱咤激励している香織らしい言葉に思わず目頭が熱くなった。
「ううう。ごめんね。せっかく心配して言ってくれたのに無下にして」
涙をこらえるためにうつむいたあたしの頭上から声がする。
「でも、条件はあるわ」
条件が飲めない場合おばさんに報告するし、というその言葉に思わず涙を引っ込んだ。
母さんに話されるのはまずい、不味すぎる。
シングルマザーということで必要以上にあたしに対して負い目を感じている母さん。
変に通っている学校に問題があると知られてしまえば、確実に速攻で連れて帰られてしまう。そう言った行動力だけは人一倍な人だ。
思わず、ガバっと顔を上げたあたしに待ってたとばかりに香織がにやりと微笑んだ。
「本当に辛くて死にそうになったら、なにもかも放り出して帰ってくること!
一人でうじうじ悩んじゃうのはあんたの性格上、どうしようもないけど。
…あんたの家は一つじゃないってこと忘れないこと!」
その言葉にあたしの涙腺はぶわりと崩壊した。
思わず、香織に抱きついた。
「香織、ありがとう!」
「まったく、水臭いのよ。あんたは」
抱きついたあたしの背をトントンとまるで母さんみたいに叩いてくれる。
香織の暖かさにさらに涙が出た。
聖さんのせいで急なことだったけれど、本意ではなかったけれど。
予想外で香織に話せて、理解してくれて。
少しだけこの帰郷を後押ししてくれた聖さんにお礼が言いたい気がした。
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7/20 新しいSS拍手公開。但し鬱系になりますのでご注意を。(7/27全五話アップ)拍手2回すると出ます。
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