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『リアリティのダンス』 - 想像の地平に臨む回顧録 - 1953ColdSummer

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『リアリティのダンス』 - 想像の地平に臨む回顧録


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アリティのダンス
LA DANZA DE LA REALIDAD/THE DANCE OF REALITY
2014(2013)/チリ/フランス/R15+ 監督/アレハンドロ・ホドロフスキー 出演/アレハンドロ・ホドロフスキー/ブロンティス・ホドロフスキー/クリストバル・ホドロフスキー/アダン・ホドロフスキー/パメラ・フローレス/イェレミアス・ハースコヴィッツ/他 原作/アレハンドロ・ホドロフスキー/『リアリティのダンス』
その時少年は、
世界を見た。



 わたくしがごとき洟垂孺子が背伸びをしヨッと窓に手を掛けて世界を臨んだ場合、まあ、まなざされるのは人が人を殺す様子であるとか、それを正当化するに唾を飛ばす人面獣心が群生している様子であるとかで、往々にしてろくなものが見えてこない。
 あゝろくでもない。つて、毒づきながらもその窃視を止そうとしないのはひとえに恒常を逸する快楽を映画に強請っているからであり、その行為はろくでもない我と我が身の記憶に後押しされる。

 想い出はいつもキレイだけどそれだけでは空腹は紛れぬし食うためには殺人もやむなしかなといつか、どこかの歌い手が歌っていたような気もするし、歌っていなかったような気もするが、想い出。善哉々々。このひとは昔どうであったか、つうのは、このひとは今どうであるのか、つう評価に応じて再構築され美化され神話の眷属になる。

 アレハンドロ・ホドロフスキーの自伝を原作に、記憶、世情、事実に虚構を自在に改変し再構築された映画、『リアリティのダンス』に介入できる程の強い口上を自分は持たない。この超現実的な記録に、マジック・リアリズムに当てられて、少しでも自分史の編纂なぞを考えてしまおうものならそれはもう映画を窃視するというメリハリを超えて、現実に戻って来られなくなってしまう。あらゆる悲歎や阿呆事が抽象化されてしまい、意味を限定して具体化することに懐疑的になってしまい、生活すらままならぬ禁治産者になってしまう。

 とは言い条、私も真ッ正面から面白かった、良かった、オススメだよ、と書けて終われればどれだけ楽かと常々思っているのもまた事実であり逃げの一手として抽象的な物言いを用いる姑息さの自覚はないでもないのだけれども、言葉を失ってしまう、或いはそれを具体化する言葉に欠ける本作の如き映画にばったりこってり遭遇した場合、そのシンボリックな部分をいささか誇張してあとは聾唖のごときになってしまうのは未熟と愚昧の現出というもので、逃避願望がむくむくと鎌首をもたげてくるのを感じるのだが、ホドロフスキーはこれを「過去を変えるため」に、「主観によって過去は変えられる」から撮ったというのだから、御年85歳にして抽象と具象の平衡を自在にするその魔術たるやまさに“リアリティ"と“踊"(ダンス)っちまった体験と言えましょう。

 事実を基に映画的な肉付けを行なっていく工程をせせら笑うかのように、アレハンドロ・ホドロフスキー少年の「事実」は基軸からすでに変異している。それは年代のおかしさや、ホドロフスキーの息子がホドロフスキーの父を演じるといった試みが、記憶の正確な再現をはなから放棄し達成を阻んでいる事からも分かる。
 もし、ホドロフスキー少年自体が世界から孤立しているのであれば、逆説的に自分語りのニュアンスが強化出来たかも知れない物語(昔話)に、途中、共産主義を信奉する父親ハイメがファシズムに立ち向かうという「自身の不在」を混入させ観客を煙に巻いたかと思えば、自分と母を文字通り黒塗りにしてしまい、これは一体誰の物語なのかと不確定性に映画は揺らぐ。

 ここで、たびたび出現する呪術的めいたモチーフを用いてまでもこの映画は何を欲していたのか、否、何を放棄しようとしていたのか、と、繰り返される身体(性)の欠落やジョーシキの欠如に重ねながら想像を巡らせてしまうのだけれども、パンフレットを読んだら「イマジネーションの中で人生を作ることです。そして想像したように生きることです」と一応の答えのようなものが書いてあった。ははは、ペストに罹患した連れ合いに屎尿をばぶちまけたら恢復する人生。ファシスト暗殺未遂の果てに聖なる木工と邂逅する人生。想像の中に血肉を得たエロティシズムが幾通りもの人生を拵える。人生の補完のために映画を窃視する出来損ないと、過剰な人生の遺伝子を映画に遺した出来上がりの致命的な違いがここにある。捻出するものといえばスカトロくらいな乃公と致しましては身につまされる思いに臀筋が引き締まることこの上ない。

 臀筋を引き締めながらかしこみかしこみ奏上させていただきますと、個体のイマジネーションが人生を形作る、というのは人間賛歌であると同時に神への冒涜とも受け取れませんでしょうか。
 生きものの記録に抽象によるワガの世界のデザインを刻んでしまうと名実ともに神は死ぬ。にも関わらず、精霊信仰からオリジンへの帰依までをも受容し時にはおちょくるホドロフスキー映画は自己矛盾を起こしているのではないのかと渋茶を呑み呑み考えてみたりもしたのだけれども、カミ、つうのはツールであり、作中のウクライナ商会で並べられている女性物のパンツと大して変わらぬもので、パンツが何のためにあるのかというと、それはもちろん社会的生きものである人間が社会性を保持するに必要であるからで、試しにパンツと名のつくものを一切履かずに社会に繰り出してみると、あっという間に尊厳が剥奪され、人生、そのものの有無に関わる事になる。
 そんな当然を創造主への叛乱と騒ぐ向きを『リアリティのダンス』は笑っているのであるし、想像力による人生の回顧録という体裁を取って抽象化された人生を歩むべしと言っているのでは、と、いうのはまだまだ自分に想像力が足りぬからであり、これからも脳味噌を死体蹴りするかのごときに映画を観たり本を読んだりするのでしょう。


リアリティのダンスリアリティのダンス
アレハンドロ・ホドロフスキー 青木健史

天使の爪 L'INCAL アンカル (ShoPro Books) サンタ・サングレ/聖なる血 <HDニューマスター・デラックスエディション> [DVD] アレハンドロ・ホドロフスキー DVD-BOX アラン・マンジェル氏のスキゾな冒険

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