2014年8月2日13時36分
とことんインタビュー
憲法学の長老が危惧することは
東北大・東大名誉教授 樋口陽一さんに聞く
戦後、日本が築いてきた価値が損なわれようとしているのではないか。仙台出身の東北大・東大名誉教授、樋口陽一さん(79)はそう危惧する。敗戦から69年の夏、憲法学の長老に聞いた。
――閣議決定による憲法9条の解釈変更を、どうとらえますか。
「安倍首相の憲法へのニヒリズム(虚無主義)を感じます。去年は(国会議員の3分の2を改憲発議の要件とした)憲法96条を変えようとした。小林節・慶応大名誉教授は『裏口入学』と評しました。今度は裏口どころか、表玄関から土足で9条に入ってきた。憲法をあって無きがごとくに扱うだけでなく、その変わりようもニヒリズムという語がぴったりです」
「歴史に責任を負う決断をするにしては、安倍首相は実に明るく、ほがらかです。『様々な批判や論点を考え抜いた末、これしかないという結論に達した』というのではない。『皆さん安心して』『心配はいりません』と繰り返すだけ。これもニヒリズムではないでしょうか」
――首相は、集団的自衛権行使を認めることが抑止力になると言います。
「抑止力とは、相手との関係を前提にしています。米ソが核配備を競った時代も、米ソが世界を二分するという共通利益があったからこそ、抑止力は利いていた。安倍首相は、村山談話や河野談話をないがしろにし、中国、韓国との首脳会談も実現していない。東アジアの共通の利益を探す努力なしには、抑止力は成立するはずがありません」
「私は現在も将来も、憲法9条に触れることに反対の立場です。ただ、戦後日本が歩んだ道を積極的に確認した上で、戦前戦中の歴史への立場を明確にし、東アジアで相互理解を進め、国民のコンセンサスを得て9条を改正する選択は、ありうる。そうした『まっとうな9条改憲論』も、安倍首相はぶち壊した」
――来年8月には戦後70年を迎えます。
「1945年7月10日の仙台空襲の時、私は9歳でした。住んでいた宮城野原近辺は焼失を免れたが、一夜にして1千を超える命が奪われた。翌日、焼死体を山積みにしたトラックの荷台に抜刀した軍人が乗っていたのを覚えています。私たちの上の世代は多くの戦友を失った。生き残った者として、日本をまたダメにしたのでは申し訳ない、という思いは痛切です。戦後の出発点には、国内外の多くの死者がいた。戦後レジームからの脱却を掲げる安倍首相は、彼らの霊にどう向き合うつもりでしょう」
――樋口さんは昨年来、憲法問題で積極的に発言してきました。
「私は学者が世間にかかわったり、連名で声明を出したりするのは学問の本質に反すると、最近まで考えていた。ですが今、日本政治から『抑止力』が欠落していることに危機感を持っています」
「かつての55年体制は、自民党一党独裁と言われながらも、実態は派閥による連立政権で、野党や労働運動との対抗関係もあり抑止力が働いていた。ところが衆参の『ねじれ』を解消した安倍政権は、『決められる政治』へと突き進んでいる。日本が歯止めなき道に入ろうとするとき、非力ながら抑止の一端を引き受けねばと思ったのです」
「いまの政治に抗議する大小の集会が、同時多発的に毎日繰り広げられています。市民一人ひとりもまた、抑止力を担うのです」
(聞き手=編集委員・石橋英昭)
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ひぐち・よういち 専門は比較憲法学。東北大で教えた後、東大教授に転じた。故・井上ひさしさんは仙台一高の同級生。立憲主義を守る立場の学者らでつくる「立憲デモクラシーの会」「国民安保法制懇」などに加わっている。