個人の創造性を根絶やしにする日本社会の「立場主義」

安冨歩・東京大学教授に聞く

秋山 知子

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東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は、日本の専門家や権威が抱える矛盾や欺瞞をあらわにした。東大関係者に代表される専門家・権威に共通する独特の話法を、安冨歩・東京大学東洋文化研究所教授は「東大話法」と名づけている。情報を歪め、個人の創造性を阻害する欺瞞言語の背景に何があるのかを聞いた。

(聞き手は秋山知子)

―― 2011年3月の原発事故をきっかけに、東大関係者など日本の専門家や権威に共通する欺瞞に満ちた話法=「東大話法」があると唱えられています。そもそも安冨先生も東大に現在いらっしゃるわけで、ああいう本を書いて大丈夫なんですか(笑)。

安冨 歩(やすとみ・あゆむ)氏
1963年生まれ。京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。2009年から東京大学東洋文化研究所教授。著書に『「満州国」の金融』(創文社、1997年)、『経済学の船出』(NTT出版、2010年)、『原発危機と「東大話法」』(明石書店、2012年)、『生きるための論語』(筑摩書房、2012年)など。
(写真:都築雅人、以下同)

安冨:東京大学はある種、日本の中核的組織で、その内部がどうなってるのかというのは非常に興味深い研究テーマでしょう。

 東大にいて給料をもらってるんだから、そこでフィールドワークをして成果を国民の皆さんに伝えたら非常に有効ですよね。普通の人がまず入れない教授会には出入り自由ですし、内部文書も見られますし、どんな学生が来てるとか試験でどんな答案が返ってくるとか、僕にとっては全部がフィールドなんです。しかもコストはゼロでできて、すごくリーズナブルな研究プランでしょ。でも、普通はこういうのはやらない。「立場上」やっちゃいけないとか、辞めてからやれということになるんだけど、それじゃ意味がない。

 創造性の根源というのは「自分自身の感覚に従う」というところにあります。東大のフィールドワークをしちゃえというのも、自分自身の感覚から発生してくるものです。それが筋の通ったことならやったらいいと思うんだけど、ほかには誰もやりません。

―― どうしてでしょうか。

安冨:学問でもビジネスでも、イノベーティブなことはなぜか「論外」だと思い込むように日本の社会システムができてるからです。そういう思考上の障害を作り出すのが、東大話法のような欺瞞言語の体系なんです。

 私の知人で、よりたかつひこさんという方がいます。馬と触れ合うことでセラピー(治療)を行うNPO(非営利組織)を国内外で手広く運営しているんだけど、彼の年収は80万円です。社員の年収も「500万円を超えないこと」という規約がある。低賃金がウリなんです。

 なんで賃金が安いかというと、NPOが住む場所と食べるものを提供して、社員に自活してもらうからです。社員は研修を受けて、心の傷を癒して、技能を修得する。のれん分けしてもらえば独立もできる。生きていける状態を作り出してあげるサポートシステムです。

 でも普通の価値観から言ったら、賃金は高いほど良いわけです。低賃金がウリなんて、やっちゃいけないことになってる。そんなビジネスなんて、論外なわけ。

 しかし事業というものは、賃金が高いとできることが限られます。すばらしい事業は大抵もうかりませんから、賃金が高いと不可能になります。賃金が低くてもみんなを幸せにできるなら、すばらしい事業ができるようになるのです。

創造的発想を阻害する欺瞞の話法が蔓延している

安冨:この、よりたさんと僕が発起人になって、「馬力学会」というのを9月に立ち上げました。「ばりょくがっかい」と読みます。「原子力から馬力へ」というのがスローガンなんですが。

―― 馬力学会、ですか。どんなことを研究するんですか。

 例えば、健康になる移動手段です。クルマやバスや電車じゃなくて馬で移動すれば、ただ移動できるだけじゃなくてセラピー的効果もある。クルマを運転して心理カウンセリングに行くよりも、セラピーを受けるという観点からしたら馬に乗るほうが得かもしれない。道産子や木曽馬など日本古来の馬なら、少し練習したらすぐ乗れます。耕運機に乗って畑を耕すよりも、馬で耕したらすごく楽しいですよ。

 里山の手入れなんかも馬を使ってやるとすごく安くなる。山から木を運ぼうとすると、まず重機を入れて道を作らないといけないのですごいコストになる。結果、誰もやらないので山が荒廃する。馬を使えば回復できる山はたくさんありますよ。

 でも普通のビジネスの感覚では、こういう発想はすべて抜け落ちるか、論外になってしまうんです。

 なぜなら、欺瞞言語の体系に入ってしまってるからです。自分自身の創造的な感覚や思考に従うのではなくて、外部から設定されたある枠組みを取り込んで、その中で自分のやるべきことを決めてしまうんです。

 例えば経済学の話をする時は、まず経済学用語っていうのが決まってるわけです。「需要」とか「供給」とか。そういう言語を使って思考するようにできあがってるんですね。すると、それが現実の経済と一致するかどうかは関係なくなってくるんですよ。「理論が正しくて現実の方が間違ってる」みたいなむちゃくちゃな話さえまかり通るようになる。「均衡」なんていうけど、ものすごく複雑な現実社会の経済現象で均衡なんて、科学的にも常識的にもありえません。

―― 安冨先生の本で「限界効用価値説は熱力学第二法則を否定している」というくだりがありますが、つい笑ってしまいました。

安冨:そうでしょ。ありえないんですよ。でも専門家はいくら言っても聞き入れないんです。「いや近似なんですよ」とか言う。熱力学第二法則を破っといて近似はないでしょう。大体、現実社会を扱おうとしたらパラメーターは無限にあるのに、そのうち2つか3つのパラメーターしか考えてないとか。

―― でも、そういう専門家に限って「相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念をもちだす」(東大話法のルール11)わけですね。

安冨:どうして彼らが偉そうにするかというと、それしか自分の立場を守る方法がないから。経済学も、原子力も法律学も全く同じ構造です。

「責任」が「立場」に結びついている日本社会の仕組み

安冨:日本というのは異常に専門家を重視するんです。これは面白いんだけど、原発に賛成する人も反対する人も、ものすごく専門家の言葉を重視する。ヨーロッパの人はそんなに専門家の言うことを聞かない。イギリス人なんか特に、専門家に対して評価が低い。

 シビリアンコントロールと言うけど、あれは「文民統制」ではなくて、「素人による統制」なんです。シビリアンとは、プロフェッショナル(専門家)に対しての素人。故・森嶋通夫先生が言っておられたのですが、日本はプロフェッショナル・コントロールの国だと。

 日本人が言う「素人」とは、「立場のない人」です。立場は責任と結びついているから、責任を負わない素人が判断なんてできない、と。逆に専門家とは「立場のある人」。

 でも専門家っていうのは言ってみればハサミにすぎないんです。ハサミにどこ切ればいいか聞いたってダメです。切りやすいところばかりチョキチョキ切りまくるだけですから。

―― 欺瞞言語の話法がはびこる温床に、日本社会の「立場主義」があると指摘されていますね。そもそも「立場」に注目されたきっかけは何ですか。

安冨:東大に来てからある時気づいたんですが、論文のタイトルで「〜の立場から」みたいなのがいっぱいあるんですよ。

―― その「立場」というのは、英語のstandpointの意味で使っているのではなくて?

安冨:使ってる本人はそういうつもりかもしれませんが。日本語の「立場」はもともと、株式売買なんかで使う商売用語なんです。現在使われている学術用語で、そういう生活感ズブズブの語感を持つものってまずないんです。語感がおかしいんです。しかもむちゃくちゃ乱用されている。

 いろいろ調べていった結果、こういうことでした。ヨーロッパ言語における「選択」の概念を考えると、選択は自由と結びつきますが責任も生み出します。「選択、自由、責任」がセットなんです。

 ところが日本では、自由と結びつくのは「無責任」なんです。なぜか。日本では責任は立場に結びついているからです。「立場がない=自由=フーテンの寅さん」なんです。

 日本社会における自由の根源は何かというと「無縁」です。「無縁=自由=責任がない」。これに対して「有縁=不自由=責任を負う」。つまり自由と責任が対立概念なんですね。ヨーロッパ言語では自由と無縁は全く結びつかない。不思議なんですよ。

 有縁、無縁は中世にできた家制度と結びついていて、家制度自体は高度成長期に崩壊して、戦争によって鍛えられた立場主義に変質しました。

 日本の学術用語として乱用される立場という概念は、ヨーロッパ言語にはないんですね。翻訳不可能です。standpointではない。面子とも違う。中国社会でいう面子は個人的なものですが、立場は個人的というよりは公共的なものです。

 立場主義社会では、個人である人間は立場の材料にすぎないので、どんな非人間的なことも許されます。ただ、他人の立場を失わせることだけはやってはいけないんです。「立場の発見」は、大発見でしたね(笑)。

情報に価値はない。大事なのはコミュニケーションだけ

―― 「立場」のある人や組織から発信される情報が正しい、という社会的前提がこれまではあったと思うんですが、昨年の震災ではそれが簡単に覆る局面が何度もありました。「正しい情報」とか、「正しく怖がる」とか言っていること自体が正しくなかったという事例があまりに多くて衝撃でした。

安冨:ピーター・ドラッカーが言っていますが、1950年代までは圧倒的に情報が足りなかった。ところがある日突然、情報があふれ始めた。コンピューターができたからです。これを73年ごろに書いてるんですね。パソコンもない時代ですよ。それから40年も経つのにまだ情報とか情報産業とか言っている。その頃から比べたら今なんて倒錯の世界ですよね。

 情報はまさにあふれ返ってるけどジャンクばかりで、情報自体にもはや価値はない。情報だけ見たって嘘か本当かは分かりません。

―― そういう状況で、情報の歪みに騙されないためにはどうしたらいいんでしょうか。

安冨:どういう人がどういう状況で言っているのかを把握して、それを自分が受け取って行動がどう変わるのか。情報は、発信者とメッセージの内容と自分とのセットで見ないといけない。つまりコミュニケーションにしか価値はないんです。

 例えば数年前に秋葉原で通り魔殺人事件がありました。その犯人が『解』という本を書いた。その中で彼は母親とのコミュニケーションがどうだったか、どのような過程を経てあの事件に至ったかを克明に書いている。それを読めば、自分にも同じような部分がある。自分が事件を起こさなかったのはたまたまなんだと思えば彼の言っていることの価値とか、なぜあの事件が起きたのかがよく分かるんですよ。

 でもそういうふうに読む人は少ない。ものすごく特殊な異常な人間が引き起こした事件だとか、「ネット社会の孤独が背景にある」とか言っている。

 例えば、大企業の経営者が不祥事を起こし、周囲がそれを隠蔽した。検察が証拠を捏造した。その多くは自分たちの立場を守るためにやっているわけですが、同じようなことをしてる人はたくさんいて、自分にも同じような要素がある。

 僕は以前から、日本社会は完全に気が狂ってると思ってたので、口をすっぱくして訴えてきたんですけども皆ゲラゲラ笑うだけで信じてくれませんでした。さすがに原発が爆発したら信じる人が増えましたが、まだ原子力関係者だけがおかしいとか、官僚だけがおかしいと思ってる人が多いですね。ほとんどの人は、自分はまともだという前提で情報を受け取ってるんです。自分も同じようにおかしいんだということを認めないと、ほかの人のどこがどうおかしいのか分からないじゃないですか。

 立場主義社会では、「立場上しかたなく」ということがトチ狂った恐ろしいことを引き起こします。そういう要素はもちろん自分にもあるし、エリートと呼ばれる人々も同じようなことをしている。そういう認識の枠を持てば、出てくる情報のどこが歪んでいるかが分かりやすくなるし、どうしていけばいいのかという行動にもつながっていくわけです。