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広島第二県女二年西組 原爆で死んだ級友たち №25 [核無き世界をめざして]

森沢妙子

                                   エッセイスト  関 千枝子

  森沢妙子は兵器廠まで逃げ父に救出された。妙子の父、雄三は市内草津町(市の西端、爆心から酉へ五キロ)でカキ養殖など手広く水産業を扱う、この業界のボスであった。関千枝子単.jpg
  この日は、妙子と姉の照恵が市内に行っていた。照恵は女学校卒業後、家にいても徴用にとられるというので、舟人中町(南西「五キロ)の神崎小の中にあった保育所に、保母として勤めていた。
「照恵は、その朝、身体がたいぎい(疲れた)というので、休め、というたんじゃが、同僚の先生が休むからどうしても行かにゃあ、というて出かけたんですよ」
   と雄三はいう。
  照恵も妙子も帰って来ない。今に帰るか、どうしたものかと、雄三は家を出たり入ったりうろうろしていた。六日の午後二時半ごろのことである。
「森沢さーん、お宅の妙子さんが、霞町の兵器廠におるよ……」
という男の声がした。エエッと玄関に飛び出してみたが、もう誰もいない。不思議だったが、とにかく行ってみることにした。手押車をひっぱり出し、家を出た。市内は火の海である。迂回しながら、八、九キロの道を、強引に走って、ともかく兵器廠についた。
「あれはもう、修羅場というしか形容する言葉がないですよ。電線の落ちたところでは手押車を抱え、時には火の中を突っ走り……」
  とにかく夢中だった。雄三が兵器廠に着いたのは五時ごろだった。収容所になっている倉庫の中はまっ暗である。人間とも思えぬ人が、うめき声をたてている。みんな焼けて、腫れて誰が誰ともわからない。男か女かもわからない。
「仕方がないから、おらび(叫び)ました。妙子-ッ、森沢妙子-ッ」
と、奥の方で、〝お父さーん″と答える声があるではないか。声を頼りに手さぐりで歩いたが、足の踏み場もないほどのケガ人で、近づくまでが大変だった。妙子は、身体中が焼けただれ、見ても自分の子と信じられないような姿である。水筒に砂糖水をつめて持って行ったので、それを妙子にやると、まわりの人がいっせいに、
「水をくれー」
と手をあげた。妙子が一口のみ、隣の人にまわした。水筒は手から手へとまわり、あっという間にカラになった。
  雄三は思案にくれた。妙子の火傷はあまりにひどかった。とてもこのまま、草津まで、手押車に乗せてつれて帰れるとは思えなかった。考えたあげく丹那(兵器廠のさらに南一キロ)に行こうと思いついた。知人の丹那の漁業組合長の家に行き、一晩とめてもらい、七日朝八時、丹那から船で草津に帰った。
  自宅に着いたのが七日の朝十一時ころ。それから、妙子はまる一日生きた。雄三はいう。
「うなされ、うわごとをいいつづけましてな。あまり、お父さんとか、お母さんとかいわんのですよ。仕事のことというか……あんた、あれをしんさい、とか、ちゃんと並びんさいとか、指図しよりましてな……」
「森沢さんらしい」
と思わず私はいった。全く-、森沢妙子は〃大親分″的存在だった。
「気の強い子じゃったですからな……」
  八日午前十一時三十分死亡。
  照恵の方はついに帰らなかった。全く消息不明、もちろん骨もない。
「いっしょにいた先生で助かった方がありましてな。神崎小は建物がすぐ倒れたらしいです。照恵が〃先生がんばりんさい〃というたらしいです。その声に励まされ、その先生は脱出して助かったらしいんです。照恵のおったらしいところを随分捜しましたが、わからんのですよ-。姉に比べれば、妙子は最後までみとってやれましたからな……」
「その……妙子さんが兵器廠にいると教えてくれた男の方は-?」
「これも全くわからんのです。声を聞いて飛び出したときはもう誰もおらんかった……。私は、あれは神様じゃった、と思うとります」
「わしはそのあと、十月二日まで、毎日広島へ行きました。会社の社員が二十二人、その身内でやられたものを捜さんならん。わしは死体を、八千体くらいはさわっとる……」
一応、落ちついた二十年の冬……。
「あのころ、わしは、よう眠れんのですわ。毎朝、三時ごろ目がさめてしまう。暗いうちに起きて、井ノ口(草津のさらに郊外の隣町。当時は美しい海岸で有名)まで歩いて行ったもんです。海岸でぼんやり一時間はど休んで-、海へ向かっておらぶ(叫ぶ)んです。テルエー、タエコー、テルコー、タエコー、何度も何度もおらんだもんです。それで気持ちをやっと鎮めて家に帰るんですよ」
 森沢雄三は、戦後、水産業界をバックに県議会に乗り出し、その強引なかけひきで、地方政界では知られた顔だった。若くして副議長になり嘱望されたが、身体を悪くして、政界からの引退を余儀なくされた。あの強気で知られた人が、海岸で娘の名を呼びつづける!。
「三十三年間……。わしは、こんな話をしたのははじめてじゃ。子どもにもいうておらん話じゃった。今も、話をするのも辛い。話しとうないんじゃ……」

  森沢妙子は目立つ存在であった。歳月がたつうち、あれ、そんな人がいた?……ということがある。だが、森沢のことを〝忘れた″という人はまずいない。同級生ばかりでなく、上級生も。あのころ、二県女に在学していたもので、森沢を知らない者はモグリ-そういった存在であった。
  まず、ずばぬけて背が高かった。私はそのころ背が高い方で、クラスで三番目だったが、三番目の私と並んでも五センチは森沢の方が大きかったから、百六十セソチ近くあったのではなかろうか。今なら何でもない丈だが、戦時中の体格の悪い時期で、百三十センチ台のものが珍しくない時だから、否応なしに目立った。しかもその身体は一片のぜい肉もなく、鞭のようで、運動神経抜群。男の子のようなスタイルだった。水泳など幼時から〝カッパ″の異名があったという。
  加えて、性格が〝豪快〃だった。こわいものなしというか。
  私が転入して間もない一年一学期、昭和十九年初夏。全校学芸会をやることになった。当時としては珍しいことと思うが、〝出演″はいっさい自主参加だった。私がいた一年東組から二組の応募があったが、その一つが森沢妙子と林綾子演ずる「寸劇・森の石松」だった。
  生徒たちはこの学芸会の企画に大いにわき、楽しみにしていた。娯楽の少い時だった。学校行事も減っていたころで、珍しかったのだろうか、戦時下のうすっべらい新聞だったのにもかかわらず、地方紙・中国新聞が取材に来て、社会面の片隅にのったものである。
  この日、生徒たちの一番の人気を集めたのは、四年生・東西両組合同オールキャストで組んだ「細川ガラシャ夫人」と、「森の石松」だった。何しろ、翌日の中国新聞にも「『細川ガラシャ夫人』に涙をしぼり、『寸劇・森の石松』に笑いころげた」と書いてあったのだから。四年生の劇はぐっと大人っぽく、一年生たちはひたすら感動し、ガラシャ夫人に扮した池田美智子(六日に福崎博が住書町まで助けに行き、ついに行きつけなかった人)が美しいと感心した。
  「森の石松」はバカウケだった。まず森沢扮する石松が出て来たとたん、場内は抱腹絶倒、生徒たちは椅子から転げおちんばかりだった。しまの着物の尻をからげたスタイルは〝決って″いて、イナセである。ちょっと三枚目の林綾子の三下奴とのやりとりに、場内爆笑だが、森沢は眉も動かさず〝吹き″もしない。最後、片足をあげてくるりとまわり「ヤオー。ペンペン」と二の腕を叩いて幕がおりると、拍手かっさい、鳴り止まずといったところだった。この日から森沢こと森の石松ことモリキチは文字通り二県女名物という形だった。
  森沢は私が転入したころ、よく話しかけてきた。東京から来たということで、好奇心をそそられたのではないかと思う。ところがある日、どうも様子がおかしい。何か私に対し怒っているらしいのである。が、何が原因なのか、私にはさっぱりわからなかった。
  森沢の気を損ねると、それまでよく話しかけていた友も、急に離れて行った。森沢はそれほど強大な存在だった。私ほそんなとき、器用に謝ったり、とり入るようなことをいったりが出来ないたちだった。こんなときのスマートな〝身の処し方″がわからないまま、淡々とすごしていた。
こんな日が二、三週もつづいただろうか。
  ある朝、突然森沢が近づいて来て、まさに〝カラカラ〃という調子で笑い、あなたはなかなか面白い人だ、という風なことをいって去って行った。このときから、森沢と私の関係は全く普通に戻った。森沢の真意はわからないが、彼女にしてみれば、彼女の〝強さ〃をおそれて、みえみえのおべっかを使う友人を腹立たしく思っていたのではないかと思うのだが……。
  一年のころ。昭和十九年はまだ戦局も逼迫(ひつぱく)とまではいかず、私たちは何度か遠足にも行っている。事件は、秋の宮島遠足の帰りに起こった。
  帰宅の足、宮島電車は、市内のチンチン電車の延長のような小さな電車である。座席も少い。一般乗客にまじって、私たちもワッと乗りこんだが、結局ほとんどが座れなかった。すばしこい森沢一人が、まん中辺りの座席にデンと座っていた。生徒の乗り込みがすんだ後、悠々と、〝鬼よりこわい″教官の西口が乗りこんできた。西口は海軍下士官上りで教練・体育担当。戦時下のこのころ、教員たちの中で、一番〝威″のある存在だった。その西口が、だまって森沢のまん前の吊革にぶら下がった。じっと森沢を見下ろす。森沢は昂然と胸をそらせたまま、西口の顔をまともに見上げている。三十秒、一分……。西ロはたまりかねたようにいった。
「席をゆずれ」
「いやです」
  私たちはつばきをのみこんだ。
「立て。先生に席をゆずれんのか」
「いやじゃ、これはうちがとった席じゃ」
  森沢は絶対にゆずらない。一般乗客もいる。西口もみっともないと思ったのだろう。あらわに怒りの形相を見せながら、森沢の席から遠く離れて行った。森沢は何事もなかったように天井を見上げている。これからどうなるのか-私たちは心配で胸がドキドキしていた。
  が、翌日も翌々日も、森沢は普通の表情で学校に来、平然と、そっくりかえって歩いている。森沢が教官室によばれた、お父さんが学校に来ていた……うわさはゴマンととんだ。しかし、誰も、森沢さん、あれからどうなったの、と聞けない。質問を許さない強い雰囲気を森沢は持っていた。
  この事件は、表面は何事もなく終わった。みなは、森沢の父が有力者でなかったら、ただではすまなかったろう。森沢がどんなに勉強ができても、級長・副級長にはなれないだろう、とささやきあった。これがうそかまことか、全くわからないが、森沢の実力をクラス全員が認めていたにもかかわらず、森沢は一度も役につかなかった。
  私も森沢の〝実力″をいろいろな時に感じていた。第二県女は西口の指導で、〝手旗信号″に力を入れていた。西口は〝日本一″と豪語し、ニュース映画になったこともあるそうだ。全校生が校庭に並び、赤と白の旗を振るさまは壮観であった。
  ところが手旗というもの、自分が振る方は、意外に簡単だが、読む方はかなりむずかしく、訓練を要する。西口は、ゆっくり振ってくれながら、ホンモノの海軍では、こんな早さではとても通用しないんだぞ、といつもハッパをかけていた。
  ある日--。一、二年生合同の教練の時間だった。
「どうじゃ。ほんものの海軍式だぞ。読めるか」
  西口が突然、凄いスピードでかなりの長文の手旗を振った。
「ウワー」
「ムリじゃあ……」
  私たちほ悲鳴とため息をついた。早すぎる。とてもついて行けない……。
「どうだ。読めたものがおるか?」
  西口はちょっと意地悪そうに一同を見渡した。シーンと静まりかえった。二年生もみな下を向いている……。と、その時、森沢がスーッと手をあげた。
「森沢、いうてみろ」
  西口が不服そうな声でいう。〝例の事件″の思い出がまだ濃いころだ。二年生の視線も厳しい。一年生がえらそうに手をあげているが、本当にわかっているのか……といった反感がありありと浮んでいる。森沢は悠々と立って、かなり長い文章をいった。
「フソ、よし、その通りじゃ。満点」
  西口の声は残念そうに聞こえた。
  強烈な個性の森沢は、その個性のままにうわごとでも〝指図をして″、この世から去った。

(写真は筆者近影)

『広島第二県女二年西組』筑摩書房


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