NHKアーカイブス「ハンセン病の悲劇を繰り返さないために」 2014.07.06

先月21日ハンセン病に対する差別と闘った2人の元患者をしのぶ会が開かれました
5月9日に亡くなった神美知宏さん。
5月11日に亡くなった谺雄二さん
2人の遺志を受け継ごうと全国から多くの人が集まりました
谺さんはらい予防法が憲法違反だとして国に賠償を求めた訴訟で原告団の代表を務めました
今日いよいよ私たちの1世紀にわたる国による被害を受けたそれに対する国の責任が断罪される日であります。
熊本地方裁判所は「国が必要のない隔離を続けたのは憲法に違反する」と指摘。
患者への賠償を命じました。
神さんは療養所に隔離された元患者の処遇を改善する事を訴え続けました
差別があるために自分たちの生活が非常に制約を受けているという現実がある。
この問題を解決しなければハンセン病問題は解決したという事にならない。
長年にわたり患者たちを苦しめてきたらい予防法。
なぜ誤った隔離政策が続けられてきたのか。
2001年放送の「NHKスペシャル」で検証しています
終戦後隔離政策の論拠を強く揺るがす事態が起きました。
アメリカで開発されたハンセン病の特効薬プロミンの上陸です。
プロミンにはらい菌の増殖を阻止する効果がありました。
菌が体から検出されなくなる菌陰性者が続出。
入所者の間では社会復帰への期待が高まりました。
治療薬が生まれたにもかかわらず隔離政策は戦前のまま続けられました。
逃げていけるもんなら逃げていきたいと。
(取材者)人間扱いされなかったという思いが…?そう。
そうなんですよ。
自分の生活の基盤もないしせやからしょうがないわね。
ここであれせんかったら…。
強制的な隔離政策によって助長されたハンセン病への偏見と差別。
病気が治っても多くの人が社会に戻れず療養所で暮らし続けています。
今も続くハンセン病の悲劇。
同じ過ちを繰り返さないためにどうしたらよいのか考えます
東京・東村山市にあるハンセン病の療養所。
多磨全生園に来ています。
今日はハンセン病の元患者として語り部の活動をしてらっしゃいます平沢保治さんにお話を伺ってまいります。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくはい。
平沢さんはこちらに1941年ですから14歳の時に来られて。
そうです。
それからもう72年間ですか。
はい。
今もここで暮らしてらっしゃるんですね。
来た時は1年で帰れるっていうから病気治って学校に戻るという事で入所したんですけれどもやはり残念ながらここで一生終わらなければならないという人生ですが。
ふるさとに帰りたくても帰れない。
あちらの方には納骨堂もあってそして5月に亡くなられた神さんの遺骨も納められているんですね。
ハンセン病は死んで骨になってもふるさとに帰れない。
多磨全生園は4,150名近い人がそこで眠っています。
ある人が川柳で「もういいかい骨になってもまあだだよ」という川柳を作りましたけど自分自身を死んだ方がこの地上に生まれてこない方がよかったかなと思うけれどもでも人間と生まれてきて少しでも人間らしく生きようとしてついに半ばで倒れた人たちがこの納骨堂に眠っている訳なんですよね。
今も根強く残る偏見と差別ですがそれではどうしてこういう状況が生まれたのか検証した番組があります。
ご覧下さい。
全国に13か所ある…今も4,350人が暮らしています。
平均年齢74歳。
既にハンセン病は治っている人がほとんどです。
ハンセン病患者の強制隔離を定めたらい予防法は5年前に廃止されました。
法律上入所者は自由に療養所の外へ出られるようになりました。
伊勢弘さんは去年の5月44年ぶりにふるさとを訪ねました。
伊勢さんは療養所に隔離される前山小屋を経営していました。
山小屋に帰った伊勢さんはモミの木を前に泣きました。
遠い昔療養所に向かう日の朝伊勢さんが植えたモミの木でした。
またモミの木に会うために私は命のある限り登ってくる。
これに応えて子どもたちは言いました。
「おじさん。
何回でも何回でもどうぞ帰ってきて下さい。
何回でもね」。
伊勢さんの44年ぶりの里帰りは新聞で報じられました。
地元では「あの病気はうつるんだろう」といううわさが流れ山小屋を預かる親戚は寝込んでしまいました。
「冷や水をぶっかけられた」という言葉がありますけれども私は「ああ行って悪かった。
勘弁してくれ。
もう行かないから」というような表現で子どもたちに謝罪しました。
親戚は偏見と闘いながらその後も伊勢さんを山小屋に招き墓参りにも連れていきました。
隔離政策は療養所と社会を隔てる目には見えない分厚い壁を作りました。
らい予防法廃止から5年。
ほとんどの人が今なおふるさとに帰れずにいます。
「ハンセン病患者を強制隔離した国の政策は間違いだった」。
裁判所が下した判決は5月末に確定し国もその過ちを認めました。
ハンセン病訴訟は1998年に療養所に住む元患者たちが起こしました。
らい予防法が廃止されて2年後の事です。
療養所の中では今更裁判など起こさずこのまま静かに暮らしたいという声も少なくありませんでした。
ハンセン病患者を強制隔離してきた歴史はらい予防法の廃止と共に忘れ去られようとしていました。
邑久光明園で今年入所61年目を迎えた竹村栄一さんです。
園内で知り合った奥さんと2人で暮らしています。
おととし原告に加わりました。
今度の裁判でも私は原告になる事を迷ったですよ。
今言う「お金のために裁判を起こすのか」というこちらでうわさというか…そういうふうに流されていたから。
人間的な扱いを受けなかったそういう意味ではね。
ただ今そういう事が過去に行われた事をやはり何らかの形で残しておいて過去にはこういう事があったよと…。
竹村さんが入所したのは昭和15年14歳の時でした。
最初に入ったのが子供舎と呼ばれるこの建物です。
ここには8歳から15歳まで多い時で70人の子どもたちが暮らしていました。
押し入れが1つ2つ3つ…。
子どもたちは入所する時「すぐ治って帰れる」と聞かされていました。
しかし16歳になり大人の宿舎へ移ると一生ここから出られない事を悟ります。
「帰るとすれば焼き場の煙になってからだ」。
竹村さんは周りの大人にそう言われショックを受けます。
自ら命を絶とうと思い詰めていた時事件は起きました。
1年ここから先に大人舎へ出た先輩。
その人とは半年ぐらいしか一緒に子供舎で暮らしてないけどその人が大人舎へ入って1年ぐらいたってからやっちゃった。
死んだんです自分で。
自ら命を絶って…。
私が考えとるその先にやったものだから。
その先輩をいろいろ捜しに行きますわね。
行ったらこの海岸で自ら命を絶っとったと。
(取材者)飛び込み?いや縊死やね。
その姿を見たらもうそれっきりやはり死ぬ事は考えたくなくなったというか出ばなをくじかれたというか…。
自殺を思いとどまった竹村さんに翌年思いがけない出来事がありました。
検査の結果例外的に退所してよい事になったのです。
そのころ年に1人か2人自然治癒して退所していく人もいました。
竹村さんが早速家に知らせたところ父親から手紙が届きました。
そこには暗に「帰宅を思いとどまるように」と書かれていました。
「帰ってくるな」とは極端に書いてなかったけれども言外に「せっかく今消えかかったうわさがまたぶり返すから」という事やね。
それは今いる部屋の大人たちの話してくれた事とハンセン病が社会的にどういうものであるかという事がはっきりとそこで分かった訳。
ハンセン病患者を強制的に収容し隔離する政策は明治末期に始まりました。
当初隔離の対象となったのは村を追われ放浪する患者でした。
しかしその後ハンセン病と診断された者は全て生涯にわたって収容するという絶対隔離政策へとエスカレートしていきました。
世界の学界では絶対隔離を否定していました。
1923年フランスで開かれた国際らい会議では「予防のためには隔離だけに頼らず治療に力を入れるべきだ」と議論されました。
この会議に日本から出席したのはハンセン病医学の第一人者光田健輔医師です。
光田医師は「確実な治療法はない。
伝染を予防する最も有効な方法は隔離である」と主張しました。
政府は光田医師の考えを採用します。
欧米列強に対抗し軍事大国にのし上がろうとする時代ハンセン病は国力を損なう病と見なされました。
内務省予防課長は民族浄化という言葉を使いハンセン病根絶の機運を高めました。
昭和5年内務省衛生局は癩の根絶策を策定しました。
ハンセン病が悲惨な病である事を強調した上次のように述べています。
「癩を根絶し得ないようでは未だ真の文明国の域に達したとは云えない」。
内務省は根絶の具体的な計画を検討。
「全部隔離完了後は十年を以って略患者はなくなる」としています。
昭和6年全患者の強制隔離を目指し癩予防法が制定されました。
医師から通報があると患者の家に警察官が出向き収容するようになりました。
各県が競って患者を療養所に送る無癩県運動も繰り広げられました。
患者の家は消毒されハンセン病に対する恐怖感が社会に植え付けられていきました。
癩予防法が制定されるまでは日本の学界の中にも隔離政策に反対する声が少なくありませんでした。
その中心にいたのが京都大学でハンセン病の外来治療を行っていた小笠原登医師です。
長年にわたる臨床経験から小笠原医師はハンセン病がめったに伝染しない事発病しても治癒可能な病気である事を確信し患者は社会で生活しながら治療を続ければよいと考えていました。
小笠原医師の後を引き継ぎハンセン病の外来治療に当たってきた和泉眞蔵さんです。
小笠原医師が残したおよそ1,500人分のカルテを保存しています。
療養所に入れられる事を恐れた人たちが警察官の目を逃れ治療を受けていたのです。
昭和3年4年なんてのが…。
(取材者)それも京大でやってた?全部小笠原先生の記録です。
なぜ日本で隔離政策が続けられたのか。
戦争へと向かう時代日本の医学会はなぜ世界と逆行していったのか。
和泉さんは医学文献の研究を続けています。
病気の解釈というのは専門家も一般の国民もそれほどは変わりません。
ハンセン病の専門家たちが文明国にはらいはあってはならないとかそんなふうに考えなかったという事はもちろんありません。
それから富国強兵の中で神経が侵されるしかも若い男性に多い病気は国の政策にとって危険な病気であると考えた事も専門家も一般国民も…一般国民は教えられたんでしょうけどもそういう学説考え方に乗ったのも間違いありません。
ただ一人その中にあって小笠原登だけがそういう考え方を国策に合わせるという事をしないで従来の説を主張し続けた訳ですね。
今療養所で暮らす人の中にも小笠原医師の治療を受けた人がいます。
邑久光明園で暮らす竹村さんの奥さんもその一人です。
竹村さんの奥さんは昭和16年12歳で療養所に入りました。
その前のおよそ半年間小笠原医師のもとに通っていました。
それはもう指の先から足の先まで全部麻痺しているとことしていないとこと調べたりね。
神経が腫れてないか…神経肥厚やな。
首から全部調べられるんですよ全身。
それは丁寧な診察ですよ。
「お薬をのんでいたらよくなるから学校も行ったらいいですよ」って言われたんです。
竹村さんの奥さんのカルテが残っていました。
発病したのは昭和15年6月ごろ小学校6年生の時でした。
9月末初めて小笠原医師の診察を受けています。
顔が腫れて赤い発疹が出来ていました。
月に1度小笠原医師のもとへ通いながらのみ薬による治療を受けました。
通院を始めて5か月カルテには顔の腫れも引き健康な状態に改善したと記されています。
カルテの中に小学校の校医から京大病院に宛てた照会書が綴じられていました。
校医は家族に聞いても病名を明かさないので直接教えてほしいとしています。
癩予防法では患者をハンセン病と診断した医師に対し当局への届け出を義務づけていました。
小笠原医師は病名を隠し汎発性皮膚炎と答えています。
昭和16年太平洋戦争の直前に開かれた日本癩学会総会で小笠原医師は強い非難にさらされます。
学会は外来治療を続け強制隔離に反対する小笠原医師の学説を異端として退けました。
日本の医学界は世界の潮流と完全に決別しました。
竹村さんの奥さんがなぜ療養所に入る事になったのか詳しいいきさつは本人にも分かりません。
ただ後に父親が「小学校の校医を一生憎む」と語っていた事を覚えています。
終戦後隔離政策の論拠を強く揺るがす事態が起きました。
アメリカで開発されたハンセン病の特効薬プロミンの上陸です。
プロミンにはらい菌の増殖を阻止する効果がありました。
短期間で顔の腫れや皮膚の潰瘍が消え患者からは驚きの声が上がりました。
菌が体から検出されなくなる菌陰性者が続出。
入所者の間では社会復帰への期待が高まりました。
治療薬が生まれたにもかかわらず隔離政策は戦前のまま続けられました。
その事に国会の答弁で初めて疑問を投じたのは…東局長は癩予防法の改正に乗り出そうとします。
これは翌昭和24年に開催された全国療養所長会議の内容を記したメモです。
厚生省予防課長の発言。
「病状が軽快した者は退所させたらいかがか」。
この発言に強く反発したのが国立療養所の園長を務めていた…光田園長は「プロミンの効果はしばらく経過を見ないと判断できない」としハンセン病根絶には患者の強制隔離が唯一の手段だという従来の主張を変えませんでした。
光田園長は所長会議でこう発言しています。
「軽快者だとて出してはいけない。
遺言としておく」。
光田園長はなぜ強硬に隔離を主張し続けたのか。
光田園長の下で長年患者の治療に当たっていた犀川医師は医学的な理由だけではなかったと言っています。
光田先生の理論は患者さんっていうのはホームレスになるっていうんです。
これは先生は長い間診てますからね。
結局患者さんっていうのはうちにいてもひどくなればうちにいられないって。
村八分になったり…。
大体家族に影響がある。
子どもや兄弟親に…。
「あそこにはハンセン病がいるよ」という事になって妹が結婚できないとかね。
癩予防法の存在が社会のハンセン病に対する恐怖心や差別を一層助長していました。
隔離政策の転換を目指した東局長の構想は社会の偏見という現実の前に挫折しました。
社会と隔絶したハンセン病療養所。
そこには園内にだけ通用するシステムが作られていました。
邑久光明園で暮らす竹村さんは宿舎から遠く離れた山奥の監禁室へ入所者を連れていく仕事をしていました。
当時療養所の園長は懲戒検束権を持っていました。
逃走や賭博はもちろんまきにするため無断で木を切っただけで園長は独断で入所者を処罰できました。
戦後竹村さんは自治会の人事係の仕事に打ち込んでいました。
当時自治会とは名ばかりで職員を補佐し療養所の運営を円滑に行うための組織でした。
処罰を受ける人を監禁室へ連れていくのも人事係の役目でした。
竹村さんの友人も無断外出で1週間監禁されました。
竹村さんは今療養所を訪れた人たちをここに連れてきては仲間がどんな仕打ちを受けたのか自分が何をしたのか話す事にしています。
一番私がここのね60年の在園の中でいわば施設の走狗というような形で手伝いをした。
(取材者)走狗?走狗。
手先やね。
結果的にはそういうふうになるわ。
そういう手伝いをしたという事はね。
それが一番つらい事だね。
だから私はいまだにそれがチクチクとここへ来る度にそれを思い出す訳。
竹村さんと奥さんは子供舎にいる時からの顔なじみでした。
昭和25年2人は結婚を決意します。
しかし療養所の中での結婚には条件がありました。
子どもを作らせないために竹村さんが断種手術を受けなければなりませんでした。
竹村さんは自治会の仕事を通じて親しくなった療養所の職員に断種をせずに結婚できないものか相談しました。
その時分まだそういう仕事をしていたからなんとか逃れられないかとその事を。
あまりにも打算的だと言えばそれまでやけれど…。
(取材者)嫌だったんですね?嫌だそりゃ。
嫌だからなんとかお目こぼし願えんかという事を…。
絶えず向こうの人事係とは接触持ってるんだから言ったんだけどそれの上の上司の長やね分館長というのが「お前だけを例外的に扱う訳にいかん」と…。
断種手術の強制には法的な裏付けはありません。
所長の権限で入所者同士の結婚を認める代わりに断種が強制されました。
理由は「子どもに伝染の危険がある。
引き取り手もいない」とされていました。
私の場合は手術をしたのが医者ではない。
医者ではなかった。
看護長がやった。
たまたま豚の繁殖増産をやっていて子豚をようけ産ませて…。
その時に豚の去勢をする訳ね。
それをやるのが…私を手術した看護師がやってた訳。
逃げていけるものなら逃げていきたいと。
手術台に乗った時に…。
(取材者)人間扱いされなかったという思いが…。
そうなんですよ。
だから執刀した看護師長が豚と同じような感覚で手術したんじゃないかと考えると無性に腹が立つ訳。
そうかといって子どもを作っても誰も養ってもらわれへんしな。
自分らで生活能力も外へ出て…ないしな。
自分の生活の基盤もないし…。
そやからしょうがないわね。
ここでせなかったら。
(取材者)今この年になって振り返ってどう思われます?お子さんがいないという事を。
そら寂しいですわな。
自分らだけでこれで終わるいう事は。
そやけどしょうがないわなと思う方が…。
入所者に子どもを作らせないという療養所の不文律は徹底していました。
西脇孝二さんの妻は堕胎手術を受けさせられました。
妊娠8か月だったといいます。
強制的に産んだらいかんという事で帝王切開してしもうた。
(取材者)もう妊娠されてた…?そうです。
帝王切開。
腹切って出してしもうたんや。
「産むだけ産ませてくれ」言うて。
「産むだけ産ませて下さい」と。
「産んだら私が引き取りますから」と。
「自分の身内もおるから引き取るから産ませてくれ」と。
そうしたら「前例がない。
駄目だ」と。
昭和26年療養所の中から隔離政策反対の声が上がりました。
全国国立癩療養所患者協議会。
後の全患協が結成され癩予防法改正を掲げました。
強制収容の廃止や病気が治った者の退所を認めるよう訴えました。
昭和27年全患協は全国6つの療養所の園長と直接交渉を行い法の改正を求めました。
それに対して園長側はこう述べています。
「らいは伝染病であって一般の国民をらいの危険から守るために療養所がある。
病毒を散らさないために一定の所にいてもらわなければならない。
自由に外に出る事は社会人が拒むだろう」。
昭和28年厚生省はらい予防法の改正案を国会に提出。
しかし全患協の要求とは真っ向から対立するものでした。
強制隔離の条項は存続。
一方残された家族への援助や施設内での教育など処遇改善を明記しました。
国会前では療養所を無断で出た全患協の代表が座り込んで抗議しました。
多磨全生園では入所者350人が大挙して垣根を越え国会を目指しました。
療養所から5km進んだ所で入所者は警官隊に阻まれます。
住民のパニックを恐れた厚生省の幹部はデモ隊を都市部に入れてはならないと指示を出しました。
テレビの画像に出るなんてとんでもない話。
新聞記事…活字になるのもそんなに多くはなかった。
だから世の中の多くの人たちはあまり知らなかったでしょうね関係者以外は。
ですから国民的な世論というふうなものはここから先もうなかったですね。
だから隔絶された所の隔絶された戦いだったから。
無力感とむなしさと…それはひどいものだったですね。
昭和28年8月1日らい予防法の改正案は厚生省の原案どおり可決されました。
その前年WHOはこう報告しています。
「強制隔離への恐怖が患者を治療から遠ざけている。
強制隔離は見直す必要がある」。
日本が隔離政策を存続させたのはなぜか。
厚生省内部の意思決定過程はいまだ明らかになっていません。
新しいらい予防法の下で患者の収容は更に進みました。
昭和30年入所者数は過去最高の1万1,000人に達しました。
療養所の外では患者の家族の自殺や一家離散が相次いでいました。
熊本では親が療養所に収容された4人の子どもたちが小学校に入学しようとしたところ反対運動が起きました。
一部の親たちが「らい病の子どもと一緒に勉強しないように」と貼り紙をし児童全員に学校を休むように働きかけたのです。
一度発病したら療養所に隔離されてしまうハンセン病。
その恐怖心が親たちを駆り立てていました。
(取材者)ごめんください。
改正されたらい予防法の下では各都道府県にらい担当係が新たに置かれました。
(取材者)かつて岐阜県の予防課にいた村山さんでいらっしゃいますか?はい。
そうです。
村山保さんは昭和28年から昭和33年まで岐阜県でおよそ20人の患者の収容を行いました。
収容に応じない患者の家に何度も足を運び説得しました。
まず患者が発生して大学病院から来ますわね。
(取材者)何が来るんですか?患者の氏名病名が入ってきますからね。
知事宛てに来ますからね。
岐阜県知事に来ます。
知事秘書課から課長の所に回りますわね。
それで私たちに来る通知を見て県が…予防課が判断をして収容に努めんならん訳やね。
これはいつまでもほっておけませんから。
地域の住民に迷惑がかかっては県の衛生行政のマイナスでもあるし秘密のうちに解決してやらないという事やわね。
らい係の仕事には守秘義務が課せられていました。
村山さんは患者を人目につかない深夜から早朝にかけてハンセン病患者専用の特別列車で療養所に送りました。
大抵夜が多かったね私は。
(取材者)どうしてでしょう?やっぱり周囲を警戒してね。
周囲の住民の警戒を考えるとね。
周囲の人たちを考えてね。
生活しておられる方にバレてもいかんもんでね。
それは昔から「人の口には戸が立ちません」でな。
(取材者)仮にらいである事が知れ渡るとその家族は当時どうなふうになったんですか?偏見やねやっぱり。
偏見ですよ。
冷たい。
人が寄りつかないよねあんまり。
人が寄りつかない。
昭和33年第7回国際らい学会議が東京で開かれました。
この会議でハンセン病を巡る世界の潮流と日本の政策は鋭く対立しました。
会議には厚生省の小沢龍医務局長が出席していました。
小沢局長は隔離政策を日本に最も適した取り組みとして発表しました。
「我が国には古来らいに対する嫌悪感がありらいを病む人および家族親族に相当の迫害があった」。
「らい療養所こそが社会的経済的迫害のない安易で平和な場である」。
会議の内容をまとめた議事録です。
会議ではハンセン病に関する法律の在り方について次のように決議されました。
「法による患者の隔離は予防に対してほとんど価値がない。
無差別の強制隔離は時代錯誤であり廃止すべきである」。
療養所では治療によって完治する人が増え続けていました。
らい予防法に退所規定はありませんが昭和30年代以降菌が検出されない人には退所が黙認されるようになりました。
しかし社会の厳しい差別に直面し再入所する人も少なくありませんでした。
社会復帰が進まないのは強制隔離を定めたらい予防法があるからだとして全患協は昭和38年厚生省に再び法の改正を要請します。
当時交渉の窓口となった小西宏課長は強制隔離は改めるべきだと考え改正を明言しました。
しかしその1年後小西課長は発言を撤回。
その理由をこう説明しています。
「社会の偏見と同じものが厚生省内にもある。
自分は孤立無援だ」。
(取材者)厚生省内で改正に反対する人はいた訳ですか?ええ。
さっき言ったように短兵急ではいかないという忠告をしてくれる人がありましたね。
(取材者)それは現状でもいいじゃないかというニュアンスでですか?現状でいいというよりか…改正するには国会の先生方に理解をしてもらわなきゃならないね。
その背景にはやっぱり世間の理解がなければ国会の先生方は取り上げてくれませんよ。
(取材者)しかしそういう偏見のもとになってるのがらい予防法だったんじゃないんですか?そうそう。
だからこう…堂々巡りですよね。
全患協は国会にもらい予防法改正を求める請願を提出し衆参両院で受理されました。
しかし国会は法改正に動こうとしませんでした。
当時衆議院議員だった小沢辰男さんは行政府が改正案を作るべきだと考え厚生省の幹部に意見を求めました。
返答は「法の改正は現実的ではない」というものでした。
実際は世論が受け入れの態勢にはいってませんので「患者さんがかえって気の毒な事になるだろうと思う」というあれでしたね。
(取材者)気の毒というのは?世間が受け入れないから…。
白目で見るから。
そう言われりゃそうかなと…。
例えば私の会社に使ってくれと言われても俺はいいけどほかの従業員はどうかなという事になるとこれはそういう訳にもいかんなと。
そうすると職もなく…。
食事はどうやってどこで収入を得て生活保護だけでやるのかどうかという問題になってきますから…。
らい予防法が廃止されたのは今から5年前の事です。
隔離政策が始まってから90年が過ぎようとしていました。
国が隔離政策の過ちを認め謝罪したあと療養所を出た人は僅か1人です。
邑久光明園の納骨堂には明治の開園以来ここで亡くなった3,000人の遺骨が安置されています。
竹村さんも自分が死んだらここに納めてもらおうと思っています。
分骨するかどうかは別として一応ここへ入るという事に…。
だからここにある部類やね。
ハハハ…。
ここに入ってくるんじゃないの?それとも明日やったらもうここらやし。
入所者のほとんどは遺骨になっても家族に引き取られる事はありません。
この裁判の結果がこういう事になった。
国の誤りとなった時点で私はここに入っている人たちに今のこういう時代になった事をまず第一にここへ来て報告をして「これからあんたたちの家族も迎えに来てくれるかも分からないよ」と…。
「それを待とうね」というふうに語りかけた。
風がきつうて悪かったな。
竹村栄一さん75歳。
国立ハンセン病療養所の中で間もなく61回目の夏を迎えます。
2001年放送の「NHKスペシャル」からご覧頂きました。
ここからはその全生園の敷地の中にあります国立ハンセン病資料館の一室でお話を伺ってまいります。
よろしくお願い致します。
よろしく。
番組の中でもありましたけれども治療薬が開発されてそして治るようになりました。
それでも隔離政策は続けられました。
我々は長年の願望であった治療薬が開発されてこれで我々も病気が治って社会に帰れると誰でも思った訳ですよね。
でも国はその治療を実施しようとしなかった訳なんですね。
私たちは治療してくれという事でハンガーストライキをしたりあるいは作業放棄をしたりして。
…でようやく治療が始まった訳ですけれども日本のハンセン病医学の最高権威者の中には新薬の効果を認めようとしない考え方が根強くあった訳ですよね。
らいはそう簡単に治る病気じゃないと。
優生保護法によって患者は結婚の条件として断種手術が法的に義務づけられたんですけれども。
子どもを産めないように…。
その制度を家族にも拡大しろと。
それから療養所に入ると言ってもなかなか入ってこないと。
だから手錠を掛けても療養所へ入れろと。
こういう証言をしたために昭和28年のらい予防法は治った人を外に出さない今までの法律が踏襲されてしまったんですけれどもやはり我々は何と言ってもらい予防法をはっきりしなければ100万遍治るんだこうなんだって言っても社会は法治国家として認めてくれないんだと。
そういう事でらい予防法の改正の闘いが盛り上がった訳ですよ。
やはりらい予防法の日本の1世紀にわたる国の過ちがやはりハンセン病を病んだ人そして家族の人たちのいまだに生活権を奪っているから。
でもじゃその問題を誰が解決するかって言ったらその事で一番苦しんでる人間がそれに立ち向かわなかったら誰が立ち向かうんだろうかとこう思って老骨にむち打って努力をしているんですけど。
平沢さんが取り組んでらっしゃる偏見と差別をなくそうと取り組んでらっしゃる活動の一つが子どもたちに語り継いでいるあの活動ですよね。
どんな壁があっても壁は人が作るもんですから人によって取り除く事ができると私は思ってるんですよね。
それを小学生たちに教えてらっしゃる映像があるんです。
地元の小学生との交流を描いた映像が2002年のものがありますのでここでご覧頂きたいと思います。
青葉小学校の2年生が多磨全生園にやって来ました。
森の木や花を観察して春を探す授業です。
これ何ていう名前?ボタンザクラ。
ボタンザクラ。
うん。
…うん。
これ青虫?うん?かつてはひっそりとしていた森に子どもの笑顔があふれます。
(一同)こんにちは!こんにちは。
この日平沢さんはハンセン病の元患者が受けてきた差別の話を6年生にしました。
私が座ったとこは消毒をされたりあるいはお茶を出してもらえなかったりお店では全生園の人たちが来ては困る。
貼り紙をされました。
なぜなら全生園の人が来ると「みんな買いに行かない方がいいよ」。
こういうふうに言ってお店が成り立っていかない。
こういう事もあったからなんです。
学校に行こうとしても平沢さんが来るとハンセン病という病気がうつるんじゃないか。
だから来なくてもいいよって。
こう言われました。
でも私たちはもしあなた方にこうして来て握手をしたり一緒にお話をして病気がうつるようだったら私自身の方から来てほしいと言っても来ません。
なぜならあなた方にハンセン病というそして病気の苦しみとみんなからいじめられるそういう苦しみを受けさせる事はそして受ける事は私だけで十分だと。
このように思っているからです。
すなわち命というもの生きるというもの命を大切にするという事そういう事を頑張ってきた人たちがいたとこなんだよという事を皆さん方にお伝えして私の今日の話を終わらせて頂きたいと思います。
どうもありがとうございました。
(拍手)語り部の活動を始められて22年と伺いましたけれどもどうでしょう?子どもたちというのは…。
最初に来た子はもう30代になってそしてその学校の先生になってそして毎年子どもたちを連れてくる先生方もいるしそういう点では私は自分じゃ子どもを持てなかったけれども自分の21世紀の地球の宝物として子どもたちにどんな事があっても人間として生まれてきた事を誇りに思って生きてほしいという事を話してきましたけれどもその事を子どもたちが受け止めてそれを通してハンセン病問題を語ってくれると…。
子どもに語り続けてる平沢さんにすごくうれしい出来事があって2008年の12月ですか。
覚えてらっしゃいますか。
長年帰れなかったふるさとの母校に講演にいらっしゃったんですよね。
その時の映像がありますのでここで一部ですけれどもご覧頂きたいと思います。
68年ぶりに訪れた母校
里帰りだ。
すっかり変わっていました
全然跡形はないな。
平沢さんの幼なじみ3人が訪ねてきました
1つ下でよ。
1つ下だ。
すぐそば。
畑一緒だよ。
あら。
あんたは魚釣りが上手でな。
そうそう。
そうだ。
よく知ってんだ!飯も食わずにやって。
懐かしいよ。
ハハハ…。
でもやっぱり誰に会うよりあんたたち来てくれたんでうれしいよ。
皆さん平沢さんを拍手でお迎えしましょう。
(拍手)
会場には160人の児童が待っていました。
平沢さんは長い間訪れる事ができなかったふるさとへの思いを話しました
古河の駅のホームに列車が止まる。
でも母のお墓は見えるけれども私の降りる所はなかったんです。
私たちには生まれた所はあってもふるさとないんです。
でも誰にも恥ずかしくない生き方をしてるし私は今日笑顔でこの学校を卒業した先輩として錦を飾って皆さん方に会いに来ました。
(拍手)ご苦労さんな。
大変だったな。
よくできた。
皆さんありがとう!ありがとう〜!
(拍手)ふるさとの母校での講演が実現してどんな気持ちでしたか?ようやっと私に帰る所が出来たと。
家が出来たと。
肉親が出来たと…。
私の家は古河第二小学校であり肉親は古河第二小学校で学ぶ子どもたち。
そして教職員の人たち保護者の人たち。
それ以降ずっと交流続いてます。
でも今でも複雑ですし…。
複雑だった?はい。
まず自分はこうして多くの人たちの協力で母校で講演できたと…。
でも肉親の人たちはどうしてるだろう。
この事によって生活権が奪われはしないか。
この事によってお嫁に行ったりお嫁をもらってる肉親の人たちに何か起きないだろうかって。
喜びと苦しみっていうか喜びが3でそして苦しみが7だと。
同級生240人ぐらいいたんですけどすぐ近くに住む私の畑や田んぼの近くに住んでる人も年1つ違いですけど来てくれて同じ町内の2人来てくれたけどその人たちが私の弟やあるいは親戚の話はひと言も口にしなかったんだよね。
その事を考えてこれでよかったのかなって。
やはり我々の最終的な目的は生まれ故郷に行って肉親と団らんする事ができればねその時初めて我々はハンセン病問題は解決したと言えるんでね。
でもその肉親の皆さんも目に見えない世間という事でしょうかしらね。
世間というものに翻弄されてきた一つの歴史といいましょうか闘いといいましょうかそういうものだったのかなというふうにお話を伺ってて思ったんですがいかがでしょうか。
結婚した当時子どもが小さい時は子どもを連れたりして結婚しない時はよく来てたんですよ。
…で私もいろいろな事で相談乗ってあげたりしてたんだけどやはり自分の子どもが嫁に行き孫が出来やはり肉親がこう広がる事によってハンセン病は血統病だとかそういう昔の因習差別それを位置づけてきたらい予防法。
そういうものがまだ払拭されてない。
だから私は…それが正しいかどうか分からないけれどもまず肉親の足元からハンセン病問題の正しい知識を普及しなければいつになっても肉親の生活権を守れないと。
そう思って反対はあるけれどもささやかに続けていこうと。
過ちを繰り返さないためにも語り続けていくと。
それが非常にやっぱり大切ですよね。
そういう点でハンセン病問題は次の時代にやはり教訓としてそしてほかの…これから人間社会にどういう事なり出来事が起きるか分かんないけどそういう時に二度とハンセン病のような過ちが起きないようにひとつ考えて頂きたいってその一点ですよね。
本当に今日はどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
どうも…。
ありがとうございました。
2014/07/06(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「ハンセン病の悲劇を繰り返さないために」[字]

今年5月、ハンセン病患者への差別と闘ってきた代表的人物2人が相次いで亡くなった。ハンセン病の悲劇を繰り返さないためには何が必要なのか、どう語り継ぐのかを考える。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】元ハンセン病患者…平沢保治,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】元ハンセン病患者…平沢保治,【キャスター】桜井洋子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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