明日へ−支えあおう−「震災を詠む2014」 2014.07.06

東日本大震災から3年余り。
あの日からたくさんの歌が詠まれています。
今も全町民が避難生活を送っている…NHKでは2011年から東日本大震災を詠んだ短歌を募集。
今年も全国から697首が寄せられました。
今も帰れぬ故郷への思い拭いきれない将来への不安。
3年の月日を経て生まれた心の叫びがつづられています。
そんなこんなやってるうちに…高校生はつらい記憶と向き合い明日への希望を詠みました。
「短歌に込められた思いに寄り添いたい」。
作者のもとを訪ねて語り合うのは福島市出身の…震災直後から生活必需品を自ら被災地に届けるなど支援を続けてきました。
生まれ故郷を奪われて先祖代々頂いた土地そしておうち仲間全てなくなってしまった。
郷土の人間としてその人たちの悲痛な叫びまた今「こうしてほしいんだよ」っていう本当の心言葉を聞いてみたいなと思いましたね。
三十一文字に刻まれた3年の月日をたどります。
うちを離れた時から時計が止まっちまったんだろうな…。
あのままの時計の針が二時四十六分。
切ないね…。
作者の渡辺良子さんは震災から半年たった頃福島県富岡町にある夫の実家に初めて一時帰宅しました。
その時目にした光景を短歌に詠みました。
どうも梅沢でございます。
はじめまして。
短歌の作者…渡辺さんの短歌をね読まして頂いてとてもいい短歌なんですけどあれを詠む詠もうと思ったそのきっかけですか…。
富岡の町に入りましたらまず自分のうちの玄関に入れない。
駐車場に入れない。
玄関に入るのにもこんなに高い草をねかき分けて…。
草にべったりくっつくんですよ防護服に。
そういう状態で玄関に入りましたね。
でうちの中はもう散乱してますしもちろん電気も来てませんから真っ暗ですしね。
それでも少しこう片づけようかという事でちょっと片づけてみてふっとこう柱を見た時にね時計がねこう曲がったままで2時46分で止まってる時計を見た時にね何かねもうこれでこのうちにももう来れないんだなって。
あの時から時計が止まった時からもうふるさとまた今まで住んでいた歴史それが全部消えちゃったんだなと。
そう。
その時からなんですよ。
ですよね。
あの時に…柱時計見た時にねそういう思いがですね言葉として出てきたんだなって感じましたね。
福島第一原子力発電所の事故で全町民に避難指示が出された富岡町。
当時実家には91歳の義理の父が一人で暮らしていました。
電話はつながらず安否も分かりません。
少ない情報を頼りに県内を捜し回りました。
2日後ようやく介護施設のスタッフと共に避難していた父と再会。
そのまま郡山のこの家で暮らす事になりました。
お父さんは元気でいらっしゃるんですか?あの…亡くなったんです。
富岡に一度も帰れないまま。
郡山で亡くなりました。
無念だね。
お父さんご自分のうちでやっぱりどうせ死ぬんだったらてめえのうちで死にてえやって思ってたでしょうね。
ずっとね「帰りたい帰りたい」って言ってたのでその気持ちを考えるとねえ…ほんとにあの事故さえなければお父さん富岡でね最期を迎えられ…みんな家族と一緒に迎える事できたのになと思うと本当にそのお父さんの気持ちを…。
無念だったろうね。
かわいそうでしょうがないんですよね。
残酷です。
ね。
帰れねえって誰が帰らねえようにしたんだよ。
自分たちのうちも土地も人生も全てなくしてしまう。
その事は絶対に忘れては駄目だしもっともっと皆さんがどんだけ苦しんでいるんだっていう事を伝えていかなかったら僕は駄目だと思いますね。
自分の家があるのに帰れない。
そんな生活を強いられている人がたくさんいます。
次に紹介するのもふるさとを奪われてしまった人の短歌です。
生まれ故郷の人たちがそっから先境界線から入れない。
でも全く関係ない風は無造作に往き来しているって。
できるんだったら風になりてえって思うでしょうね。
福島県いわき市内のマンションで暮らす作者の山田純華さんを訪ねました。
どうもはじめまして。
梅沢富美男でございます。
どうぞ。
お邪魔してよろしいでしょうか?すみません。
山田さんの家も富岡町にあります。
震災直後に家を出て避難所や親戚の家を転々としながら去年ここに引っ越してきました。
あれも足りないこれも足りない…で不便な。
だからといって買おうかという気はまだなかなか起きません。
山田さんと一緒に富岡町に向かいました。
(山田)ここから先が駄目なんですよね。
至る所に柵が設けられ町が分断されています。
たったこれだけの差で帰還困難と居住制限とで分かれてしまうんですね。
こことここが違うだけですよね。
ほんとに車1台通れるかどうかの道路幅で。
これで道路一本隔てて駄目なわけなんですよね。
山田さんが歌を詠んだ場所へ案内してくれました。
ここから先があの…ここで詠まさせて頂いた歌なんですが。
ここであの短歌を詠んだ。
はい。
私の田んぼがそちらなんです。
もうあんなに木が高くなっちゃってますけど。
あれも山田さんの田んぼなんですね?じゃあ田んぼがあってもそれを何ともしてあげられない。
それは納得できませんよ。
40年以上手をかけてきた田んぼは帰還困難区域。
近づく事もかないません。
今頃は苗が分けつして株立ちしてもうほんとに青々として…。
なるほどね。
これが現実なんですよね。
ここが田んぼになる事はないと思ってます。
山田さんの家は日中の出入りはできる居住制限区域にあります。
様子を見に来る度に荒れていく家。
「ここにはもう住めない」取り壊す事に決めました。
自慢だった庭に美しい花が咲く事はもうありません。
富岡町を追われた人たちの多くがいわき市に避難しました。
地区ごとに仮設住宅に移った人たちもいますが個人で住まいを探した人たちはバラバラになってしまいました。
マンション暮らしを選んだ山田さんも便利さと引き換えに地域とのつながりをなくしてしまいました。
我々はちょっと富岡町で道路歩いてても「こんにちは」って言えばまあお茶飲んでいがっせとかっていう形でお茶飲みしたりそういうそのたわいのない心の安らぎがあったわけですねお互いに。
そういうものが本当になくなってしまいまして。
このまま同じ仲良くしていた人たちと終わってしまうのかなっていう時ありますよ。
寂しいですよね。
だって向こう三軒両隣っていって遠くの親戚より近くの他人っていう言葉があってみんなほんとに朝起きたら通りすがりに「おはよう」「おはようございます」「おはよう」って言ってこういうふうに人と人とのつながりができていたものがあの原発によってみんなバラバラになってしまった。
そして仮設住宅もそうです。
借り上げ住宅もそうなんですがそこへただ放り込まれて生きていかなきゃならない。
そういう意味ではとってもつらいですよね。
日々感じた事を短歌に詠む事で今の気持ちをとどめておきたいという山田さん。
ふるさとへの思いを忘れる事は片ときもありません。
結界に思える無情な柵で分けられたふるさと。
納得できない気持ちどうにもできない思いがこの歌に込められてると感じました。
そんな思いが短歌になった事で私たちにも教えてもらえた。
そんな気がします。
他にも帰れないふるさとへの思いを詠んだ歌がたくさん寄せられました。
ご紹介します。
「故郷を『フクシマ』と呼ばれ八万の避難の人ゐる三年を経るに」。
京都府舞鶴市鯵本ミツ子さん。
「生まれ育った土地を追われる人々の計り知れない無念さを思います。
私にとっても福島は生まれ育ったふるさとです。
何年たったらその人たちは戻れるのでしょうか」。
「枝椿挿し木にせんと老母が言ういつ還れるか分からぬ庭に」。
新潟県三条市松本玲子さん。
「福島県大熊町の実家に暮らしていた母と共に避難をしてすぐの事近所の方からピンクの八重椿を頂きとっても慰められました。
花が大好きな母も大変喜んで挿し木にして庭に植えようと何度も言いました。
しかし私の実家は帰還困難区域でもう二度と戻れないかもしれません」。
「母を乗せ飯舘村への道すがら幾度もつぶやく『仕方がないし…』」。
宮城県岩沼市鈴木里美さん。
「飯舘村は私の母のふるさとです。
墓参りに訪れた車の中では母の複雑な思いがありました」。
今ご紹介した短歌の作者は鈴木里美さん。
高校の国語の先生です。
自分が震災を短歌に詠む一方で授業にも短歌を取り上げその結果たくさんの高校生の短歌が生まれました。
3年生の国語の授業で「震災を短歌に詠む」という課題が出されました。
短歌を通して震災と向き合い気持ちに整理をつけてほしいという思いからです。
今の3年生は当時中学2年生。
心に大きな傷を負った生徒もいます。
当初は震災の記憶に向き合わせる事に不安もあったそうです。
あまりの衝撃でつらかったり何かすると言葉にできないっていうか言葉にすらならない。
震災直後ってそういうの本当にあふれてたと思うんですけど言葉にできないって。
言葉にならないって…。
でも言葉にできた時に一歩踏み出せるんだというのはそのとおりなんだろうなとは思うんですよね。
言葉にできるというのは整理ができる。
気持ちの整理ができる。
気持ちの整理ができて先に一歩進める。
この授業がきっかけで初めて短歌を詠んだ生徒もたくさんいました。
新沼茜さん。
震災直後行方不明の祖母を捜して宮城県南三陸町を訪れた時の事を詠みました。
思い出が詰まった大好きな町を津波が襲いました。
祖母の行方は今も分かっていません。
私やっぱり子供だったんでなんか「わ〜何もない」ぐらいだったんですよね最初は。
でも大人たちを見て身近な人が「こんなに海近かったんだね」ってみんなで話してるのを聞いて見てみたらほんとに近くて…。
「歩いていったらもっと遠かったよね」みたいに…。
短歌にしてみたらそれに全部絞り込めたかなみたいな…。
その思いが全部その言葉におさまったかなとは思いますね。
父親が「津波ここに来ないから」と言われて家にずっといてなんか音がするなって思って2階のベランダ見た時に東の方に…海近かったんですけどそこにもう津波来ててフッて下見た時に玄関の階段があってそこにネズミが2匹いて震えてて…「あっ…」という状況でしたね。
佐々木弥生さんの住まいは岩沼市押分地区。
沿岸部で大きな被害がありました。
正直思い出すのはつらいんですけど…。
え〜とあの…すみませんなんか…。
1人あの後輩でいなくなっちゃって…。
すごい仲良かったんですけど流されてしまっていなくなっちゃって…。
思い出すとやっぱりどうしても涙が出て…。
いい子だったのですごく何でなんだろうというのがすごいあって…。
すみません。
加藤志歩さんはあの日から大好きだった思い出の海に行く事ができなくなってしまったといいます。
今回震災を短歌に詠む事で自分の気持ちと向き合いました。
自分が遊んでた荒浜らへんの所だったんですけど…所はやっぱり…駐車場から歩いて行くような記憶もちゃんと残ってるしそれすらももうないんだって思うと自分の中にある楽しかった思い出とかも全部なんか壊しちゃいそうでどうしてもまだ行ってないんですけど。
でも受け止めてるつもりではいるんですよ。
行けてないくせに。
なのでなんか…矛盾してるんですけど…その…う〜ん…矛盾してるんで短歌を書くのは結構いい機会になったかもしれないです。
震災後荒浜地区には大きな堤防が造られ海水浴場も整備されました。
加藤さんが詠んだのは自分を鼓舞するような前向きな歌でした。
波とか砂浜とか潮のにおいとかまだ全然好きだしこれからも嫌いになる事はないんで今年中にはやっぱり海見に行きたいし短歌にも前を見つめるような事書いたんで自分の中でもちゃんと決意しなきゃいけないのかなとか思ってるんですけど…。
他にも高校生たちが素直な言葉でつづった震災の短歌がたくさん寄せられました。
「黙祷をすると聞こえたサイレンは三年前にも鳴り響いてた」。
「砂まみれ引っ張り出した写真たち忘れたくない笑顔も傷も」。
「荒れ狂う黒く渦巻く波見てもそれでも私は嫌いになれない」。
自分たちがこんな事になって現実になってさて何十年後どうなってるんだ。
これを復興しよう。
また元に戻そう。
みんなで元のふるさとに戻そうといっても何年かかるか分からない。
そのあとも引きずってそれを支えていかなきゃならないのが今の若者だと思うんですね。
ですからできればふるさとを忘れずにふるさとのためになんか頑張ってもらえればうれしいなと思いますね。
震災から3年余りいまだ先の見えない不安と怒りを歌にした人もいます。
津波で大きな被害を受けた大津漁港です。
どうもはじめまして梅沢富美男と申します。
この港で生まれ育った元漁師の染谷武さんです。
私らにとってはここは遊び場であり育てられたとこですねここは。
染谷さんは元漁師さんだったというお話聞いたんで僕は役者やってますから漁師さんがよく言う言葉をお芝居の中に使わせて頂くんですけど「漁師なんていうのは3日も陸にあがってると海に行きてえもんだよ」って言いますよね。
はい。
若い時はそうでした。
くたびれてくたびれてイワシのこけらを頭からかぶったりなんなりしてねそんなのが1週間も続くともうたまんないですよ体がね。
たまには手を大の字になって寝てえなというんですが一晩そうやって寝ちゃうとまたもうそわそわしちゃって…。
漁師の家に生まれた染谷さん。
69歳で引退するまで50年以上ずっと海と共に生きてきました。
しかしあの日の事は今も忘れる事ができません。
あの音を聞いたんです。
「ゴ〜」というか…。
海の神のわだつみの怒りなんでしょうね…。
今でも私は怖い。
仲間の漁師を亡くしました。
染谷さんは住む家を失いました。
ここがお宅ですね。
そうです。
今染谷さんは市が用意した集合住宅に一人で暮らしています。
こんなとこです。
お一人だとさみしいでしょうね。
そうなんですよ。
もう慣れましたか?慣れたとはいってもやっぱり夜中に目が覚めると後は寝られなくなったり…。
ここで一人暮らしを始めて3年たちました。
今回の染谷さんの短歌を僕は読ませて頂いてねとっても胸が熱くなってねやるせない気持ちがとっても僕も感じたんですけども。
それこそ一杯引っ掛けてバイクでもって飛ばしたいようなそういう胸のモヤモヤ。
どうもなんねえこれ誰を責めてもなんねえ責めて済むもんじゃないしそこら行って訳の分かんない事して一発食らわしてもいいわけないし誰にこの憂さ晴らしっていうんですかねやるせないその気持ちをどこにぶつけていいのかなと。
そうすると…これ何回も私言うんですがトイレに入って出るもの出ると肩の力も腰の力も全部抜けるんですよね。
それでほんとぼ〜っと頭も空っぽになってそうするとあの狭い所が広辞苑でいっぱいになるんですよ。
その言葉が葉っぱみたいなのがいろいろフワーッと来て自分の気持ちとこう一致したんだなと。
染谷さん明るくお話しするじゃないですか。
空元気なんです。
ね?分かります分かります。
でもそうでもしなかったらやってられないよ。
そうです。
暗くなんてしていられねえよ。
そうです。
よく分かります。
ましてやこの仮住宅っていうんですかね…。
来年の3月までです。
ここでもう4年になります。
3年半ですね今。
またさてその先がどうなるんだという当てもなし。
それを「大丈夫だよ俺たちに任せとけ。
何とかするから」って言ってくれる人もなし。
もう切ないです。
いつこの仮住宅から出されるか分からない。
何とかしなかったら駄目ですよ。
だと思いますね。
だってそうなんですよ。
誰かが手を差し伸べないと。
誰かが力になってあげなかったらどうにもならない事ですもの。
この短歌という三十一文字の言葉の中に今まで経験もした事ないこんな大きな経験をして今現状自分が置かれている立場があってそこからあの言葉生まれてくるっていう事はこういう事を経験しなかったらなかなかあの言葉は生まれてきませんから。
うんそうなんですね。
これからもいい短歌作ってみて下さい。
せいぜい努力します。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
最後の私にとっては大芝居大舞台晴れの舞台でした。
ありがとうございました。
皆さんありがとうございました。
じゃあまた。
この部屋に住めるのは来年の3月まで。
その先の事はまだ分かりません。
日々の出来事を短歌に詠む事が生きがいだという染谷さん。
「いい歌が詠めた」と感じた時少しだけ厳しい現実を忘れられるといいます。
3年の月日は震災で傷を負った人たちにさまざまな変化をもたらしました。
短歌には3年間の心の移ろいがそのまま映し出されています。
千葉県松戸市の千葉むつ子さん。
岩手県陸前高田市の出身です。
震災でふるさとに住んでいた母と弟を亡くしました。
実家は陸前高田市でみそしょうゆの醸造業を170年にわたって営んできました。
古くからある蔵は町のシンボルとも言われていたそうです。
私と弟がここの家に来た時なんです。
当時11歳の弟元男さんが千葉の中学に通う事になった時2人で松戸市のこの家に暮らし始めました。
母親代わりとして弟の面倒を見ました。
ほんとにね家だけはあるけどキチキチの送金だったんですよ2人の。
だから一回弟とけんかしたのは弟は「あれも買いたいんだけど」「あれも買いたいんだけど」って言うけどこっちは大蔵省だから。
お小遣い1,000円値上げしてくれとかって言われた時に「人の気持ちも考えないで」って「私は全体を考えなきゃいけないのに」ってその時弟とけんかした。
まあほんとに1回か2回しか大げんかした事ないんですよね。
大学を卒業した元男さんは家業を継ぐためふるさとに戻り千葉さんは結婚して家に残りました。
離れても頻繁に連絡を取り合う仲の良い2人でした。
あの日…ふるさとを大津波が襲いました。
大体顔見知りの人たちだから「誰々さんいますか?」あるいは「誰々さん足が悪いけど来てますか?」とかそういうので点呼とってるうちに何ていうんですか白煙っていうか火事だと思ったぐらいのまず白煙っていうか煙。
家を壊していくわけだからその家のほこりなんでしょうね。
そのあとに黒い波で流されて。
一生懸命仕事をして生きてきたんだなってそれがここで終わってしまったのかと思うと悔しくてね。
あの日から歌を詠み続けてきた千葉さん。
1年目には命の重さを問う歌を詠みました。
いつも死にたいな…生きなきゃいけない生きねばならないそういうような繰り返しを天秤にかけてはみたけど生きるしかなしっていうのが1年目。
そういった死っていうものが非常に自分の中でも重く感じられた。
震災から2年。
「行方不明の弟がもう帰ってくる事はない」と自分を納得させた時弟に語りかける歌が生まれました。
そして震災から3年たった今年。
今までも泣きましたよ1年目2年目。
だけどその時は「泣いてられるか」って「みんなもっと大変なんだ」って。
「私は松戸で普通の生活ができているのに田舎の方たち仮設にいる方たちは周りにも気にしながら涙も流せない状態にいるのに私は駄目だな」って思いながら暮らしてきてたんだけど3年目になった頃に「涙を流してもいいんじゃないかな?」って「そういうものが母とかあるいは自分自身ももういいんじゃないかな」って。
「自然に泣きたかったら泣いていいんじゃないかな」ってそういう思いであの短歌を書いたんですけどね。
今回いろんな人に出会ってねいろんな作品を読まして頂いて「えっ?まだこんな事になってんだ」「えっ?まだ解決してないの?」って思って頂けると思うんですね。
やっぱり自分たちが体験しないとまあ僕も含めてそうですけどひと事のような感じに受け止めてしまう。
でも現実はそうじゃないんだよ。
誰かが伝えなきゃいけない。
それを今回高校生なり奥さんやまたお父さんお母さん皆さんが短歌にして伝えてくれたんで僕らも「そうか。
できる事なら応援していきたい」ってみんなが思えればとってもいいのかなと思いましたね。
宮城県名取高校では再び「震災を短歌に詠む」授業が行われました。
千年後に希望を託そうじゃないかというような歌を作って下さい。
高校3年生が千年先の未来に託す思いを三十一文字につづりました。
短くそして簡素な言葉ではあるんですがその響きからは歌を詠んだ方が置かれている現状が手に取るように分かりますよね。
私も今回その響きを改めて心に刻み込みました。
さて響きといいますと東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」も心に響きますよね。
今回この方による「花は咲く」が誕生しました。
ソチオリンピックの金メダリスト羽生結弦さんです。
おはようございます。
よろしくお願いします。
羽生さんが訪れたのはふるさと仙台のスケートリンク。
4歳からこのリンクでスケートを始め震災の時もここで練習をしていました。
このリンクで復興への願いを込めて「花は咲く」を滑ります。
・「叶えたい夢もあった」・「変わりたい自分もいた」・「今はただなつかしい」・「あの人を思い出す」オリンピック終わった時もすごい思ったんですけれども記者会見でも言いましたしやっぱり自分が何ができたんだろうっていうのをすごい今まで感じてました。
僕が今できる事っていうのは被災地の事をまた被災した震災があったという事をずっと忘れないでほしいという思いを伝えていく事だと思うので。
「花は咲く」のスケーティングでは羽生さん自身今できる事を最大限表現しています。
これから随時放送していきますが今回の滑りに込めた羽生さんの思いやその制作過程を追った番組も放送します。
併せてご覧下さい。
では被災された方々の今の思い福島県南相馬市の皆さんです。
私は2年半前南相馬の方に移り住んできました。
今は子供たちに舞台を教えています。
この舞台を通して今の子供たちに諦めないやりたい事をやるためには頑張るそういった事を伝えられたらなと思います。
そしてその…
(鹿山)東北地方にいた13名の大動物の獣医師が避難をして残っておるのが私一人でございます。
津波の被害に遭ったこの土地で菜の花を育てています。
去年はすごくいい食用油ができました。
全国の皆さん手伝ってくれてありがとうございました。
生字幕放送でお伝えします2014/07/06(日) 10:25〜11:13
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう−「震災を詠む2014」[字]

NHKでは今年も震災にまつわる短歌を募集、697首が寄せられた。短歌の作者を梅沢富美男が訪ね3年を経た現在の思い、短歌に込められた被災者の心の叫びを聞く。

詳細情報
番組内容
NHKでは今年も東日本大震災にまつわる短歌を募集、全国から697首が寄せられた。そこには今も残る震災の記憶や3年を経てたどり着いた被災者のさまざまな思いが表現されている。原発事故の影響によって今も避難生活を余儀なくされている福島の人々など、短歌の作者を梅沢富美男が訪ね、じっくりと語り合うことによって、三十一文字に刻みつけられた被災者の心の叫び、3年の月日がもたらした心の変化を記録する。
出演者
【出演】梅沢富美男,【キャスター】畠山智之,【語り】合原朋子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他

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