戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第1回 2014.07.05

20世紀人類が新たに手にした核エネルギー原子力。
私たちに多くの課題を投げかけてきました。
科学者の社会的責任を訴え原子力と向き合い続けた物理学者がいました。
湯川秀樹と武谷三男です。
アインシュタインと交流した湯川は終生核兵器廃絶を訴えました。
湯川は政府の原子力委員となり原子力発電の導入に対しても発言しました。
武谷三男は広島を訪ね原子力の平和利用の在り方を考えました。
「日本人は何をめざしてきたのか知の巨人たち」。
第1回は戦後日本の原子力政策と向き合った科学者たちを関係者の証言をもとに見つめます。
アメリカが広島に原爆を投下。
その3日後長崎に原爆が投下されます。
原子力の脅威が人類に突きつけられた瞬間です。
被爆直後の広島で現地調査を行った…戦時中仁科は陸軍から委託され理化学研究所で原爆開発を行っていました。
「二号研究」と呼ばれた仁科の原爆開発。
当時31歳の武谷三男も加わっていました。
武谷はどんな思いで原爆研究に携わったのでしょうか。
昭和50年に武谷が語った録音テープが残されていました。
一方京都大学で理論物理学を研究していた湯川秀樹もまた荒勝文策のもとで原爆研究に関わりました。
昭和19年10月ウラニウム問題第1回会合が大阪で開かれました。
海軍の要請を受け会合に参加した湯川。
核分裂の連鎖反応の可能性について報告していました。
(玉音放送)占領に当たったGHQは理化学研究所や京都大学にあったサイクロトロンを破壊します。
占領下日本の原子力研究は禁じられる事になりました。
(爆発音)敗戦の翌年湯川は戦時中を振り返ってこう述べています。
「知識階級が勇気と実行力において欠けるところがあった。
私自身もこの点を反省する時まことに慚愧の念に堪えないのである」。
研究を通じて知り合った物理学者のアインシュタイン。
アメリカ大統領に原爆開発を進言したアインシュタインは戦後その事を悔いていました。
湯川夫妻はアインシュタインから直接その思いを告げられました。
敗戦から4年後湯川は日本人で初めてノーベル賞を受賞します。
戦前発表した中間子論が評価されたのです。
湯川の受賞はいまだ戦争の傷痕が癒えない日本に大きな希望を与えました。
京都大学で湯川と研究を共にした物理学者の小沼通二さん。
大学1年生だった時湯川のノーベル賞受賞を知りました。
受賞の理由となった湯川の中間子論。
昭和9年に初めて発表されました。
当時全ての物質は原子から成りその中心に陽子と中性子から成る原子核が存在する事が分かっていました。
この2つがなぜ結びついているのか。
湯川はその間に中間子が存在する事を予言。
後にそれが証明されたのです。
湯川は原子力の可能性についてこう述べています。
「原子力の平和的活用が人間の福祉にどんなに大きな貢献をするか恐らく私どもの想像以上であろう」。
学界の各分野から選ばれた会員が政府に提言を行う独立性の高い組織でした。
武谷も会員に選ばれました。
武谷は湯川の中間子論の共同研究者で湯川を中心とした素粒子論グループに属していました。
禁止されていた原子力研究について発言を始めます。
武谷は婦人雑誌などで原子力の平和利用を訴えます。
原子力で稼働する工場や発電所。
ロケットによる宇宙開発までその構想を広げていました。
(取材者)こちらが…?
(藤本)武谷先生。
武谷から物理学の薫陶を受けた藤本陽一さんです。
当時原子力発電の可能性について武谷から話を聞きました。
昭和27年日本は独立を回復し原子力研究の制限はなくなりました。
独立から半年後。
学術会議で原子力研究の在り方について議論が始まります。
物理学者の茅誠司たちが研究を進める組織について提案を行います。
「政府の責任において何かそういう検討する機関を設けるべき」。
これに反対したのが広島大学教授三村剛昴でした。
三村は広島で被爆していました。
自らの体験をもとに反論します。
「発電発電と言われましたが一夜にしてそれが原爆に化する」。
「だから政府にこれをやらすという事は最も危険でありまして私は絶対に反対するものであります」。
同じ頃武谷三男は広島を訪ねていました。
当時広島大学物理学教室の講師だった町田茂さんです。
武谷は町田さんの案内で広島を歩きました。
占領が終わりようやく被爆の実相が報じられるようになったばかりの広島です。
「両側の家はほとんどバラックでしかも甚だお粗末なバラックだという事に気がつく」。
武谷は原爆ドームを訪ねました。
武谷がここで出会ったのは吉川清。
土産物店を営みなんとか生活をしのいでいました。
背中のケロイドをさらし原爆被害を訴えていました。
更に武谷は詩人の峠三吉にも会い発表されたばかりの原爆詩集を知ります。
武谷の言う「公開」とは原子力研究の一切は公表すべきというものです。
更に外国の秘密の知識は一切教わらないという「自主」。
いかなる人の出入りも拒否しないという「民主」が重要だと訴えます。
「三原則」を法的に確認した上で出発すべきと主張したのです。
(爆発音)1952年アメリカが初の水爆実験に成功します。
これにソビエトが対抗。
核兵器の開発競争が進んでいきます。
ソビエトは原子力の平和利用も積極的に進めました。
世界で初めて大型原発の建設に着手。
東側陣営の拡大を図ろうとします。
これに危機感を抱いたのが…1953年国連で呼びかけます。
アメリカも原子力の平和利用をてこに西側陣営の結束を呼びかけたのです。
3か月後の昭和29年3月超党派の議員たちが原子力関連の予算案を国会に提出します。
その額2億6,000万円。
当時自主外交を掲げた…戦後の復興には原子力の平和利用が必要だと主張していました。
「左翼系の学者に牛耳られた学術会議に任せておいたのでは小田原評定を繰り返すだけで2〜3年の空費は必至である」。
原子力の研究開発がどんな条件のもとで行われるべきか学術会議は議論を始めます。
そのたたき台となった「原子力憲章草案」には武谷の考えが反映されていました。
「原子力の情報は完全に公開されなければならない」。
「自ら原子力の研究開発利用に進む」。
原子力予算が成立した直後学術会議は声明を発表しました。
学術会議の三原則は若手の研究グループにも支持されていきました。
当時東京大学で実験物理を研究していた喜多尾憲助さんです。
(爆発音)1954年中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行いました。
間近で操業していたマグロ漁船第五福竜丸の乗組員たちは放射性降下物いわゆる「死の灰」を浴びて被爆。
白血球が急激に減少し髪の毛が抜けるなどの放射線障害に襲われました。
事件から半年後乗組員の…太平洋で取れたマグロからも放射能が検出され日本中でパニックが起こりました。
湯川秀樹はこの事件を「原子力と人類の転機」と捉えました。
湯川はアメリカ留学を終えその所長となっていました。
ビキニ事件に衝撃を受けていた湯川のもとに一通の手紙が届きます。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルがアインシュタインと共に平和宣言への署名を呼びかけてきたのです。
核兵器の廃絶を訴えた…手紙が届いた2週間後。
核兵器の脅威を語り合ってきたアインシュタインが亡くなりました。
その翌日湯川はラッセルに平和宣言に署名する事を伝えます。
これ以後湯川は生涯をかけて核兵器廃絶を訴えていく事になります。
ビキニ事件をきっかけに原水爆禁止を求める運動が高まりその署名は3,000万を超えました。
こうした動きにアメリカは危機感を抱いていきます。
アメリカは映画などのメディアを通じ原子力の平和利用の宣伝を進めていきます。
日本各地で巡回上映された映画です。
平和利用を宣伝する一方でアメリカは日本の科学者の動向に注意を払いました。
その記録が最近明らかになりました。
報告したのは物理学者のオットー・ラポルテ。
アメリカ大使館の科学担当官でした。
「私は湯川秀樹教授と武谷三男教授とじっくり話し合った。
湯川教授は愛国心の強い日本人であるがアメリカに対し大変友好的である。
武谷教授は急進的かつ反米的で有名であり共産主義者とされている。
しかし熱烈な愛国心の持ち主であった」。
昭和30年1月。
アメリカはビキニ事件の被害に対して200万ドルの見舞い金を支払います。
これをもって完全解決としました。
その1週間後アメリカは日本に対し原子炉建設と濃縮ウランの提供を非公式に申し出ます。
そのための原子力協定を日米間で結ぶ事を求めてきたのです。
アメリカは西側の友好国と原子力協定を結びソビエトに対抗しようとします。
協定は相手国が原子力に関する秘密を守る事を条件としていました。
昭和30年4月アメリカから濃縮ウラン提供の申し入れがあった事が新聞紙上で明るみに出ました。
学術会議で日米原子力協定について批判をしたのは…「この双務協定の内容につきましては機密保全の問題もございます」。
日米原子力協定を巡る新聞紙上の座談会。
中曽根議員と武谷が議論します。
当時学術会議で原子力を中心となって検討していた藤岡由夫。
アメリカ大使館のラポルテが説得を試みます。
藤岡は三原則を維持すれば日本の原子力開発は5年から10年の遅れを取るとして日米原子力協定に賛成の意を示すようになりました。
ラポルテの報告です。
「我々はこの種の意見を表明する日本の物理学者を初めて得た。
学術会議は恐らくあきらめて屈服するであろう」。
武谷と共に研究を続けた…当時長崎さんをはじめ若い研究者の多くが三原則を貫こうとしない藤岡に批判的だったといいます。
要するにアメリカのを持ってきたって何ていうんですか…学術会議での議論から2か月後の昭和30年6月日米両政府は原子力協定の仮調印を行います。
中曽根氏たち超党派の議員4人は欧米に原発の視察に向かいます。
アメリカでは原子力委員会の関係者と接触します。
報告書によれば中曽根氏はアメリカ政府がどのようにして科学者に協力を得たのか尋ねていました。
帰国した中曽根氏たちは日米原子力協定の国会承認を急ぐとともに学術会議の三原則の要望を受け入れ原子力基本法案を国会に上程します。
その直後原子力基本法が成立しました。
第ニ条「原子力の研究開発及び利用は平和の目的に限り民主的な運営の下に自主的にこれを行うものとしその成果を公開し進んで国際協力に資するものとする」。
政府はまだ完全に認めているとはいえないがそれを認めさせる努力を続けるとともに…」
(一同)バンザーイ!バンザーイ!この年自由党と日本民主党が合同。
自由民主党が結成されいわゆる「55年体制」がスタートします。
鳩山内閣の…内務官僚から読売新聞社更には日本テレビの経営に乗り出していった正力。
原子力の平和利用を最大の政治課題に掲げました。
正力は読売新聞社とアメリカ文化情報局との共催で「原子力平和利用博覧会」を開催します。
東京で始まった博覧会は全国10の都市を1年かけて巡回。
260万人を超える人が訪れました。
昭和31年1月総理大臣の諮問機関として原子力委員会が設置されます。
その最初の会議が首相官邸で開かれました。
初代委員長には正力が就任。
正力の要請を受けた湯川秀樹が委員となりました。
湯川は原子力の平和利用をどう考えていたのでしょうか。
最近湯川の資料整理が進み新たな記録も見つかっています。
湯川が原子炉について研究した直筆ノートです。
原子力委員会が始まる直前湯川は独自に研究会を作り若い研究者から直接話を聞きました。
研究会のテーマは外国の原子力発電の実情や原子炉の構造にまで及んでいました。
若手の研究者たちと原子炉の研究を行っていました。
準備して委員会に臨んだ湯川。
正力が冒頭から持論を展開します。
湯川の門下生だった科学雑誌の編集者…湯川から突然呼び出されました。
1956年湯川が原子力委員だった年の手帳です。
当時の心境が書き込まれていました。
湯川は辞任を踏みとどまり委員を続けました。
湯川が原子力委員会に出席した時に書き残していたメモです。
「原子力研究について…」湯川は原子力発電は急いではならず基礎的な研究からじっくり取り組むべきだと主張していました。
しかし事態は思わぬ方向に進みます。
イギリス原子力公社の重役が原発の売り込みに来日し正力が関心を示します。
日本の火力発電に比べ発電コストが半値であると説明を受けたからです。
イギリスが売り込んできたのは当時世界最大の原子力発電所として建設中だったコールダーホール原発と同じ型の原子炉でした。
湯川は原子力委員会でイギリスの原発の発電原価などコストに関する検討を行っています。
原子力委員会の事務局に詰めていた伊原さんは湯川と正力の溝が深まっていく様子をかいま見ていました。
(取材者)どういう感じだったんですか?伊原さんたちはイギリスの原発と日本の火力発電のコストを比較しました。
その結果日本の火力発電の燃焼効率が高い事などから原発を導入しても発電コストのメリットがない事が分かりました。
正力の主導で進む委員会。
湯川は次第に壁にぶつかっていきました。
年が明けた…湯川は原子力委員会からインドに派遣され実験用原子炉の開所式に出席します。
帰国後その時の思いを日記に記しています。
「日本ではこと原子力となると極端な動きばかりでいやになる」。
3月6日上京の予定でしたが体調を崩し自宅で療養します。
その後もしばらく療養が続きました。
在任期間は僅か1年3か月でした。
敗戦から10年余り。
経済白書は「もはや戦後ではない」とし成長の時代が始まろうとしていました。
原子力の実用化によって産業の急速な進展を可能にしようというものでした。
当時立教大学の教授となっていた武谷三男はコールダーホール原発の導入を「無謀な未知への進入」と批判します。
「英国に行った調査団がコールダーホールは…」「ところが実際は日本から持っていった地震の映画を見て…」これに対し訪英調査団地震班の武藤清東京大学教授はこう述べます。
湯川武谷の共同研究者だった坂田昌一。
この時学術会議で原子力についての責任者だった坂田は政府に安全性の問題を訴えます。
当時原子炉安全審査専門部会は原発を推進する原子力委員会の中に設置されていました。
坂田たちは原発の安全を保障する独立した委員会を原子力委員会から切り離して作るよう政府に申し入れました。
学術会議の委員だった小沼通二さん。
坂田たちと議論を重ねました。
当時伊原義徳さんは原子力委員会の安全審査専門部会で事務に当たっていました。
安全審査専門部会は坂田たちの意見を一学識経験者の個人的意見としてコールダーホール原発は安全と結論づけました。
武谷は訴えます。
「なぜ理論物理学者が発言するか」。
「安全問題においてはクサレ縁のないヒモのつかない審査委員による委員会が十分の予算をもって検討すべきもので各一流国はそのようにやっている。
日本だけがお手盛りである」。
昭和40年茨城県東海村でコールダーホール改良型原子炉が臨界を迎え日本初の商業用原発が運転を開始します。
原発の安全審査はこのあとも原子力委員会など原発を推進する機関の中で行われていきます。
1960年代大陸間弾道弾などアメリカとソビエトの核兵器開発競争が激しさを増していました。
その頃湯川秀樹は核兵器廃絶を目指す会議に積極的に参加していました。
ラッセル・アインシュタイン宣言を受けて始まったパグウォッシュ会議です。
しかし第2回の会議でアメリカの物理学者レオ・シラードが核廃絶に逆行する考えを表明します。
核兵器が存在する現実を受け入れ全面核戦争を避けようという「核抑止論」です。
会議は次第にこの「核抑止論」に覆われていきました。
湯川は反論します。
湯川と行動を共にしてきた物理学者の沢田昭二さん。
中学生の時広島で被爆した沢田さんは湯川の核兵器廃絶への訴えに深く共感したと言います。
昭和50年日本で初めてパグウォッシュ会議のシンポジウムが京都で開かれました。
議長を務める事になった湯川ですが直前に前立腺がんを発症し入院していました。
湯川は医師の反対を押し切って会場に姿を現します。
湯川は朝永振一郎と共に宣言を発表します。
「国家のエゴを捨て核抑止を超えよう」と訴えます。
会場では原爆投下直後の広島と長崎の映像も上映しました。
湯川の願いはあくまでも核兵器の全面的な廃絶。
それはアインシュタインと誓い合った事でした。
「湯川・朝永宣言」は多くの賛同を得ましたが核保有国のソビエトとフランスの科学者が署名しませんでした。
この会議の翌年にNHKが湯川を取材したドキュメンタリーです。
(映像ナレーション)「博士が最近受けた診察の結果でも…」1970年代になると各地に原子力発電所が建設されていきます。
その主流はアメリカのメーカーが開発した原子炉でした。
建設も任せ鍵だけを受け取るいわゆる「ターン・キー契約」による輸入でした。
実際に原発が運転を開始すると放射能を含む廃水漏れや制御棒で欠陥が見つかるなどトラブルが続出します。
「原発の導入には慎重であるべきだ」と発言を続けてきた武谷三男。
昭和47年原子力安全問題研究会を立ち上げ批判を強めます。
武谷は研究会での議論を経て一冊の本をまとめます。
指摘したのは炉心が空だきになる「メルトダウン」の危険性です。
深刻な事故につながると考えた武谷は原発建設の計画を中止すべきだと訴えます。
1970年代工場排水やばい煙などによる健康被害が明らかになり公害反対の運動が起こります。
同じ頃原発反対の声も各地で広がっていきました。
武谷はこうした住民運動に注目しそれを支えるための情報を提供しようとしていたのです。
昭和50年武谷は原子力資料情報室の代表となります。
原子力の情報を広く公開しようと考えたからです。
武谷のあと代表となった高木仁三郎。
核化学の研究者でした。
「科学者は市民の不安に本当に向き合おうとしているのか?」。
高木は東京都立大助教授を辞め市民の立場に立った科学者を目指しながら反原発を訴えていました。
高木によれば2人は原子力資料情報室の在り方を巡って論争しました。
あくまで科学者として振る舞おうとする武谷とそれを拒否する高木。
高木から原子力資料情報室の代表を受け継いだ物理学者の山口幸夫さん。
昭和44年山口さんは高木たちと若い研究者グループ「ぷろじぇ」を結成。
科学や技術だけでは解決できない領域があると考え武谷たちの姿勢を批判しました。
昭和56年。
核兵器廃絶を訴え続ける74歳の湯川です。
この3か月後湯川は世を去りました。
「フォースリーツーワン」。
(ブザー音)湯川亡きあとも核抑止の考えは依然根強く核兵器の開発競争が続きました。
(歓声と拍手)湯川の死から14年後の平成7年パグウォッシュ会議が広島で開かれます。
この会議では核兵器の全面廃絶を目指す事が確認されました。
湯川の願いがこの「広島宣言」に受け継がれたのです。
(拍手)広島で被爆した沢田昭二さん。
核抑止論を批判し続けています。
88歳で亡くなりました。
晩年武谷が記したメモです。
「原子力の原理すらまだ可能性も分からない時代から追求し続けてきたものにとって現在までの原子力の在り方はきわめて残念なものでしかない。
それはいまだに人類の味方ではない」。
もう何言ってんだか分かんないんですけど僕が行ったらね…何だったっけね?武谷の死から11年後。
福島第一原発で6基のうち3基がメルトダウンしました。
世界平和アピール七人委員会。
湯川秀樹が創立に関わり以後58年さまざまなアピールを続けています。
写真家や政治学者と共に物理学者小沼通二さんの姿がありました。
原子力の未来を見据え小沼さんは発言を続けています。
という事は…被爆国日本で発言を続けてきた湯川秀樹と武谷三男。
二人の科学者の言葉は今原子力の未来に何を問いかけているのでしょうか。
2014/07/05(土) 23:00〜00:30
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第1回[字]

日本人初のノーベル賞を受賞し、核兵器廃絶を訴えた湯川秀樹。その共同研究者で、原子力の平和利用のあり方を模索した武谷三男。二人の軌跡から科学者の社会的責任を考える

詳細情報
番組内容
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹とその共同研究者、武谷三男。戦時中、原爆開発に関わった二人は、戦後、原子力の平和利用のあり方を模索する。武谷は、広島を訪ね、原子力研究の「自主」「民主」「公開」の三原則を主張した。1956年原子力委員会の委員となった湯川は、海外からの原子炉導入に対し、自主的な基礎研究を主張し、辞任。晩年に至るまで核兵器廃絶を訴え続けた。二人の軌跡から科学者の社会的責任を考える。
出演者
【語り】加賀美幸子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

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