戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第3回 2014.07.19

敗戦とともに民主化が始まった日本。
あるべき民主主義の姿を生涯懸けて考え続けた政治学者がいます。
丸山眞男。
大学で教鞭を執るかたわら地方を歩き人々に語りかけました。
昭和35年新安保条約が強行採決されると丸山は政府を批判一躍時代の旗手となります。
しかし昭和43年に始まった東大紛争では一転して学生たちの批判の的となりました。
日本の政治を歴史の中で鋭く分析し次世代に大きな影響を与えました。
今年生誕100年を迎えた丸山眞男。
民主主義を求めて思索を重ねた丸山の軌跡をたどります。
録音テープはですねこちらに置いてあるんですけれども。
丸山が自らを語った貴重な録音が残されています。
生前メディアへの露出を極端に嫌った丸山ですが講演会や小さな勉強会では肉声を録音する事を許しました。
死の直前まで20年の間丸山はその思想遍歴を生々しく語っていたのです。
民主主義を巡る丸山の思索は陸軍1等兵で迎えた敗戦とともに始まりました。
焼け跡で丸山が目をみはったのは民衆の姿でした。
戦後民主主義に大きな希望を抱いた丸山眞男。
しかしそこに至るまでには厳しい時代の荒波を受けねばなりませんでした。
はいこんにちは。
(取材者)よろしくお願いします。
丸山の長男彰さん。
大学で数学を教えています。
戦前の丸山家を映した貴重な映像を保存していました。
丸山は大正3年1914年新聞記者丸山幹治の次男に生まれました。
下町の風情漂う町でジャーナリストをはじめさまざまな思想を抱く人々に囲まれ育ちます。
そんな大正デモクラシーの自由な空気はやがて戦争の時代へ飲み込まれていきます。
昭和6年満州事変が勃発します。
この年丸山は第一高等学校に入学します。
当時学生の間で流行していた左翼運動に関わる事なく過ごしていた丸山。
しかし3年生の春に参加した講演会で丸山は予期せぬ事態に巻き込まれます。
講師は父と交友があったジャーナリスト長谷川如是閑。
長谷川は特別高等警察特高から危険な自由主義者として監視を受けていました。
長谷川が挨拶を始めたところで講演会はすぐに中止させられました。
「おい一高!ちょっとここへ来い」。
左翼運動の活動家と見なされた丸山。
本富士警察署に連行され特高の取り調べを受けました。
丸山は写真と指紋をとられ留置場に勾留されました。
すぐに釈放されますがその後も特高の監視を受け続けます。
国家による思想統制を身をもって体験したのです。
翌年丸山は東京帝国大学法学部政治学科に入学しました。
このころリベラルと見なされた東大教授は国粋主義者からの攻撃にさらされていました。
そこで出会ったのが南原繁。
ヨーロッパ政治哲学の研究者でした。
昭和12年学部を卒業した丸山は南原の研究室の助手となります。
南原の指導の下選んだテーマは「日本の政治思想史」でした。
丸山は近代意識が江戸時代の儒学の中に生まれていた事を文献を基に読み解きます。
この研究は丸山の代表作「日本政治思想史研究」に戦後結実します。
昭和16年12月太平洋戦争が始まります。
3年後の昭和19年30歳の東大助教授丸山にも召集令状が届きました。
陸軍2等兵として朝鮮ピョンヤンの部隊へ送られます。
教育訓練のために配属された内務班で丸山はそれまでにない体験をします。
かわいそうで。
それでこうたたくんですけどね。
丸山は入隊から2か月後栄養失調から脚気となり入院。
召集解除となりました。
しかし丸山は再招集されます。
敗戦の5か月前の昭和20年3月。
広島県の軍港宇品にある部隊に着任します。
陸軍船舶司令部の参謀部情報班に配属され敵国の短波放送を傍受するなど国際情勢の収集に当たりました。
知り得た情報を任務の合間に丸山が記した「備忘録」が残されています。
敗戦したドイツの戦後処理など当時ほとんどの日本人が知る事のなかった生々しい国際情報。
7月終わりには連合国のポツダム宣言の情報を伝えるアメリカの国営放送を聞きその内容を書き取っています。
「日本国民が軍閥を全く除いた時日本に自治政府を許し言論の自由を認め…」。
昭和20年8月15日敗戦。
マッカーサーを最高司令官とするGHQは日本の非軍事化と民主化を推し進めていきます。
GHQは戦争指導者を次々に逮捕。
昭和21年5月極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が始まりました。
同じ頃丸山の論文が創刊間もない総合雑誌「世界」の巻頭に掲載されました。
日本のファシズムを分析したこの論文はすぐさま新聞に批評が載り大きな反響を呼びます。
ああどうも。
こんにちは。
(取材者)よろしくお願いします。
はいはいよろしくどうぞ。
丸山ゼミで学んだ政治学者石田雄さん91歳。
石田さんも学徒動員で内務班の体験をしました。
復員後「超国家主義の論理と心理」を読んで強い衝撃を受け丸山の教えを受けました。
はいどうぞ。
石田さんが注目したのは「抑圧の移譲」。
それは上からの抑圧を下の者を抑圧する事で順次に移譲し組織全体のバランスを維持していく事です。
この抑圧の移譲は軍隊だけでなく日本の国家秩序の至る所にあったと丸山は指摘します。
そして誰も主体的な責任意識のないまま戦争をしていたというのです。
丸山はこうした戦時中の体制を「無責任の体系」と呼び分析する事でこれを乗り越える道を切り開こうとしたのです。
敗戦直後深刻な食糧難の中人々は新たな時代の指針を求めていました。
東大の講義の合間にすし詰めの東海道線に乗って丸山眞男が何度も向かった場所がありました。
静岡県三島市でした。
昭和20年暮れ三嶋大社の社務所に多くの市民が集まっていました。
市民主催の文化講座庶民大学です。
山口康司さんと渡辺宗泰さんは共に当時二十歳前でした。
丸山の講義はヨーロッパの社会思想史など10回以上にわたりました。
山口康司さんは陸軍予科士官学校で教育を受けているさなかに終戦を迎えました。
それが逆になっちゃった。
反対のを聞くでしょ。
そうすると自然にそれが…庶民大学では丸山の他にも社会学者の清水幾太郎英文学者の中野好夫ら新進気鋭の学者を招いています。
会費10円を払えば誰でも入れる自由な大学。
商店主農民主婦などさまざまな職業の人が参加しました。
酒井喜代子さん85歳。
中心メンバーだった夫と共に庶民大学を支えました。
丸山は民主主義の原点を明治維新にまで遡って考えようとします。
最初の講義は「明治の精神」でした。
明治維新後の日本に西洋の制度や理念をいち早く紹介した福沢諭吉。
福沢が「学問のすゝめ」に記した言葉に丸山は注目します。
「主体性を持った個人が独立心を持って初めて国家も独立する」。
福沢の主張に丸山は新時代の精神を見いだしていました。
丸山が敗戦直後につづっていた日記が残されています。
三島だけでなく丸山は各地で講義を続けていました。
その時の講演録をはじめ丸山が残した4万点を超える資料を管理している東京女子大学の丸山眞男文庫。
新たに発掘された資料の中で圧倒的に多いのが昭和20年代前半のものです。
丸山は北陸や長野などに向かい一般の人々に民主主義をテーマに語りかけていました。
丸山の言葉を筆記した8回分の講演録が残されています。
(砲声)昭和25年朝鮮戦争が勃発。
アメリカは日本を反共の防波堤と位置づけます。
警察予備隊が誕生再軍備が始まります。
冷戦の激化は日本の進路を大きく変えようとしていました。
昭和30年代に入ると丸山は論文を次々と発表。
「日本の思想」という新書にまとめました。
丸山は物事を「である」つまり出来上がった状態と見なすのか「する」つまり運動や過程に重点を置くかに切り分けて考えていきます。
民主主義も完成したものとして守るのではなく日々つくる民主化のプロセスによって初めて生きたものになると説きました。
昭和35年1月岸信介首相はアメリカとの間で新安保条約を調印します。
この安保改定で日米関係をより対等にする事を目指しました。
(デモ隊)安保反対!安保反対!しかし安保条約改定に反対する運動が盛り上がります。
この条約によって日本がアメリカの戦争に巻き込まれるのではないかという懸念が広がっていました。
このころ東大法学部で助手をしていた三谷太一郎さんです。
丸山の変化に気付いていました。
そのころからやはり…5月19日岸首相は警官隊を導入し衆議院で新安保条約批准の採決を強行します。
これに対し丸山は発言を始めます。
5月24日2,500人の聴衆を前に講演を行いました。
強行採決を批判し「民主主義を守れ」と主張した丸山は多くの市民の共感を得ます。
運動は市民団体婦人団体などさまざまな層に一挙に拡大します。
丸山は市民派の旗手となっていきます。
一方全学連の学生たちは「安保改定阻止」を目指し直接行動に訴えていきます。
6月15日には国会に突入。
警官隊との衝突の中女子大生が死亡しました。
全学連のリーダーだった政治評論家の森田実さん。
丸山の主張は全学連が目指していた目的から人々の目をそらすものだったと批判します。
新安保条約は6月19日に自然承認され岸首相は退陣します。
丸山は反対運動で示された民衆の自発的エネルギーにその後も期待していたといいます。
丸山は新安保条約の成立から2か月後ノートにつづりました。
岸を継いだ池田勇人首相は国民所得倍増計画を打ち出します。
私は前から10年以内にやるとこういう事なんだから10年たったら2倍以上と。
日本は高度経済成長の時代に突入。
人々は豊かな暮らしに関心を寄せていきます。
評論家吉本隆明。
吉本は豊かさを求める人々こそこれから社会の中心的存在になると主張。
丸山は彼らを否定的に見ていると批判しました。
丸山は高度経済成長の下での人々の意識を予測できなかったと30年後に語っています。
丸山の長男彰さんです。
昭和21年敗戦の翌年に生まれ高度経済成長期に育ちました。
家庭での丸山は彰さんの目にどのように映っていたのでしょうか。
その方が当たってる。
参議院議員の江田五月さん。
昭和39年東大法学部の丸山ゼミで学びました。
江田さんは丸山の言葉を12冊のノートに克明に書き取っています。
後に講義録として出版されました。
…という事がスタートでしたね。
そんなノートもずっとあったり。
こんな事がありましたね。
…ようなところがあります。
そんなように本当に…このころ「アメリカの軍事占領下に育った民主主義は虚妄である」という評論家の発言が反響を呼んでいました。
丸山はこれに反論してこう書きました。
「私自身はどんなに差引勘定をしても大日本帝国の『実在』よりは戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」。
昭和30年代後半高度経済成長の裏でそのゆがみも生じていました。
三重県四日市で石油化学コンビナートによる大気汚染が問題となるなど各地で公害が深刻化します。
敗戦直後庶民大学をつくり丸山を講師として招いた静岡県三島市。
昭和38年この町に石油化学コンビナート建設計画が持ち上がりました。
石油化学コンビナートが環境破壊につながるのではないか。
庶民大学に参加していた人たちを中心に三島の住民が立ち上がりました。
広大な農地に予定された四日市を上回る規模の計画。
庶民大学のような数々の勉強会が運動を支えました。
町内会や婦人会を中心とした運動は三島から近隣の町に広がっていきます。
1年近くの運動の結果国県市は計画を断念。
住民運動によって大規模な開発計画が中止となった初めてのケースとなりました。
丸山は政治家でない一般の人々の行動こそが大事だと事あるごとに語っていました。
丸山は海外でも高い評価を受けます。
欧米の大学に何度も招聘され自身の政治思想を広めていきます。
丸山の著作は代表作「現代政治の思想と行動」「日本政治思想史研究」など次々に翻訳されました。
フランスドイツ中国韓国など現在まで6か国語で丸山は読まれています。
イギリス人の社会学者ロナルド・ドーアさん。
昭和25年に初めて来日して以来幅広い視野から日本研究を進めています。
現在89歳。
自身最後と位置づける研究のために日本に滞在しているドーアさん。
丸山の政治学に初めて触れた時それまでの日本になかった新しさを感じたといいます。
丸山と交流を深めていくうちにドーアさんは自己の信念を貫き通す姿勢に打たれるようになったといいます。
海外滞在中丸山は度々戦争体験を巡って激しい議論をしています。
イギリス・オックスフォード大学での出来事をこう語っています。
昭和20年8月6日丸山は広島で被爆していました。
敗戦後20年にわたって丸山はこの事を公に語りませんでした。
海外から帰国した丸山は重い口を開き初めて被爆体験を語り始めました。
丸山がいたのは爆心地からおよそ5kmの宇品の陸軍船舶司令部でした。
丸山は司令部の建物の裏側にいたため直接の爆風は受けませんでした。
司令部前の広場にはやがて被爆した広島市民が集まってきました。
丸山は3日後に爆心地に入ります。
救援と調査のために歩きました。
丸山が被爆後に初めて広島に足を踏み入れたのは32年がたった昭和52年の事でした。
封印していた記憶をあえて語るようになったのは被爆者への特別な思いがあったからでした。
その後丸山は核兵器の開発を進める国々に対して批判を続けました。
昭和43年日本は国民総生産が世界2位となり先進国の一員となっていました。
戦後生まれのベビーブーム世代は過酷な受験戦争にさらされていました。
大学では大人数のマスプロ授業が一般化していました。
そのころ丸山の長男彰さんは日本大学に通っていました。
昭和43年5月日本大学では大学当局による34億円に上る使途不明金問題が表面化します。
学生側は全学共闘会議全共闘を結成。
学園の民主化を求める闘争を始めます。
自分はそれでも…彰さんは大学に改善を求め占拠した校舎にバリケードを組み仲間と共にストライキに入ります。
変革を求める動きは社会全体に広がっていました。
その年の10月東京・新宿で大規模なベトナム戦争反対運動が起きました。
新宿駅騒乱事件。
その中に彰さんもいました。
僕はのろまだから…だからここね今入れ歯だけども…。
これね。
父丸山眞男は息子の行動に口を挟む事はありませんでした。
豊かさの中にある矛盾に異議を申し立てる戦後世代。
丸山は当初一定の理解を示していました。
昭和43年1月東京大学医学部ではインターンの身分保障を巡って学生が無期限ストに入ります。
他学部でも教育環境の劣悪さに不満を持つ学生たちが闘争に加わり東大全共闘を結成。
学園の民主化を訴えます。
全共闘は安田講堂を占拠し「大学解体」を主張するようになっていきます。
元東大総長の佐々木毅さん。
当時法学部の教授会で丸山と一緒でした。
全共闘への対応策を協議していました。
まあそういう話。
つまりはっきり言えば…という事になれば…という事はとりあえず…昭和44年1月14日東大の学部長会議は機動隊導入を決定します。
丸山は法学部教員の立場から沈黙を守っていました。
全共闘による林健太郎文学部長の監禁に抗議した事もあり丸山は体制側と見なされるようになります。
丸山と交流があった当時教養学部の助教授折原浩さん。
大学当局の対応に疑問を持った折原さんは丸山に自らの考えを伝えました。
全共闘の学生は丸山に対し「形式的原則に固執して回答を拒否している」と批判を募らせていきます。
当時文学部の助手だった加藤尚武さんは百数十人の学生に取り囲まれる丸山の姿を目撃しました。
そういう場面でしたね。
丸山の下で研究をしていた飯田泰三さん。
全共闘への疑問を聞かされていました。
全共闘運動は東大日大だけでなく全国150以上の大学に広がっていきます。
日大全共闘に加わった息子彰さんは週刊誌で取り上げられます。
全共闘運動を巡って親子の間で溝が広がり始めていました。
直接は言わないけども…1月18日安田講堂の封鎖解除のため東大構内に8,500人の機動隊が導入されました。
機動隊の放水や催涙弾の攻撃に学生は火炎瓶や投石で応戦しました。
この日丸山は貴重な文書を守るため法学部の付属施設に泊まり込んでいました。
三谷太一郎さんも一緒でした。
今にして思いますね。
(発砲音)1月19日30時間を超える攻防の末機動隊は安田講堂の封鎖を解除。
300人以上が逮捕されました。
まあそういう見方ですね私の見方は。
それから2か月後丸山は心不全と肝炎のため入院。
病床でこうつづりました。
昭和46年定年を迎える前に丸山は自ら東大を去りました。
日大闘争が収束した後数学の研究者への道を歩み始めた長男の彰さん。
退官を選んだ父の苦悩を見ていました。
その後も丸山の思想活動は衰えませんでした。
退官翌年に発表したのが「歴史意識の『古層』」。
日本人の意識の底に独特な思考様式がありあるパターンが繰り返し繰り返し現れる。
これを「古層」と名付け明らかにしようとします。
更に丸山は日本各地どんな小さな勉強会であろうとも足を運びました。
一般の人たちを相手に日本について民主主義について語り続けました。
エトセトラエトセトラですけど非常にいると。
それがやっぱり……っていう思いをず〜っと持ってらっしゃったんだと思うんですよね。
法政大学教授で政治学者の山口二郎さん。
平成5年当時教鞭を執っていた北海道大学に丸山を招きました。
丸山が語りかけたのは「永久革命としての民主主義」。
安保闘争の直後に記した言葉でした。
敗戦から50年が過ぎた平成7年。
時代は大きな曲がり角を迎えます。
阪神淡路大震災。
2か月後オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生します。
日本はどこに行くのか。
この年の暮れ81歳の丸山が話をしていました。
この時丸山は重い肝臓がんに侵されていました。
各界で活躍する教え子43人に40分間にわたって語り続けました。
(音声・丸山)「もったいないですよ」。
この時丸山の声を聞いた教え子の一人が福島県郡山市に暮らしています。
どうも。
(取材者)よろしくお願いします。
遠路ありがとうございます。
(取材者)いえとんでもないです。
郡山市長の品川萬里さん。
品川さんは丸山の言葉を今も重く受け止めています。
平成8年1996年丸山は82歳で亡くなりました。
戦後民主主義の出発点となった敗戦の日から51年後の8月15日でした。
今年は丸山の生誕から100年になります。
東京都内で開かれた記念講演会には400人近くが集まりました。
他者感覚永久革命としての民主主義。
丸山の思想を多くの人が新たな目で見つめ直そうとしています。
だから私としては……をなしているというのが私の信ずるところでは…福島県郡山市。
6月末放射性物質を取り除く除染作業が進められていました。
福島第一原発の事故後ふるさとの再生を目指し郡山市長になった品川さん。
絶え間ない日常の活動こそが大切だと考えています。
でしかも常に…民主主義とは何か。
敗戦直後の焼け跡から丸山眞男が思索を重ねてきた問いは今も私たちの前にあります。
2014/07/19(土) 23:00〜00:30
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第3回[字]

戦後日本の論壇をリードした政治学者の丸山眞男。60年安保闘争、東大紛争を経て丸山が構想した「永久革命としての民主主義」とは何か。長男彰さんら関係者の証言で迫る。

詳細情報
番組内容
戦後日本の論壇をリードした政治学者の丸山眞男。軍隊体験を踏まえ、超国家主義を無責任の体系と鋭く分析した。敗戦直後、丸山は、東大で教べんを執るかたわら、静岡県の「庶民大学三島教室」に通い、民主主義を広めようと努めた。60年安保闘争では「市民派」として積極的に発言したが、東大紛争では全共闘の学生たちの厳しい批判にさらされた。民主主義を「永久革命」ととらえた丸山の思想に、長男・彰さんら関係者の証言で迫る
出演者
【朗読】西島秀俊,【語り】上田早苗

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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