ETV特集・選「三池を抱きしめる女たち〜戦後最大の炭鉱事故から50年〜」 2014.07.05

お父さんそこねぎば入れるタッパー。
右から2番目。
上上上上あ〜そこはタッパーじゃないよ。
そこお父さんそこやないってほら。
どこにタッパーある?穏やかに見える夫婦の日常。
そういうところですよ。
レンジの上レンジってどこ?レンジ…。
これや。
レンジの上にあるでしょう。
うん。
これ?右から2番目の所。
山田勝さんは記憶が長続きしません。
時には15分前の事すら覚えていません。
一酸化炭素中毒の後遺症です。
誕生日「まだ俺73歳やろ」って言うけんですね。
私が75歳なのに「何でお父さん73歳」って言って…。
あらそうなるとっとね…。
70に…。
今何歳ですか?6か7か…。
うん?私がもうすぐ76歳になるのに…。
8か。
そうそう。
もうそがんになっと。
そらでけん。
そういう事ですたい。
50年前三井三池炭鉱で起こった爆発事故で男たちが一酸化炭素ガスに侵されました。
女たちはこの50年間その現実と共に生きてきました。
松尾虹さんの夫も一酸化炭素中毒の後遺症で人格が全く変わり家の中で暴力を振るうようになったのです。
この場所が夫婦の人生を変えてしまいました。
半世紀もの間いやおうなく炭鉱事故と向き合ってきた妻たちがいます。
1963年11月9日午後3時12分福岡県大牟田市の三井三池炭鉱三川鉱で戦後最大の炭鉱事故が起きました。
坑内で石炭運搬車が暴走。
衝突の火花が大量にたまっていた石炭のちり「炭じん」に引火し爆発。
458人が亡くなりました。
戦後最悪の労働災害でした。
三池炭鉱は福岡県大牟田市から熊本県荒尾市一帯に広がる日本最大の炭鉱でした。
事故当時日本の石炭の1割近くを出炭していました。
明治の初めに官営の炭鉱となりその後三井に払い下げられ1889年明治22年に三井三池炭鉱となります。
戦後高度成長期に石油への転換が進められましたが大規模な炭鉱は相変わらず重要な位置を占めていました。
三井炭鉱は優良な石炭を産出する炭鉱で戦後は復興の原動力として生産に拍車がかかります。
坑道は有明海の奥深くにまで広がりました。
事故が起きた三川鉱の跡です。
事故当時ここでおよそ1,400人が働いていました。
今年11月9日三川鉱跡で大牟田市などが主催する事故から50年の追悼式典が行われました。
遺族やかつての炭鉱仲間市民などおよそ450人が参加しました。
炭じん爆発事故の犠牲者は死者だけではありませんでした。
爆発の際不完全燃焼で大量の一酸化炭素ガスが発生。
命は取り留めたものの分かっているだけで839人が一酸化炭素中毒症になりました。
一酸化炭素中毒の被害者たちは50年たった今も重い後遺症に悩まされ続けています。
首藤心子さん75歳。
夫は最も重い一酸化炭素中毒患者の一人です。
この50年間熊本県荒尾市の自宅から夫の入院する福岡市の病院に2時間かけて通い続けています。
夫の宏也さんは現場から運び出された時意識不明でした。
意識が戻っても妻の顔も母の顔も分かりませんでした。
50年間の入院生活。
リハビリのために毎日書き続けている日記。
宏也さんの治りたいという意志と心子さんのあふれる看護で夫婦はやり取りを交わせるまでになりました。
何て書いたと?教えて。
ねえ。
何て書いたとね?暗号が分かりませんけど。
これ何て書いたと?ここ。
うん?何て書いた?心子が…。
うん?うん?読んで聞かせてよ。
自分だけ分かってるから…。
自分だけ分かるなら読みきるやろうもん。
読んで…。
うん?ボロボロになるぐらいに…。
あ〜すごいな…。
でも分からない…。
絶対分かりませんよ。
一生懸命書いたつもりです。
こんなんなるまで。
付き添いさんたちが大事に取ってくれとんなはるけんですね。
これは自筆ですよ。
2人は大恋愛で結婚しました。
新婚1年と2週間。
心子さんのおなかの中には5か月になる新たな命が宿っていました。
その時事故が起こりました。
看護師だった心子さんはその日隣町の病院で夜勤をしていました。
事故の事は知らされていませんでした。
夜中宏也さんの母親が慌ただしく駆けつけてきました。
夜明けの3時過ぎだったと思いますけどおばあちゃんが近所のトラックを…軽トラックというですかね借りて八百屋さんから借りてその運転で私を迎えに来て「大変な事になってるけん。
宏也さんが病院に担ぎ込まれたんでちょっとおいで」という事でその軽トラの運転席の隣に私が座っておばあちゃんが横に…大体2人がけのところを3人で座るんでそこにおばあちゃんと私と座っていたらもうおばあちゃんはガタガタ震えているんですね。
私の身内は私が妊娠中なんで私の体の方を心配してくれたんですけどもう私はそれどころじゃなくて離れきらんやったですね。
で11月9日がそうで12月12日の日に九大病院の方に一緒に…。
その日に初めて家に帰って着替えをした。
白衣のまんまだったですね。
それでもうその時に家に帰って主人の背広とか見たらその時初めてもう涙が止まらなくてですね。
「何で?何で?」って思って…。
死者や重症患者が病院に運び込まれる中軽症と診断されその日のうちに自宅に帰された人たちがいました。
当時一酸化炭素中毒の後遺症はほとんど残らないとされ本来安静にすべき人たちが見過ごされたのです。
松尾修さんも軽症だと診断され家に帰されました。
その後共に坑内に入っていた兄の姿を求めて捜し回りました。
妻の虹さんはその時は生きている夫の姿を見て安心しました。
坑内から蓮尾さんっていう人に助け出された時に三井病院に収容されてるわけですよ。
そこでみかんを1個もらった。
それと注射をしてもらったって言うんですよね。
何の注射か本人はもう分からん。
そして先生が「自力で帰れるようだったら帰っていいよ」と言われたんで病院を12時近くになってから出てるわけです。
ほんでその時…あとで考えるとその時に帰ってきてなきゃしばらくは入院安静でよかったろうけど「帰れるなら帰っていいよ」と言われたもんだから帰ってきたもんでその後とうとうもう1日も入院できないで…。
私野添社宅の88棟にいて同じ88棟の人が1人亡くなって主人の兄がそんなふうで亡くなって…。
それから私のいとこがすぐ横の棟におったんですよ。
そのいとこが亡くなったもんだからですねもう主人が安静とか何とかという事はそのガスに対する知識もなかったもんだから3軒掛け持ちでお通夜じゃ葬式じゃで…。
そして…まあ何とかその間は主人も動けたんですよね。
私の実家に子供を預けとったもんだから迎えに行ったら父が「もううちに泊まっていけもう遅いから」と言うもんで主人が「じゃあ俺先に寝ようかな」って寝たんですよ。
そしたらしばらくしたらなんかうめき声がしてですね父が「修じゃないか」って言って。
見てみたら顔はもう真っ赤になって痙攣起こしてるんです。
それで揺すっても何しても反応ないし顔はもう熱で真っ赤になってですね…。
そしてもう「痛い痛い痛い痛い」ってうわごとみたいにして言うわけです。
「どこが痛いね」って「手」と言うから手をさすってやったら「違う。
脚」って言うから脚…。
言う所をなでさすってやっても…。
最後に「頭」って言うたですもんね。
事故後各地から内科や外科に限らず医者という医者が動員されました。
ただ当時医療関係者の間では一酸化炭素中毒は後遺症が残らないというのが通説でした。
熊本大学医学部の大学院生だった三村孝一さんは事故から1週間後に現地に入りました。
その後40年間一酸化炭素中毒患者を診る事になる三村医師ですが当時一酸化炭素中毒の現実は知りませんでした。
私たちが最初出向いたのは会社病院…大牟田の今天領病院といいますがそこに行きましたらやはり病室の中でじっとしている患者さんたちというのはあまりいないわけで非常に落ち着きがなくて病室の中をうろうろしてるとかあるいはトイレが分からずに病室の片隅におしっこをしている患者さんとかそれから非常にわ〜わ〜言って何を話しているのか意味不明の言葉を発している患者さん。
そういうように多種多様な精神症状が出てる患者さんたちがいっぱいいたわけですね。
あるいはその他にもぼ〜っとしてじ〜っとうずくまってる患者さんとかそういう人たちもおられましたね。
だから僕らが文献なんかを読んで一酸化炭素中毒というのは後遺症は生き残った者に対してはほとんど残らないというイメージがあったわけですけれどもそのイメージとは全くかけ離れた状態の人たちが非常にいっぱいいるという事を感じたわけですね。
一酸化炭素中毒はこうして起こります。
普通の状態では酸素が血液中の赤血球と結び付き全身に運ばれています。
しかし一酸化炭素を大量に吸い込むと一酸化炭素の方が赤血球と結び付いてしまいます。
酸素より結び付く力が250倍も強いからです。
そのため酸素は全身に運ばれなくなり体は酸素欠乏の状態に陥ります。
この時最もダメージを受けるのが脳なのです。
事故から33年後の一酸化炭素中毒患者の脳の断面図。
MRIの導入でようやく患者の病像が明らかになってきました。
全体的に萎縮し白くうつる隙間の部分が目立ちます。
脳がダメージを受けると性格が変わったり認知障害や神経症状を引き起こします。
後遺症の要因がはっきりしてきたのです。
日常を記憶する事ができない山田勝さんと妻の早苗さんです。
これがおいしいんですね。
あれ青いもんね。
今日のごちそうにしようか。
勝さんは事故後性格が変わり時に突然暴力を振るうようになりました。
早苗さんは50年間夫の失われた脳の代わりを果たしてきました。
お母さんはねちっちゃか時から農業ばやっとるけんね鎌使うとが上手。
鎌というかね…。
普通はね握ってこう切らんといかんでしょう。
母ちゃんのはこう…。
きれいに切る。
上手。
早苗さんは勝さんの優しくて穏やかな性格に引かれ駆け落ちで結婚しました。
子供が「ギャーッ」という声がしたけんですね「なんごとがあったかね」と思ってから外に出て子供を抱いてなだめるやないですか。
それなのにお父さんをなだめんとできんような状態。
事情を聞いてみるとね歯を磨いたらパッと口をゆすいでペッとするじゃなかですか。
その時にとばっちりが自分にかかったっていうてから。
まだ子供が小学校1〜2年ぐらいやったと思うんですよ。
まだ今ぐらいの肌寒い時やったとにね洗面器に入れとる水をね頭からジャーッと子供にかけてね…。
それでほんとは子供の方に第一番に「あらお父さんがそげんしたね」と言うてから子供をなだめるのがお父さんをなだめんとできんような状態で…。
それを初めてした時は私ももうとうとう泣きだしてね。
ちょうどあしたが正月という時で31日の大みそかの時さあみんなでごちそう食べようかという時やったけんですね。
家の中はガタガタでしょう。
今からごちそう食べて「紅白」でも見ようかねという時そげんかわいそうな状態やったから…。
そういうふうな状態がもうなが〜く…。
母ちゃん!言うな!お〜うお〜うそういう事です。
いやばってんお父さんの様子はそうやったけん。
言うな!こういう事ですよ。
だからね子供がねほんとのお父さんの姿ば知らんでずっと来たなって思うてからかわいそうにねって思うですたいね…。
だけどねこれもねお父さんが悪かじゃなかとよって。
会社がね事故からこげんなったじゃけんもとはねお父さん優しかった人間やけんこらえとかんといかんねって我慢しとかんといかんねって言うてから…。
そういうふうなのがね何回も何回もありました。
死者458人一酸化炭素中毒患者839人を出した戦後最悪の炭鉱事故。
会社幹部は業務上過失致死傷と鉱山保安法違反で書類送検されましたが検察は証拠不十分として不起訴処分にしました。
事故直後に軽症と診断されて家に帰され後に重い後遺症に苦しんだ人たちが数多くいます。
妻たちはその夫を支え続けました。
松尾虹さん82歳。
夫の修さんは20年前に亡くなり今は1人暮らしです。
毎朝夫の仏前に炊きたての御飯を供えるのが日課です。
子ぼんのうだった夫の修さんは昼は当時8歳と5歳だった娘にまで手を上げるようになり暗くなると事故の事を思い出して恐がり虹さんの腕枕でなければ寝られなくなりました。
南無阿弥陀仏…。
虹さんは生活を支えるために袋貼りなどの内職や左官の仕事もしながら2人の娘を育ててきました。
(虹)主人が発作を起こす時は私が上から乗っとって子供たちに「布団を引きずり出しておいで」と言うて押し入れから掛け布団を引きずり出させてですねそれを主人の頭からすっぽりかぶせるわけですよ。
暴れるからですね。
夏とか暖かい時は主人が暴れだしたら家の中に主人を閉じ込めといて外から鍵かけて親子3人逃げ出して発作が治まるまでもう家の中に主人だけほったらかして私たちが逃げ出すようなですね。
(鈴を鳴らす音)どうか今日も一日無事過ごせますようにお願いいたします。
南無阿弥陀仏…。
優しくもしてもらわんやったのに何で私が…と思いながら半分。
自分のやっている事の意味もまだ私分からんのですよね。
3回「般若心経」読まないとあの世の人に届かないって言われたからですね3回は繰り返すんですよね。
どう思って聞いてるかなと思いながら…。
事故から間もなく3年となる1966年10月国は一酸化炭素中毒患者の9割に近い738人に「職場復帰に支障がない」として労働災害補償の打ち切りを通告しました。
その後納得できない患者と家族は抗議を続けました。
この通告の根拠となったのは大学教授などで構成する三池医療委員会が出した意見書です。
現場の医師たちが書いた診断書をもとにしていました。
3年目に労災法上は症状が固定したかどうか治療がその後も必要であるかどうかについての判定をするという事になってたそうです。
当時の我々の知識としてはそこまでなかったわけで…。
ただその3年目の病状報告書そういうものが今後のそれからの患者さんたちの一生を左右する診断書になるという予測はしてなかったわけですね。
だから診断書自体が病状報告書というふうに捉えているから非常にずさんなものだったと思いますね。
例えば精神科医の診断書でもかなりずさんなものがあったわけですがその他に非専門医の内科とか外科の先生たちそういう方々もかなり多くの診断書を出しているわけですね。
その中で重篤な脳の障害を持っている人たちというのはいわゆる自覚症状自分が今こういう状態であるという事を訴える能力も失っているわけです。
だから失っているから自覚症状を訴える事ができないと。
そうなると自覚症状なしという事になってしまうわけですね。
専門医でないから精神症状とかそういうものはほとんど捉えられてなかったわけで…そういうふうなうらみがありますね。
松尾虹さんたち患者の妻や母324人がこのままでは生活が駄目になってしまうと家族の会をつくります。
この会が社会に向かって声を上げ始めます。
全国を回って一酸化炭素中毒患者と家族の実態を訴えカンパを集めたりもしました。
誰かが出かけている間その子供たちの世話をするのも仲間の妻や母たちでした。
私がやってる事だけは子供たちにも肝に銘じとかんとと思って…。
松尾さんは旅先から毎日のように幼い2人の娘に手紙を出していました。
(虹)だから振り仮名つけてですよね。
「今日は山口県に着きました。
組合本部を6時55分に出て黄色い『じゅうたん』を敷いたような筑後平野を通り抜けて関門トンネルを12時15分に入り長いトンネルですが4分くらいで通り抜けました。
とてもよい天気で『はたかぜ』にのっていて暑いくらいでした。
稲の穂が一面見渡す限り続いているのをお父さん裕子ちゃん樹ちゃんにも見せてやれたらと思います。
とても美しい景色だった。
宿は湯田の保健保養センターとする事になり今8時20分この手紙を書いています。
今日のカンパは全部で9,905円ありました。
このようなお金も知らない人たちが三池のガス患者のためにという事で出して下さった大切な親切な心の籠もったお金です。
働く人の幸せのためになるようにお母さんも頑張っていきますので留守の事をお願いします。
お姉ちゃんが修学旅行に行ったあとは樹ちゃんは少し寂しいでしょうが我慢して下さい。
明日もお便りします」。
もう…これだけが宝ですね。
これを書いた翌朝は車の窓からとか汽車で行く時も土地の子供たちがランドセル背負って学校に行っている姿を見るのがやっぱり一番つらかったですね。
「無事学校に間に合うように行ったかな」と思ったりしながらですね。
1968年家族の会の活動が続く一方で会社と組合の間に協定が成立。
坑内で働けなくなった人のためには草むしりなどの軽作業の職場を用意するなどの内容で妥結しました。
1971年国は労働者災害補償保険法の中で一酸化炭素中毒患者たちの障害等級を1級から14級まで決めました。
7級までは年金も出ますが9級以下は一時金のみの支給です。
軽症とされた松尾虹さんの夫修さんの認定は9級。
国からの一時金は32万円でした。
翌年事故から10年目に入った1972年11月松尾さんたちは三井鉱山を相手どりたった2組の夫婦4人だけで裁判に踏み切ります。
事故後不起訴になった会社の事故を起こした責任を問いました。
更に患者である夫と家庭が崩壊し犠牲となった妻たちへの謝罪と償いを求めるものでした。
「どうして家族が原告になるんですか」と言われたから「私たちは主人の陰の人間じゃない」って。
私も自分が精いっぱい生きたという証しをどこかで残しとかないと…。
いつも主人の陰で何もできなくて暮らしてきたような人格じゃない。
自分の人格も認めてもらわんと。
軽症患者の家族がどれだけ苦しんだかというのは表面に出ないからですね「私原告になります」と言って…。
やっぱり女だったからやれたという気もするんですね。
ほんで女だったから患者を抱えて子供を支えてほんとやれたんだと思うんですね。
松尾さんたちが起こした裁判はその後の患者や遺族による大規模な訴訟へとつながっていきました。
松尾さんたちの裁判の過程で三井鉱山の責任は認められました。
患者本人への損害賠償は認められたものの請求額の以下でした。
妻たちへの慰謝料はその受けた苦痛が死に価するほどのものではないという理由で最後まで認められませんでした。
25年もの闘いでした。
松尾虹さんは毎朝起きると必ず地方紙の死亡欄に目を通します。
一酸化炭素中毒患者の名前を見つけると大切に切り抜き一人一人の消息を記録し続けてきました。
(虹)これが昭和39…40年に結成家族の会を結成した時の名簿です。
これが48年たってる。
災害から2年目に作ったからですね。
もうボロボロだけど…見て下さい。
住所が変わったのを書いてるけど。
患者さんの顔はもう覚えてない人もいるけど家族の人の顔は覚えてるからですね。
もう家族も大半亡くなったと思うんですよ。
でも最後その人がどこで亡くなったぐらいは知りたいなと思ってですね。
50年ほんと一人一人に会って「どう生きてきたね?」って聞きたいですよ。
でもそれも自分自身が駄目だからもうかなわんけどですね。
亡くなった人の供養のつもりで探してます。
唯一この名簿が私のCO問題を語る証拠だろうと思うからだからこれはもう図書館で保管してもらいたいですね。
清水栄子さんも家族の会の一員として活動していました。
この50年間最重症の患者である夫の病院に通い続けています。
夫の正重さんは事故の21日後に意識が戻った時2〜3歳の知能になったと医師から告げられました。
バタヤン。
バタヤンは…。
「野崎まいり」の方?違う?しかし大好きだった歌の記憶だけは残されました。
ちゃんと覚えてる。
清水さんたち家族の会のメンバーはかつて体を張って国に訴えました。
特別立法による救済を求めたのです。
「定年前に解雇しない事。
事故前の収入を確保する事。
治療が続けられるようにする事」。
これらを法律で明文化するよう国に要求したのです。
清水さんたちは三川鉱の正門前でハンガーストライキをするなどして訴え続けました。
もう私たちはこの立法化にこの3年8か月というものは本当にこの立法化ゆえにいろんな苦しみやら悩みやらを克服しながら支えられてきたこの気持ちを本当にもう今のところ私たちぎりぎりのところまできてるわけですね。
国会で法案の審議が始まった中1967年7月14日家族の会の妻や母たち75人が三川鉱の深さ350mの地底に入り座り込みました。
坑内は温度30℃以上湿度は90%屈強な炭鉱マンでも48時間が限度といわれる場所です。
そこで女性たちが丸6日144時間座り込みを続けたのです。
1/3ぐらい下った時に向こうの方からキャップランプがずっと4つ5つ見えてきたんですね。
「ああこれは私たち押し戻されるばい」という事が予感はしたんですけどね。
でずっと近づいてきてねやはり同じようにね「ここから先はあんたたちが入る所じゃないからもしもの事があっても保証はされませんよ」と。
「とにかくあなた方は上がんなさい」と職制から言われたんですよ。
それでも全然ものも言わないで足も止めないでそのまんますたすたと下って行ったんですけどね。
とにかく3日間ぐらいはもう飲み水だけでしたね。
コップ1杯の飲み水だけでもう顔も洗えないしね口もすすげないような状態でしたね。
それでだんだんだんだん6日間の中では最後にはみんな横になって起き上がる者はなくなった。
日の目を見ないしですね。
その間には6日間の間に1日に何回かは職制が2〜3人来て「上がんなさい」という勧告をするわけですね。
そしてずっと天井をつついて「あなたたちがこげんして座っとるばってんね。
坑内の状況は変わってるんですよ」というふうな事を言いながらこうしてつつかれるんですよ上を。
いっぺんこのくらいの岩がドサーッと落ちてきたり「見てご覧ここは浮いてるから」といってねこうされたら「みんなのきなさい」とのかしてされたらドサッと落ちてきたという状況がありましたね。
警察による強制排除が決まり組合に説得されて女性たちは上がってきました。
真っ暗な坑内から突然外に出てきたので目をやられないようタオルで覆われています。
この翌日特別立法は成立しました。
しかし妻たちが求めていた内容は明文化されませんでした。
事故から50年世の中が炭じん爆発事故が起きた事や一酸化炭素中毒に苦しむ患者の存在を忘れていく中で清水さんは仲間と活動を続けてきました。
機関紙を編集し全国の支援者に向けて発送しています。
これし始めてから何十年になるか分からないぐらいですね。
スクラム組んで闘うという姿勢がないと潰されてしまうんだなという事を身をもって感じてきましたねこの50年の中でね。
だから今こそみんなが声を出すべきじゃないかなと私は思いますけどね。
でもお父さんもおかげさまでずっと意識不明が続いて最重症の方に入ってるお父さんの命が私たちがやっている事が通じているのかなんか10年くらいは生きてくれるだろうかと娘たちと話してたんですよ。
ところが10年どころじゃないもう80…今年は9歳になりますからね。
ですからやっぱり…だから私は病院から帰る時にいつも「お父さん最後の生き証人やけん頑張ってね」と言ってから帰りますけどね。
事故直後多くの患者が運び込まれた場所です。
精神科医の本岡真紀子さんは月に一度20人余りの一酸化炭素中毒患者を診ています。
かつて839人いた一酸化炭素中毒患者は現在確認できるのは70人ほどです。
本岡医師の父親は40年にわたって一酸化炭素中毒患者の診察を続け7年前に亡くなった三村孝一さんです。
娘がその遺志を継ぎました。
父はいつも患者さんを診察の場面だけで診ていても何も分からないと言っていたんですね。
やはり生活の背景社会的な背景を含めて診ないと本当の真の診察だと言えないと言っていたのでその事は今の私の信条となっています。
もともとは父の思いを患者さんの絆ごと私が継ごうという気でやっています。
ただ今は自分の患者さんだから。
父の患者さんであり更に自分の患者さんだからという気持ちで家庭訪問をさせてもらっています。
この日本岡さんは記憶が途切れがちな山田勝さんの自宅を訪問しました。
ほんとによろしくお願いします今日は。
今日はもう50年目という事もあって皆さんがどんなふうにおうちで生活しているのかというのをちょっと教えて頂きたくて訪問させて頂いています。
よろしくお願いします。
ほんとまずお久しぶりですけどお変わりはなかったですか?別になかろう。
別に。
いつもこげんですもんね。
毎日の生活のあれをですね前はちょこちょここうして書きよったんですよ。
これ山田さんの字ですか?これは私です。
事故のあと勝さんは5年ほど入院していました。
退院はしたものの坑内には戻れず軽作業しかできませんでした。
妻の早苗さんは紡績工場などに働きに出て2人の子供を育て上げました。
見かけは健康に見えるんですよ。
病院からもしゃべるのはしゃべるし行動はするしこれでよくなりましたというような感じやったけんですね。
それでなんか偽病扱いされて家では困る事がいっぱいでね。
私も仕事に出かかったら普通の人でしょう。
普通の人と接して帰ったらお父さんが違うでしょう。
ああ普通の人はいいなと思いながらですね。
(本岡)山田さん50年にして何か思う事というかありますか?50年といったらかなりね人間先がなかもんね。
だいぶん長か時間ば失のうたね。
というと28やったか?爆発は。
28歳。
それから…。
78歳だって50年。
一番いい時をですね…。
相当な時間ば潰したね。
さあかえろうって言うたってかえられんもんね。
(早苗)まあできる事は頑張ってしてできない事は助け合っていかんといかん。
夫の宏也さんが福岡市の病院に入院したままの…心子さんのもとには毎日決まった時間に宏也さんから電話が入ります。
お父さんからや。
もしもしこんばんは。
ハハハハ…。
愛してるよお父さん。
フフフハハハ…。
お父さんは?フフフ…ありがとう。
ご飯食べた?おいしかった?何やった?三穂ちゃんからまた聞かれるばい。
何やったかね考えよるやろ。
今食べたって言っておいしかったって言って何やった?三穂ちゃんに…。
え?ああほんと。
三穂ちゃんと代わるよ。
三穂ちゃんと代わります。
もしもし。
こんばんは。
今ご飯食べたっちゃろ。
おいしかった?おいしかった。
事故の時心子さんのおなかにいた娘の三穂さんです。
間もなく50歳になります。
三穂さんは生まれた時から父親に会えるのは月に一度の一時帰宅の時だけでした。
帰宅した宏也さんは一人では何もできず子供のような状態でした。
いつごろからそういうふうに思ったかとかいうのは私の中でも分からないですけどふだんは家にいないですから時折帰ってくるとやはり何かその…実際は守ったりはできないですが守ってあげないといけない存在というか支えられないですが支えないといけないというようなふうに接していたと思います。
元気な時の父親像っていうのが私にはなかったから最初からそういう存在というかですね。
だから今あの…うちの主人と子供の関係とかを見てるとこういう感じではもちろん全然なかったし何か甘えたとかいう記憶はないですね。
ただ何かそれがすごいさみしかったとかそういうふうには感じてはないです。
それが私の父の存在というか何か守らないといけないという存在かなという事ですね。
(取材者)どんな母ですか?う〜ん…なんかひと言で言うと人としてすごく尊敬できるなとは思います。
そして強いですよね。
なかなかここまでは強くはなれないと思います。
多分強くならざるをえなかったのかなとは思いますが。
爆発事故から50年の朝です。
松尾虹さんはこの日もいつものように夫の修さんの仏前に供える御飯を炊いていました。
一酸化炭素中毒患者とその家族は何を背負わされてきたのか。
社会から理解が得られないまま女たちは生き抜いてきました。
いろいろな人から「なぜ離婚を考えなかったんですか?」と言われたけど主人の不始末であの事故が起こったわけでもないし健康な時だけが夫婦なのかなと思ってですねそこから私が逃げてはいけないと。
だからその自分のその…心の支えに家族の会をつくったりいろいろやったんだろうかね。
逃げ場所をつくるために私はそういう事をやったのかなとかですね。
だから大勢の人を巻き込んで迷惑かけたのかなと今頃自分で一人考えてですね。
でもあの時はやっぱり相手が患者であっても家庭崩壊は避けないと。
だから一人でもそういう人が出ないようにと思ってですね。
だから家族の会の会員の人たちも少しぐらいは支えになったろうと思うんですよね。
主人も一人であの世で居心地がいいんでしょうね呼びに来ないから。
私は私で写真に「あなた自分ばっかり楽な方へ楽な方へ行って私が何で一人でこんなに背負わんのんとね」ちゅうて写真とケンカするんです。
三井三池炭鉱の爆発事故から50年。
妻や母たちにとってあしたからも同じ毎日が続いていきます。

(後藤繁榮)夏といえば…2014/07/05(土) 15:00〜16:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集・選「三池を抱きしめる女たち〜戦後最大の炭鉱事故から50年〜」[字]

三池炭鉱で起きた戦後最大の爆発事故から50年。今も一酸化炭素中毒の後遺症に苦しむ人達がいる。暴力をふるうようになるなど病気を抱えた夫を支えてきたのは妻達だった。

詳細情報
番組内容
1963(昭和38)年11月9日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で、死者458人、一酸化炭素中毒患者839人を出す、戦後最大の爆発事故が起きた。事故から50年、今も一酸化炭素中毒の後遺症に苦しむ人たちがいる。人格が変わって暴力をふるうようになったり、記憶を失い物忘れがひどくなったりした夫を支えてきた妻たち。この半世紀、妻たちは、夫を抱きしめ、子どもを抱きしめ、そして「三池」を抱きしめて生きてきた。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

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