4戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第2回 2014.07.19

(テーマ音楽)終戦の翌年に生まれた雑誌「思想の科学」。
敗戦から学ぶ事を目標に掲げ「思想の科学」を創刊したのは哲学者の鶴見俊輔たちでした。
戦後日本の進む道を普通の人々の生き方から考えます。
60年安保改定。
国会での強行採決をきっかけに「声なき声の会」が生まれます。
ベトナム戦争が激しくなる中「ベ平連」「ベトナムに平和を!市民連合」を作り反戦を訴えます。
アメリカ兵の脱走を支援するなど多彩な活動を展開します。
戦後半世紀にわたって出版された「思想の科学」。
そこに集まった人たちを訪ね彼らが見つめ続けた「ひとびとの哲学」とは何だったのか探ります。
昭和21年敗戦の翌年人々は焼け跡から立ち上がろうとしていました。
戦後初の衆議院選挙では初めて婦人参政権が認められました。
同じ頃焼け跡で産声を上げたのが雑誌「思想の科学」です。
「思想の科学」の編集に力を注いだ鶴見俊輔さんです。
現在闘病中の鶴見さん。
6年前創刊のいきさつを語っていました。
メンバーを選んだのは鶴見さんの姉で後に社会学者となる和子さんだったといいます。
その中で見極めたのが丸山眞男武谷三男渡辺慧それにもとからアメリカでのつきあいがあった都留重人と武田清子を足すと5人になるでしょ。
創刊に加わった5人のうち健在なのは思想史研究者でクリスチャンの武田清子さんです。
戦前はアメリカに留学し哲学を学びました。
戦時中日米交換船で帰国戦後は国際基督教大学で思想史を教えてきました。
鶴見さんは「思想の科学」の活動の目的をこう書いています。
「私たちはまず第一に敗戦の意味をよく考えそこから今後も教えを受けとろうと思う」。
鶴見さんはまず「大衆はなぜ太平洋戦争へと突き進んでいったのか」を問い始めます。
その理由の一つが言葉による扇動にあると考えました。
「言葉のお守り的使用法について」と題された論文です。
「言葉のお守り的使用法とは疑似主張的使用法の一種であり意味がよく分からずに言葉を使う習慣の一つである」。
…などがお守り言葉にあたります。
政府はお守り言葉を使って政策を正当化し戦争の実相を伝えなかったというのです。
このお守り言葉から解き放たれるためには人々が毎日使い慣れた分かりやすい言葉で語る事が大切なのではないか。
そう考えた鶴見さんたちは「思想の科学」創刊から間もなく普通の人々の哲学を問う連載を始めます。
「ひとびとの哲学」です。
「ひとびとの哲学」第1回は自らの体験を通して民衆が戦争に反対できなかった理由を分析した「人間観の所在」です。
著者はあの武田清子さんでした。
武田さんは敗戦までの1年半静岡県清水の軍需工場で女子挺身隊に入って働きました。
二十歳前後の女性たちと寮で暮らす中である出来事に大きな衝撃を受けました。
武田さんが一番仲の良かった…当時清水は11回もの空襲に襲われその度に山に逃げたといいます。
(取材者)言わない?
(取材者)あ言っちゃいけない。
一日10時間の重労働そして貧しい食事。
女学校を卒業したばかりの少女たちは仲間内では不平を言い合っていました。
しかし大人の目が光る公の場では決して不平を口にする事はありませんでした。
武田さんは本心を外に表さない彼女たちの姿を「貝殻の人間像」と表現しています。
武田さんは論文の最後に書いています。
次に鶴見さんたちが取り組んだのは戦前に自由や平和を唱えていた知識人たちは一体なぜ戦争に反対しなかったのかという問題でした。
10数名の学生たちと8年がかりで調べその成果をまとめたのが「共同研究転向」でした。
転向とは一般に共産主義者らが権力の弾圧を受けその思想を放棄する事とされていました。
鶴見さんは転向を悪として見るのではなくこう定義しました。
共同研究では共産主義者だけでなくさまざまな思想を抱くおよそ50人の人物を取り上げなぜ転向したのか調べていきました。
鶴見さんは呼びかけます。
「お話を聞く会ではなく討論し研究を進める集まりです」。
それに応え参加した…山領さんは共同研究では大正デモクラシーを代表するジャーナリストを取り上げます。
戦前著書が発禁となり特高警察の取り調べも受けました。
戦時中には「日本民族の優秀性」という評論を発表。
山領さんは「書き続けるために妥協したのではないか」と言います。
鶴見さんにとっても転向はひと事ではありませんでした。
父・祐輔は戦前国際交流に努めた自由主義の政治家でした。
しかし昭和15年大政翼賛会に加わり陸軍に協力し始めたのです。
「父・祐輔の豹変ぶりに鶴見さんは苦しんでいた」と言うのは…祐輔が創設した「太平洋協会」は陸軍の要請に応えて調査団を南方に派遣。
昭和19年には翼賛政治会の総務となり戦争遂行に協力していきます。
そのため戦後は公職を追放されます。
祐輔は「思想の科学」創刊にあたって経済的な援助をしていたといいます。
転向は鶴見さん自身の問題でもありました。
戦前アメリカに留学しプラグマティズムを学んだ鶴見さんは戦時中には海軍の軍属としてインドネシアに送られ通訳として働きました。
「その状況を転向として認めざるをえなかった」と後に書いています。
転向を研究するため毎日上野にあった国会図書館に通ったという石井紀子さん。
石井さんは早稲田大学を卒業し時事通信社の出版部で働き始めたばかりの頃転向の研究に参加しました。
「思想は使うものである。
論じるためだけにあるものではない」という「思想の科学」の宣言に深く共感したと言います。
石井さんが調べたのは政治家の…伯爵の家に生まれた有馬はトルストイの影響を受け農民組合運動に尽力していました。
有馬は昭和15年近衛文麿と共に大政翼賛会を立ち上げます。
「我等は大御心を奉體し一切の私心を去り…」。
有馬は大政翼賛会の初代の事務局長となりますが右翼の攻撃により辞任に追い込まれました。
「全力を盡さんことを誓ふ」。
石井さんは戦後有馬に聞き取り取材をしています。
それによると有馬の思想が転換したのは昭和2年の事でした。
父の突然の死で伯爵の位を継いだのです。
それまで有馬は華族制度の廃止を唱えていました。
有馬は戦後A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に入りますが釈放されます。
石井さんがインタビューをしたのは昭和31年の事でした。
(石井)「巣鴨に収容された時何故かわからなかった」って言うんですよ。
で「敗戦といったものも何となく来てしまった」と。
(石井)…というのが彼の気に入ってる言葉なの。
(取材者)そういう話をされたわけですね。
戦後10年。
(取材者)「何となく」だった?うん。
「転向を全然自覚しない」まま「なし崩し」に戦争へと向かっていったのです。
共同研究転向の意義を鶴見さんはこう書いています。
1950年代。
「思想の科学」は普通の人々の中から書き手を発掘していきます。
毎月の特集で「身の上相談」や「恋愛観」など身近な話題を取り上げます。
映画や漫画など大衆文化にもテーマを広げ投稿を募ります。
「思想の科学」に投稿した事がきっかけで評論家として活動の場を広げてきた人がいます。
日本映画大学の学長で…佐藤さんが投稿したのは24歳の時です。
定時制高校を卒業し新潟市の電電公社で働いていました。
佐藤さんが投稿した「任侠について」。
ヤクザ映画を通して大衆の心理を分析しています。
普通の人が自分の言葉で表現する「生活綴方運動」。
戦後山村の子供たちの間で活発になっていたこの運動を「思想の科学」は広げていきます。
その担い手は主婦や工場労働者会社員などでした。
「生活綴り方運動」の中で各地にさまざまなサークル誌が生まれていました。
「思想の科学」で紹介しようと募集したところ全国から6,000冊も送られてきたのです。
全国各地のサークル誌を紹介するため「思想の科学」には毎月「日本の地下水」というページが設けられました。
昭和35年から21年間続く最も長い連載になっていきます。
「日本の地下水」に送られてきたサークル誌の一つ「北国」。
秋田県の山村で暮らす青年たちが生活の記録や小説詩や民話を書いています。
その一人を秋田県能代市に訪ねました。
野添憲治さん79歳。
「思想の科学」と出会った事で勇気を与えられやがて書く事を職業にするようになったといいます。
野添さんが「北国」を出していたのは20代の時。
伐採の仕事で全国の山を渡り歩きながら趣味で民話の聞き書きをしていました。
昭和35年野添さんは「思想の科学」に投稿します。
各地の山村に伝わる格言を紹介しました。
(野添)「嫁と猫は隣りからもらうな」。
昭和32年岸信介内閣が成立します。
太平洋戦争中東條内閣の閣僚を務め戦犯容疑者だった岸が首相の座に就いたのです。
日米安保条約の改定を目指した岸首相。
1960年昭和35年1月ホワイトハウスで新安保条約を調印します。
5月19日。
警官隊を導入して衆議院で条約批准の採決が強行されます。
(アナウンサー)「国会の会期を50日間延長する事を決めました」。
これを境に世論が大きく動きます。
(アナウンサー)「こうした動きに対し安保阻止国民会議は19日夜から20日早朝にかけて…」。
新安保条約に反対するデモ隊が連日国会を取り巻きます。
「思想の科学」では安保改定に反対する声明を出すべきか意見が分かれました。
「時期が遅いのをうらむぐらいで今日でも大賛成です」。
「私は結論として不賛成です。
やはり思想団体としての性格をかたくつらぬくべきです」。
しかし5月19日の強行採決に対しては抗議声明を出す事で意見が一致しました。
「市民としての抵抗」という緊急特集ですね。
転向の研究に参加した山領さんは声明文を取りまとめた一人です。
ちょっと読んでみます。
民主主義を守れという人々の声。
5月28日岸首相は記者会見を開きました。
この言葉に反発を感じたのは「思想の科学」の会員…お絵描き教室の先生でデモに参加した事はありませんでした。
小林さんは6月4日初めて友人と2人でプラカードを持って歩き始めました。
すると驚く事が起きます。
「声なき声の会」のデモに参加するため夜行列車に乗って地方から駆けつける人もいました。
伐採の仕事で出稼ぎをしながら民話を集めている秋田県の…「思想の科学」の会員だった熊谷順子さん。
大阪に生まれ疎開先の和歌山で空襲を経験していました。
熊谷さんは当時29歳。
結婚したばかりでパートタイムで働いていました。
「声なき声の会」ができて初めてデモに参加しました。
(取材者)どんな?
(取材者)どういう人が入ってきました?歩道から入ってきたの。
(アナウンサー)「じりじりと構内に迫る学生たちに対し警官隊はホースで水をまいて…」。
6月15日。
全学連が国会に突入します。
警官隊と激しく衝突。
多くのけが人が出ました。
その中で東京大学の学生樺美智子さんが亡くなりました。
新安保条約が自然承認される6月19日を前に国会を33万人が取り巻きます。
その中に「声なき声の会」の人々もいました。
(アナウンサー)「岸総理大臣は官邸の中で新しい条約の自然承認を待っていました」。
強行採決から1か月。
新安保条約が自然承認されました。
(アナウンサー)「新しい安保条約自然承認の日が白々と明けました」。
その4日後岸首相は退陣を表明します。
毎年6月15日国会の前に集まるのは今も続く「声なき声の会」の人々です。
54年前のこの日ここで亡くなった樺さんの死を悼みます。
じゃあよろしくお願いします。
黙祷。
山領健二さんもやって来ました。
昭和35年7月岸内閣に替わった池田勇人内閣は「寛容と忍耐」を唱えました。
そして国民所得倍増計画を打ち出します。
日本は高度経済成長期を迎え人々の関心は豊かな生活へと向かいます。
冷蔵庫洗濯機テレビは三種の神器と呼ばれました。
昭和35年10月言論の自由を脅かす事件が起こります。
社会党の委員長の浅沼稲次郎が右翼の少年に刺され亡くなりました。
翌昭和36年2月中央公論社の嶋中鵬二社長の自宅で右翼の少年が夫人に重傷を負わせ家政婦を刺殺。
動機は雑誌「中央公論」の小説への反発でした。
深沢七郎の小説「風流夢譚」。
東京でクーデターが起き天皇や皇后が殺害される夢を見たというものでした。
右翼団体が「その内容は皇室の名誉を傷つけた」として激しく抗議していました。
佐藤忠男さんはそのころ「思想の科学」の中心メンバーの一人になっていました。
とにかくあの時あの時期あれですよ…。
ちょうどほら…やはりそこで何か…事件から半年後「思想の科学」は天皇制を原理の問題として取り上げようと天皇制特集号を企画します。
その内容は天皇制をイギリスの王室と比較して基盤が弱いとする論文。
国民の間に動かしがたい国体意識があるため天皇制は揺るがないとする論文。
天皇制について分析する対談などでした。
この時「思想の科学」の発売元は中央公論社でした。
天皇制特集号の発売が近づいた時中央公論社は思わぬ対応に出ます。
印刷があがり全国への配送も始まった天皇制特集号を回収。
中央公論社は無断で廃棄処分にしました。
その理由を中央公論社は次のように説明しています。
「内容をどうこういうのでなく時期的にまずいという一語につきる」。
当時中央公論社の社員で「思想の科学」の編集実務を担当していた橋本進さん。
廃棄処分は僅か数時間で決まったといいます。
「思想の科学」では天皇制特集号の廃棄に対する対応を協議するため緊急の評議員会が開かれ20人が集まりました。
その会議にオブザーバーとして参加していたのが定時制高校の教師だった…中央公論社の社長の嶋中鵬二さんという方が鶴見さんの小学生の頃の同級生かな幼なじみなんです。
それで…11時間かけ徹夜で討論した結果次のような「確認事項」を中央公論社に提出する事を決めました。
「その処置は出版の慣行からみて遺憾な点があった」。
「これまで『思想の科学』の発行をつづけてくれた同社の好意に感謝する」。
この時の対応を批判する論文が「日本読書新聞」に掲載されました。
「思想の科学」の会員で思想史研究者の藤田省三は次のように指摘しました。
これを受け会員40人が参加し臨時の総会が開かれました。
この総会のあと新たに声明がまとめられました。
「思想・言論の自由は批判の自由を基礎としている」。
「中央公論社が雑誌『思想の科学』天皇制特集を廃棄した事はこの原則を大きく崩す方向に働いている」。
総会の翌月鶴見さんたちは銀座の貸しビルに編集室を構え「思想の科学」を自分たちの手で出し始めました。
第1号は「特集・天皇制」。
廃棄されたものと全く同じ内容でした。
1960年代「思想の科学」は高度経済成長を続ける日本を見つめ続けていきます。
大衆社会の欲望大学教育の在り方オリンピックのあとにくるものそして沖縄や日本の米軍基地が議論の的になります。
1965年アメリカ軍が北ベトナムへの本格的な爆撃を開始します。
沖縄のアメリカ軍基地から爆撃機がベトナムへと出撃していきました。
鶴見さんたちはベトナム戦争に反対する市民グループを立ち上げます。
「ベトナムに平和を!市民連合」。
通称「ベ平連」です。
代表は作家の小田実でした。
鶴見さんは面識のなかった小田に最初は電話で参加を呼びかけました。
それが最初に出てきた…ベ平連は60年安保の時の「声なき声の会」を母体にして誕生しました。
室さんは明治学院大学でフランス文学を学んでいた時「思想の科学」の会員になりすぐにベ平連に参加しました。
ベ平連では若い学生でも年配のメンバーと同等の扱いを受けました。
室さんは神楽坂の事務所で議論を戦わせたといいます。
だからここをこう上がってきてからは…ベ平連が結成されるとデモの参加者はあっという間に増え多い時には6万人を超えたといいます。
ベ平連の支部を名乗るグループが各地に出来ていきました。
その数は500近くになったといいます。
ベ平連事務局長の吉川勇一さんのもとに山口大学から思いがけない報告が届きました。
昭和42年鶴見さんは予想を超えた行動に出ます。
日本の市民だけでなくアメリカ兵にも呼びかけようというのです。
横須賀のアメリカ軍基地の前でベ平連のメンバーは兵士たちにビラを配りました。
それは鶴見さんが書いた脱走を呼びかけるビラでした。
「1931年に私たちの政府が『満州事変』の名の下に中国で宣戦布告なき戦争を始めました。
その時それが第2次世界大戦の始まりだと気付いた人はほとんどいませんでした。
今アジアで起きているもう一つの宣戦布告なき戦いが第3次世界大戦の始まりになるのではないかと考えています。
1人でもグループでも構いません。
脱走して下さい」。
脱走したのは横須賀に停泊する空母イントレピッドの乗組員4人。
鶴見さんたちは異例の記者会見を開きアメリカ兵をかくまっていると発表します。
しかしこの時既に彼らを国外に脱出させていました。
会見ではあらかじめ兵士たちにインタビューした映像を上映し脱走について理解を求めました。
人を殺す側に立つ事を拒否し脱走してきた4人の兵士たち。
鶴見さんは深い共感を寄せていました。
その理由を当時次のように書いています。
「第2次世界大戦の中で私は脱走したいと思いながら脱走せず病気になるまで働いた。
それは勇気の不足からだった」。
戦時中海軍の軍属としてインドネシアに送られた鶴見さん。
自らが人を殺す側にいたといいます。
脱走兵を支援する鶴見さんの脳裏には戦時中の重い記憶があったのです。
会見の翌日警視庁がアメリカ軍の依頼で脱走した兵士の捜査に乗り出しました。
彼らを支援した鶴見さんたちにも日米地位協定に触れる疑いが指摘されました。
鶴見さんは当時の「思想の科学」に法律より優先すべきものがあると書いています。
「ヴェトナム戦争反対にしても法律を守ってしてほしいというような批判は大正昭和の転向史を背景におく時私はうけいれることができない」。
1975年昭和50年北ベトナム軍がサイゴンを陥落させベトナム戦争は終わりました。
1970年代高度経済成長のひずみが現れてきた時代。
「思想の科学」はサブカルチャーにも特集テーマを広げました。
教育問題公害差別原発そして女性の解放。
「思想の科学」が問い続けたテーマに女性の自立があります。
昭和46年の特集は「女性解放の思想」でした。
その中に掲載された「私の保育園ノート」です。
「欲ばりなのだろうか。
妻であり母親でありながら自分を完全に燃焼させる仕事をもちつづけたいと女が望むのは」。
これを書いたのは60年安保の時「声なき声の会」に参加した熊谷順子さんです。
熊谷さんはその後2児の母となっていました。
熊谷さんは友人たちと共に保育園を求める運動を起こしました。
百数十人の署名を集め練馬区に請願書を提出します。
そして近所の地主に自分たちで交渉し土地まで確保して区に掛け合い3年がかりで希望を実現したのです。
この保育園が建設されたあと熊谷さんたちは学童保育のための施設も要望し実現させていきました。
昭和49年アジアやアメリカの人々とどう関係を結ぶのか考える特集が組まれました。
「国を越えるつきあい」。
この時始まった連載があります。
「花岡事件の人たち」です。
著者はあの野添憲治さんです。
民話の聞き書きをしようと訪れた秋田県花岡町でうずもれた戦争の歴史を掘り起こす事になります。
なぜ花岡鉱山というのかよく分からないんだけど…太平洋戦争中ここは鉛や亜鉛の鉱山でした。
昭和20年働いていた中国人400人以上が亡くなる事件があったというのです。
野添さんは事件の生存者を捜しました。
そして札幌で3人を見つけ出し詳しい話を聞く事ができました。
李振平さんの証言です。
昭和20年6月30日およそ800人が蜂起しました。
日本人補導員4人を殺害。
村外れの山へ逃亡を図りましたが翌日多くが憲兵や警防団に捕らえられます。
400人を超える人たちが亡くなりました。
かつて犠牲者はこの丘に埋葬されていました。
野添さんは花岡事件について「思想の科学」に9回連載。
忘れ去られていた戦争の記憶に光を当てました。
1980年代に入ると「思想の科学」の編集に戦後生まれの世代が関わっていくようになります。
作家の黒川創さんもその一人です。
父親が「思想の科学」の古い会員だった事から鶴見さんとは子供の頃から交流がある黒川さん。
大学を出るとすぐ「思想の科学」の編集に参加しました。
黒川さんが昭和60年に編集した「特集戦後の思想家107人」。
さまざまなジャンルの人物を取り上げその言動から思想を読み解いています。
哲学者や評論家作家だけでなく芸能人も思想家として見ています。
タモリもその一人。
タモリの思想性は一体どこにあるのでしょうか?「タモリは無思想の思想家とでも言っておけばよいのでしょうか」。
戦後間もなく鶴見さんたちが取り組み始めた「ひとびとの哲学」。
黒川さんも意識していたといいます。
平成8年1996年5月創刊からちょうど50年目に「思想の科学」は休刊しました。
やめる力があるうちに一度けじめをつけようと考えたのです。
雑誌の休刊後も「思想の科学」の会員の集まりは続いています。
新しいメンバーも加わり現在の会員は100人余り。
毎年総会を開いています。
一人一人の会員にとって「思想の科学」とはどんな場所だったのでしょうか。
私が冗談に「おもいおもいの重い思い」って言ったら「そうだ」って言う人がいて。
何かみんなみんないろいろ違うんだけどその人にとってはおもいをおもいっていうふうに…。
敗戦直後焼け跡の中で生まれた「思想の科学」。
それから50年およそ5,000人の人々に自由な発言の場を提供してきました。
創刊にあたり鶴見俊輔さんが第一に掲げたのは敗戦の意味をよく考える事でした。
2014/07/19(土) 00:00〜01:30
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第2回[字][再]

敗戦の翌年、創刊された『思想の科学』。60年安保闘争からべ平連へ、鶴見俊輔らは多元的に意見を闘わせ、ひとびとの哲学を見つめ続けてきた。半世紀にわたる歩みを描く。

詳細情報
番組内容
敗戦の翌年、創刊された『思想の科学』。鶴見俊輔ら同人たちは、「敗戦からより多くを学ぶこと」を目的に掲げ、「公園の片隅の砂場」のような雑誌をめざした。60年安保改訂での「声なき声の会」、そして1965年の「べ平連」では、“来るもの”は拒まず、新しい市民運動の形を生み出した。番組では、創刊メンバーの武田清子さんから最後の編集者・黒川創さんまで、『思想の科学』に集った人々を尋ね、半世紀の歩みを描く。
出演者
【語り】広瀬修子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行

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