逆転の発想

 防犯カメラに怪しい車のナンバープレートが映っている。だが、距離や照明の具合で、はっきりとは読み取れない。そんなときは、どうするか。

 ぼやけた映像を、いくら目を凝らしてみても、元のナンバーは見えてこない。想像を膨らませるにも限界がある。

 そこで、発想を転換する。「・・・1」から「9999」までの鮮明な画像を、様々な条件のもとに、コンピュータ処理で不鮮明な画像にする。その中から、防犯カメラの映像と近いものを、いくつか候補として抽出する。完全には特定できなくとも、数個に絞ることができるだけでも、捜査には役立つ。

 大分県警の職員が、自らの体験の中で思いついた手法だそうだ【画像ぼかして車ナンバー推定 大分の科捜研、逆転の発想 朝日 2014.8.2】。

 この記事を読んで、高校の数学の授業で聞いた言葉を思い出した。
 

複雑なものを単純なものにするんだよ


 等式の証明の問題で、たとえば、等式の左辺の単純な式を、あれこれ捏ねくり回しても、右辺の複雑な式には辿り着けない。そんなとき、逆に、右辺の複雑な式に変形を加えていけば、特別な閃きがなくても、自ずと、単純な式になって行き、結果として、左辺の単純な式に辿り着く、というわけである。

 なにが「単純」で、なにが「複雑」かは、必ずしも自明ではないものの、一方向からのみ考えていて行き詰まったら、逆方向から考えてみるというのは、数学に限らず、あらゆる場面で有用なことに違いない。

 では、ここから応用問題である(以前、何かの雑誌で読んだのだが、出典は思い出せない)。

賃貸マンションの管理会社の社員A君は、エレベータの待ち時間が長すぎるという苦情に頭を悩ませていた。エレベータ会社に言っても、昇降スピードを上げるは危険だという。A君は考えに考えた末、ある方法を思いついて、それを実行したところ、苦情はなくなったという。どんなことをしたのだろうか。


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シンキングタイム
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 待ち時間が長いという苦情に対しては、待ち時間を短くすればいいのだが、時間の長い、短いは、必ずしも、物理的な時間の長短とは異なる。このことは、先日書いたブログ【濃密な2分間】のとおりである。

 とすると、待ち時間を短く感じさればいいということになる。そこで、A君は、苦情を言ってくるのは、女性ばかりだということに目をつけたのだ。どうすれば、女性に、待ち時間を短く感じてもらうことができるか。

 A君が考えたのは、エレベータの横に鏡を設置する、ということだった。A君の目論見通り、ほとんどの女性がエレベータ横の鏡を覗き込んで髪の毛の乱れを直したりするのに夢中になったそうである。中には、エレベータのドアが開くと、我に返って慌ててエレベータに乗り込むというシーンも見られたそうである。

コートの袖の通し方

 スキーで転倒して左肩を痛めたことがある。

 コートを着ようとして、コートの袖に右腕を通してから左腕を通そうとすると、左肩に痛みが走り、なかなかうまくいかない。悪戦苦闘している私に家内が言った。「左が痛いんなら、左から先に通したら」。言われたとおりにすると、苦もなくコートを着ることができた。

 私にしてみれば、大発見だった。家内にしてみれば、あまりにも当たり前のことなのに、なぜ、ことさら面倒なことをするのか、ということだったようだ。

 それから2年くらいたったときのことである。私の友人がコートを着ようとして悪戦苦闘していた。声をかけると、肩を痛めたとのことである。どちらの肩を痛めたのかと聞くと、以前の私と同じく、痛めていない方の腕を先に通して、痛めた方の腕を後から通そうとしていたのだ。

 もちろん、私がアドバイスをして、友人は苦もなくコートを着ることができたのである。

 目の前に課題が二つあった場合、取りあえず、簡単そうなものから手をつけてしまいがちである。だが、そうすると、もう一つの複雑な課題の達成が、より、困難になることがある。そいう場合は、複雑な課題の方を先に片付ければいい。

 たとえば、遠方で約束があり、その前に食事もしなければいけないとする。移動を先にするか、食事を先にするか。移動を先にすべきである。移動は、列車の時間など選択肢が小さいのに対し、食事は、結構、選択肢が大きのである。たとえば、そえなりのレストランに入って1時間くらいかけて、ゆっくりするというのもあるし、時間がなければ、駅の立ち食いそばですませるという選択肢もある。

 二つの課題のうちの一つを先にすると、もう一つの課題の選択肢が少なくなるのは必然であるし、もう一つの課題が、もともと選択肢が少なかった場合、下手をすると選択肢が残っていない、ということになるのである。だから、選択肢の少ない課題を先にすませるのが楽だということである。

 ここに書いたことは、要領のいい人にとってもみれば、なにを殊更に理屈をこねなければならないのか、当たり前のことではないか、と思われるだろう。だが、誰もが要領がいいわけではないし、要領のいい人でも、常に的確な判断ができるとは限らない。
 
 だから、複数の課題をこなすときには、常に、どの順番で行うのが合理的かを考える必要があるのである。こんなことを言っていると、「あなたの人生って、大変なんだね」と言われそうである。

色彩の暴力

 街には色が溢れている。

 鮮やかな赤、黄、青、緑が無秩序に溢れている街を歩くのは、とっても疲れる。

 ただし、京都は、それでも他の都市に比べると大夫ましではある。

 たとえば、ローソンの看板。本来は青地に白だが、京都では白地に黒である。吉野家もオレンジに黒のところが、京都では、白地に黒である。ユニクロや携帯電話のauも、京都では背景が白になっている【マイナビニュース】。

 条例で色彩を規制しているからなのだが、これでも十分とは言えない。

 ホームページでも、これでもかというくらいに色彩を使っているのを見かける。ぱっと見ただけで頭がくらくらする。とにかく目立とうということなのだが、逆効果である。

 モノクロを基本として、あと、1、2色を控えめに使う程度であれば、落ち着いて見ることができるし、本当に注意を喚起したい部分を、より効果的に強調することもできるのである。

 

お節介は、したくない

 私は、お節介が嫌いだ。

 たとえば、エレベータに乗ったとする。一人だけ先客がいて、開閉ボタンのあるパネルの側に立っている。私は、奧に進んで、先客とは対角線の位置のところに佇む。パネルを見ると、私が目的とする階以外にランプが点いていないので、先客も同じ階で下りることが分かる。

 目的の階に着いてドアが開く。先客が先に下りてくれたら何も問題はない。ところが、「開」ボタンを押して、「どうぞ」という仕草をする。こちらは、ゆっくり後から下りるつもりなのに、そんなことをされると、こちらが気を遣って足早に下りざるを得ない。

 そんなことはしたくないので、「どうぞ」と言うのだが、「いえ、どうぞ」と返してくる。そこで、面倒くさくなって、先に下りたり、あるいは、「いえ、先にどうぞ」とさらに返すかは、その日の気分次第である。

 たいしたことないと言えば、大したことない話である。どうでもいいといえば、どうでもいいことなのだろう。だが、私の気持ちとしては、「そんなつまらないことに気を遣わないで下さい。気を遣われた私の方が逆に気を遣わないといけないから、かえって迷惑です」ということなのだ。

 だから、私が逆に先客でパネルの側に立っていた場合、真っ先に自分が下りる。もちろん見るからにお年寄りで、私が先に下りたら、その方がドアのところに来るまでにドアがしまってしまいそうな人がいた場合は別である。

 もうひとつ、よくあるお節介が、トイレットペーパーである。

 端を三角形に折る風習は、もう2、30年前に始まったようだが、これについては賛否両論ある【ヤフー知恵袋】。

 自分では思いやりだと思っていても、それを不快に感じる人がいる以上、そんなことは「しない」というのが、大人の執るべき態度だ。「自分は気を遣ってますよ」というポーズを示すことを優先して、逆に他人の感情を害していることに気づかない鈍感さが、私には堪らないのである。

 私が、こんなふうに思うのも、「三つ児の魂、百まで」というが、幼児体験が反映しているのかもしれない【豚色のランドセル】。

究極の安全保障

 各国要人や、その家族の高度医療を日本で積極的に受け入れる。

 万一、日本が攻撃されたり、原油の輸入などがストップして立ちゆかないような事態になれば、日本で療養中の各国要人やその家族の生命も危機に瀕する、そういう状況にしておけば、日本の安全は保障されるのではないか。

 考えてみれば、この方法による安全保障は、我が国の得意技ではないだろうか。

 江戸時代の参勤交代。各藩の大名の妻子が江戸にいる以上、どの藩も幕府に逆らうことはできない。

 もちろん、対等な国家間で、無理矢理、各国要人の家族を日本に居住させることはできないのは当然である。だからこそ、彼らが、日本に居住させたいと思うような環境作りが必要不可欠である。

 おそらく、そのために必要な費用など、アメリカから高額の戦闘機、輸送機を購入する金額に比べれば、何ということはないのではないか。

 アメリカの戦争に引きづられる危険を冒してまで集団的自衛権を容認するよりも、よっぽど、現実的な安全保障政策だと思うが、どうだろうか。

誕生日の楽しみ

 私の誕生日は、7月20日。

 子どもの頃は、1学期の終業式の日であり、明日から長い夏休みが始まると思うと嬉しくて仕方なく、また、自分の誕生日は他の子と違って特別な日なのだという、ちょっとした優越感にも浸れたのだった。

 そんな特別に嬉しい日なのだが、私は、この日に限って熱を出すことが多かった。この日までの3か月あまり、懸命に学校に通い、漸く、その緊張感から解き放たれ、明日から夏休みという解放感から、体全体の力が抜け、熱を出してしまったようなのだ。

 そうは言っても、誕生日は誕生日。誕生日と言えば、バヤリスのオレンジジュースだった。熱っぽい体で一息に飲むバヤリスのオレンジジュースは特別に美味しかった。

 今から思えば、果汁20パーセントのオレンジジュースのどこがいいのか分からないのだが、当時は、何か特別のことがあると、バヤリースのオレンジジュースであり、それで幸福感に浸れたものだった。

 思えば、当時は、ジュースというものは、普通は瓶に入っているものではなく、粉末ジュースの素を水で溶かして飲むものだった。まあ、紛い物もいいところだが、当時の子ども達にしてみれば、それでも、ジュースはジュースだったのだ。粉末ジュースが当たり前の日常の中で、特別な日に出てくる、瓶入りのジュース、それが、バヤリスのオレンジジュースだったのである。

 ジュースも、そのうち、果汁100パーセントが当たり前になり、家で、バヤリスのオレンジジュースを飲むこともなくなった。ときどき、ホテルで行われる安っぽい宴会などで、バヤリスのオレンジジュースを見かけることもあるが、もう、そんなものには見向きもしなくなった。 

濃密な2分間

 京都から大阪まで急いで行ったときの話だ。

 まず、新幹線で新大阪まで行く。JRの改札を抜け、地下鉄御堂筋線の新大阪駅まで、ダッシュした。勢いよく階段を上ってホームに出たら、ちょうど、列車が停まっている。ほっと一安心して列車に乗り込んだ。これで何とか間に合った。

 電車が動き出してから、ふと、周囲の視線を感じた。見ると、廻りの女性が私の方を見ているではないか。そうか、そうか、僕って、そんなに格好いい?と、一瞬は思ったものの、何となく、そういった類の視線ではないのだ。改めて車内を見回すと、車内は女性ばかりであり、男は私一人である。もしや、と思い、車内の掲示を見ると、「女性専用車両」とある。
 
 さて、どうしたものか。女性専用車両が1両だけなのか、女性達の間を縫って隣の車両まで行って、そちらも女性専用車両だったりしたら、より事態は悪化する。このまま、ここに止まり、次の駅で降りるしかないと決めた。

 次に決めなければならないのは、この場を、どう取り繕うかである。「女性専用車両」であることに全く気づいていないふりをすべきか。あるいは、気づいたのだけれども、女性専用車両の中を歩き回って隣に行くよりも、次の駅に行くまでじっとしていた方がいいからやむなく、そこにじっと立っているのだ、というポーズを取るべきか。どっちに決めたところで、周囲からは、どっちでもいいことなのだろうが、それでも、どっちにするか決めないと落ち着かないのである。

 ようやく、(と言っても、一瞬のことだろうが・・)、後者に決めた。そして、こちらを見ている女性の方を見て、微妙に「女性専用車両」の掲示との間で視線を往復させ、その上で、今、気づいたから、隣の車両まで行くんじゃなくて、次の駅で、このドアから下ります、と言った表情で軽く会釈したのだった。

 まあ、いくら、自分の中であれこれ考えたところで、どこまで相手に伝わったかは分からないのだが、それでも、そうしないと落ち着かなかったのである。

 後は、列車が次の駅に着くのをじっと待つだけであるが、こんなときに限って、次の駅までの時間は長いのだ。次の南方駅まで2分とかからないはずなのだが、この時ばかりは10分くらいに感じられた。そうして、ようやく、目の前のドアが開いて、ホームに降り立つことができたのだった。

 こうして、私の人生で最も濃密な2分間が終わったのである。

戦国時代の日本

 NHKの大河ドラマで、物心がついて最初の記憶は、緒形拳主演の太閤記である。その後も、秀吉、信長、家康などを主人公にした戦国時代は、大河ドラマで幾度となく描かれている。

 そんなドラマを見ながら、子供心に、つくづく思ったものだ。

 お百姓さんは、せっせと作物を作っていても、戦乱に巻き込まれてしまったら、田畑も家々も破壊し尽くされ逃げ惑わなければならないのだから、本当に大変な時代だったのだな。それ比べて今は、そんなことは全くないし、自分は何という平和な、いい時代に生まれたのだろう、ということだった。

 ところが、成長するにつれて、とても、「いい時代」とは思えなくなって来た。それどころか、後世の人々が今の時代を振り返ってみたら、「本当に大変な時代だったんだな」と、子どもの頃の私と同じような思いをするのではないかとさえ、思うようになった。

 日本国内を見ている限りは、戦国時代のようなことはないのは当然のことではあるが、国外に目を転じれば、パレスチナ、シリア、イラク、アフガン、あるいは、つい昨日、民間機が撃墜されたウクライナ、と、戦乱は絶えることがない。

 「日本国内を見ている限りは」と書いたが、「戦火」はないものの、平和に暮らしてきた生活が一挙に覆されたという点では、福島原発の被害に遭って避難を余儀なくされた人々にとっては、精魂込めた田畑を、「天下布武」といったスローガンの元に武将達に踏みにじられた戦国時代と同じようなものだろう。

 こんなことを書いていると、つくづく、人間の愚かさを感じずにはいれないし、自分の無力さを感じてしまうのだ。

 そんなことを書きつつも、御座候の一つでも目の前に出てくれば、この上ない幸せを感じる私である。

京都にリニア新幹線

 京都にリニア新幹線の駅を誘致しようという運動があるらしい。

 東京オリンピックの前のことだが、京都には、新幹線の「こだま」しか停車せず、「ひかり」は素通りするということで、大反対が起こったことがある。結局、「ひかり」も停車することになり、その後できた「のぞみ」も京都を通過することはなかった。

 さて、リニア新幹線は、これまでの新幹線以上に直線コースが望ましいということで、奈良を通ることが予定されており、京都でも、さして反対はなかったようなのだが、ここ1年くらい、京都にリニア新幹線をという運動が盛んになってきたらしい。

 こどもの頃、新聞などで、列車の高速化について、便利になるのは確かだが、旅の風情が失われてしまい、必ずしも、高速化を追い求めるのはいかがなものか、と言った記事を目にすることがあった。

 当時は、そんな記事を読んでも、ぴんと来なかったのだが、今では、よくわかる。

 現在でも東京まで2時間10分でいけるのだから、これ以上、速くなくても何も支障はないように思う。これ以上、手軽に東京から京都に来ることができるようになったら、東京の人達にとって、京都の価値は確実に下がるのではないだろうか。

 20年近く前のことだが、飛行機を乗り継ぎ、さらに船に乗って、北海道の利尻島、礼文島に旅行したことがあるのだが、仮に、京都から30分で利尻島、礼文島に行けるようになったら、あのとき味わったような、日常から離れた解放感を感じるだろうか。

 初めてイギリスに行ったときも、アンカレジで給油のため4時間くらい待たされたのだが、そんな「無駄な」時間を経たことにより、飛行機がロンドン近郊で高度を下げ、眼下に目をやると、どこまでも拡がる緑のなかに白く羊が点々と見えたときに抱いた、はるばる遠い国まで来たのだという、あの感激も、一層、高まったのだろうと思う。

 そんなことを考えると、リニア新幹線は、京都を通らなくてもいいではないかと思うのである。 



 

画期的な計算法?

 ネット上で、2桁の数同士の掛け算について、こんな計算法が紹介されていた。

計算-2
線を引くだけで簡単に掛け算を解く方法

 具体例を見ると、なるほどと思い、これは素晴らしいことだと、一瞬は思った。

 だが、あくまでも、「一瞬」である。

 確かに、この例のように、21×13だったら、線を引くのも交点の数を数えるのも簡単だ。

 しかし、例えば、89×97だったら、どうなるのか。全部で33本も線を引かなければならない。交点の数に至っては、72個、81個、56個、63個と、200個以上も数えなければならないのだ。その上で、81+56を暗算でせよというのだ。
 
 どう考えたって、筆算の方が速いに決まっている。


ないものねだり

 リビングの天井まで広がるガラス窓の向こうには、180度、湖が拡がっている。ウッドデッキに出ると、湖の香りを含んだ風が吹き抜けて行く。デッキの端から見下ろすと、午後の傾いた日射しに湖面がきらめき、魚たちが跳ねている。

 昨日お邪魔した琵琶湖畔の家なのだが、毎日こんな景色を眺めていると、ゆったりした気分になるだろうと、羨ましく思えてくる。

 だが、そこに住めるかと言われると、考えてしまう。

 近くにあるのは、画一的なファミレス、ラーメン、うどん、ステーキ、とんかつ等の店ばかりである。

 女将さん一人の小粋な小料理屋【京遊膳「と夢」】【京都でちょっと贅沢ランチ】【と夢の会】も、研究熱心なマスターの腕の冴えるハンバーグ専門店【最高のハンバーグ専門店】も、好みを伝えてアレンジしてくれるオムライス店【やはり、粒あん】も、ここにはない。 

 粒あんの最高峰「御座候」だって、電車に乗って行かなければ手に入らない【京都、滋賀で「御座候」が食べられる店】。

 やはり、琵琶湖畔の家は、別荘とするしかないだろう(別荘を持てれば、の話だが)。

やはり、粒あん

 先日、【最高のハンバーグ専門店】という記事を書いたが、今日は、オムライス専門店の話だ。

 10年くらい前から時々行っている店だが、私は、「九条ネギとシメジのカレーオムライス」というのが気に入っており、いつも、それを食べている。

 ところが、1年くらい前から、微妙に味が違ってきたのだ。どう違ったかというと、以前は、オムライスにかかっているカレーが、スープカレーのような液状だったのが、とろみが付いたものに変わったのだった。数回それを食べた後に、店の人に話したところ、確かに、意図的に、そのように変えたのだということだった。前の方がよかったというと、予め言ってくれたら、とろみを付けないようにしてくれるということだった。

 それで、昨日、スープカレーのようにしてほいと頼んだら、以前と、ほとんど同じものがでて来て多いに満足したのだった。

 なぜ、オムライスにかかっているカレーが、液状のものの方が美味しく感じられるのか考えたのだが、カレーがかかっているオムライス本体との食感に差があるのが原因だと気がついた。とろみのあるカレーだと、オムライスと食感に差があまりないのである。食べているときに食感が変化するからこそ、その変化を感じて、美味しく感じるのだ。

 粒あん派の人なら、この説明に納得してくれるだろう。こしあんは、あんが均一なのに対し、粒あんは、粒、皮、それに粒から押し出された部分とが入り交じっているため、一口食べるときに、小豆の皮の部分、皮の中の粒の部分、皮から出て押しつぶされた部分と、微妙に何段階にも食感が変化し、これが食べたときの満足感に繋がることは、以前のブログ【今さらながら、「粒あん」の魅力】にも書いたことである。

 こういった食感の変化を感じることが出来る人は、粒あんの美味しさがわかるのである。

 甘納豆が美味しく感じられるのも、やはり、食感の変化があるからである【消えゆく「甘納豆」】。

 甘納豆が消えて行き、とろみのついたカレーが好まれるようになったと言うことは、食感の変化を楽しめる人が減っているということかも知れない。とすれば、粒あん協会としても、看過できない問題である。

 ちょうど、明日は、日本粒あん協会の定時総会の日だ。総会の議題にはなっていないが、重要な問題なので、他の理事や会員の意見を聞いてみよう。
 

茂木健一郎に学ぶ「ホーム」と「アウェイ」

 茂木健一郎という脳科学者がいる。

 本業は、ソニーの研究員だそうだが、テレビで見かけることも多く、「所得隠し」が報じられたこともあるくらい【Wikipedia】だから、本業以外の仕事で結構、忙しいようである。

 風貌、語り口からは、私は、余りいい印象を持っていないのだが、ときに、成る程と思う話をしていることがある。

 その話というのは、「時間泥棒の被害者になっていないか」というネット上の記事である。

 人の活動には、「ホーム」と「アウェイ」の時間があり、「ホーム」のときは、勝手を知った世界なので、あまり頭を働かせなくても物事は進んで行くが、「アウェイ」では、次々と新しいことに対処しなければならないので、頭は活性化するというのである。

 「ホーム」でばかり活動していると、大して頭を働かせていないうちに、時間だけはどんどん経って行く。「時間泥棒」に大切な時間を盗まれているようなものだ。時間を盗まれないために、積極的に「アウェイ」に打って出て、頭をフル回転せざるを得ないような状況を作り出すことが重要だ、というのである。

 確かに、その話でも例に挙げられていたように、小学校1年の1学期など、「アウェイ」の中の「アウェイ」というもので、新しい環境で、漢字や計算など、次々と新しいことに接し、頭はフル回転しており、僅か3か月余りではあるが、とてつもなく長く感じられたものだ。

 振り返って見れば、その次に「アウェイ」感を感じたのは、大学に入ってから夏休みまで、また、仕事を始めてからの数か月である。

 もちろん、中学、高校と進学する毎に、「アウェイ」感はあるものの、与えられたカリキュラムに従って授業を受けるという点では、小学校からの延長であった。

 ところが、大学へ入ると、そもそも、どの授業に出るか自体を自分が決めるのである。授業に出なければ出ないで、物事は進んで行くのである。他方、各種のサークルの新入生歓迎会とか、怪しげな宗教団体のセミナーだとか、「アウェイ」感が満載である。

 仕事も、最初は、「アウェイ」感に満ちているが、慣れるに従って、ルーチンワーク化して行き、気がつけば、あっというまに、10年、20年と経ってしまう。それでも、仕事をしている以上、完全な「ホーム」状態ということはなく、それなりに新鮮な思いをすることもある。

 ところが、定年を迎えて完全にリタイアしてしまえば、そのようなこともない。仕事以外の場で、「アウェイ」に打って出ないと、それこそ、あっという間に10年、20年と経ってしまうのだろう。

 さて、茂木健一郎の話が、なぜ、それなりに説得力をもっているのかというと、一つには、言ってみれば、誰でも、ぼんやりと意識していることを明確な言葉で断言しているということであろう。もともと思っていたことを、明確にしてくれるわけだから、説得も何もない。気づかせてくれただけである。もちろん、それだけでも、ありがたいと言わなければならないだろうが。

 説得力を支えている、もう一つは、「前頭葉」「海馬」「ドーパミン」と言った、脳科学用語である。何となくわかったような、ちょっと科学的、専門的な装いを凝らした説明である。

まだ習熟していないことに向き合うと、脳の中の「アラーム」センターである前帯状皮質が活動する。そして、脳全体のいわば「司令塔」である背外側前頭前皮質の働きによって、直面している課題に集中するようになるのである。


 まあ、結論として、「新しい課題に向き合う」→「課題に集中する」ということなのだが、その「→」の部分に専門用語をちりばめて、メカニズムを「解明」することによって、説得力を増しているのである。

 とはいえ、メカニズムなど、言ってしまえば、どうでもいいことで、要は、新しい課題に向き合えば、自ずと課題に集中することができ、充実した日々を送ることができるようになるから、積極的に新しい課題に挑戦すべきである、ということなのである。

「早い人で30分です」

 ネット上の広告の謳い文句である。

 英会話の教材の広告だが、この種の教材の広告によくあるように、これまでの英語教材、学習法を全部否定することから始める。

 要するに、日本人の耳は、生まれたときから日本語になじんでおり、そもそも英語を聞くようにはできていない。だから、自分の耳を「英語耳」に作り替えなければ、これまでの学習をいくら繰り返しても全くの無駄だというのだ。

 そして、その会社の教材を使えば、すぐに「英語耳」を作ることができるというのだ。しかも、「早い人で30分です」というのだから、何と素晴らしいことだろう。

 でも、「早い人」の話は書いてあるが、「遅い人」の話は書いていない。もしかすると、「遅い人」は、「30年」なのかも知れないのだ。でも、そんなことを書けば、広告に飛びついてくれる人はなくなるだろう。

 「早い人で30分です」ということだけ書いておけば、読者に、「だったら、自分だって、30分は無理かも知れないが、2時間か3時間、最悪でも、2、3日もすれば英語耳を作ることができるだろう」と錯覚させることができるのである。
 
 先日の【世論調査と世論操作】でも書いたように、人間は、ちょっとした表現で、誤った判断をしてしまうのである。それだけに、騙されないように常に注意が必要なのである。

 例えば、「100歳以上のお年寄りの95%が粒あんを食べています」と言えば、さも粒あんが健康にいいように思えるだろう。でも、こんな姑息な手段で粒あんの優位性を宣伝するのは邪道中の邪道である。

 「50歳までに亡くなった人の95%が粒あんを食べていました」などという反撃を食らったら、ひとたまりもないのである。

 こんな例もある。「犯罪者の95%は、毎日、米のご飯を食べている」と言えば、さも、米食と犯罪との間に因果関係があるように見えるが、「犯罪を犯していない人の98%は、毎日、米のご飯を食べている」かも知れないのであるから、犯罪者云々の話は、何の意味も持たないのである。

祭りの効用

 今日は葵祭である。

 そのせいで、御所周辺は、どこから湧いて出たのだろうと思うほど、人が多い。

 京都には、全国的に有名な三大祭りがあるが、葵祭も、祇園祭も、時代祭も、私自身は、京都に住んで40年になるにも関わらず、行列を見た回数は数えるほどしかない。

 ただ、時代祭は、9年毎に持ち回りで行列の参加者を町内から出さなければならないので、一度だけ、上下姿で、御所から平安神宮まで、3時間ほど掛けて練り歩いたことがある。

 そんなふうに自分が行列に加わったときは別にして、普段は、例えば、朝のテレビで「今日は葵祭」といったニュースが流れてきても、「あ、そうか」という程度で、別に何とも感じないのである。

 ところが、である。行列に参加したり、あるいは、行列を眺めたりしなくても、祭りの日は事務所から一歩外に出ると、道行く人の足取りから祭りの高揚感が否応なく伝わってくるのだ。それだけでない。こちらの方まで、何となく気分が高揚してくるのである。

 そうすると、これまで進まなかった仕事も一気に進むような気がして来るのである。これが、祭りの効用というものかも知れない。

世論調査と世論操作

 以前、【粒あんの浸透度】で、アンケート調査の恣意性について触れた。

 要するに、選択肢の並べ方次第で、結果を左右できるという話だ。

 今朝の朝日新聞で、集団的自衛権行使に関する各紙の世論調査について、設問内容が回答結果に大きく影響していること取り上げていた。

 それによると、集団的自衛権を認めることに賛成か反対かの二択だと、反対が賛成を上回り、他方、賛成を二つに分けて、「全面的に認めることに賛成」「必要最小限で認めることに賛成」とする三択の質問にすると、反対よりも、賛成の方が上回るというのである。

 二択の新聞は、朝日、日経、共同通信で、三択は、産経、讀賣、毎日ということだった。

 かりに三択にするにしても、「賛成」を二つに分けるのではなく、「反対」を二つに分けて、「賛成」「憲法解釈の変更により認めることに反対」「全面的に反対」とすると、後二者の「反対」の合計が「賛成」よりも遙かに大きくなると思われるが、朝日で紹介された範囲では、そのような設問を出している新聞はなかったようだ。

 このように見てくると、新聞の世論調査というのは、「世論操作」というほかはない。だから、世論調査に関する新聞の見出しは、額面通りに受け止めてはならず、必ず、どのような選択肢のもとに、そのような結果になったのかを吟味しなければならない。

 また、自らが調査する場合は、意図的に選択肢を増やしてしまわないように注意する必要がある。

 少なくとも、粒あん協会では、粒あん、こしあんの選択において、意図的に粒あん派が増えるような選択肢を追加するという姑息な手段をとったことはないし、今後も、とってはならない。

連休明けの月曜日

 連休明けの月曜ほど、つらいものはない。

 先週は、連休明けといっても、水曜スタートだったから、明日、明後日出勤すれば、また休み、と思って頑張れた。

 ところが、どうだ、今週は、たっぷり5日あるではないか。その上、昨日も、無理して打ち合わせを入れてしまったので、6日連続ということになる。

 まあ、こんな風に、休みがないのを嘆いたり、次の休みまでを指折り数えたりするからこそ、休みのありがたさも一入(ひとしお)ということなのだろう。

 そろそろ、同窓生の中には、「毎日が日曜日」と言った生活に入る人もいるようだが、それはそれで、大変なことなのだろう。

 それは、さておき、今年から、「山の日」という祝日ができるそうだ。

 「海の日」があるから「山の日」、そんなことを言い出せば、「空の日」「川の日」「湖の日」と際限がなさそうだ。物心ついて以来、祝日は、着実に増えている。

 最初の記憶は、体育の日だった。もともと、東京オリンピックの開会式が行われた日を記念して設けられた祝日だったのに、いつの間にか、10月の第2月曜日ということになってしまった。

 これでは、「記念」の意味がないと思うのだが、土日月と3連休にしたら、遠方への観光客が増えて経済効果があるという打算に基づくものだったようだ。

 成人の日も、1月15日から、1月の第2月曜日に変更になってしまった。

 こんなふうに月曜の祝日が増えてしまうと、土日が祝日だったときに月曜日を振替休日とする制度にしたのと相まって、月曜の休みが他の曜日に比べて際立って増えてしまう。その煽りで、大学の講義など、月曜開講の講義については、別途、集中講義の日を設けるなどの対応を迫られているという。

 また、そもそも、月曜が休日というのは、あまり楽しいものではない。いつもより余分に休んだ分だけ、休み明けの火曜日が辛いのである。私としては、木曜日が休日というのが一番ありがたい。月曜日には、あと2日だけ出勤すれば休みだということで気分的にずっと楽だし、休日明けの金曜など、すぐ土日が控えているのだから、おまけみたいなものである。

 何か自分の都合で休みのことばかり考えているように思われてしまいそうなので、少しは、真面目に物事を考えているふりでもするか。

 上に述べたように、祝日を、具体的な日で特定するのでなく、何月の何番目の何曜日、という決め方にするのは、そもそも、祝日を設けた趣旨に反するというべきである。第2月曜日などと言えば、単に、休みが増えただけのことである。昔は、1月15日というだけで、成人式を思い出すひとも多かったはずなのに、その日の持っている個性など、もはや、存在しない。

 昔ながらの町名を統廃合して、「中央1丁目」とか無味乾燥な名前にするのも、このような考え方に通じるものがある。10年ほど前の「平成の大合併」でも、「四国中央市」などといった、無味乾燥な名前の町まで登場した始末である。

 こんなことを書きながらも、こどもの頃だったら、決してこんなことは考えなかっただろうなと、思うのである。つくづく、年を取った、いや、大人になったなと思うのである。

 それにつけても、祝日や町村の名称などの例をみても、こどもの感覚のままの大人の何と多いことであろうか。マッカーサーに「日本人は12歳」と言われたのも理解できる今日この頃である。


 ■念のため、マッカーサーの話は、私は、リアルタイムで聞いたのではない。

 ■「陸の日」と思い込んでいたのだが、「山の日」だったので、訂正した【2014.7.14】。

最高のハンバーグ専門店

 近くに、京都一と言っていい、ハンバーグの専門店がある。

 ハンバーグ本体も申し分ないのだが、トッピングというかソースというか、これがまた秀逸なのである。私の一番のお奨めは「ネギ塩レモン」だが、ハンバーグとの相性が抜群で、レモンの酸味に溶けた塩とネギの僅かな辛みが、ハンバーグから溶け出た肉汁と調和して、この以上は考えられないと言っていいくらいの絶妙なハーモニーを奏でるのである。

 それだけでなく、付け合わせが凄い。マスターは本当は、ハンバーグじゃなくて、もっと色々な料理をやりたかったんじゃないのかと思うほどなのである。ポテトサラダとか、ゴボウやニンジンのお煮染め風のもの(これも、ハンバーグに合うようにアレンジされている)など、4、5品がついてきて、それが、毎回、微妙に違っていて、味とともに彩りでも、楽しませてくれるのである。

 さらに凄いのは、値段である。S,M,L,LLとハンバーグのサイズで違うのだが、私は、S(150グラム)である。一度、M(200グラム)を食べたのだが、少し、食べ過ぎかなという感じがした。で、そのSサイズが、880円だったのである。

 4月に入って、アベノミクスの御陰で結構値上がりして、930円になったようだが、それでも、食べたあとの満足感からすれば、申し分のない安さである。

 あと、一つだけ難を言えば、味噌汁が少し塩辛いことである。これまで、ハンバーグを食べる度に、ラーメンを食べたあとのように、やたら水を飲みたくなったのだが、気がついてみると、原因は、味噌汁だったのだ。ときおり、プラス200円で、味噌汁の代わりに、パンプキンスープとか、クラムチャウダーとか、洋風のスープにすることもできるのだが、いつもできるわけではない。

 私の大好きなパンプキンスープがあるときは、迷わず、それを選ぶのだが、普段は、やむなく、味噌汁のままである。そのため、水をがぶ飲みせざるを得ないのであるが、結果的に、Sサイズでも満腹になってしまうという仕組みである。

 その店の名前は、「グリルデミ」。烏丸から夷川通りを100メートルくらい西へ入ったところにある。

 ホームページもある。【グリルデミ

御所は、東京ドームの何個分?

 先日、【東京ドームと御座候】という記事を書いたが、若干、不正確なところがあったので訂正する。

 訂正ついでに、情報を追加し、かつ、視覚的にも理解しやすいような図を作ってみた。

面積比較


 私自身、なんとなく、御所は、東京ドームの7、8個分と思っていたのだが、先日のブログを書く際に調べてみたら、その10倍の大きさだったのである。

 試しに、何人かに聞いてみたのだが、みな、私と同じような認識だった。面積の感覚というのは、意外と当てにならないものである。

 よく、建築中の木造家屋を見ることがあるが、梁や柱が所狭しと並んでいるのを見ると、一部屋一部屋が物凄く小さく見え、こんな所には住めないのではないかという感じがするのであるが、工事が進んで内装が仕上がってくると、それなりの広さの部屋に見えてくるから不思議である。

私の青い鳥

 「私の青い鳥」と言っても、桜田淳子の歌の話ではない。

 7年ほど前のことだが、「島根の弁護士」というテレビドラマがあった。

 その中で、仲間由紀恵が扮する弁護士が裁判所への往復の際に自転車で駆け抜けて行く田園風景がとても綺麗で気持ちよさそうに見え、うらやましく思ったものだった。

 そう思いながら、ふと考えたのだ。これまで何の疑問もなくタクシーを使って行っていた家庭裁判所に、自転車で行ってみようと。

 コースは、二通りある。御所を抜けるコースと、鴨川の河川敷である。

 小鳥の鳴き声を聞きながら紅葉の御所を自転車で駆け抜けたり、あるいは、鴨川のせせらぎの音を聞きながら、新緑の河川敷を自転車を漕いでいると、仮に、この光景をテレビで流したら、みんな羨ましく思うだろうと思ったものだ。

 こんな手近なところに、こんな素晴らしい自然があるのに、これまで、全く活用していなかったことに、もの凄く、もったいないことをしていたという思いに駆られたのだった。そう、青い鳥は、こんなにも近くにいたのである。

 自転車で家庭裁判所に行くということは、単に自然を楽しめるようになったというだけではない。タクシー代はかからないし、適度な運動にもなるし、言うことはないのである。

 普段は、タクシーを使ったり、エレベータを使ったりして、運動不足だと言いながら、フィットネスクラブに通ったりするのは、お金と時間の壮大な無駄遣いという外はない。

 今は、以前はタクシーを使っていたところは自転車を使い、自転車を使っていたところは徒歩で行くようにしている。エレベータも極力使わず、階段を使うようにしている。

御座候、85円に・・・これでも値上げ

 4月に入って、今日、はじめて「御座候」を買ったのだが、85円になっていた。

 これまで、80円だったのだから、6%強の値上げであり、一見すると、消費増税の「便乗値上げ」ということになるのだろうが、私としては、よくぞ、この値段に抑えてくれた、という思いである。

 アベノミクスの第一の矢「大胆な金融政策」の御陰で、円安が進行し、輸入品の価格が2~3割も高騰しているのである。それに加えて、消費増税3%である。6%強の値上げなどで、「便乗値上げ」と非難するのは可哀想である。文句があるなら、他に言う相手があるだろう、というわけである。

 そもそも、このブログでも折に触れて書いているのだが、御座候ほど、コストパフォーマンスのいい御菓子はないのである。

 久しぶりの御座候で、赤白赤と、一気に3個を食べてしまったのだが、それでも、255円である。デフレ下で、ひところ、「ワンコインで」というのが流行っていたが、その半分である。その値段で、これだけの満足感の得られるものは、この世に存在しないといってよいのである。

進化の幻想

 

10代目という歴史 そして次の進化へ

 育毛用シャンプーの「スカルプD」の宣伝惹句である【スカルプD公式ページ

 これを見て、ふと考えた。10代目ということは、次々、進化しているのだろうが、最初から完成度が高ければ、10代目になることはないだろう。いくら改良を重ねても、顧客の満足を得られないので、改良に改良を重ねて、10代目になりました、ということではないか。

 例えばの話である。科学雑誌に発表した論文について、1か月毎に改訂版の論文を発表して、「改良に改良を重ねて今度で第10版です。」などと言ったら、いったい誰が論文の内容を信頼するであろうか。それだけ頻繁に改訂をしなければならないということ自体、元の論文が杜撰だったということを雄弁に物語っているのである。

 そうは言っても、冒頭の例の場合、顧客にしてみれば、少しでも言いものを求めて、「今度こそは!」という気になって購入意欲をそそられるのであろうか。

「善き日本人」から「悪しき日本人」へ

 昨日のブログ【「善きサマリア人」になり損ねた話】で触れた「善きサマリア人」の話だが、大まかな話は覚えていたものの、「サマリア人」という固有名詞を思い出せなかった。

 「パリサイ人」だったような気がして、ネットで検索したのだが、全然、違った。どうしても思い出せないときは、ヤフー知恵袋である。ネットで質問すると数時間後には丁寧な回答が寄せられた。その御陰で昨日のブログが書けたという訳だ。

 ヤフー知恵袋には、私は何度も、お世話になっている。何の報酬もなしに自分の知識を披露してくれる人が、日本には、こんなにもたくさんいるのだ。「善き日本人」というべきか。

 ところが、そんな日本人の善意を、大学入試での不正行為に利用した受験生がいたのだった【京大入試問題の質問サイトへの投稿】。

 東日本大震災の直前のことだったから、もう3年も経つのだ。

 話は、どんどん変わるが(それが、このブログの特徴であることは、熱心な読者であれば、周知のことだろう。一見さんの読者も、こういうものだと認識してほしい)、3年前の今頃など、日本中が、原発は、こりごりだ、という思いだったはずだ。

 ところが、どうだ。原発を「重要なベースロード電源」と位置づける「エネルギー基本計画」が閣議決定され、原発再稼働も目前に迫っている。

 それどころか、こともあろうに、地震大国トルコへ原発を輸出するための協定が、国会で承認されたのである。自公のみならず、民主党まで賛成したのだ。ただ、菅元首相は、協定に反対し、衆議院本会議には欠席したという【朝日2014.4.18】。

 「さすがに菅直人」と言いたいところだが、どうして、除名覚悟で反対投票をすることができないのだろうか。この人のやることは、以前のブログにも書いたのだが【白い菅でも、黒い菅でも・・・】、今ひとつのところで、腰が引けている。

 とはいえ、菅直人が、本当に反原発の意思を持っているのなら、あと二人の元首相、小泉純一郎、細川護煕と手を組んで、体を張って阻止してほしいものである。

 話は前後するが、トルコは、明治時代に和歌山沖でトルコの軍艦が遭難したのを日本人が助けたということで、大変な親日国家だそうである【エルトゥールル号遭難事件-Wikipedia】。

 ところが、地震大国のトルコに輸出された原発で大事故でも起ころうものなら、一気に、日本に対する非難の大合唱になるのではないだろうか。いや、現時点でも、現地で反原発運動をしている人々は、日本に対して反感を抱いているのでなかろうか。「善き日本人」から「悪しき日本人」への転落である。

 そんな中でも「善き日本人」であり続けたいと願う日本人がトルコの人に宛てたビデオレターがあるので紹介する。

 【あなたを心配する手紙

 私が、このビデオレターの存在を知ったのは、原発の危険性を訴える講演などを(多分、日本で一番)精力的に行っている守田敏也氏のブログ【明日に向けて】で、紹介されていたからである。

「善きサマリア人」になり損ねた話

 どうしても午前中にすませなければならない用事があって、急いで地下鉄の階段を駆け下りようとしたときだった。

 上ってくる初老の男性が、足を踏み外したようで、前のめりになって倒れかけたのだ。

 その瞬間、ずっと昔に聞いた「善きサマリア人」の話を思い出した。

 追いはぎに襲われて怪我をした旅人が倒れているところへ、3人が通りかかったのだが、最初の二人は、見て見ぬふりをして通り過ぎた。ところが、3人目のサマリア人は、旅人を助けてあげた、という話だ。

 もし、目の前の男性が、このまま倒れて怪我でもしたら、自分が救急車を呼ばなければならない、でも、そんなことをしていたら用事を午前中には終えることはできない、かと言って、そのまま通り過ぎてしまったら、ずっと気になって後悔するに違いない、そんなことが一瞬にして頭をよぎった。

 幸い、その男性は、自分で手をついて大事には至らなかったようで、「大丈夫ですか」と声を掛けところ、声は聞こえなかったものの、大丈夫という表情をしたので、そのまま通り過ぎたのだった。

 似たような話だが、自転車で御所の脇の通りを急いでいるときに、前方に地図を覗き込んでいる外国人夫婦らしき二人を見かけたことがある。どちらへ行けばいいのか迷っているようだったのだが、そのまま通り過ぎたのだ。

 普段なら、「キャンナイヘルプユー?」と声をかけるのだが、そのときは、予定の時間に追われていたので、そのまま通り過ぎたのだった。

 そのときも、「善きサマリア人」の話は一瞬、頭をよぎったのだが、怪我をした人を倒れているのを助けるのと、観光の道案内をするのとでは、重要性が大きく違う、自分が急いでいるのに、それを犠牲にしてまで、観光客の道案内をすることもないと思って、通り過ぎたのだった。

 とはいえ、後で、ちゃんと目的の場所にいけただろうか、と、多少は気になったものだ。

マジック70

 大学の一般教養の講義で聴いたことなど、ほとんど覚えていない。

 ただ、一つだけ、よく覚えており、未だに役に立っていることがある。

 それは、社会学の講義で聴いた話だと思うが、自信はない。

 例えば、所得を5年で倍増するには、年何パーセントの成長をすればよいか。こんなとき、70÷5=14という計算式で、14%と概算できるという話だった。

 逆に金利10パーセントの複利計算で何年で元利金が2倍になるかという問題なら、70÷10=7という計算式で、7年で元利金が2倍になることが簡単に計算できるというのだ。

 【増加率×期間=70】という公式であり、増加率が20%以下であれば、概算として十分に役立つ程度の精度である。

 この講義を聴いた後、成長率、物価上昇率、金利などの数字が出てくる度に、瞬間で概算する癖がつき、数字の意味を、より深く理解できるようになった。

 例えば、ある国の経済成長率が年10%と聞けば、7年で2倍、21年たてば8倍になると瞬時にわかるのである。

 なお、この計算式のことを「マジック70」というのだと聞いた記憶があるのだが、グーグルで検索しても出て来ないことからすると、教官の造語で、この呼び名は、あまり拡がらなかったのだろう。

 このブログの読者数など、たかが知れているのであるが、ひょっとしたら、この記事をきっかけに、「マジック70」が日の目を見ることがあるかも知れない。

 そうすれば、「マジック70」を教えてくれた教官がご存命なら、何十年も前のことを覚えていた教え子がいたことを喜んでもらえるのではないかと、密かに思っている。

ウクライナ原発と晴子さん

 最近、新聞、テレビで「ウクライナ」という名前に接する機会が多いが、「ウクライナ」と聞いただけで28年前に起きた原発事故を思い出す人は少ないだろう。

 他方、「チェルノブイリ」と聞けば、だれでも、原発事故を思い出す。

 ところで、ウクライナには、チェルノブイリにあった原発の外に、「南ウクライナ原発」というのがある。ウクライナの首都キエフの南約350キロのところである。

 他方、チェルノブイリは、キエフの北約100キロである。

 もしも、チェルノブイリにあった原発の名前が「北ウクライナ原発」だったとしたら、おそらく、世界中の人が、「ウクライナ」と聞く度に、未だに原発事故のことを想起するだろう。

 では、「チェルノブイリ」の事故の数年前に原発事故で有名になった地名に「スリーマイル島」があるが、どこにあるかご存じだろうか。アメリカ北東部のペンシルバニア州の川の中にある島であり、首都ワシントンの北約100キロ、ニューヨークの西南西250キロのところにある。

 原発の名前が「スリーマイル島原子力発電所」だったことが幸いして、「ペンシルバニア」と聞いても、原発事故のことを想起する人は、ほとんど、いないだろう。

 他方、仮に「ペンシルバニア原発」という名前だったら、原発事故の報道とともに、「ペンシルバニア」という地名が全世界に知れ渡り、世界中の人々が「ペンシルバニア」と聞く度に、原発事故のことを思い出したことだろう。

 そこで、3年前の福島原発事故である。「フクシマ」という名は、世界最大の原発事故が起こった地名として、全世界の人々の脳裏に刻まれている。

 事故を起こした福島第一原発は、福島県双葉郡の大熊町と双葉町に跨がっているのであるから、「双葉原子力発電所」という名前も候補に挙がったはずである。仮に、「双葉原発」と名付けていれば、「フクシマ」に代わって、「フタバ」が原発事故の起きた地名として、世界中の人に知られていたことだろう。

 こうしてみると、原発事故のあった土地として、福島県全域を想起させることになった点で、多くの福島県民にとって、東電が「福島第一原発」と命名したのは、大変迷惑なことだったと言わざるを得ない。

 我が国にある他の原発を見ると、同じ東北の宮城県にある原発の名は「女川」原発であり、他の原発も、「浜岡」「柏崎刈羽」「伊方」「川内」「志賀」と、県名とは無関係の名前がついており、これらの地名を聞いて、県名を想起する人も少ないだろう。

 そう考えると、「福島第一原発」は、よりによって、最悪の命名をしていたと言わざるを得ないのである。

 さて、神戸にあるプロ野球のオリックスの本拠地の球場は、正式名称は神戸総合運動公園野球場というのだそうだが、所有者の神戸市が命名権を売りに出しており、一時、「スカイマークスタジアム」という名称がついていた。

 スカイマークは、当然のことながら、企業の宣伝のために命名権を購入していたのであるが、仮に、その当時、大規模な事故が起こって、「スカイマークスタジアム事故」などと呼ばれるようになっていたとしたら、大変なことになったろう。

 例えば、施設管理者の管理責任が裁判で問われることになっていたら、裁判の報道の度に、「スカイマークスタジアム事件」という名称がテレビから流されるのであり、命名による「負の効果」は、大変なものだったろう。

 施設の名前でも、こうなのだから、これが人の名前だったら、特別のことのない限り、一生、その人が背負っていくのだから、大変、重要なことである。

 戦後まもない昭和24年に湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞し、敗戦で打ちひしがれた日本国民に希望を与えたのであるが、しばらく、男の子に「秀樹」という名前をつけるのが流行ったそうである。

 さて、ノーベル賞と言えば、日本人女性初のノーベル賞か、と言われたのが、小保方晴子さんである(数々の疑惑があるものの、現時点では、「さん」をつけることにする)。

 山中教授のiPS細胞より凄いというSTAP細胞を作成した女性研究者が、くすんだ灰色の研究室に閉じこもった化粧気のない引っ詰め髪に瓶底眼鏡の中年女性と言うステレオタイプとは程遠い、研究室の壁をピンクやレモンイエローにしてムーミンのキャラクターを貼り付け、お化粧にも余念がなくブランド物にも自分なりの拘りを持った若い女性ということから、発表直後は「リケジョの星」と持てはやされ、一躍、国民的な人気を博したものだ。

 そんな人気を背景に、1月の終わりから2月にかけて生まれた女の子に「晴子」という名前をつけた人もいるのではないだろうか。ところが、万一、STAP細胞自体が捏造だったいうことであれば、「晴子」という名前は、悪い意味で科学の歴史に名を残した女性の名前として人々の脳裏に刻まれることになるのである。

 現時点でも、博士論文での盗用(コピーアンドペースト:切り貼り)疑惑から、「貼る子」さんと揶揄されているのである。

 名付けた親の立場になれば、論文作成の杜撰さは否定しがたくても、STAP細胞の作成自体は真実であってほしいという思いだろう。私だって、今でも、STAP細胞の作成自体は、真実であってほしいと願っているのである。

食塩の致死量は、体重1キロあたり、3グラム

 「食塩の致死量」など、初耳だろう。

 「致死量」という言葉から連想されるのは、普通は「青酸カリ」とか「サリン」と言った毒物である。

 「致死量」という言葉は一般に毒物について用いられるが、言葉の意味としては、毒物に限らず物質を摂取した場合に半数の人が死に至る物質の量を指すのだから、理屈の上では、あらゆる物質について「致死量」が存在する。

 従って、人間の生存に不可欠であり我々が日常的に摂取している食塩についても、致死量というものが存在するのである。

 調べてみると、食塩の致死量は、体重1キログラムあたり約3グラムだということだった(Wikipedia)。

 こんなことを調べるきっかけとなったのは、「食べ続けたら死の危険10倍!身近な危険な食べ物・添加物まとめ」というネット上で見かけた記事である。

 その記事には、着色料など発がん性のある食品添加物などについて色々書かれているのだが、その中に、ビタミンCも危険だという趣旨で、「マウスに対して体重1kg当り25gを経口投与すると、その半数が死亡します。」といった記述があったのだ(食べ続けたら死の危険10倍!身近な危険な食べ物・添加物まとめ)。

 しかし、体重1kg当り25gということは、体重60kgなら1500gである。ビタミンCだって、そんなに大量に摂取すれば死ぬのは当たり前だろうと思い、では、食塩ならどうだろうと思ったのだ。

 そこで、調べてみると、食塩は体重1kgあたり3gだった。体重60kgで180gである。とても、そんな大量に塩を食べることなどできないが、仮に食べたとすれば、死んでしまうのも当然であるが、だれも、食塩が「危険」とは言わないだろう(もちろん、生活習慣病にならないように、摂りすぎを控えるべきことは言うまでもない)。

 問題は、「マウスに対して体重1kg当り25gを経口投与すると、その半数が死亡します。」という科学的装いを凝らしながら、ビタミンCの危険性を印象づける手法である。

 こんな手法が許されるなら、例えば、粒あん製品の最高峰である御座候だって、100個も食べれば命はないだろうし、御座候1個60gとして100個だと6000gになり、これを体重60kgの人が食べると体重1kgあたり100gということになるから、こしあん派から「御座候の致死量は、体重1kgあたり100g」という攻撃をされかねない。

 これには、「赤福の致死量は、体重1kgあたり100g」という反撃も可能だが、そうなったら、もう泥仕合であり、「あんこの致死量は、体重1kgあたり100g」ということになって、共倒れである。

 もちろん、こしあん派だって、こんな愚かな主張はしないだろう。

 上記のビタミンC云々のように科学的知見を素人が安易に弄ぶの危険である。もちろん、科学者だけに委ねておけばいいという積もりはないが、杜撰な論理を展開すると、全体として正当な主張であっても、すべてが胡散臭く見られてしまうだけに、要注意である。

図形による男女の識別

 高校1年の春の遠足の帰り、三重県にある赤目四十八滝で現地解散して大阪に戻る近鉄電車の中の話である。

 男子と女子が、それぞれ固まって窓を背にして一列になり、通路を挟んで男女が向かい合う形で座っていた。

 何とか全員が座れたのだが、肩が触れ合い、窮屈だ。

 みんな、窮屈さを感じながら電車に乗っていたのだが、私の隣に座っていた友人の言葉に、なるほどと思った

 男子の方は互いに肩が触れ合い窮屈なのに、逆に、女子の方は肩はゆっくりしているけれど、お尻の方が窮屈そうだ、だから、男女が交互に座れば、ゆったりと座れるのではないかというのである。

 こういった男女の体型の違いは、トイレの表示などにも反映しており、男性は逆三角形、女性は三角形を基本として、それに、さらに、被っている帽子の形を変えたり、下の方が、スラックスやスカートになっていたり、というバリエーションがある。

 形だけでなく、色も、男性は青、女性は赤、とすることによって、一層、理解しやすくなる。これは、小さいときから、衣服の選択において、男子は青、女子は赤、という観念が刷り込まれているからだろう。幼稚園のときのスモックを思い出しても、男子は水色、女子はピンクだった。

 こう言った、形と色という二つの情報で区別することにより、より間違いにくくなるのだが、それが矛盾している場合の実験がある。

 男性を示す逆三角形の図形を赤、女性を示す三角形を青、とした場合、日本人の多くは、三角形の青の方を男性用と判断したそうである。つまり、形より、色の方が、より重要な識別要素となっているのである(実験の解説)。

 ところで、遠足の帰りの話だが、その友人も私も、男女が交互に座るという方法をみんなに呼びかけるだけの勇気はなかった。結局、みな窮屈な思いをしながら、終点の上本町に到着した。

 そのときの友人だが、放射線画像診断の名医になっているという。高度な観察力がなければ勤まらない仕事であるが、その片鱗を高一の遠足の帰りに垣間見た私は、友人の消息を聞いたとき、妙に納得したものである。今でも電車で隣の人と肩が触れ合ったりすると、当時の記憶が蘇る。

エグザイルって、わかります?

 一昨日のことだ、烏丸三条の新風館の前を通ると、烏丸通り沿いに、数十人の行列ができている。

 先頭付近にいた20歳くらいの男の子に尋ねたところ、イーガールズのトークショーがあるとのことだった。

 イーガールズというのは、エグザイルの妹分のグループだそうなのだが、そのときは、始めて聞いた名前だったので、思わず、「イーガールズって?」と尋ねた。

 すると、男の子は、「あの」イーガールズを知らないの?という驚いた表情をしながらも、仕方ないな、という口調で、「エグザイルって、わかります?」と聞いて来た。

 そうか、この男の子にしてみれば、昨年の紅白に出たイーガールズさえ知らない小父さんなんだから、エグザイルだって、知らないかも知れない、そう思ったのだろう。「エグザイルは、知ってるけど」と答えると、「イーガールズっていうのは、エグザイルの妹分なんです」と教えてくれた。

 誰しも、自分にとって知っていて当然のことを知らない相手に出くわしたら、その相手は、おしなべて、その分野の知識がないのではないか、と思いがちである。だからこそ、「エグザイルって、わかります?」という発言になったのだ。

 逆に、自分にとって余り知らない分野のことを知ってる相手に出くわしたら、その相手は、その分野のことは何でも知っているように思いがちである。

 学生時代のことである。映画「カサブランカ」のことが話題になって、女優の名前を友人が口にしようとしたところ、私が先取りして「イングリッド・バーグマン」と言ってしまった。すると、友人は、驚いたように、「映研に入ってた?」と私に尋ねた。

 多分、私の映画に関する知識は、映研どころか、5段階評価で、一番下か、下から2番目くらいだと思うのだが、たまたま、「イングリッド・バーグマン」のことは知っていたのだ。友人は、この分野の知識はあまりなかったので、彼にしてみれば、かなり特別な部類に属する知識を私が持っていたが故に、私が、その方面に詳しいのだと錯覚したのだ。

 友人の錯覚から学んだ私は、以来、人から話を聞くときは、この友人のような錯覚に陥らないよう気をつけている。

 さて、エグザイルの「妹分」だが、「妹分」が兄貴分、姉貴分と同じくらいの人気を博すことなど、そうある話ではない。

 冒頭のイーガールズは、紅白に出たそうだから、一応、成功の部類に属すのだろう。他に成功したのは、私の知る限り、かぐや姫の妹分のイルカくらいのものだ。キャンディーズの妹分なんてのもあったけど、いつのまにか、消えてしまった。

生死を分ける「一言」

 南さん(◆注)は、大の医者嫌いだったという。

 友人に体の不調を訴えたところ、無理矢理、検査を受けさせられることになったという。その結果、分かったのが「余命3か月の直腸癌」だった。

 早期発見で完全に切除してしまえば、なんていうことのない病気である。私の母が亡くなったときは、直腸癌の手術後、15年経っていた。

 南さんの生死を分けたのは、病院に行った時期ということになる。

 そう考えると、私も、南さんを救うことができたかも知れないという思いが拭えない。

 というのは、こうだ。

 その2年くらい前から、客の少ないときなど、南さんがカウンターの向こうから出てきて、椅子に座って話をすることが多くなった。「以前は、こんなことはなかったのに、女将さんも年をとったんだな」としか思っていなかった。ところが、事実は、直腸癌の発見される2、3年前から、様々な自覚症状が出ており、カウンター席で休んでいたのは、その症状が出て厨房に立っているのが辛くなったからだったのだ。

 「南さんも年をとったんだな」という思いを、もし、私が口に出していたら、違った展開になっていたかもしれない。

 「南さん、年取ったね。立ってるんが、しんどくなって来たんちゃうの」
 「年とちゃうよ。ちょっと、この辺りが痛いねん。」
 「病院は行った?」
 「私、子ども生んでから何十年も行ったことないねん」
 「えっ」
 「病院に行って、何か言われたら、かなわんやろ、怖いやん」
 「怖くても、怖くなくても、病院行って、何でもなければそれでいいし、入院が必要なら必要で、それで治ればいいやん」
 「でも、注射とか、かなわんやんか。」
 「そんな子どもみたいなこと言ってたら、だめや。絶対に病院いかな」

 と言うわけで、強引に病院に引っぱって行き、初期の直腸癌の発見、完全切除、という流れになっていたかも知れないのだ。

 ところが、実際は、「南さん、年取ったね」の一言を言わなかったのだ。

 なぜかというと、年配の人に「年取ったね」なんて言うのは、とても失礼なことだと思っていたからだ。いくら年をとっても、まだまだ頑張れると思って、実際、頑張っている人はいくらでもいる。そんな人に、わざわざ、年のことを言って、冷や水を浴びせるほど失礼なことはない。いくら親しい相手でも、これだけは守らないと。本当にそう思っていたのだ。

 それだけに、あのとき、遠慮することなく、「南さん、年取ったね」の一言を言っていれば、との思いが消えることはないのである。

 ◆注 南さん 

「南さん」と言えば、「と夢」の女将さんのことである。「と夢」といえば、粒あん協会発祥の地であり、粒あん協会の設立時の会員なら、知らぬ者はいないはずである。
  
   「と夢の会」ホームページ

ワイヤレスの功罪

 知人がパソコンのマウスをワイヤレスにしたという。

 コードの制約がないので、デスク上で自由にマウスを動かせ、快適だという。

 確かに、快適には違いない。私だって、動かそうとしたマウスが、ピンと張ったコードに引っ張られて、忌々しい思いをしたこともある。

 だが、だからと言って、ワイヤレスにしたいとは思わない。

 自由に動かせると言うことは、パソコンから離れた場所にも移動できるということだ。机の上にマウスが見当たらなくても、コードを辿って行けば、書類の下に隠れているマウスを見つけることができるのだが、ワイヤレスだと、それもできない。

 こんなことを考えているうちに、ふと、子どものころ、手袋の左右を毛糸で繋いで首に掛けていたのを思い出した。左右別々だと、なくしてしまう可能性が高いが、繋がっていれば、その心配はない。

 まあ、この理屈だと、靴だって左右繋いでおいたほうが安心、と言えるかも知れないが、さすがに、これまで左右の靴が紐で繋がったのを見たことはない。

 要は、行方不明になるリスクと利便性とのバランスの問題ということだろう。

 物理的な「繋がり」の話から飛躍するが、話は変わって、携帯機器の普及にともない、交際相手に頻繁にメールをして即座の返信を求めるなど、相手と常に繋がっていないと不安な人が増えているという。

 携帯電話のない時代は、彼女と連絡をとろうと思っても、家に電話すれば、親が出るかもしれないと思うと、なかなか電話することができなかった。電話をするのは、何時何分と決めておくとか、ワンコールしておいて、それから何分後に再度、電話するとか、みんな工夫を凝らしたものだ。それでも、確実に彼女が出るとは限らない。母親が出て、戸惑ってしまうこともあった。

 そんな時代は、電話で繋がる、ということの価値も、今よりずっと高かった。

 利便性の陰で、様々な価値が失われていく。

 そんなことを、しみじみと感じるのが、年齢を重ねるということかもしれない。

「性と進化の秘密」に学ぶ、粒あんの優位性

 日本粒あん協会の理事である当管理人が、粒あんの優位性を論証するために、日夜、情報収集に余念がないことは、会員諸氏には周知のことだろうが、昨日、大変重要な文献を入手した。

 男女の発生過程に関する論文の評論なのだが、長くなるので一部省略の上、引用する。

 ヒトにおける男女の発生過程を見ると、男への道と女への道は対等な二つの道ではない。放っておくと、ヒトは、女になるようにできているのだ。それに対して、男になるための手続きはたくさんあって、複雑な上に、失敗の可能性も高く、途中で一つでもしくじると、その胎児は女の方に差し戻されてしまう。
 発生過程からは、女の優越は明らかだ。女という基盤の上に、危うく構築されているのが男である。あえて言えば、男は女の変種である。
                            【性と進化の秘密 思考する細胞たち [著]団まりな】 大澤真幸(社会学者) 


 こんな理屈で人における女の優越性を論証できるのなら、餡における粒あんの優越性も論証できるのではないか、早速、論証を試みた。

 餡の製造過程を見ると、粒あんへの道と漉しあんへの道は対等な二つの道ではない。放っておくと、小豆は粒あんになるようにできているのだ。漉しあんになるためには、粒あん製造の工程に加えて、茹でた小豆をすりつぶし、布などで裏ごしして、小豆の皮を取り除くという複雑な工程を経なければならない。この工程をしくじると、その小豆は粒あんのほうに差し戻されてしまう。
 発生過程からは、粒あんの優越は明らかだ。粒あんという基盤の上に、危うく構築されているのが漉しあんである。敢えて言えば、漉しあんは粒あんの変種である。


 しかし、粒あんの優位性が、こんなにも簡単に論証できてしまっていいのだろうか。何事も、慎重検証が必要だ。調べているうちに、こんな論文を見つけた。

 精子と卵子が出会って、受精卵の姿から、脊椎動物の始祖として海の中で“生”をうけた原始魚類、陸に上がった古代魚、そして鰓呼吸から肺呼吸へと移った両生類、陸の王者として一時代を築いた爬虫類、現在の地球上を支配する哺乳類……という具合に、その“姿”をつぎつぎと変えながら、胎児は大きくなってゆくのである。

つまり、5億年におよぶ生命進化の過程で、みずから形成してきた「形」を、もう一度再現しながら、現時点での進化の到達点である「人間の形」へと変容して行く……これが胎児である

             【赤ちゃんの進化学】 西原克成


 なんと、小豆は、製造の過程で、粒あんから漉しあんへと進化して行く、ということではないか。この論文を根拠に漉しあん派から反論されたら、ひとたまりもないではないか。社会学者の言説を真に受けて粒あんの優位性を論証できたなどと喜んでいたら、とんだ大恥をかくところだった。

 そういえば、こんな四文字熟語があった。【牽強付会】 気を付けたいものである。

「隠れ家」は、やはり、「隠れ家」

 近頃、週刊誌や、グルメ情報誌などで、「隠れ家」として紹介されている飲食店を目にすることが多い。

 中には、店の看板に「大人の隠れ家」などと大書している店もあったりして、「隠れ家って、なに?」と言いたくなるようなこともある。

 そんな「隠れ家」であることを売りに広く宣伝しているような店が多い中、愚直に「隠れ家」路線を貫いている店も多いに違いない。ただ、そんな店の存在は、余り知られていない。「隠れ家」の「隠れ家」たる所以である。

 ところで、今朝の朝刊(朝日新聞2014.2.20)で、「秘密の隠れ家」という営業方針に反してグルメ情報サイトに掲載され、削除要求にも応じなかったとして、店が情報サイトを訴えたという報道があった。

 やはり、「隠れ家」は、こうでなくてはいけない。

 ただ、気になるのは、今回の提訴が報道された結果、「隠れ家」の存在が広く知れ渡ってしまうのではないか、ということである。

「脱原発」って、何?

 「脱原発」って、何?

 限りなく「推進」に近い「脱原発」

 もちろん、芥川賞作品の題名ではない(◆注)。 

 先の都知事選では、細川元首相の立候補の話が出てきてから、原発推進の自民党に押される桝添候補まで、私も「脱原発」だ、などと、言い出した。

 ①既存の原発は、再稼働しない
 ②建設中の原発は、建設を中止する
 ③新規の原発は、建設しない
 ④一定期間(例えば、40年)経過した原発は、廃炉にする
 ⑤原発の依存度を、引き下げる
 
 「脱原発」の明確な定義もないまま、いつの間にか、上記の①~⑤のいずれかを主張すれば「脱原発」のような雰囲気が産まれ、桝添候補も、その雰囲気を巧みに利用したのである。

 桝添候補が明確に主張していたのは、上記のうち、⑤だけであり、これで「脱原発」などというのは、詐欺に等しいものである。

 桝添候補は、そうやって、自分も「脱原発」候補の一員だとしながら、細川候補に対しては、「即時ゼロ」というのは無責任だ、などと言って、再稼働に反対する真の脱原発候補を批判するのである。

◆注 

今の20代、30代の人から見れば、それこそ「?」かも知れない。「僕って何?」は三田誠広、「限りなく透明に近いブルー」は村上龍、ともに、芥川賞受賞作品である。「限りなく」受賞時には、大きな書店に入ると、一日中、「限りなく」のアナウンスが繰り返され、嫌でも題名が耳に焼き付いたものである。(なお、念のため付け加えると、「限りなく」の作者は「龍」であって「春樹」ではない。近頃、文章を書く度に、自分たちには常識の部類でも、若い人達にわかるかな?と、つい考えてしまうようになった。年を取ったものである。)

猪瀬知事は辞めたけど・・・

 昨年の5月のことだったが、猪瀬東京都知事が、日本の標準時を2時間早めることを提言した(標準時を2時間早めるという猪瀬都知事の提言)。

 東京の金融市場を「世界で最も早い時間帯から取引の始まる市場」にするのが目的だそうである。

 幸い、この話は立ち消えになったが、余りにも皮相な提言と言わざるをえない。

 まず、取引の開始時刻を早めるだけなら、標準時をそのままにして、取引所の開始時刻を早めれば足りることである。

 標準時まで早めてしまえば、「正午」であっても、まだ、太陽は真南にはなく、ようやく午後2時になって、太陽が南中する、ということになり、これまで培われてきた生活感覚が一気に覆されてしまう。

 こんなことを提案する人の頭の中には、とにかく、金融市場の活性化のことしかないのだろう。

 問題は、これだけに止まらない。

 東京市場が、これまでより2時間早く始まるとすれば、シンガポールや香港、上海だって、東京に取引を奪われまいとして、開始時刻を早めることが容易に予想される。そうすると、東京市場は、さらに前倒しせざるを得なくなる。そのうち、ニューヨークと一緒になるのだろうか。それとも、ニューヨークにも負けてはならじと、さらに早めるのだろうか。結局、24時間早めてしまうことにもなりかねない。

 こんな単純なことにさえ思いが及ばない人が都知事をやっていたのである。

 とはいえ、こんな一面的な考えしかできない人は、決して、元都知事だけではない。

 日本を企業が世界で一番活動しやすい国にする、と言って、解雇規制の緩和や、法人税の引き下げを声高に叫ぶ人物が、日本国の首相である。

 法人税の引き下げ競争は、行き着くところは、法人税ゼロである。それどころか、さらに、マイナスの法人税にまで行き着くのかもしれない。 

街灯の下で捜す男

 いつも何の役にも立たない話を書いている当ブログだが、今日だけは少しくらいは役に立つ話を書かせてもらう。

 20代の頃に読んだ雑誌の一節である。ある学問分野(経済学だったか心理学だったか、記憶は薄れているのだが、どちらかであったことだけは確信している)の研究者を揶揄した小話である。

 あるとき夜道を歩いていると街灯の下で男が何かを捜している。「どうされたんですか」と尋ねると、「落とした財布を捜しているのです」と答える。そこで、「この辺りで落とされたのですか」と尋ねると、男は、こう答えたという。
 「落としたのは、もっと向こうなんですが、そっちは街灯がなくて真っ暗なので、ここで捜しているんです」
 男の職業を尋ねると「経済学者(あるいは、「心理学者」)だという。



 この小話は、「経済学者(あるいは、「心理学者」)が、現実の分析に真に役立つか否かに頓着することなく、単に、扱いやすいモデル(ないし実験手法)を用いて理論を構築して、結局は、何の役にも立っていないということを揶揄したものである。

 実際、金融派生商品の価格変動に関するブラック・ショールズ方程式でノーベル賞を受賞した経済学者が自ら参加したヘッジファンドLTCMが、受賞の翌年に破綻したというのは、まさに、この小話を実証するような話である。

 研究の世界に限らず、人間だれしも、困難に突き当たると、それを避けて安易な道に走りたくなるものである。しかし、何の役にも立たない努力をしていても、一歩たりとも前には進まない。どんなに困難でも、逃げずに正面から立ち向かうべきことを教えてくれた話である。

 たとえ茨に覆われた真っ暗な場所だったとしても、そこで財布を落としたのであれば、手が擦り切れて血まみれになろうとも、地面に這いつくばって手探りで捜さなければならないのである。

 せっかく20代で、こんないい話を聞いたのだから、この男を反面教師として努力していれば、どれだけのことができたのだろうと思うのだが、振り返って見れば、街灯のある場所で捜し物をしていることが何と多かったのだろうと後悔することのみである。

 ついでに、「捜す」と「探す」の違いだが、「落とした財布を捜す」「プレゼントの財布を探す」とか、「家出人を捜す」「アルバイトの従業員を探す」というように使い分けるそうである(NHK放送文化研究所の解説)。要するに、最初から「さがす」対象が特定されている場合は「捜す」であり、そうでない場合は「探す」ということである。

うどん屋さんの苦悩

 「すかいらーく」の運営する「ガスト」で、「生姜焼き」とあったメニューを変更するそうだ。レンジで温めているだけで、フライパンで焼いたわけではないから、不適切、と言うわけだ。

 一連のメニュー誤表示(偽装?)事件の余波で、飲食業界は過敏になっているようだが、ちょっと行き過ぎの感じもする。

 取り締まる側の行政の判断も微妙なようだ(東京新聞2013年11月2日 朝刊)。
 

例えば男性のコックが「おふくろの味の定食」を出した場合などだ。東京都によると、適切かどうかはどちらとも言えない。消費者はお母さんがつくってくれた食事のように「郷愁」を感じる味を期待していただけかもしれず、不適切とは断言しにくいということだ。


 じゃあ、「ステラおばさんのクッキー」はどうなんだろう、という気もしないではない。

 ついでに、「親子どんぶり」だって、鶏の成鳥と卵を使っているだけで、たいていの場合は、材料の鶏と卵との間には、本当の親子関係はないだろうし、不当表示ということになりかねない。だったら、「他人どんぶり」が正しい表示ということになるのだろうか。いや、鶏なのに「他人」はないだろう、「他鳥どんぶり」とでも名付けるのか。

 冗談はこれくらいにして、と言いたいところだが、悪のりして、こんなのはどうだ。

 うどん屋さんのお詫び記者会見である。

 これまで「きつねうどん」との表示をしてきましたが、当店では、「きつね」の肉は使用しておりません。お客さまのご指摘により、これからは、「あぶらげ入りうどん」と誤解のないような表示に変えさせていただきます。


東京ドームと御座候

よく「東京ドーム何個分」と言った表現が用いられる。何平方キロメートルというよりも、直感的に分かりやすいからだろう。

 と言っても、東京ドームの大きさが直感的に分かっている人なら、それでいいのだが、知らない人間にとっては、もう一つ、理解できない。まあ、普通の野球場よりも少し大きいのかな、ぐらいのところで、納得するしかない。

 私にとって、こう言った表現で一番ぴんと来るのは、「御所何個分」という表現である。御所は、東西700メートル、南北1400メートルで、ほぼ、1平方キロメートルである。

 だから、例えば、福島第一原発の敷地面積が約350万平方メートルと聞けば、まず、平方キロメートルに換算して(100万で割ればよい)、3.5平方キロメートルだから、御所3個半分に置き換えて、その広大な面積を実感できるのである。ちなみに、東京ドームは、0.013平方キロメートルだから、福島第一原発は、東京ドーム270個分ということになる。

 話は変わるが(脈絡なく、別の話になるのが、このブログの特徴だ)、タクシーが目的地に着いて停止した瞬間に、かちっと音がして料金メーターが回ることがある。わずか、80円の差とは言え、くやしいものである。あと1メートル手前で止まっていれば、無駄な80円を払わなくてすんだのにと思うと、悔しさも募るというものだ。

 たった1メートルで80円である。1キロに換算すると、8万円である。こんなにも暴利を貪られていると思うと、悔しいのを通り越して、腹が立って来る。そもそも80円と言えば、御座候1個が買える金額である。そうすると、1キロメートルあたり御座候1000個分の暴利を貪られていることになる。もはや、タクシー業界は、日本粒あん協会に喧嘩を売っているとしか思えないではないか。

 このように、私にとっては、面積については御所、金額については御座候が、直感的な単位となっているのである。だから、たまに1個480円のケーキなどを買うと、御座候なら6個も買えたのに、と、ものすごく無駄遣いをした気分になるのである。

 こう言ったときに、つくづく思うのは、御座候のコストパフォーマンスの良さである。洋菓子、和菓子、粒あん、こしあんを問わず、御座候の右に出るものはないのである。

「偽装」ではなく「誤表示」

 「偽装」ではなく「誤表示」

 阪急阪神ホテルズのレストランでメニューの表示と異なる食材が使われていた問題での会社側の説明である。

 要するに「故意」ではなく「過失」だから、そんなに悪質ではないのだ、と言いたいのだろう。

 客にしてみれば、「故意」であれ「過失」であれ、結果として騙されたのであり、許されるはずもない。こんなところで、「故意」ではなく「過失」だと、自己の責任を矮小化させようとする姿勢自体が腹立たしく思えてくる。そんなことも分からないのだろうか。

 ところで、船場吉兆が、客の食べ残しの料理を使い回していたことが発覚したのが、もう6年前のことである。

 このとき、記者会見の席上で息子の専務に一々発言内容を囁いて「ささやき女将」として有名になった湯木佐知子社長は「食べ残し」ではなく「手付かずのお料理」と強弁していた。

 この発言も、自己の責任を矮小化する発言で、苦しい言い訳に過ぎない。

 ただ、こう言った発言も、人が言っているのを聞けば、誰でも見苦しいことは分かるのだが、自らが当事者になると、なかなか、見えてこず、苦し紛れに、言ってしまうのだろう。

隠す意図はなかったが、国民に示すという発想がなかった。

 だいぶ前の話だが、福島原発事故の直後の3月12日の朝の時点で、核燃料が1000度以上の高温になったことを示す放射性物質が検出されていた。ところが、その事実を政府が発表したのは、3か月近くも経った6月3日のことだった。

 隠蔽ではないかとの指摘に対し、原子力安全保安院の西山英彦審議官が釈明会見したときの発言が、これだ(読売新聞記事)。
 

隠す意図はなかったが、国民に示すという発想がなかった。


 なんとなく、責任が軽そうに聞こえてしまう。要するに、客観的には同じ行為でも、「作為」として表現するより、「不作為」として表現した方が責任が軽そうに聞こえるのだ。この論法は、結構、応用範囲が広そうだ。早速、使ってみよう。

 本屋で万引きして捕まったら、こう答えよう。

盗む意図はなかったが、代金を払うという発想がなかった。


 子どもに食事を与えずに餓死させた母親なら、こうだ。

殺す意図はなかったが、食事を与えるという発想がなかった。


 まだまだ、ある。
 粒あん協会の会員が、粒あんがあるのに、こしあん製品に手を出したときは、こうだ。

こしあんを選ぶ意図はなかったが、粒あんを選ぶという発想がなかった。


 詭弁を弄するのは勝手だが、こんな発言をする人に粒あん協会の会員資格がないことは確かである(協会の定款第8条(会員資格の喪失))。



自転車を押している人、引いている人

「二の腕」という言葉がある。

 語源を調べてみると、諸説あるが、体の部分は、第一関節、第二関節という表現があるように、先端から1、2と名付けるのが普通であり、この原則に従い、肘から先を「一の腕」、肘から肩までを「二の腕」という呼ぶようになったそうであるが、「一の腕」というのは聞いたことがない。

 また、医学上は、「一の腕」は「前腕」、「二の腕」は「上腕」というそうだ。

 「前腕」があるなら「後腕」、「上腕」があるなら「下腕」という表現があってもいいし、その方が、分かりやすそうなのだが、「前腕」「上腕」しかないのである。

 まあ、通常の腕の位置関係からして、肯けないわけでもない。つまり、人が座って何かをするときの姿勢、つまり、肘を机に付けてキーボードを打つような場合、肘から先が前に出ているから前腕、肘から肩は、上に伸びているから上腕というのは自然ではある。肘の手前は、後ろというより上なのである。逆に、肘から先は、下というより前というのが感覚的にはしっくり来るのである。

 概念上は上と下、前と後というのが対になっていて、体の部位の呼び方も対で呼ぶ方が分かりやすそうであるが、あくまでも、それは観念の世界であって、現実の世界での人の感覚からすれば、前と上、というのが、なじむのである。

 こんなことを書きながら、以前、「と夢」の常連(当協会の会員が大半を占めている)の間で、話題になったことを思い出した。

 自転車のハンドルを持ちながら歩く場合、自転車を「押す」というのか、「引く」というのか、という問題である。結論は出なかったのだが、結局、「押す」「引く」というのが、何を基準に見るか、ということに尽きるようである。

 「押す」というのは、物に力を加えて、自分から離れた方向に移動させようとする行為を指すのに対し、「引く」というのは、物に力を加えて、自分に近づけようとする行為を指す。

 従って、自分が前に移動すると同時に物を前に移動させようとする行為は、その物が自分より前にあれば「押す」ということになり、後ろにあれば「引く」ということになる。

 自転車の場合で考えると、手をかけているハンドル部分に着目すれば、ハンドルは自分より前にあるから「押す」ということになり、自転車本体(サドル部分が一応、自転車の中心なので、そこが自転車の本体というのが自然だろう)に着目すれば、自分の体より後ろにあるのだから、「引く」というのが自然だということになる。

 結局、「押す」と表現する人は、ハンドルに焦点を当てているのに対し、「引く」と表現する人は、自転車本体に焦点を当てているということになる。

御座候の中身は・・・

 御座候の中身は粒あんだ!

 あまりにも当たり前のことを、ことさら述べるのには、わけがある。

 私は、小豆を潰して裏ごしして小豆の皮を取り除いたのが「こしあん」であり、そうでないのが「粒あん」だと考えていたのだが、どうも、そう単純ではないようなのだ。

 「小倉あん」というのがあり、これは、こしあんに大納言など大粒の小豆を蜜煮にしたものを混ぜ合わせて作ったものを指すそうである(食育大事典)。「小倉あん」も、この定義だと、小豆の皮が残っており、その点では粒あんと同じなのだが、こしあんが含まれているという点で、いわゆる粒あんとは、違うものと言うことになるのだろう。

 粒あん協会の設立にあたって、「小倉あん」を粒あんに含めるかと言った議論はなく、また、定款にも粒あんの定義はない(協会の定款)。どこか権威のある学術団体や、国際機関が、明確な定義をしているわけではなく、未だ、粒あんの定義は、学界的にも国際的にも定まっていないのだ。

 しかし、定義が定まっていなくとも、御座候が粒あん製品であることは疑う余地がない。それどころか、私にしてみれば、御座候は、粒あん製品の最高峰に位置づけられる逸品である。

 もしも、定義が定まっていないから御座候は粒あん製品と断定することはできないという人がいれば、粒あん協会の会員の資格はないし、あまりにも非常識というものである。

 生物や動物の概念にも定まった定義はなく、境界領域では生物かどうか動物かどうかに争いの余地があるそうだが、定義が定まっていなくとも、たとえば犬が生物であり動物であることは疑う余地のないことである。仮に、生物の定義が決まっていないから犬は生物かどうか答えられないという人がいたら、顔を洗って出直して来いと言われるだろう。

 そういえば、最近、「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と述べた人がいたが、この人は何を主張したかったのだろう。

身を切る覚悟

 よく、政治家たちが、消費税増税を国民にお願いする以上、国会議員も身を切る覚悟で議員定数を削減しなければならない、と述べることがある。

 私は、この言葉を聞く度に、なんか違うな?、という気持ちになる。

 議員定数削減というのは、国民の側から見れば、議員の数が減った分だけ、議員報酬の総額が減る、ということである。

 他方、議員の側から見るとこうなる。

 定数削減の結果として議員でなくなった者は、議員の仕事をしなくてよいのだから、議員の仕事の対価としての議員報酬をもらえないのは当然であり、何も「身を切られた」わけであるまい。

 また、定数削減後も議員にとどまった者は、従来どおりの議員報酬をもらえるのであるから、これまた、「身を切られた」わけではない。

 そもそも、議員の地位というのは、「議員の仕事をする義務」と「議員報酬を受け取る権利」とが一体となったものである。従って、定数削減の結果として議員の地位を失うということは、義務と権利が同時になくなるだけのことであり、本来、プラスマイナスゼロなのだから、「身を切られた」とは言えないはずである。

 にもかかわらず、議員定数削減を「身を切る」ことだと主張するのは、議員の地位を失うのは、プラスマイナスゼロではなく、マイナスだ、と主張することである。だとすれば、議員の地位を失うことに伴い、他に「何か」を失うということであり、その「何か」とは、要するに議員の地位に伴う「利権」ということではないか。

 そう考えれば、議員定数を削減すると、利権にありつける者の数が減るわけであり、個々の議員にすれば、利権にありつける機会が少なくなるということになり、まさに「身を切る」ということになるのだろう。

 しかし、国民は、利権を貪らせるために議員の地位を与えているのではない。議員として真っ当な仕事をやらせるためにこそ、議員の地位を与えているのである。

 議員として仕事をしているにもかかわらず、歳費報酬を減らされるというのであれば、「身を切られた」と言うことができよう。
 
 従って、「これまで通り仕事をしますけれど、身を切る覚悟で議員報酬を減らします」というのが、正しい用語法ということになる。

「店内でお召し上がりですか」

ファストフード店で一人で20人前の注文をしたところ店員から[店内でお召し上がりですか」と尋ねられたという、マニュアル至上主義を揶揄するための作り話のような話を聞くことは何度かあった。

 ところが、今朝、まさに、それに類する場面に遭遇した。

 とある病院構内のコーヒーショップ。レジで私の前の女性がコーヒー豆の袋をレジに差し出したところ、店員の口からは「店内でお召し上がりですか」。思わず、「客が店でコーヒーを入れるのか?」「コーヒー豆を、そのまま食べるのか」と突っ込もうとしたのだが、そこは分別ある社会人である、黙って見守っていた。

 このコーヒーショップの店員は、最後に、必ず「ポイントカードはお持ちですか」と尋ねるので、私は、それが鬱陶しくて、注文の際に質問を先取りして、一息に「店内で、アイスカフェオレSサイズ、カードありません」と注文したりするのだが、それでも、「ポイントカードをお持ちですか」と尋ねられる。

 融通の利かないロボットを相手に臨機応変の対応を求めても無駄と悟って諦めるほかはない。

大飯原発の地震確率は僅か0.1%、こんな話に要注意

 全国の火力発電所の多くが大地震発生確率の高い地域に存在しているとのことである(2013.2.3朝日朝刊)。

 2012年から30年以内に震度6弱以上の地震が発生する確率が26%以上の地域に、出力100万キロワット以上の火力発電所64施設のうち40施設が存在しているという。他方、現在稼働中の大飯原発のある地域は、地震発生確率0.1%だそうである。

 単純に地震発生確率だけなら、大多数の火力発電所よりも大飯原発の方が安全だということになる。今後、テレビの政治討論番組などで原発推進勢力の議員たちが、したり顔で、この数字を持ち出してくることが予想される。

 けれど、騙されてはいけない。原発がだめなのは、確率の問題ではない。いざ過酷事故が起こったときの被害が無限定であり、取り返しがつかないからである。

 火力発電所が大爆発したところで、直接の影響は、半径1キロ四方にも及ばないであろう。他方、原発が大爆発すれば、20キロ圏、30キロ圏などという話ではなく、東日本壊滅、場合によっては、日本壊滅ということさえありうるのである。

 そうである以上、いくら確率が低くても、そんな危険なものには手を出さないのが、合理的な判断というものだ。
 

「抜くのは、コンセントではなくプラグ」?

 先日の天声人語の「家中のコンセントを抜いて回るわけにはいかない」との言葉遣いに対し、読者から「ここで抜くべきはプラグです」との指摘があり、天声人語の筆者は「慣用は疑うべし」と反省したのことである(2013.2.1「天声人語」)。

 そこで、「はて?」と首を傾げた。この読者からの指摘に、「湯を沸かした」に対して「水を沸かして湯にするんだ」と指摘するのと同様の響きを感じたからだ。

 確かに、「プラグをコンセントから抜く」、「水を沸かして湯にする」という表現が、「抜く」「沸かす」という動作の対象が何かということを考えれば、「正確」なようにも思える。しかし、日本語の動詞は、そう単純なものではない。行為の結果としての状態が帰属するもの、行為の結果として生じたもの、こういったものも、目的語にとることも広く許されているのである。

 「ご飯を炊く」ではく「水と米を炊いて、ご飯をつくる」、「プラモデルを組み立てる」ではなく「プラモデルの部品を組み立てて、プラモデルを完成する」・・・ さて、天声人語子は、「慣用」より「正確」を旨とするのだろうか?

言葉に騙される人々

 「マイナンバー」制度が導入されようしている。

 国民全員に番号を割り振り、税金、社会保障等の行政にかかわる全ての分野の情報を、その番号で一元的に管理しようと言う制度である。

 制度の導入は、一方で、税金の徴収や社会保障その他の行政サービスの効率化が図れるという利点があるものの、他方で、国家が個人の様々な情報を一元的に管理することになり、警察権力による濫用により国民の基本的人権が侵害されるおそれもあり、また、外部への情報流出によるプライバシー侵害の危険もあって、根強い反対論がある。

 この「マイナンバー」制度と全く同様の制度として、今から40年以上も前に、「国民総背番号制」の導入が提唱されたことがあったが、このときは、利便性より弊害の方が大きいとして、導入は見送られてきた。

 それから半世紀近くたち、当時と比べると情報機器が格段に発達した結果、制度の導入による弊害は、当時と比較にならないほど大きくなっている。検察官が証拠を捏造したり、警察官が被疑者を脅したりといった事件が明るみなったり、民間の業者からの個人情報流出のニュースが新聞紙面を賑わすことが多くなっていることからも、制度導入に対する懸念は、決して杞憂ではない。ところが、さしたる抵抗もないままに、このマイナンバー制度が導入されそうな勢いなのである。

 40年前の「国民総背番号制」というのは、名称からして、国家が国民に押しつけるというイメージがあり、「国民総背番号制」と言われれば、反射的に「反対」と言いたくなってしまう。ところが、「マイナンバー」と言われると、国民一人一人が自らの意思で手に入れて、自ら利用する、といったイメージがあり、そんなに悪いもののような感じがしないのである。「マイカー」ではなく、「マイナンバー」、「カー」が、「ナンバー」に変わっただけで、国民にとって、ありがたいもののように聞こえてしまう。

 実態は同じでも、呼び方次第で、随分とイメージが変わってくるものである。騙されないようにするには、それ相応の注意力が必要である。

 話は変わるが、ここ半月ほど、大津市の中学生が「いじめ」を苦に自殺した事件で大津市教育委員会が真相を隠蔽しようとしたという事件がクローズアップされる中で、著名人が「いじめ」の加害者や被害者に直接呼びかける形の記事を新聞の紙面で見ることが多くなった。

 その中で、美輪明宏が言っていたのが、「いじめ」というのは、本当は、暴行、脅迫と言った犯罪なのだ、「いじめ」に荷担することは、犯罪行為に荷担することなのだ、ということである。

 たしかに、「いじめ」という言葉は、その行為の犯罪性を希薄化する。その結果、加害者達にも、それほどに悪いことをしているのではないと思わせる、いわば、麻薬のような効果を持っているのだろう。「いじめ」という言葉でさえ、そうなのだが、もっと驚くべきことは、数日前に新聞で見た加害生徒の言葉だ。その生徒が言うには、自分は、「いじめ」をしたわけではない、自分がしたのは、「いじり」だ、というのである。

 「いじり」というのは、元々は、芸人が舞台の上から、客席の素人をからかったりして笑いをとる行為だが、一般人同士でも、それに類した行為が行われるようになり、学校内では、一部の、いじられやすいタイプの生徒が、いつも、いじられると言った構図ができあがっているようだ。

 そして、「いじられる」というのは、仲間内で、全く相手にされないのではなく、関わり方はともかく、一応、仲間の話題の中にいるということで、「いじられる」生徒にも、一定の心地よさがあるのだろう。上に述べた加害生徒は、一方的に、自分が悪いことをしていたのではない、相手も、それなりに、楽しんでいたのだ、とでも言いたかったのだろう。

 同じ行為が、犯罪、いじめ、いじり と呼び名を変えることによって、加害者側の罪悪感も減っていく。生徒間の脅迫、暴行、強要には、ちゃんと、脅迫罪、暴行罪、強要罪と犯罪に相応しい名前があるのである。「いじめ」や「いじり」と言った呼び方をして、罪の意識を希薄化させてはならない。

まず、形から

 小説家を志している知人と話をした。

 ワープロではなく、400字詰め原稿用紙に手書きをするそうだ。もちろん、手にする筆記具は、太めのモンブラン。着物を着て、文机の前に座る。畳には、くしゃくしゃに丸められた原稿用紙が散らかっている。開け放した障子の向こうに目をやると、手入れの行き届いた庭が見える。おもむろに手を顎に添え、正面を見すえて、思索に耽る。

 それで小説家になれるなら、誰でもなれることだろう。

 さて、「文才がなくても書ける小説講座」(鈴木信一著)という新書版の本がある。
 
 それによると、「小説家になりたい」という人は山ほどいるのだが、実際に小説を書いている人は、そのうちの極一握りだという。ある日、神の啓示のように何かがひらめいて、アイデアが頭の中から迸り、それが小説になる。小説家を志している人の大半は、そんな夢を画いているだけで、実際には、小説を書いていないそうである。

 裏を返せば、ともかく小説を一行でも書きはじめるだけで、大方の小説家願望の人々の集団の中から、一歩抜け出すことができるのだ、ということである。

 そして、一行書けば、その一行を説明するために、次の一行が必要となってくる。次の一行を書けば、さらに次の一行も書かずにはいられない。これを繰り返すうちに、小説が書けるのだ、ということである(もちろん、ここまで単純ではないのだが、最初の一歩さえ踏み出せば、確実に夢に近づけるはずだ)。

 さて、冒頭の知人の話に戻るが、どうしても、「形から入る」というのが好きな人々がいるようだ。しかし、本気で小説家になりたければ、手書きでなくワープロでもいいし、モンブランでなく百均の3本100円のボールペンでもいいし、着物ではなくユニクロのスウェットでもいい。窓を開ければ、隣のビルの薄汚れた外壁が目に入って来てもいいではないか。窓は閉めておけばいいのだから。

 かく言う私も、何か、気の重い仕事をしなければいけないときには、やたらと机の周りを片付けたり、本棚を整理したりと、様々な「儀式」を執り行ってしまう。とりあえず、仕事そのものに、できるところから取りかかればいいものを、まずは、環境作りに時間を割いて、本来の仕事は一歩も進まないのである。

年齢認証の工夫

 近くのコンビニで缶チューハイを買った。

 レジのカウンターに、10センチ四方くらいの枠が2つ並べて書かれており、それぞれに、「20代」、「30代以上」と書かれ、酒、煙草など未成年者には販売できない商品については、どちらかを自分で指さすようにとの指示がある。そして、さらに、「20代の方は、身分証明書の提示をお願いします」とある。

 未成年者に酒や煙草を買わせないための工夫なのだろうが、何となく、おかしな気がした。理屈の上では、19才の子が、「30代以上」の方を指させば、身分証明書の提示を求めることはできないことになってしまう。それでは、未成年者に酒などを販売せざるをえないことになるはずである。

 店側としては、19才の子が、「20代」を指さすことはあっても、「30代以上」を指さすことはないだろう、という思いがあるのだろう。また、仮に、どう見ても20才前後の子が、「30代以上」を指さしたら、その場合は、「30才以上のはずはない」と自信を持って言えるから、身分証明書の提示を求めることができる、ということなのかも知れない。

 そんなことを考えながら、財布からお金を出していたのだが、店員から、どちらかを指さすことを求められることはなかった。まあ、店員も、杓子定規に、客に指さすことを求める必要はない。ひょっとしたら未成年かも知れないという客に対してだけ、指さしを求め、「20代」を指さしたら、そこで、身分証提示を求める、ということだろう。

 店としては、20才以上かどうか疑わしい場合に、いきなり、身分証の提示を求めるのは、相手に「疑っている」と受けとられるおそれがあるが、「20代」の人には一律に身分証の提示を求めるという規則に従って処理をするという方法の方が、そのおそれがなく、身分証の提示を求めやすい、ということなのだろう。だからこそ、店から見て、明らかに20才になっている客には、指さしを求めることはないのである。

 話は変わるが、80過ぎの母と一緒に、ホテルでバイキング料理を食べたときのことである。料金が70歳以上は少し安くなっているのだが、レジのカウンタには、70歳以上の方は身分証の提示を求めることがありますと言った類のことが書かれていた。

 母が、「身分証を出さなきゃ」と言って、バッグを開けようとしたので、私は、「お母さん、心配いらないから」と言って、それを制したのだが、レジの従業員は、私達のやりとりをにこやかに見守っていて「結構でございます」と言った。母を止めずに、敬老パスでも、保険証でも、バッグから出して従業員に提示するのを見守ってやった方が良かったような気もした。

トム・ソーヤーのペンキ塗り

 昼時、いつも、近くの弁当屋まで歩いて行く。

 片道10分強あるので、歩いて行くのは、面倒と言えば面倒だ。面倒だと考え始めると、益々、面倒になってくる。歩き始めて、ようやく中間地点まで来たときに、まだ、半分もあるのかなどと考えると、一層、面倒くささが募るというものだ。

 と言っても、物は考えようだ。あるとき、この10分強の間に、ブログの文章を考えることにした。僅かの時間しかないが、そこそこ文章を作ることはできるはずだ。そう思って始めたのだが、7割くらい考えたところで、弁当屋に着いてしまった。むしろ、もう少し弁当屋が遠かったら最後まで考えられたのに、と思ったくらいだ。

 本来面倒なことでも、こんなふうにできたら、そのことによる負担感はなくなるし、その時間を有効に活用して、趣味であれ、仕事であれ、他にやりたいことができるのだから、これほどいいことはない。

 これと似ているようだが、ちょっと違うのが、トム・ソーヤーの冒険に出てくる、ペンキ塗りの話だ。

 おばさんからトムが罰として、塀のペンキ塗りの仕事を言いつけられる。トムが嫌々やっているところへ、近所の友達がやってくる。すると、トムは、口笛を吹きながら、さも楽しそうにペンキ塗りを始める。友達は、それを見て、自分にもやらせてくれと頼むが、トムは、これを断る。そのうち、友達は、鼠の死骸だとか凧といった子どもにとっての宝ものをトムにやるから替わってくれと頼む。そこで、トムは、渋々、ペンキ塗りの仕事を替わってやる。友達は、嬉々としてペンキ塗りを行い、あっという間に、トムの「罰」仕事は完了してしまう。

 トム本人にとっては嫌な仕事は嫌な仕事であり、いくら、楽しい仕事だと思いこもうとしても、無理だろう。それを、いかにも楽しい仕事だと演じることによって、友達には、楽しい遊びのように見せることは可能だ。しかも、最初は交替を断わるのだから、友達は、益々、自分でもしてみたくなる。その結果、トムは、嫌な仕事を自分でやらなくてすんだばかりか、報酬まで得てしまうのである。

このペンキ塗りの話に関しては、他にも考え方はあるだろう。どんなに嫌な仕事でも、そこに喜びを見いだせるはずだ。例えば、ペンキを塗るにしても、どうすればムラなく塗れるか。どうすれば、効率よく、早く塗れるか、真剣に考えれば、いくらでも工夫の余地があるだろう。そうすれば、そのような工夫を凝らすこと自体が楽しいと感じることもでき、その結果として、綺麗に早く塗れば、喜びも一入(ひとしお)というものだ。

 上記3例の、どれがベストだとは言えないが、面倒に思えることを、面倒くさいと思いながら続けるのが最悪であることだけは確かである。
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