遅いなあ。
そういう設定なんだよ。
合コンまであと10分だよ。
時計してねえだろ。
あっ時計ねえか。
還暦を越えて再びブレーク。
ダンディーな適当男。
熱い正義感で舌鋒鋭く切り込むロマンスグレーのひげ男。
60代こそ男盛り。
そう思わせてくれる2人が大切な音楽を持ち寄り語り合います。
適当男と呼ばれ芸能界で唯一の存在感を放っています。
これをですね口の中に入れようかどうか迷っております。
私がファッションアドバイザーのジェリー高田です。
しかしテレビで一躍有名になったのは40歳目前。
高田純次が出来上がるまでの道のりは失敗続きの長く厳しいものでした。
真面目なサラリーマン家庭に生まれた高田少年。
しかし…。
2浪もしたの?1浪。
そして芝居仲間との偶然の再会が人生を変えます。
還暦を過ぎて念願の映画初主演。
ところが…。
失敗を繰り返しながらたどりついた境地。
そこには苦難を軽快に乗り越えていく彼独特の知恵がありました。
コントユニットシティボーイズのリーダーとして社会風刺の利いたお笑いを続ける一方俳優としてドラマ映画に出演。
静かな…。
クリスマスに出たら怒るよ俺は。
(笑い声)トーク番組の小気味よい毒舌でも知られています。
しかし大竹にも夢破れもがきながら苦闘した自分探しの日々がありました。
ヒール役としても人気は人気じゃん。
俺はどんどんヒールになっていくの。
不器用さを隠しながらの活躍。
いつしかバランスを崩していきます。
50代後半でたどりついた青春時代の夢DJ。
いつしか団塊の世代の代弁者と呼ばれるまでになりました。
受験戦争に負け役者への夢が破れても自分の居場所を探し続けた2人の底力。
心に残る音楽を通して2つの人生を見つめていきます。
戦後間もない1947年高田純次は東京都調布市に生まれます。
いわゆる団塊の世代です。
父親は東京ガスに勤めるサラリーマン。
しかし母親は4歳の誕生日前日に他界してしまいます。
4歳か5歳の頃おやじがね俺を連れて病院行った訳よ。
それでいきなり病室に入っていったら何か女性の方がベッドの上にこういうふうになって横たわって少し起こしてんのよ。
それで俺を見た途端突然泣き始めるのよ。
「あれ?何だろう」。
全然おやじも何も言わないし。
それが後で実の母親だって聞いたんだけど。
えっ知らなかったの?だからもうかなり病気でもうそろそろ危ないって時に連れてったんじゃない?最後に一度だけ純次を。
うん。
新しい母にも懐かず家には自分の居場所がないと感じていました。
当時高田少年が救いを求めたのは家に来たばかりのテレビでした。
そのころ来たテレビで何見てた?俺はね「ローハイド」。
「サーフサイド6」「ララミー牧場」。
ああ「ララミー牧場」。
いいでしょう?それから…「アンタッチャブル」。
大体アメリカテレビ映画。
「ローハイド」も?「ローハイド」も。
・「ローレンローレンローレンゲン」よく覚えてるねえ。
これはもうとにかくねそのころ俺英語ペラペラだったからさ。
アメリカのテレビドラマを見ては翌朝学校でものまねを披露していました。
そんな高田少年が初めて夢中になった歌もアメリカンポップス。
・「Ilovehim,Ilovehim,Ilovehim」・「AndwherehegoesI’llfollow」・「I’llfollow,I’llfollow」・「Iwillfollowhim」俺が「IWillFollowHim」になぜしたかっていうと一番初めに買ったレコードなのよ。
330円で。
それはね中学3年ぐらい。
俺もその辺よく覚えてないんだけどね。
中学生ぐらい?うんその前はみんなソノシートだった。
ああピラピラのな。
ピラピラの。
向こう透けて見えるやつな。
これが大ヒット曲でこの曲をもうとにかくねまあ本当にサファイア針がそのころ電蓄だったからサファイア針が擦り切れるほど聴いた。
いい曲じゃない「IWillFollowHim」。
仕事いちずモーレツ社員の父と教育熱心な母そして弟の4人家族でした。
うちはねとにかくねあれなんだよ。
もう音楽と縁のないうちなの。
でも小さい頃さ…。
いやでもそうなんだけどもう本当にこうレコードもなければおやじが鼻歌歌うと飼ってる犬がほえたくらいのうちなの。
小学校からそんな感じの顔だったの?違うよ。
違うのか。
俺は大竹の幼少期がイメージが湧かねえからな。
写真見せてやってくれよこいつに。
俺が5歳か6歳の時にニワトリ抱えて写ってる写真があるんだから。
当時はうちでニワトリなんか飼ってるから。
ああ卵か。
卵だよ。
卵もそうだしそのニワトリの抱え方が俺メッチャクチャうまいんだよ。
ニワトリの抱え方うまいってどういう事かっていうといっつもニワトリといたって事なの。
抱えられるんだよ。
友達がニワトリしかいなかったって事なんだ。
そういう事だろ?そのニワトリ最後おやじが絞めて食っちゃうんだよ。
ニワトリを抱えた大竹少年はテレビで見たヒーロー「月光仮面」に憧れます。
俺は正義感強くて好きなんだけどこの出だしの歌詞が「どこの誰だか知らないけれど誰もがみんな知っている」って今考えたらシュールだぞ。
おかしいっちゃおかしいよな。
誰も知らねえのにみんな知ってるっていう。
でもね俺もね「月光仮面」ホンダドリームのバイクに乗ってね大瀬康一が来るのよ。
大瀬康一な。
それであのバイクがずっと滑って。
ケツをスライドさせるのな。
それを自転車でよく練習した。
みんなやったと思うよ。
あと同じ時期に「快傑ハリマオ」っていうのもやってたんだよ。
「まっかな太陽燃えている」っていう。
・「まっかな太陽燃えている」これ三橋美智也が。
・「果てない南の大空に」そんでハリマオがいたのよインドネシアか何かに。
・「とどろきわたる雄叫びは・「正しい者に味方する」お前ばかかお前。
・「ハリマオハリマオぼくらの」・「ハリマオ」で「月光仮面」の話なんだけど。
テレビが一般家庭に普及した頃幼少期を過ごした2人。
テレビから流れてきた音楽が子ども時代の思い出に重なっていました。
後に2人はテレビと共に生きる事になります。
時は1964年日本中が東京オリンピックに沸いていました。
高度成長の真っただ中高田少年は多感な高校時代を送ります。
当時若者たちの間にはボタンダウンシャツコットンパンツコインローファーのアイビーファンションが大流行していました。
俺が高1の時に「平凡パンチ」という本が出てこれが画期的だった。
知ってんでしょ?すごかったな。
大橋歩だったかな表紙のイラスト描いてるのがね。
イラスト…クレヨンでな。
当時はアイビーっていうアメリカのアイビーリーグって蔦の絡まる。
そのリーグをまねしたファッションがVANというところからボタンダウンで出て。
ボタンダウンな。
石津謙介夢だったもん。
カリスマだもん石津謙介さんは。
でしたよね。
もう大変。
まあでも純次のおしゃれの原点はその辺にある訳ね。
おしゃれの原点はねその時に緑屋っていうとこでね月賦で買ったアイビーの一式だね。
それがおしゃれの原点だね。
成績優秀だった高田が思春期にのめり込んだのはおしゃれとマージャンでした。
案の定成績は急降下。
大学受験は?俺も落ちたのよ2年にわたって大学10校受けて。
2浪もしたの?。
1浪。
だから最初5校次5校。
だから1浪して。
1浪してまた落ちる。
おやじ怒っただろ?おやじ怒ったよ。
もうその時に大学落ちた時に「ああお前はもう東京ガスは無理だな」と。
表のラインからは完璧に外れた感じだよな。
東京ガスなんて当時からだって大変な就職先だもんね。
高田には大学を卒業して父親と同じ東京ガスに入るという目標がありました。
戦争で大学に行けなかった父親が「とにかく大学に入れ」と言っていたからです。
期待に応えられず落ち込む高田少年を優しく慰めてくれた曲があります。
今俺「悲しき雨音」いくらでも英語で歌えるよ。
Listentotherhythm…どうのこうのって言うんだよ。
ちゃんと歌えって言ったら歌えるんだけどさ。
だからこの曲はとにかくね何となく雨は降ってるんだけどまだ自分の希望はあるぞみたいなのがね。
この「悲しき雨音」はね「悲しき」っていうのがね好きって訳じゃないけど当時はね。
今の君から想像もできないね。
今も俺も本当に悲しきだよ。
毎日枕ぬらしながら寝てるけど本当に悲しきっていうイメージがね。
俺は好きだったんだこのころは。
親の期待に応えられない無念。
父親の背中を追えなかった悲しみをそっと癒やしてくれる歌でした。
一方大竹少年は東大教育学部付属中学校から高等部に進学します。
ちょうどそのころなっちゃんチャコちゃん。
「パック・イン・ミュージック」っていうのやってたの。
ああ有名なラジオだね。
そのころラジオがはやっててそのラジオを聴いてたらそのラジオにね投稿欄があって投稿欄にいっつも読まれるやつがいるんだよ。
俺も何か面白かった事書いてそれで同級生に何か送るなんて書いたら一回も自分のは読まれなかったんだけどでもその番組を聴いてて受験勉強一切しなかった。
深夜放送ブームを作った「パック・イン・ミュージック」。
トークと共に最先端の音楽を聴かせてくれる事でも人気でした。
フォークブームの当時大竹少年の心を捉えた歌は…。
この曲には大竹少年の人生を変えた同級生の思い出があります。
女の子が1人病気になっちゃうんだよ。
その子から12月の25日に俺にクリスマスカードが病院から。
クリスマスカードが来るの。
でその子が1月の25日に死んじゃうの。
で受験のさなかじゃん高校。
受験でどうのこうって時に同級生が死ぬなんていう目には俺ら遭ってない訳人が死ぬなんていう…。
それまで人の死に顔って見た事ない訳だからさその時はやっぱりちょっと…。
これで何かね。
君がどうしておかしくなってこの世界入ったか知らないけど俺はもうそういうようなんで分かんなくなって頑張ったって死んじゃうんだみたいなのがあってやってもしょうがねえなみたいなちょっと気持ちになってね。
大学落っこっちゃったんだろ。
大学落っこっちゃう。
あまり受かると思ってなかったけど自分の受験番号がなかったら驚くねあれ。
俺は今もトラウマでね夢は全部それ見るよ。
掲示板にあったっていう受かった夢を見る今も。
この歌を聴いてよみがえるのは多感な高校時代の苦く悲しい思い出。
大学受験で団塊世代のしれつな競争に敗れた2人。
思春期に味わった挫折を胸に心から打ち込めるものを探し始めます。
2年連続で大学受験に失敗した高田はデザインの専門学校に入学。
行くとこないからしょうがない。
比較的入りやすい東京デザイン。
デザイナーになりたかった。
イラストレーター当時ほら…。
そういう才能あったの?絵はうまかったのよ。
絵はほとんど小学校中学校で賞取ってた。
交通安全週間の賞とか消防週間の。
絵はうまいなという自負心はあったんだけどでも当時石投げりゃあ横文字の職業に当たるぐらいイラストレーターデザイナーとかねいろんなグラフィックやいろんなあれがあったから。
行ったんだけど結局芽が出ないというような…。
しかし二十歳になっても就職できずアルバイト生活。
そんなある日一つの芝居に出会います。
グラフィックやってたから名もない劇団のポスターを描いたの。
そこの人と一緒にそれが六本木だったんで面白い劇団があるっていって見に行ったのが自由劇場だったの。
その時見た「マクベス」っていうのが佐藤B作とか串田和美さん吉田日出子さん。
うわ〜こんなすごい芝居があるんだと思って感動して帰ってきて翌年に研究生の募集があったの。
アクターズスタジオっていう自由劇場の最初の研究生なの。
それでそこ受けたらまあ俺の才能というかそれを見いだしてくれたんだろうな受かったのよ!人生初めての…要するに合格ですよ。
串田和美らが結成した劇団自由劇場には当時高田のほか笹野高史柄本明ベンガルイッセー尾形ら野心あふれる若者たちが集まっていました。
まあ後で…俺たちもそうだけど劇団って内実を聞いてみると結構簡単に受かったのね。
うん。
簡単に受かったって俺たちの時も31人受けて30人受かったというから意外と…。
当時劇団は俺ら受かったって喜んでいるけど本当60人来て50人採るみたいなとこだったんだよね。
どの劇団も。
俺もその人数聞いた時さきついなと思ったんだけどそれで自由劇場で1年間。
やった?やりましたよ。
しかし芽が出ず自由劇場は1年でクビになります。
同じ時期に辞めたイッセー尾形と劇団うでくらべを結成。
当時はやっていた難解で不条理な芝居に挑戦しますが全くお客が入りません。
未来が見えず生活に困った時現実逃避をしたのは映画の世界でした。
その劇団時代のまあちょっと苦しい時だけどパーシー・フェイス・オーケストラっていう名前だったかな?この「夏の日の恋」がね明るくさんざめくねこう太陽の中での恋愛を思い出させて常に心がそういう所に飛んでいきたいというそれがあって。
暗いあれをね打ち消すような曲だよね。
まあ何か苦しいあれでねどうせ劇団なんか行ってもどうせ俺なんか有名にならないし食えないだろうというんだけどこういう曲を聴いてどっかね心を癒やしてたというのはあるね。
大竹もまた未来への希望もないアルバイト生活から劇団に入る事になります。
高校時代からずっとラジオのさっきの「パック・イン・ミュージック」じゃないけどあんな事やれたらいいなとはうすうす思ってた。
ディスクジョッキーみたいな。
そうそう。
それでバイトしてたら「あんな事やるのは劇団よ」みたいな話がある訳だ。
それで風間たちと一緒の劇団の養成所に入るんだけどそこがすぐぽしゃっちゃうの。
えっ何養成所っていうの?俳優座。
俳小。
俳優小劇場。
俳小?有名な…。
小沢昭一小山田宗徳。
有名なあれじゃないの。
そこでそれすぐ駄目になっちゃって自分たちで劇団作った時にきたろうが「私たちの劇団はドイツ表現主義にのっとり表現劇場と名付けます」という…。
劇団表現劇場。
大竹まこときたろう斉木しげるそして風間杜夫らと共に結成した劇団です。
仲間たちと青臭い夢をみた時代思い出の歌がこれ。
俺と風間と斉木しげると何かこうちょっと一緒に自分たちでアパート借りるんだけどその時に風間がギターがうまくて抱えて3人で住んでた時なんかに一人で横でいっつも歌でものまねしてこう指さしながら「おまえの」って。
高野アイのね。
ひっくり返った声でやるのが俺たちが楽しくてはやしてた風間の持ち歌なの当時。
それで公演とかあんまりやらないでみんなで仮面ライダーショーみたいな…。
仮面ライダーがはやっててその巡業に行ったりするようになる訳。
風間はもうその当時から二枚目で仮面ライダーだから。
そうだ。
ちょっと二枚目路線風の顔してたもんな。
あときたろうがコウモリ男でそれでみんな巡業ガ〜ッと行く訳よ。
それでまともな芝居するようになったの30過ぎ?いや芝居もしてたの。
それと並行して。
営業で?劇団の金稼ぎ。
ああ営業で行ったんだ。
エリートコースから脱落し役者の世界でもうまくいかない2人。
30歳を目前に崖っぷちに立たされ生活の手段を探します。
その当時ね俺祐天寺の貧乏アパート住んでてもう本当四畳半二間で家賃が最初高かったんだけど雨漏りがするって言って1万8,000円になるんだけどね。
そこに貧乏人ばっかし最高7人。
四畳半二間で7人。
劇団時代?まあ劇団時代も含めてその前後に7人で住んでて。
貧乏生活の思い出に流れているのは当時大ヒットした映画の主題歌です。
・「私の海を真赤にそめて夕陽が血潮を」・「どこへ行ってしまったの悲しみさえも焼きつく」すばらしい映画だったね。
男は村野武範。
村野武範さん。
歌は石川セリだよね。
石川セリだよね。
今は井上陽水さんの奥さんでしょ。
そうそう…。
これはいい曲だった。
また俺とかぶるようなのを選曲してくるね。
俺がちょうど自由劇場に行って先輩がこの「八月の濡れた砂」に出た広瀬昌助っていう…。
それが先輩面吹かしてさ俺たちなんか新人じゃない。
「どうだ!」って感じで盛んにこれを言ってたよ。
「俺の芝居はどうだ!」って感じで。
劇団にいた先輩の人たちちょっと出たテレビの事を劇団帰ってきて言うよね。
お前たちはどこの馬の骨だみたいなさ。
でも俺の先輩の人が「芝居してきたよ」って「テレビ出てるんだよ見ろよ」って言われて見たら本当に何か「こんにちは」みたいな役でさ。
俺「えっ?えっ?」と思って。
そうだろ。
こんな事威張られちゃ…。
冗談じゃねえよな。
「何?」と思ってそれで劇団ってちょっとがっかりした時あったよ。
役者としてやっていけるのか展望もない。
そして金もない。
当時の大竹には生きる指針が見つかりませんでした。
この当時やっぱりね私お金がなくてでも劇団じゃない。
劇団行ってたからバイトするのが…ものすごいバイトして劇団出て疲れちゃうなと思って何かこう女の人を巡ってたんだよ。
女の人にお金もらってそれで劇団行ってたの。
ああじゃあヒモって事?まあまあまあね…。
こっちできれいにお風呂掃除して待ってると千円。
向こうでオムライス作って出すとそこで千円。
まめだったからね。
でもさすがに日曜日だけは休んだんだよ。
みんなこのぐらいになってくるとこう…普通の生活にみんな戻っていく訳よ。
年齢が年齢だからな30近くなってな。
食えないから男は自分の家継いだりね。
俺はもうさ高卒でその辺フラフラして潰しも何にもきかない訳よ。
だから行くとこも何にもなくなっちゃうからここにとどまるしかないんだけど高卒でしょ?それで…。
まあ先の事は考えるなあ。
先の事はどうしようもない訳だ。
八方塞がりなんだけど何であんなに平気だったんだろうと思うんだよ。
いやだからそれはいずれあれじゃない?役者としてやろうという気持ちが強かったからじゃない?いずれは世に出てってのがあったんだろ?思ったけどでも役者の芽もここら辺で大体潰れていく訳じゃん。
みんな帰る所に帰って妙な自信だけが俺の中にあるんだけど結局何にもない訳だよね仕事も。
どうしようもないもんね。
だから片っぽはATGでみんな映画の筋とは違う新劇の流れみたいなところがATGにくっつく訳じゃん。
だからそれに何かそのあとからATG製作の映画がどんどん出てきてそっちにも行けない訳だよ俺は。
でも精神的にかなり揺れ動いた時だな。
この映画はそれを見事に表してたね。
この映画はね。
一方20代前半で結婚していた高田純次。
苦しい役者生活を諦め宝石会社に就職しサラリーマンとなります。
結局もう女房と暮らしてたから生きなくちゃいけないっていうんで宝石関係の…俺デザインもやってたし昔学校も行ってたしやるようになってトキモトという会社に行ってデザインやり始めたの。
ジュエリーデザイナーとして「新進気鋭の新人デザイナー現れる」なんて専門雑誌よ?それにね出たりなんかしたのよ。
君が?俺が!新進気鋭の?高田純次って名前で。
へえ〜。
いろいろお得意さんもあったの。
ココ山岡とかね。
俺が大体行くと10品デザインしたうちの3品ぐらいはうまく通るのよ。
「高田君いいね」って。
ところがあとの7品駄目だから俺に文句言うのよ。
会社は俺にすごい文句を言いたいらしくてバンバン…「おい高田出せ」って向こうの部長が「何で7つも駄目なの出しやがって」って。
「どうもすいません」って。
俺謝るの得意だからバンバン来るのよ。
その怒ったあとに「じゃあ高田君今日銀座で7時ね」って銀座連れてってくれるからだから俺しょっちゅう謝ってたんだけど。
堅実な仕事と奥さんのいる幸せな暮らし。
愛の巣のステレオで2人一緒に聴いた思い出の曲です。
俺は結局4年半5年近く行ったんだけど無遅刻無欠勤。
お前が?そうよ。
それで中野に住んでたんだけど野方にね。
それで「宝石業界の異端児現れる」みたいなのでお金も入ってきた。
年間3回のボーナスっていうか決算ボーナスとボーナス2回だからお金もたまった。
200万ぐらいたまったかな?それで200万たまった時にアパートに今まで住んでたからマンションを買おうと思って頭金を200万になるなと思いつつ…。
30手前前後で200万って相当だよ。
いい金取ってたんだよ俺はね。
初めての地に足の着いた生活。
子どもも生まれます。
しかし幸せは長くは続きませんでした。
やがて夢のために彼は安定を捨てるのです。
女の人を渡り歩きいわゆるヒモ生活を送っていた20代後半何となく役者を続けていた大竹に決定的な転機が訪れます。
この当時はね「八甲田山」っていうね…。
「八甲田山死の彷徨」。
「死の彷徨」に出る訳だよ。
実際に真冬の八甲田山でロケを敢行し当時日本映画史上最も過酷なロケとして有名になった映画です。
一緒に行った堀礼文っていう役者もいるんだけど有名な役者さんは…三國連太郎さんとかね。
高倉健さんが出てるやつだろ?そういうのは山の上まで…。
残された者たちがいたんだよな。
山の尾根を伝って歩いていくセリフのない兵隊とに分かれる訳よ現場でも。
それでセリフのない兵隊になったんだよな。
そうそうそう。
きついね。
きつかったよ。
連日雪山で続く厳しい撮影。
自分はさして重要でもない兵隊役。
大竹は自問自答します。
そんな時ロケの現場に響いていたのがこの曲。
忘れもしない12月の31日の夜汽車で青森に行くんだよ。
それから1か月半青森の酸ヶ湯温泉っていう所で雪の深いとこでロケるんだよ。
酸ヶ湯ね…。
5mも雪が積もるとこ。
そこを山の上まで登ってって自分たちは自分の持ってる兵隊のシャベルで穴掘って寒さをしのぐためにこのくらいのざんごうみたいなの自分たちの。
ざんごうの中に堀礼文と2人で入って出番待ってる訳だよ。
「飯ですよ」とか言われるとみそ汁みたいなのも…。
そこでみそ汁もらってそのごうに入ってくる頃にはもう冷たくなってるぐらい。
現実的に「死の彷徨」させてんだ。
やってんだよ。
役者にも。
助監督逃げてんだもん。
こんな現場やってられないって言って。
その中で一緒にいた堀礼文っていう役者が歌ってくれたり…。
ラジカセみたいなのかね?そんなの聴いたりして。
それがこれか。
それがこれだよ。
天気がよくてね。
この歌のとおりだよ。
見上げたら・「青い空白い雲」って出だしがそうじゃん。
現実の厳しさを突きつけられ大竹は役者を諦めます。
再び大きな挫折を味わった彼が向かったのはお笑いの世界。
役者として全く売れなかった仲間3人でコントユニットを結成。
シティボーイズの誕生です。
大竹は30歳になっていました。
ところが貧乏役者仲間だった風間杜夫が突如映画の主役に抜擢されます。
大ヒットした「蒲田行進曲」。
お笑い芸人となっていた3人は複雑な思いで遠くから見ているしかありませんでした。
すばらしかったじゃんあれ。
だからそれを見て落ち込んで俺たちコントやってたんだけど。
確かに「蒲田行進曲」の風間杜夫見たらちょっと落ち込むわな。
落ち込むよ。
3人で見ちゃったんだ。
3人で見てひと言もしゃべらずに別れたよ。
いつもだったら「じゃあな」…いろんな事言って別れるのにもう見終わったあと口きかなかった3人とも。
それでもう駄目だって思ってでも駄目だと思うと同時に何かちょっとやる気も出てきたんだろうな。
そのあと俺たちは「お笑いスター誕生!!」になってとんねるずと一緒に10週勝ち抜いていくんだよ。
俺たちはいつも一丸となって生きてきたじゃないか!あの冬の八甲田山の遠足を思い出せ!おめでとうございます!一方役者を諦めサラリーマンをしていた高田純次の人生も偶然の出来事に大きく揺さぶられます。
ふと飲みに入った居酒屋でかつての芝居仲間の柄本明ベンガルらと再会。
熱く演劇論を語り合う姿を目の当たりにして心がざわつきました。
そのうちにとにかくまた電話かかってきて今度の11月のベンガル演出の芝居に出ないかって言うの。
それでまた芝居をやりたいという気持ちになっちゃってそれで会社に辞表を書いてやり始めたのが30。
マンション200万ためてて。
200万ね劇団入ってから10か月で無くなったね。
舞い戻った貧乏役者生活。
昼間は稽古夜は肉体労働で家族を養います。
しかしいずれは役者一本で食べていきたい。
どん底時代にこの歌から勇気をもらったと言います。
たまらんね!これね。
泣くね!どうした?いや〜だからお金無くなりました200万も。
子どもは1歳でした。
1歳の子どもがいた。
それでも辞めたんだから。
もう1歳だ。
その時にやっぱりしょうがないアルバイトしなくちゃいけないからそれで道路工事の肉体労働。
12時から6時まで稽古して常盤台の飯場に行くのに30分。
夜7時から道路のアスファルトをやる合材というのを取りにダンプで行ったりとか朝の5時までやってます。
5時から家に帰って6時。
すぐ寝てまた11時には出なくちゃいけない。
その飯場を…やっぱり俺舞台があるから辞めなくちゃいけないじゃんある時期。
まあみんなそうだよね。
ところが今までその飯場っていうのは意外と全国から流れ歩いてる人たちが職人さんが多いんだよね。
ところがその飯場に置いとくためにその人が辞めるって言うとその親分がロッカーから日本刀出して脅かすのよ。
俺それ見てたから芝居で辞めるって言うと日本刀で脅かされるかなと思ったのよ。
でも脅かされても辞めなくちゃいけないから。
そうだね。
俺もずっと飯場にいられないから。
俺は芝居が本道だからしょうがない「もう辞めさせて下さい明日で。
ちょっと芝居の方が…こういうのやってて来れないから」。
そいつがロッカーからガンッと開けて持ってきましたよ。
何を?ギターを。
日本刀じゃないの?日本刀じゃないんだよ。
ギター持ってきて?「よし高田お前が辞めるんなら俺がちょっと餞別の曲を弾いてやる」。
その弾いたのがこの「他人船」だった。
そこでそいつがボロボロ泣きながらこれを弾くのよ。
これがすっごいうまいのよ。
それがこの曲ならばそら思い出深いでしょう。
こう歌って…。
それで送り出してくれたの?うん。
「頑張って役者になれ」。
意味は分かんないけどあれだよね。
俺たちの事を全然駄目で若いのにどこかでちょっとだけ背中押してくれる人いるよね。
この世の中に。
うれしいけどね。
サラリーマンという安定を捨て再び役者への道へ飛び込む決意をした高田純次。
受験戦争に敗れ役者としても挫折した2人が最後に裸で飛び込んだのはテレビの世界でした。
台本を俺真っ赤になるまで書き込み入れてそれが全部駄目になっちゃっても仕事来るんだったらもうテレビで何やってもいいと思った途端に来た仕事が「夕ニャン」なのね。
六十何年ずっと生きてきて主役の映画といった時神はまだ許してくれないんだと。
まだ主役を許してくれない。
まだ主役をお前は張るんじゃないと。
音楽でつづる男たちの物語。
次回生き馬の目を抜くテレビの世界で2人は自分の輝く場所を見つけます。
2014/07/17(木) 00:00〜00:45
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「高田純次×大竹まこと 第1夜」[字][再]
高田純次×大竹まことの「人生の10曲」▽受験で挫折を繰り返した高田に響いたアメリカンポップス▽高校時代、同級生の女の子の急死に絶望した大竹を救ったフォークソング
詳細情報
番組内容
高田純次×大竹まことの「人生の10曲」▽団塊世代のマルチな才能を発揮するタレント高田と大竹。親交が深い2人が浮き沈みの激しい人生を語りつくす▽高校・大学受験で挫折を繰り返した高田に響いたアメリカンポップス▽高校時代、同級生の女の子の急死に人生を絶望した大竹を救ったフォークソング▽実は、役者志望だった2人。夢に挫折し葛藤した日々▽「悲しき雨音」ザ・カスケード・「八月の濡れた砂」石川セリ
出演者
【出演】高田純次,大竹まこと,【語り】ヒロ寺平
ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0×0808)
EventID:14658(0×3942)