三日月さんは、嘉田知事が提唱した卒原発の継承を訴え、あわせて、安倍政権による集団的自衛権の行使容認を強く非難。
自公推薦候補らを破って初当選を果たしました。
三日月さんは22日、初登庁する予定です。
『徹子の部屋』でございます。
昨日に引き続き追悼を送らせていただきます。
去年の12月から現在までの間に亡くなった方で『徹子の部屋』に出てくださった方々の追悼をお送り申し上げます。
ご覧になっておわかりのようにどの方も本当に生き生きと幸せそうに話をしてくださっています。
そのお姿を皆様に覚えていてほしくて追悼をお送り申し上げます。
最後までごゆっくりご覧ください。
さて今日お送りするのは俳優の宇津井健さん。
それからフリーアナウンサーでいらした山本文郎さん。
声優の永井一郎さん。
サザエさんのお父さんの波平さんの声で有名でいらっしゃいました。
それから俳優のすまけいさん。
そして歌手の安西マリアさんです。
まず宇津井健さんです。
宇津井健さんは1953年映画デビューをなさいました。
本当にハンサムな方で素晴らしい映画にたくさんお出になりました。
そのあとテレビドラマにお出になりましたけれども誠実で理想的なお父さん。
そういう役でご活躍になって晩年まで第一線で活躍なさいました。
それでは宇津井健さんからです。
どうぞご覧ください。
そうですね。
僕は60歳還暦迎えた時に…。
あっもうそうですか?はい。
もう3年ほど前に迎えました。
あっそう…。
おめでとうございますっていうのかしら…。
何ですか…自分もそろそろ終わりに近づいたなというような気持ちになったこともございましてね。
番組終わって打ち上げなんかは今まではもう一丁上がりっていうような軽い気持ちでいたんですけども本当に人に迷惑をかけずに1本仕上がったっていうことをしみじみと思うようになってしまいましてね。
何となくこう…遺書を書き終わったようなそんな気持ちになったことがあるんですね。
よく役者は舞台の上で死ねば本望だなんていいますけどこんなはた迷惑な話はなくてやっぱり1本1本仕上げてからねという気持ちで。
ですけども最近の敬老の日にそういう…立派に九十何歳でもお元気でねやってらっしゃる方たちを拝見して「ああなんだ。
60なんてまだまだ小僧っ子だ」とつくづく思いましてね。
もう変えました考えを。
年なりの役ができるということが僕たちにとっては一番理想っていうんでしょうかね。
やっぱり40なら40の顔があるし5060の顔。
うーん…そこが一番難しいとこのようですね。
でも…宇津井さんと同年配の俳優さんはとっくに孫のある役はやってらっしゃると思いますよね。
この間の『ぴあの』で初めて孫のある役をおやりになったっていうんですからやっぱり宇津井さんはなんかやっぱり永遠の二枚目青年っていうふうに人が思っているっていうところはきっとキャスティングなさるほうにもあるのかもしれませんよね。
ですけどね僕たちがどんなに若く見えたってたとえ55歳に見えても55歳の俳優さんにはかないっこないんで。
やっぱり僕は今63歳ですから63歳にやっぱり見えなくちゃいけないのかな…。
63歳の役をできなくちゃいけないんではないでしょうかね。
ですけど同じ63歳でも例えば外国の俳優のようにひとたび裸になればやっぱりそれなりのね説得力のある体をしてらっしゃるという。
それはやってらっしゃるんでしょ?まあまあ一応はそれなりにはやっておりますけども。
うーん…ですけどやっぱりこれだけの商売を張ってる以上はね元手をかけないといけないと思いますんでその程度のことは…。
俳優生活50年。
もう本当にお出になった最初っからずっと今まで第一線でいらっしゃるのはなかなか大変なことと思います。
ちょっと承ったとこによりますと今日なんかお誕生日でいらっしゃるって。
はい。
72歳になりました。
まあ!そうでいらっしゃいますか。
見ていらっしゃる奥様方がおおー!って。
たぶんそんなふうに見えないっていうことだと思うんですけども。
皆さん映画俳優だって…もちろんそうなんですけど元々は俳優座の…舞台のご出身なんですよね?はいそうでした。
早稲田がうまく卒業できそうもないんでしょうがなくて途中から俳優座に行きましてちょうどその時に抜てきされて出た映画が『思春の泉』というのが…。
一番最初の。
ええ。
ちょうど昭和28年でした。
その『思春の泉』になぜ僕が抜てきされたかっていうと馬に乗れるというだけの条件があったんですね。
乗馬ができるという…。
はいはい。
ちょうど早稲田の馬術部で3年間みっちりやってましたもんで。
なんか胸囲って1メーター10センチぐらいおありですって?はいそのぐらいはね。
だから本当はねジャケット脱いでいただくといいなって思ったんですけど。
いやいやとんでもない。
だって1メーター10っていうのはすごいですよね。
昔から僕は「はと胸出っ尻」と言われましてね。
骨そのものも結構張ってるほうなんですね。
ですからレントゲンで人間ドックなんか行きますと胃を前から撮りづらくて横から撮るという…。
あっ本当だ。
こうやって拝見してると…。
ちょっといいですか?こういうふうにしていただいて。
いえいえそんな!せっかくですから。
別にバストを見せてくださいってわけじゃないんですけど…。
横から撮らないと胃の形がよく撮れないと言われているような…。
でもそれもやっぱり脂肪でなくて筋肉でそういうふうにしてらっしゃるっていうのはしょっちゅうやってらっしゃるから…。
今でも腹筋って一日に何回もやってらっしゃるんでしょ?何百回って。
そうですね。
今300回ぐらいになりましたけど。
本当に一日も休まないっていうのが条件ですね。
確かに一日休んじゃうとその一日は二度と返ってこないわけですからね。
できるだけロケーション行ってもどこ行ってもやるようにはしてますけども。
一回60歳ぐらいの時かおやめになったことあるんですって?そういうの。
やっぱり還暦っていうのは何となく「そうかもうこの辺でやめよう」っていう時期がありまして。
そうしましたら腰痛になりましてね。
へえー。
はい。
もう3年ぐらい苦しみました。
そんなに?はい。
それで専門医に診てもらいましたら「それは今まであった腹筋と背筋が衰えたからである」と。
「今までどおりやんなさい」って言われまして…。
これだけ長くアナウンサーやってらっしゃるから失敗談っていうのが色々あると思うんで…それを伺いたいと思ったんですけど。
失敗談。
生放送の時ですか?テレビでしょ?それは。
ハエが来たって。
ハエが来た!よく調べてありますね。
それはどうしたんですか?スタジオ1分前にブザーが鳴るでしょ?「ブー」。
TBSはそうですね。
そうでしょねえ。
他は鳴らないんですか?他は鳴らないです。
ああそうですか。
TBSだけですかね?あれ。
それを鳴らし忘れた奴がいるの。
その日にかぎって。
1分前ですっていうブザーを?本番の。
スタジオにでかいハエがブーンって飛んでんですよ1匹。
ハエが?ハエが。
「何だ?これ…」「何だこのヤロー!こんなとこに」ってやってたらそっくりそのまんま放送になっちゃったの。
もう入っちゃってたの?入っちゃってたの。
1分前鳴らし忘れてそのまんま突入しちゃったんですよ。
それでどうなったの?それはね僕の死んだ女房がねあー…ついに我が亭主これは病院行きかと思ったそうですから。
いきなり映った時に「あらよっとおらよっと」って音声もしないのにね。
それでほらハエは見えないですからね。
それでいきなりパッて…気がついたですから。
ニコッと笑っておはようございますってやったからどうしちゃったのかな?って。
あらねえ。
「いつ入ったかわからなかったんですから」とは仰れないですからね。
「あっどうもすいません」とは言いましたけど。
だけど15秒ぐらい踊ってたそうですよ。
もう皆様よくご存じだと思いますけどこのたびめでたくですね有名人の中で日本新記録と言われているんですけども再婚なさいまして旦那様におなりになったんですけども元TBSの名物アナウンサーでいらっしゃいました山本文郎さん今日のお客様です。
よくいらしてくださいました。
おめでとうございました。
ありがとうございます。
奥様が43歳の方でいらっしゃるんですけども子供が2人増えてとてもお幸せだそうで色々伺います。
よろしくお願いします。
「君の手料理うまいな。
毎日食えたら幸せだろうな」。
ちょっと言ったんですよ。
そうしたら「私も一緒に生活ができたらいいなと思ってます」って言うんでじゃあそういう気持ちがあるのかな?なんてったって30歳ですからね。
まあねお年の差がね。
だからどうしてもね話をしてても「30だぞお前。
30だぞ」って後ろでささやきかける。
誰かがねうんうんうん。
「大丈夫か?」とか何とか言われるような気になってたんですけど。
でも相手の方もそういうふうに仰ってくださったんですか?はい。
「一緒に生活したいですね」。
なんていうことでしょうねうれしい。
「だけどね俺あと何年生きられるかわかんないよ」「男性の平均寿命は79歳だろ。
あと6年だよ俺」「せいぜいいって10年だぜ」って言ったら「うん…」「でもいいです」って言うんですよ。
「本当にいいの?だってさもしかしたら僕は途中で倒れちゃうかもしれない。
病になって」「あるいはもしかしたらアルツハイマーになるかもしれない」って言ったら「病院に行ってもずっと付き添っててあげるしアルツハイマーになったら介護してあげます」って。
そこでね…よし!じゃあGOサイン出しちゃおうっていっててめえに「GOサイン」って言って。
すごい。
で「じゃあ…結婚しようよ」。
本当にいいの…でも夢のような話ですよねちょっとね。
そんなしかも奇麗で…。
まだねまだ黒柳さんあれですよ。
僕この辺つねってて大丈夫なのかなって思ってますよ。
そうそうそうそう。
前の奥様だってそりゃあ一人でね…。
もちろんお嫁さんもよくしてくださる息子さんもよくしてくださるにしても誰かがいればってね。
介護もちゃんとしてくれる人がいたなんていったら亡くなった奥様だって許してくださるってお思いだったでしょう?そうですね。
女房は1月1日に死んじゃったもんですから。
11年前の。
毎年お正月1日に墓参りに行くんですよ我が家は。
あっそうだったんですか。
それで今年ももちろん1月1日に行きましたけど。
「申し訳ないけど結婚することになっちゃったんだがどうだろうか?」っつったら「いいわよ」って言ってくれたようなね。
亡くなった奥様がね。
そんな気にはなりましたですね。
サザエさんのお父さんの磯野波平さんの声をやってらっしゃる方でいらっしゃるんですがさっき仰いましたけども『サザエさん』始まって…。
32年半。
32年半。
随分長くずっとね。
いやーまあねはい。
でも一番面白いのは一般の方が永井さんでお父さんの声やってるっていうと毛がある!っていうふうにすごいんですってねそれが。
そうですね。
えっ!なんて言われますね。
だって私が絵と同じわけはないのにね。
永井一郎さんは京都大学の仏文科をお出になったんですけど突然そこで俳優におなりになりたくて。
そうですね。
大学時代に演劇やってたもんですから。
そして世の中のこと僕はもう本当にあんまりよく知らなかったもんですから役者になろうなんて思って。
そのまんま役者になってしまった…というわけでもないんですけどもね。
アルバイトのつもりで働いたりなんかしましたけれども。
でも文学座とか俳優座とか民藝とかっていうね…。
全部落っこちましてね。
全部落っこったんですってね。
全部受けて全部が落っこちましたはい。
そしたら今有名な電通でございますけどそこでアルバイトやんないかっていうんで電通でアルバイトやってらしたんですってね。
そしたら…まあ高校卒っていうことでメッセンジャーボーイみたいなアルバイトやってたんですけどね。
ばれちまいましてね。
京都大学を卒業が。
それも私の先輩の目からばれたもんですから入れ!っていうわけでね無理やり入れられて。
でもいいですよね。
今電通みんな入りたいと思ってもなかなか入れないのにやだやだって言ってるのに。
そうなんですよね。
今から考えたらなんと私は傲慢かと思うんですけども。
もう役者になりたいっていう一心だったもんですから2年ぐらいで辞めてしまって。
でもそうこうしてるうちになんか三期会?そうですねはい。
ありましたね。
そうです。
「三期会で人がいるから出ないか?」って言われて。
あっじゃあ出していただこうと。
ついては電通を辞めさしていただこうっていうことで。
しかもその三期会だってがやがやしてるような人でね通行人みたいな役なんだけどもそれでもってお出になって。
それから声優になるおつもりもなかったんですけど『ローハイド』の…。
覚えてらっしゃる方いらっしゃいますか?『ローハイド』の御者のおじさんで?そうですね。
ウィッシュボーンっていうね。
ウィッシュボーンっていう。
その人が老け役だったんですね。
でも私は若かったんですけれど。
そうですねまだ20代?27ぐらいの時ですね。
それで劇団が若くて劇団では老けをやってたもんですから。
三期会の中ではね。
そのまんま老けの仕事がたくさん来るようになったっていうことですね。
ずっとその『ローハイド』で老けをおやりになったもんですから何となく声で老けをおやりになるようになって結局磯野波平さんの声をだから32年やってらっしゃるっていうことは随分お若い時からやっぱり磯野波平さんの声をやってらしたっていうことになりますねお父さんを。
随分若いっていうほどでもないですけどまだ若い頃ですね。
俳優に…京都大学をお出になってそして俳優になりたいなっていうような人間も知りたいなっていうようなことから…。
だけどいきなり『サザエさん』になっちゃってずっと32年いらしたっていう…32年半ですか。
その人生もやっぱり面白い人生ですね。
変な人生だったと思いますね。
でも後悔はありませんし面白かったですね。
まずいきなり来たのが膀胱がん?はいそうでした。
皆さんびっくりなさいますよ。
『葵三代』あれで伊達政宗でこの方出てらっしゃいましたよね。
私もずっと拝見してましたけどジェームス三木さんの本で。
あの時もう既に膀胱がんはやってらした?そうでした。
最中でした。
なってもう1年半ぐらい経った頃でした。
でも措置とか色んなのをやってらしてる時?何とかごまかしながらやらせていただきました。
井上ひさしさんの芝居に出る稽古してらした時にそれがわかったんですって?そうなんですよ。
血尿が出ましてね。
軽く見てたんですけどやっぱりちゃんとした機械があるとこ行ったほうがいいっていうんで東京医大で診ていただいたら「そんななまやさしいもんじゃないよ」と。
だけど決してそこでガンとは仰らなかったんですって?仰らないんですよ。
「でも先生それは悪性腫瘍と仰いますけどそれルビ振ったらガンですよね?」って伺ったら「はいそうです」って言ったんで。
でもこっちもニコニコして「あっそうですか」。
決意に満ちたような顔をしましたけどじーんとしびれてましたね。
もうお仕事が決まってましたしいくつか結局降りました。
手術もあったもんですからね。
だから本当に今まで降りたことのないような…。
ご自分の意思で辞めてるんだったら別だけど。
13年辞めてらしたんですけどね。
それからはもうちゃんとやるっていう気になってらっしゃるんですから。
そうなんですよ。
こまつ座のほうも佐藤慶さんに代わっておもらいになったりとか。
でまあ色々やってらしてそれで『葵三代』の伊達政宗も無事に終わって。
色々やってらしたら突然去年…。
はい。
張り切ってかみさんに洗濯させて僕が干してたらそのうちぐらっときて。
「気持ちが悪いな」っつったら…。
あとはもうなんだかわけわかんないうちにですね。
かみさんは大慌てしてましたよ救急だの何だのって。
「大げさな恥ずかしいこと言うなよ」なんて言って。
軽いちょっとしためまいとか普段ありますでしょ?人は誰でもね。
それから胸にちょっと悪いなんて…。
そんなあれだと思って「明日いつも行く掛かりつけのお医者さんに行くからいいよ」。
そうやって言ってるうちに体がだんだんしびれてきて。
足がもつれたんですって?ええ。
お手洗いに行こうと思ったらもうこうなっちゃうんですよね。
「何だ?これは」と思って。
これつまり私は結果的に左半身不随になりましたけどこの悪い手もその頃まだ…今でも少し動くようになりましたけど必死につかまろうとしたんですな。
でぐにゃぐにゃになって。
奥様が救急車をお呼びになって。
結果的にもうそれが一番いい手だなっていうのがわかってきましたからね時間経つうちに。
さすがの鈍い私でもね。
それでいらっしゃいました病院に。
それでCTスキャンとか色々撮るんでしょ?色々やったらば脳梗塞。
脳梗塞だって言うんですよね。
その時脳梗塞とお聞きになった時はどんなでした?嘘だろって。
だって…膀胱がんになって2年半で普通ああいうのは3年何にも事がなければ大体そのまま寿命どおり生きていけるようになって小康状態になるもんだよっていうのが普通の病院での考え方じゃないですか。
それが…だってそんなじじいをですね死神のヤローが狙ってあのじじい生意気だからあれをちょっと苦しめてやろうってバーンと撃ってまた再び撃たれたようなもんでこれは裏返してみると…ねえ宝くじ2回当たったようなもんでしょ?2回当たったか前後賞全部当たった…。
でもあれですよね?今伺ってるとガンというものは3年とか5年とか経って何事もなければいいっていうのであってその間に他の病気にならないって決まったもんでもないんですよ。
そりゃそうですよ。
でもね重ねてそんなに来ることはないと思います。
ないですよね。
重ね重ねですよそれはね。
愛嬌がないですよねあの…どこにいるんだ?死神が。
でもその時はそうお思いになりました?やっぱり死神のヤローが。
ヤローがですよ。
そういう意地悪するんならお前俺の芝居よっぽど嫌いなんだな。
俺絶対死ぬまで辞めねえからな。
おーい!っていうぐらいに思いましたよ。
そうですって。
でもその時にとても反省なすったんですってね?何でしょう?なんかね自分は生意気だったって。
そうでもないんですか?生意気でした。
私たちそう思わなかったんだけどやっぱりご自分自身がそう?はい。
それからマイナーマイナーに考えてるっていうふうなポーズを取り過ぎでありました。
芝居はどうせ半端者でついでにやっててやりたくもないのにやってるっていうようなことを言い立ててましたし。
それから志ん生師匠のマネをして「下手な芝居を見るのは嫌いだ。
下手がうつるから」などと得意になって言っておりました。
パクってきて。
それは実に生意気でありました。
とっても色んな人に世話になって。
普段から芝居やってる時もスタッフの方でも他の相手役の方でも世話になってるってとってもよくわかる機会をつくってくれたんですかね。
今までそういうこと考えてもいらっしゃらなかったような…。
言ってみれば極端にですけども考えてもいないぐらい傲慢でありましたね。
ちっともお変わりがないようにお見受けいたしますけれども40年前に『涙の太陽』が大ヒット。
アイドルでいらしたんですけど。
ちょっと聴いていただいて。
これでしたっていうのを皆さんにちょっとお聴きになっていただいて。
ああこれはレコードジャケットです。
そうですね。
はい。
随分日焼けして。
ええ。
伊豆のほうだったと思います。
そうですってね。
これは2曲目の『愛のビーナス』っていう曲の…。
あなた本当にヒット曲多かったですね。
「恋するこころ」あっこれも…。
可愛い。
『ジャニー・ギター』っていう曲がありましたよね。
あれをちょっとカバーして『涙のジャニー・ギター』っていう曲を…。
ああこれはですね私がデビューした時の衣装でデビューして1か月後に出した『マリア登場』というLPです。
LPのジャケット。
そうなんですか。
これはそのジャケットの裏ですね。
すごいですね。
『マリア登場』。
バイク乗って。
でも涙の…今の曲がそうなんですけど。
はい。
きっと覚えてらっしゃる方いらっしゃると思うんですけどもレコード大賞の新人賞もお取りになったりしてね。
今でも時々歌ってらっしゃるんですってね。
今はね月に2回ライブやってます。
あっそう。
はい。
昔のファンの方とか来てくださったりして?たくさん来てくださって。
私のあのLPとかねさっきの。
それとかシングル盤のを持っていらして。
それ相当の地位のある方もいらっしゃるんですよね。
でもそういう方もね来てくださって。
そりゃそうですよね。
40年前だからね。
私やっぱり歌っててよかったのかなって思います。
サインしてくださいとかって仰る方もあるんですって?昔のあなたのアルバムとかねお持ちになって。
ええ。
雑誌とかを持ってきて。
あっそう。
じゃあそういうふうな歌をお歌いになる時はやっぱり何ていうの?晴れ晴れとして今はねご病気もすっかり治って。
それでね私のこういう振りがあったんですよね。
それをね一緒にやってくださるんです皆さんで。
あっそうなの。
ありがとうございました。
安西マリアさんは偶然なんですけどもお亡くなりになる1年前にたった1度だけのご出演だったんです。
でも『徹子の部屋』で見ていただけて本当にうれしいと思っております。
これからますますご活躍なさればいいと思っていました時の突然の訃報で本当に残念でたまりません。
それでは明日特集の皆さんをご紹介申し上げます。
明日は俳優で演出家の高橋昌也さん。
料理研究家の小林カツ代さん。
どの方も本当に優れた才能の持ち主でいらっしゃいました。
どうぞ皆様明日もご覧ください。
お願いいたします。
続いては上沼恵美子さんの『おしゃべりクッキング』です。
2014/07/15(火) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋[字]
〜追悼特集