昭和15年国が作った宣伝映画です。
スパイの目はスパイの耳はスパイの手は
戦争に向かう中で国民にスパイへの警戒を強く呼びかけています。
軍事上の秘密が彼らスパイの手に渡った場合その犯人を処罰する事によって決して償いうるものではありません
こうした時代に運命を狂わされた家族がいます。
戦時中兄がスパイとして刑務所に送られました。
太平洋戦争が始まった昭和16年12月8日。
北海道帝国大学の学生だった宮澤弘幸さんが親しいアメリカ人に軍の秘密を漏らしたとして逮捕。
懲役15年の刑を受け戦後間もなく亡くなりました。
問われたのは軍機保護法違反。
軍事上の秘密の定義が曖昧で拡大解釈されるおそれがありました。
事件から73年。
秋間さんは兄の無実を訴えるため今なお苦闘を続けています。
ご自分のお子さんがスパイと言われたらどうですか?そうしてその兄弟である私はいろんな人から石を投げられました。
それは多分私がスパイの妹だったからだろうと思います。
あの時代国に奪われた兄の名誉を取り戻したい。
スパイの妹と呼ばれた女性の記録です。
秋間美江子さんは2年ぶりに日本に戻ってきました。
50年前夫の転職でアメリカに移住した秋間さん。
度々来日してはスパイ容疑で逮捕された兄の無実を証明しようと活動を続けています。
日本の国をこよなく愛しております。
けれどもあんな間違いをされたら困るんですよ。
秋間さんが大切にしているものがあります。
兄宮澤弘幸さんが残したアルバムです。
家族の記念写真や大学時代に旅行した時のスナップ写真などが宮澤さん自身の手でまとめられています。
宮澤家は東京の裕福なサラリーマン家庭でした。
秋間さんにとって8歳年上の長男弘幸さんは自慢の兄。
英語が得意でスポーツ万能。
学校の行進では常に先頭でした。
ここにこう革のベルトして。
ちょっと穴が開いたみたいなので。
宮澤弘幸さんが親元を離れ北海道帝国大学に入学したのは昭和12年。
好奇心旺盛な学生でした。
2年後大学の外国人教師と日本人学生とでサークルを結成します。
ドイツ人やイタリア人フランス人などが参加。
語学を勉強したり互いの国の文化について語り合ったりする集まりで宮澤さんは多くの友人を得ました。
特にアメリカ人の英語講師ハロルド・レーンさんには息子のようにかわいがられました。
2人は一緒にハイキングに行くなど家族ぐるみのつきあいをするようになりました。
宮澤さんとの交流を覚えている外国人がいます。
サークルで親交のあったイタリア人研究者の長女です。
一方で宮澤さんは愛国心の強い学生でもありました。
陸軍が募集した学生向けの訓練合宿に志願して参加。
その時の興奮を手記に残しています。
「教官はいかにも軍人らしく簡潔で徹底的。
この点では軍隊式のよさがとてもうれしかった。
数百の戦車が天地をとどろかしながら突進。
戦争とはなんと偉大な現実であろう」。
イタリア人研究者の妻トパーツアさんは当時の宮澤さんの国を大切にする人柄をよく覚えているといいます。
しかし戦時色が濃くなるとともに国内では外国からのスパイに対する見方が厳しくなっていきました。
国は外国人にむやみに近づかないよう呼びかけます。
スパイの目はスパイの耳はスパイの手は
そして…軍事上の秘密を探知または収集し外国人に漏らすなどのスパイ行為を行った場合最高刑が死刑とされました。
こうした中宮澤さんは…しかし親しくなった友人たちとのつきあいを変える事はありませんでした。
その年の…朝宮澤さんはラジオのニュースを聞いて飛び起きました。
(ラジオ)「帝国陸海軍は本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。
アメリカが敵国となった事で宮澤さんはレーンさんの身を案じます。
レーンさんの住む大学内の外国人官舎に駆けつけました。
その時の様子を妹の秋間さんは戦後兄の宮澤さんから直接聞きました。
先生の所に…でも先生がアメリカ国籍だからこれから困る事がいっぱいあるかもしれない。
その時はどうぞ弘幸に言って下さい。
しかし宮澤さんの周囲には既に特高警察の監視の目が光っていました。
その日の午前中にレーンさんはスパイ容疑で逮捕。
宮澤さんもレーンさんに秘密を漏らしたとして逮捕されました。
東京の家族には逮捕された事以外詳しい事は一切伝えられませんでした。
状況も分からないまま両親は札幌に向かい秋間さんは自宅で留守番をしていました。
すると数日後突然数人の私服の警察官たちが土足で上がり込んできました。
物音がして居間を開けると異様な光景が広がっていました。
父や兄が買い集めた洋楽のレコードがメチャメチャに割られ部屋中に散乱していたのです。
秋間さんは言い知れぬ恐怖を覚えました。
逮捕され拘置所に捕らわれていた宮澤さんに対して取り調べは容赦ありませんでした。
スパイ容疑を断固として否認し続けた宮澤さん。
逆さづりや竹刀でたたかれるなどの拷問があったと後に担当弁護士が証言しています。
家族は宮澤さんと面会する事さえ許されませんでした。
母親のとくさんは今度は秋間さんと一緒に北大に向かい学長に助けを求めました。
ここで秋間さんたちは驚くべき事を告げられます。
宮澤さんは既に退学扱いになっていたのです。
母が手ついて学校に「助けて下さい」というような文句を言っておりました。
あなたの学校の学生なんだから先生助けて頂きたい。
でも確かその時の先生の言葉は大変冷たかったと思います。
(取材者)ご記憶されてるんですね。
はい。
もう要するに「学生ではない」というような事を言われてました。
北大とけんかする訳じゃないけれど…平和な気持ちではなかったでしたね。
その後家族は逮捕理由がスパイ容疑だったと知らされます。
秋間さんの学校の行き帰りには黒服の男が後をつけるようになりました。
周囲からは白い目で見られ家族は人目を避けて暮らすようになりました。
しょっちゅう引っ越しをするんですよ。
1か所にいて5か月も6か月もいると何となく「あっあれがスパイの家族だ」って言われますからそう言われる前にまたどっかへ越すんですの。
それは本当につらい事でしたね。
逮捕から1年半。
無実を訴えていた宮澤さんとレーンさんは共に懲役15年の刑を言い渡されました。
レーンさんは間もなく捕虜交換船でアメリカへ帰国。
宮澤さんは網走刑務所に送られました。
宮澤さんが入れられたのは畳3畳ほどの独居房でした。
冬氷点下20度まで冷え込む網走。
戦争の激化とともに刑務所の食糧事情が厳しくなり宮澤さんの体力は奪われていきます。
2か月に1度東京から列車と船を乗り継いで通い続けた母親は弱っていく息子をただ見守る事しかできませんでした。
宮澤さんはここで2度の冬を過ごし結核を患いました。
終戦の2か月後。
GHQの通達により政治犯が釈放。
宮澤さんも出所しました。
自宅に戻ってきた兄の様子が今でも秋間さんは頭から離れないと言います。
お兄ちゃま帰ってらして寝てらっしゃるからご挨拶してらっしゃいって言われたんです。
私は母に。
離れの8畳か何かに布団が敷いてあってそこに寝てらしたんだけれど…。
人間が入ればどうしたってこっぽりするでしょう。
それが全然こっぽりしてないの。
足なんか2本のこういう骨だけなの。
もう本当にねあれで皮がかぶってなかったら骸骨ですよね。
これは戦後の宮澤さんが写った唯一の写真です。
家族の必死の看病もあって回復の兆しが見えていた宮澤さん。
いつか北海道で何があったか洗いざらい本に書くと家族に漏らしていました。
しかし昭和22年。
突然洗面器いっぱいの血を吐き帰らぬ人となりました。
27歳の若さでした。
兄はスパイじゃない。
秋間さんは戦後事件の真相を突き止めるため何度もアメリカと日本を往復してきました。
しかし事件に関わる資料は終戦とともに焼却されたと見られ容易には見つかりませんでした。
事件から40年余りたった頃1つの資料が見つかりました。
大審院今の最高裁判所の判決文。
秋間さんが知りたかった宮澤さんの詳しい容疑が記録されていました。
宮澤さんが漏らしたとされる秘密とは根室を旅行中に知った海軍飛行場の存在でした。
兄宮澤弘幸さんのアルバムに手がかりとなる写真が残されていました。
昭和16年夏樺太・千島方面を船で旅行した時のものです。
判決文によると船旅を終えたその帰り宮澤さんは根室から汽車に乗った事になっています。
偶然乗り合わせた乗客が話していた事を宮澤さんが覚えていました。
この事を帰ってからレーンさんに旅行談の一つとして話した事が軍の秘密を漏らした罪に問われていたのです。
しかし秋間さんたちが調査を進めると意外な事実が分かってきました。
奥に広がるのが海軍飛行場跡地です。
すぐ脇には国鉄根室本線が走っていて列車の窓から誰でも飛行場を見る事ができました。
列車の乗客には「窓の外を見るな」などの指示はなかったといいます。
見えるでしょうこれなら。
そして事件が起きる7年前の昭和9年に発行された絵葉書。
お土産用として売店などで売られていたものです。
線路脇に海軍飛行場が描かれています。
根室に海軍飛行場がある事は広く知られていた事が分かったのです。
なぜこの事が軍事上の秘密にされてしまったのか。
理由は軍機保護法にありました。
軍機保護法では軍事上の秘密の範囲は細かく定められておらず陸軍大臣または海軍大臣が命令をもって決めるとあります。
そこで判決では「どんなに一般に知られている事でも国が秘密であると言えば秘密に属する」と断定されていたのです。
とっても悲惨な例だと思います。
こうした拡大解釈はなぜ行われたのか。
調査に協力した専門家は「国家の意にそぐわない活動は厳しく統制する」という思惑があったと分析します。
戦争そのものも一部の人の戦争ではなくてかつてのような戦争ではなくて国民全体の総力戦の戦争という事になりますので。
あんな事件がなかったら私の兄はまだ生きているはずなのにと思うと悔しいというか…罪を着せられ亡くなった兄。
せめて名誉の回復だけでもしてあげたい。
おととし85歳になっていた秋間さんは北海道大学と話し合いを持ちました。
・どうぞ。
はい。
宮澤さんは逮捕後間もなく退学した事になっています。
北大を愛していた兄が自分で退学届を出すはずがなく退学処分を取り消してほしいと秋間さんは申し入れました。
失礼致します。
退学を命じるという事はないので退学の処理を…。
届けですね。
届けを受け付けるというそういう表現なんです。
ですから…。
じゃあその…それは見つからないという事で…。
それ自体が残っていない。
ただ記録に残っているだけという形なんです。
ご苦労さまでした。
ありがとう。
70年以上も前の事はもう分からないかもしれない…。
兄の名誉回復は難しいとこの時秋間さんは考えていました。
(鳥のさえずり)今年5月秋間さんは2年ぶりに北海道にやって来ました。
宮澤さんについて新たに分かった事実を報告したいと北大から連絡があったのです。
ところが到着早々倒れ込んでしまいました。
ガンの手術を5回受けている秋間さん。
87歳の体に長旅の負担がのしかかります。
大学との話し合いは非公開で行われました。
大学側が見つからないとしていた退学願です。
宮澤さんが所属していた工学部の文書の中に残っていました。
宮澤さんの自筆である事は秋間さんが確認しました。
厳しい取り調べを受けていた拘置所で書いたものと見られます。
北大に迷惑をかけたくなかったのかもしれないと秋間さんは考えています。
そしてもう一つ秋間さんが予想もしていなかったものが大学側から示されました。
戦後の文書の綴りの中にそれはありました。
宮澤さんの復学願です。
軍機保護法違反の嫌疑は無罪放免になったので大学に戻りたいという内容でした。
日付は逮捕された日と同じ12月8日でした。
この日から止まってしまった時間を再び動かしたいという執念なのか。
大学がこの復学願を受理していたという記録も見つかりました。
この日秋間さんは一つの決心をしました。
兄が残したアルバムを大学に寄贈する事にしたのです。
73年前北大生が巻き込まれた事件をずっと忘れないでほしいと思っています。
私は涙が出ますけど兄はすごく喜ぶと思います。
(取材者)涙が出るというのはやっぱり手元から…。
自分の手元から離れるのがね。
でも私一人でこれを見ているよりは北大の学生さんたちが見て下さった方が北大の歴史も多少分かるでしょうしずっとずっとずっと効果的だと思います。
退学願と復学願が見つかったあと大学から秋間さんに提案がありました。
語学が優秀で国際感覚を持った学生を表彰する宮澤記念賞を創設したいというのです。
「宮澤の名が残るなら」と秋間さんはこの提案を受け入れました。
アメリカへ帰る日。
秋間さんは兄や両親が眠る東京のお寺で最後の墓参りをしました。
宮澤家の家族が背負い続けた事件はようやく区切りがついたと報告しました。
…と私は思っております。
しかしどうしても拭いきれない気持ちがあります。
なぜ家族はこんな苦しみと闘わなければならなかったのか。
夢と希望を抱いて北海道に渡り全てを奪われた兄。
息子の無事だけを祈り網走へ通い続けた母。
スパイの妹として隠れるように生きてきた自分。
あの事件さえなければ…。
私は暗い暗い暗い人生でしたから。
誰だってね明るい人生持たなければ。
人生って1つしかない。
命って1つしかないんだから。
それを十分楽しく正しく発表して過ごせる毎日を作って下さい。
行きましょう。
73年前国の秘密を守るという法律のために人生を大きく狂わされた家族がいました。
二度と同じ過ちを繰り返してほしくない。
私たちに託されたメッセージです。
(くるみ)
世界中のほとんどの人は気付いていないけれど2014/07/15(火) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
地方発 ドキュメンタリー「兄はスパイじゃない〜北大生の妹 73年の苦闘〜」[字]
戦時中にスパイ容疑で逮捕された兄の無実を訴え続けてきた秋間美江子さん(87)。兄は当時の「軍機保護法」の拡大解釈でスパイに問われた可能性が浮かび上がってきた。
詳細情報
番組内容
昭和16年12月8日、北海道帝国大学2年生の宮澤弘幸さんがアメリカ人英語講師に軍事上の秘密を漏らした容疑で逮捕された。判決は懲役15年。宮澤さんは過酷な獄中生活が元で、27歳で病死した。妹の美江子さん(87)は、スパイの家族と言われながら、兄の名誉回復を求めてきた。次第に、兄が漏らした“秘密”は、当時も新聞などで知られており、「軍機保護法」の拡大解釈でスパイに問われた可能性が浮かび上がってきた。
出演者
【語り】