(松澤)松本サリン事件って聞いたことありますか?ないです。
どういう事件かっていうの?分かんないです。
聞いたことありますか?事件…。
「松本」…「松本」?はい。
すごい大変だったっていう…事件?
地元の大学生の記憶からも消えつつある無差別テロ
20年前私は現場近くに住む中学生でした
記憶の中にある松本サリン事件
それは「授業中に聞こえるヘリの音」「よく知っている場所がテレビに映っている」「あぁあの人が犯人なんだ」
・河野さん…今日の事情聴取はどんな内容だったんですか?・
「あの人」とは河野義行さん
結局犯人ではありませんでした
松本サリン事件が発生した時私は中学2年生でした。
そして高校の放送部では第一通報者を犯人扱いする報道被害がなぜ起きたのか検証する番組を制作しました素朴にマスコミへの不信感を抱いていた私は事件から20年を経て今度は逆の立場テレビの報道記者として事件に巻き込まれた人々の足跡をたどります。
1994年6月27日
松本市の閑静な住宅街が騒然とした
松本サリン事件
学生や会社員ら最終的には…
…を出した
原因物質が分からないまま事件の翌日
・要するに家宅捜索に入っているというのは間違いない殺人容疑で家宅捜索に入っているというのは…・・逮捕状は?・・逮捕状…・
捜索本部は有毒ガスの発生源とみられていた第一通報者の河野義行さん宅を…
化学薬品数十点が押収された
これを境に疑惑の目は河野さん一人に向けられた
会社役員宅庭の2か所の池から採取した水について検査した結果有機リン系の有毒物質が検出された。
その物質はサリンと推定される。
河野さんが入院している病院には捜査員が張り付いていた
えたいの知れない有毒ガスがナチスドイツが開発した化学兵器サリンと分かった後も疑惑は晴れることはなかった
(レコーダー:弁護士)その河野さんが「薬品の調合を間違えたんだ」とそういうことを述べたということをね報道している記事があるんですけれどそういうことを述べた記憶がありますか?
(レコーダー:河野さん)ありません。
(レコーダー:弁護士)全くないですか?
(レコーダー:河野さん)ないです。
・事件発生から1か月余り・・第一通報者の会社員が今車のほうに向かいまして退院しております・・退院しております・・危ない危ない…危ない!・
河野さんは退院したその日に大勢の報道陣の前で無実を訴えた
私が知らない間にですねえ〜まぁいろんな報道がされましていつの間にかですね容疑者の像と容疑者の像みたいな形でですねつくられてしまっているということですね。
どこでこんなになってしまったんだろうかと。
翌年3月20日
東京都内で地下鉄サリン事件が起きた
それはオウム真理教による無差別テロだった
・第6サティアン前・・麻原容疑者が乗っているとみられているワンボックスカーです・
教団トップ麻原彰晃こと松本智津夫容疑者逮捕
これにより河野さんの疑惑はようやく晴れた
その翌年私は高校に入学しました
所属した放送部では河野さんがなぜ犯人扱いされたのか報道被害を検証する番組を制作していました
長野県内にある全てのテレビ局を取材しました
あの視聴者に河野さんが犯人かもしれないっていうイメージを与えつけてしまったことについてはどのようにお考えになっています?
最初に取り組んだ3年生から引き継ぎ1年半かけて20分の番組にまとめました
(ナレーション)1994年6月27日松本サリン事件が起こった。
原因物質がサリンと分かった時そして記者会見。
河野さんが被害者であると切り換えることはできなかったのか?切り換えるべきだったんですけどもやっぱりね僕ら及び腰だったんですね。
警察がやっぱり…マークしているという人物を外すだけのそれだけの取材の積み重ねはなかったですから…。
非公式の情報を僕らは集めるために取材に回るというケースが割と多くて…。
その取材の中で確実にその情報が確かなのかどうかというできる限りそれを続けて行く。
それから出どころがはっきりしないもの噂の類いだとかそういうものは全て削り落として行く。
それが一番あの事件で出て来た教訓だと思います。
あの過度な功名心。
それから競争。
それから売らんかな主義ですよね。
そういったものによって…冤罪の構図というものは形成されてしまう恐れがある。
弱い個人がですねやはりこの誤報だとかいうものをやった時にこうすぐ気楽に持って行けるようなそんな組織をやはりつくらなければいけないなと思ってます。
事件から20年
今度は報道記者として河野さんに話を聞きたいと思いました
実際私も事件当時中学生でこの近くに住んでいまして高校もここが通学路だったので非常になじみのある場所ではあるんですけれどもサリン事件というもの自体は実は河野さんであったりその事件を見ていたんじゃなくてマスコミをどうしても見てしまっていたんですよね。
事件からすぐに自宅に警察官がそれだけ入ってっていう状況は一般の市民では…あり得ないことだと思うんですが?あの強制捜索っていうのもまぁ流れの中では致し方ないことだとは思ってるんですね。
ただ一番問題は捜索終了後の記者会見で実名発表してるんですよね。
実名発表っていうことなるとまぁ言ってみれば記者の経験則の中で「もうこの人が犯人だ」っていう方向へ一気に行ってしまったというそこが問題なんですよね。
少なくともこのメディアがそのありもしないことを書く…っていうことは思いもしてなかったからまぁ一体この国のメディアってどうなってるんだっていうようなすごく憤りは感じたんですけどね。
警察は…
容疑者を特定していないと言いながら発表では「河野義行宅を家宅捜索」とした
マスコミは「河野さん犯人説」に走った
その時現場にいた記者は家宅捜索をどのように感じていたのか
私は当時の新聞記者を訪ねました
『読売新聞』松本支局に勤務していた永野貴行さん
入社3年目で事件に遭遇取材に飛び回った
被疑者不詳で殺人の容疑で家宅捜索に入るっていうことがものすごく異例…。
(永野さん)まぁとにかく殺人っていうことでね捜索入るっていうことで…。
まぁ僕らも知らない情報を当然警察が持っててもう警察のほうが圧倒的に情報量は多いわけだから。
これはもう河野さんがまぁ怪しいんだろうと。
その時に被疑者不詳だからちょっとこれはおかしいんじゃないかとかそこを冷静に考える雰囲気はなかったし僕もそんなそこはあんまり疑問に思わなかったね。
事実家宅捜索から一夜明けた記事はあたかも河野さんが容疑者かのように印象づけている
永野さんは「河野さん犯人説」に加担した1人として責任を感じ事件から2年後新聞社を退社
河野さんを支えた弁護士に憧れ8度の挑戦の末司法試験をパスした
(永野さん)警察取材というのは警察の情報に報道機関が依拠せざるを得ない。
その世界にいればその構造が変わらない限りは絶対同じことを繰り返しますよ。
必ず繰り返すし現に繰り返してる今に至るもね。
だから僕はまぁその世界から抜けたんだよね。
2004年東京地裁は松本智津夫被告に対し死刑判決
判決は2006年9月に確定した
『オウム』はなぜ松本でサリンをまいたのか?
標的は裁判官の官舎だった
教団松本支部建設の阻止を求めた住民訴訟
判決に危機感を持ったとみられる
犯罪史上に残る松本サリン事件
これまで河野さんに対する報道被害という側面で語られることはあっても他の犠牲者についてはあまり描かれて来なかった
23歳になる息子を亡くした小林房江さん
豊さんは東京の電気関連企業に勤務松本市内の工場に長期出張中だった
サリンがまかれた駐車場から60mほどのアパートに住んでいた
小林さんにとって20年というその月日の流れというのはどのようなものになりますか?
(小林さん)6月になると「あぁこの月か」っていう思いが一番ありますね。
それでやはり電話のあった4時すぎですか。
4時20分頃かなその頃パッと目が覚めると「あぁこの時間に電話があった」って思いがまず一番にしますね。
それがもう20年はずっとそうでした。
息子が松本城とかそういういろんな話をしてましたのでそれも見たくないという感じが片方にはあったんですね。
でまして息子の住んでいたマンションですか。
そこは絶対行きたくないって思いがありましたね。
何か弱い母親ですよそう思うのは。
はい。
2009年松本駅に降り立つ房江さん
息子の命を奪った場所には15年間足を運べずにいた
しかし心に同じ痛みを抱く犯罪被害者の支援をするうちに少しずつ自分を取り戻すことができたという
全く理不尽な事件でほとんどの方がみんな自分の部屋にいて亡くなったんですよね一番安全なとこじゃないですか。
お風呂場だったり居間だったり。
それがもうまったくやりきれない思いですね。
伊藤さんこんにちは。
(伊藤さん)こんにちは。
『テレビ信州』の松澤といいますけれどすいません一度以前お電話さしあげた者ですけれども洋子さんでいらっしゃいますか?ええ。
ここにも20年間変わることのない思いを抱えた人がいる
別にもう私話下手だしね耳も聞こえないしね。
お話できないんですよすいませんね。
傷というかお気持ちというかっていうのは…。
何かまどろっこくてね。
うちの子なんか死んで20年になるけど松本智津夫なんか20年も生き延びちゃったじゃないですか。
ねぇ。
まぁお入んなさいよ。
すいません。
ありがとうございます。
長男友視さんは大学卒業後東京の製薬会社に就職
その後松本市にある出張所に転勤
26歳の時事件に巻き込まれた
千葉から駆け付けた洋子さん
物言わぬ息子との対面だった
亡くなったって言うと何か悲しいから外国でもどこでも出張してるんだと思って自分に言い聞かせててずっと何かあれしたけど今度20年になったっていったらそうかやっぱり亡くなったんだななんて思ってね。
夫輝夫さんは息子を見送って13年後松本死刑囚の死刑執行を望みながら亡くなった
ホントだからね早く裁判で死刑執行してくれるようにねあの〜あれ…法務大臣に手紙も出したしね。
残念だな何のひと言も謝罪のひと言もないし何もあれが分からないで終わっちゃった…っていうことだけがね残念でなりませんね。
痛いかな?
河野義行さんへの疑いは晴れても共に喜んでくれるはずの妻澄子さんは回復の兆しもなく寝たきりのまま
重いサリン中毒に陥っていた
そんな悲しい顔しないで…。
松本サリン事件が終わる時期。
それは妻が元通り治るか妻が亡くなった時。
まぁこういう言い方をしておりました。
そういう意味ではですね私にとっていよいよ松本サリン事件も終わりの時期に来たかなそんな状況です。
にぎやかな家族の時間は一瞬にして壊された
病床の妻に語りかけて14年
澄子さんは松本サリン事件8人目の犠牲者となった
「こんな状態で生きてる人見たことない」…っていうふうに医師が言ってるわけですよね。
医学的にはだから「生きてることそのものが不思議だ」。
そういう中で14年ですよ。
もう10年前にこれ言われてるんですからね私は。
もうホントに命の一滴まで…燃やして去って行ったんかなってそういう思いですね。
河野さんは今鹿児島市に居を構えている
妻澄子さんの3回忌を済ませて松本市から移住した
今も講演や犯罪被害者の支援活動などで全国を飛び回っている
河野さんがまだ松本市にいた頃毎月のように15時間かけて訪ねて来る男性がいた
サリンをまいた車を造った元オウム信者だ
あのね離れの紅葉あれ1本キレイにしてもらってそれからまた離れの奥のほうの紅葉を今やりかけて。
殺人ほう助罪で10年服役
出所して間もなく河野さんに謝罪
交流を続けて来た
男性は今地方の工場で働いています
6年前の取材には姿を隠さず応じてくれました
しかし今回は個人が特定されるのを恐れていました
犯した罪ってことに対してはご自身はどういうふうに今振り返ってですけれど受け止められてますか?今お仕事だいぶお忙しいというふうにお伺いしましたが今のご自身のその生活にとっての生きがいというかそういったものっていうのはどのようなものになりますか?まぁ…。
…んじゃないかなと思います。
定職に就き守るべき生活ができたからなのか言葉を選んで語る信者にも20年の歳月を感じました
そしてこの20年のそれぞれの足跡をたどる中で記者として心に焼きつけたことがあります
サリンによって息子を奪われた伊藤洋子さん
わが子の墓に加害者の名を刻んだ
「たとえ自分が死んでも末代までこの事実を忘れないでほしい」
母洋子さんの父輝夫さんの全ての遺族の…その無念
今日はお肉は…。
四国徳島から生まれた移動スーパー
おばあちゃんの見守り役や相談相手にもなる新たなインフラが今全国に広がります
2014/06/30(月) 01:00〜01:30
読売テレビ1
NNNドキュメント「足跡 松本サリン事件20年」[字]
死者8人重軽傷者600人…松本サリン事件から20年。当時、報道に疑問を持ち検証番組を作った高校の放送部員が、テレビ信州の記者となった今、事件の関係者を訪ねる。
詳細情報
番組内容
死者8人、重軽傷者600人…長野県松本市で起きた無差別テロ「松本サリン事件」から20年。当時、第一通報者が犯人にされていく報道に疑問を持った高校の放送部員は、メディアを逆取材し検証番組を制作した。メディア不信に陥った高校生は今、テレビ信州の記者となり、事件の関係者を訪ねる。疑惑を持たれた第一通報者、報道被害に直面し弁護士に転身した元新聞記者、憎しみから解放されない遺族、そして元オウム信者は今?
出演者
【ナレーター】
久米明
制作
テレビ信州
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
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