(飛行機の音)東松照明。
2012年に亡くなった戦後日本を代表する写真家です。
社会への鋭い批評と写真そのものが持つ表現の力を同居させた作品。
世界で高く評価されています。
そこにあるのは神秘的でありながらどこか懐かしさをたたえた光景。
東松が生涯を懸けて向き合ったのが「沖縄」でした。
つまりサンクチュアリであった。
ほんとに何か…もう撮るのがすごい好きでしたよね。
沖縄への生涯の恋。
写真家は沖縄の何を見つめ何を愛したのか。
井浦新さんは写真家・東松照明の足跡をたどるため沖縄を訪れました。
名古屋東京千葉そして長崎で暮らしてきた東松が最後に選んだ地が沖縄でした。
(インターホン)こんにちはよろしくお願いします。
40年にわたり連れ添った妻・泰子さんです。
どうぞ。
すいません失礼します。
いきなりこちら寅さんですか?そうですね扮してるんです。
東松です。
まるでコスプレ。
こんなユーモラスな作品も残しています。
2012年12月肺炎で亡くなりました。
享年82。
泰子さんは1975年写真の生徒として東松照明と出会い結婚。
作品の完成を支えてきました。
今およそ40年前に東松が撮った沖縄の写真を最新のデジタル技術でより鮮明によみがえらせようとしています。
だから初期のプリントしたものと今…今というか最晩年にプリントしたものというのはかなり違ってるんですね。
だから常にそういうふうに今の自分の感性で焼いてくれというふうな事を言ってましたね。
だから普通はそのまま使うじゃないですかずっと。
年取ってからも同じプリントで。
だけどそれは東松はやらなくてもう必ず自分の今のイメージで作り上げるという事に重要視してましたね。
一般的にはオリジナルプリントにこだわられるのが通念だと思うんですが時代時代によって変化していく自分の感覚を大事にされてたという事なんですね。
時代によってそのまなざしを変化させていった東松。
大きな転換点となったのがこの作品です。
日本最南端の島波照間島で漁船から撮影した一枚。
何気ない風景が何かを語りかけてくるような自然への共感にあふれたまなざし。
東松はこうしたまなざしにたどりつくまでにどのような変化を経てきたのでしょうか。
東松照明は1930年愛知県名古屋市に生まれました。
東松が育った地区です。
現在陸上自衛隊が駐屯している…15歳で迎えた終戦。
東松に大きな影響を与えました。
基地の強い影響を受け急速に変化するふるさと。
東松はそれを「アメリカニゼーション」と呼び自らのテーマとしていきます。
大学生の時に撮影した最初期の作品です。
タイトルは「皮肉な誕生」。
英字新聞から突き出た手が卵を持つシュールな一枚です。
東松と親交があった批評家の仲里効さんはこの作品には東松自身の体験が込められていると言います。
あの写真が意味するものは英字新聞を日本を占領したアメリカという形で読み替えるとすると占領したアメリカの中から日本の戦後社会が誕生していくという非常に寓意に満ちたメーキング・フォトというのが第一点言えるだろうと思います。
東松さんたちいわゆる軍国少年といいますか戦中世代が受けたショックといいますかね大きかったと思いますしその時に既に15歳の少年にとってアメリカそして占領とは一体何なのかという事をじかに考えさせる。
その事はあの写真の中にも出てくるというふうに思っています。
2年後東松が写真雑誌に応募し入選した作品です。
タイトルは「わたしの町」。
アメリカ兵と日本人女性の間に生まれたと思われる幼児。
みすぼらしい駅舎に似つかわしくない明るい装いの女性。
剥がされた再軍備反対のポスター。
アメリカ軍基地と隣り合わせのふるさとの光景です。
1960年前後東松は日本各地のアメリカ軍基地を撮影。
その名も「占領」と題したシリーズを発表します。
横須賀の路上で少女がシャボン玉を膨らませた一瞬。
アメリカと見まがう町並みの中薄い被膜の球体の内側に入った少女は戦後日本そのものを暗示しているかのようです。
地面に寝そべって撮影したのでしょうか見下ろしふざけてカメラを踏みつけようとするアメリカ兵たち。
見た事もない視点からの一枚に占領の現実が切り取られています。
至近距離から撮影した黒人兵。
威圧的でありながら人間的な体温を感じさせる複雑な表情。
戦闘機が太陽を横切る一瞬を白黒反転させたもの。
占領の現実を写真にしかできない表現で記録しこれまでにない新しい写真と驚きをもって迎えられたのです。
しかし写真界からは痛烈な批判がわき起こります。
執筆したのは名取洋之助。
戦前からドイツやアメリカの写真ジャーナリズムを日本に導入してきた写真界の大御所です。
名取は東松の写真が印象だけで内容を欠いていると批判。
更には東松が「事実尊重」を捨てたと言い切りました。
東松の写真は一見どこの何を撮ったのか分かりにくくそれまでの報道写真のような客観的な説明性に欠けると指摘したのです。
翌月東松は雑誌に反論を投稿。
名取と全面対決します。
自分は「事実尊重を捨てていない」と主張。
自分の写真もまた事実を捉えておりむしろ型どおりにしか事実を表現しないこれまでの写真の概念こそ破壊すべきと宣言したのです。
当時から親交のあった写真家の森山大道さん。
森山さんはこの論争は写真が事実にどう向き合うべきか両者の考え方の違いを示していたと語ります。
名取さんというのはねやっぱり何と言うのかな…。
ある意味それは僕にとってはロマンチックなふうに見えたね。
でもそのリアリズムというのも今言った事実べったりのそういうリアリズムではなくて…事実の本質を写真だからできる表現でからめとる。
東松の新たなリアリズムは同時代の写真に大きなインパクトを与えました。
「占領」のテーマを掘り下げる中東松は当時アメリカ統治下にあった沖縄に目を向けます。
1969年2月。
「占領」シリーズの集大成として沖縄の地へと向かいました。
新さんは45年前東松が撮影に訪れた嘉手納基地へとやって来ました。
そこには当時と変わらぬ光景が広がっています。
東松さんの言葉がすごい印象的に残っているのがこのフェンスから占領というものが区切ってるんじゃなくてこっちへどんどん浸食してきてるというか。
そういう東松さんの言葉がすごい印象に残りますよね。
占領というものが。
那覇市にある老舗カメラ店です。
正面から撮れっつって…。
この店では50年にわたり写真愛好家の集まりが催されています。
会を主宰する山田實さん96歳。
山田さん自身戦争で傷ついた沖縄を写してきた写真家です。
復帰前本土から沖縄に行くためには身元引受人が必要でした。
同じ写真家として東松の頼みに応じたのが山田さんです。
もうね髪ぼうぼうヒゲぼうぼうでね飛行場で。
その時分あんな格好で沖縄に来る人ってのはいないですよ。
みんなきれいな格好して来るでしょう?外国だからね。
それを東松さんだけがヒゲぼうぼう。
こんな顔して。
あっえらい人の身元引受したなと思って私。
山田さんが東松から案内を頼まれたのは意外な所でした。
それは…軍のちり捨て場を撮影するっていう。
僕ら前原さんと2人で案内したんだけどこんな被写体をね撮影するというのがもう僕らとしては驚きだったです最初はね。
ひたすら被写体を探してクーッと回って。
汚いとこ回るなあって思って。
この時沖縄で撮った写真をまとめた写真集です。
表紙に大きく記された言葉は…山田さんと一緒に回った基地のゴミ捨て場の写真。
フェンスの外側にも基地があふれ出しているかのようです。
更に東松は基地に抵抗する人々の生々しい体をも捉えていました。
一方でこの写真集には「東松の変化」を予見させる作品も含まれていました。
写真集の最後に収められた基地や占領とは異なる人々の営みを写した写真。
沖縄の中に新たな一面を見いだしていたのです。
東松は占領下に置かれているはずの沖縄で占領の影響をはね返す自然と人々の営みに強く惹きつけられたのです。
1972年沖縄は日本に復帰。
東松はそれと同時に住民票を東京から沖縄へと移します。
新さんは当時東松が住んでいたアパートを訪ねました。
お邪魔します失礼します。
はいどうぞ上がって下さい。
失礼します。
ありがとうございます。
あぁ…お〜!へえ…。
東松がこのアパートから撮影した写真です。
「占領」というテーマでは捉えきれない沖縄にどう向き合うべきか。
今のスタイルでは難しいと感じもがいていました。
ご自身のその写真の持つ力というものに壁にぶち当たって無力感を感じて。
でもそこでくじけてないですよね。
すぐさま「好きなものしか撮らない」という言ってみればこれは宣言ですからね。
本当にこう自分の弱さや負けを認めたところからもう一回はい上がってやるぞというすごい強い意志というものを感じる言葉ですね。
1年後の1973年。
東松は沖縄本島から西へ300km宮古島へとやって来ます。
誰一人己を知る者のいないこの島で有名写真家という肩書を捨て人々と交流していきます。
東松と親しく交流した一人です。
東松が当時暮らしていた家に案内してもらいました。
これですよこれ。
この家ですよ。
(聞き手)残ってるんですね。
(下地)残っていたんですね。
シマサバはいて半ズボンつけてTシャツ着てひげ面でサングラスかけて「どうも」みたいな。
「変な人。
あれ誰?」みたいなものでしたから。
自分でも「写真家東松です」とは言いませんでしたよ。
「あの人もしかして三億円の犯人なんじゃない」とかすごい無責任な事も言って。
当時17歳だった下地さん。
復帰後も沖縄ではさまざまな矛盾が噴出。
政治の季節にぶらりとやって来たのが東松でした。
8畳一間ぐらいでしたから。
そこにみんな若者たちも夜な夜な膝寄せ合ってぎっしり座り込んでいるんですよね。
(聞き手)どのくらいのペースで来てたんですか?
(下地)毎日ですよ毎日。
東松の元にはシマの若者たちが集まり誰が付けるともなく「宮古大学」と名付けられました。
政治や恋愛を語りシマの歴史を学ぶ場となりました。
私たちはその写真家としての名声を得ている東松照明とつきあってきたのではなくて「無職ですか」みたいな東松照明とつきあっていた。
だから多分写真家としてすごい人なんだというのを最初からみんなが分かってればあんなふうにはつきあわなかったと思います。
宮古大学の若いメンバーとのつながりの中でその軍国少年で育った自分の青春を取り戻そうみたいのはあったんじゃないですか。
だからうれしそうでしたよ。
このころ島々を巡って撮影した写真。
シマの古老や祭祀や風習が捉えられています。
ここにはもはや占領の影を追うまなざしはありませんでした。
「写真家は見ることがすべてだ。
だから写真家は徹頭徹尾見続けねばならぬのだ。
対象を真正面から捉え全身を目にして世界と向き合う見ることに賭ける人間それが写真家なのだ」。
批評家の仲里効さんは宮古島での日々が写真に決定的な変化をもたらしたという東松の告白を聞いています。
東松さんの宮古での体験というものは……というふうな言い方をしてるわけですね。
戦後を代表する日本の写真家東松照明というものを一旦宮古によって解体しもう一度もう一人の東松照明というものがそこで誕生していくというサンクチュアリの場でも宮古はあったんじゃないかと思ってます。
東松は沖縄で「占領されざるもの」を発見。
それに向き合うためこれまで築き上げてきたものを一旦捨てただ「見る」事にかける事で対象に「撮らされ」沖縄に寄り添っていったのです。
そして1975年。
東松は一冊の写真集を刊行します。
「太陽の鉛筆」。
1年7か月に及んだ沖縄体験の結晶です。
(森山)「そうか東松さんやってんだあ。
僕が東京で酒ばっかり飲んでぐずぐずしてる間にやってんだあ」というね。
森山大道さんは「太陽の鉛筆」に強く惹きつけられたといいます。
(森山)写真がこう目にしみたというか心にしみたというかねそういう一冊だね。
やっぱり東松さんの写真というのはとことん詰めていくと全て写真のその原質に戻っていくそういう感じはあるね。
うん。
何かこうあまり現象を撮ってるというふうには見えてこない。
やっぱりどんな一枚もその原質みたいなものを保ってるというのそういうふうにやっぱり思うね。
(森山)何でもないこういう写真いいよね。
全身を目として世界に向き合おうとした写真家のまなざしが映し出されています。
写真集「太陽の鉛筆」は後半カラー写真へと変わります。
沖縄に交ざってタイフィリピンインドネシアなどアジアの国々が登場します。
東松は宮古島滞在のあと東南アジアを巡っていました。
沖縄に深く身を浸す事で占領のイメージから解き放たれた東松。
国境を軽々と越え鮮やかな色彩にレンズを向けていったのです。
東松は沖縄県に無償で582枚の作品を寄贈しています。
沖縄で得た新たなまなざし。
それを今度は沖縄に還元しようと考えていました。
沖縄から東京へ戻った東松は同世代の写真家たちに声をかけ若者に写真を教える事を始めます。
1974年には沖縄で写真学校を開催しました。
この取り組みは沖縄から多くの写真家を生み出すきっかけとなります。
東松は「沖縄からのまなざし」を刺激したかったのではないか。
そうそうそのぐらいの角度でいいです。
東松と親しく交流してきた写真家です。
沖縄生まれの写真家として写真を撮る事にこだわり続けてきました。
東松さんのようによそから来て住み着いて撮って帰って発表するのもよし。
だけれどずっとここにいてずっとここで写真を撮ってる者の写真がもっとよしって言ってるわけ。
だから私はどうぞ撮って下さいと。
自分たちはヤマトに対して見れ見れ攻撃をしますと。
私は見て下さいなんてそんな下手に出ないわよ。
あんたたち見てよという事で私はこれを私の写真を見れ見れ攻撃沖縄人の写真を見れ見れ攻撃するんだって言ってるわけ。
だから彼と比較とかっていう問題じゃないんだよ。
彼の写真は上等。
だけど自分たちの写真沖縄撮らせたら負けてないぞっていう。
今石川さんが取り組んでいる沖縄の歴史を再現するシリーズ。
沖縄から見た視線を大切にしています。
そんな石川さんにとっても東松は本土からやって来る他の写真家とは違うといいます。
他の人たちは撮って帰るだけだけれど彼は何回も通ってワークショップをやったり最後にはここに移住して若い子を育ててその子たちが今活躍してるよ。
これが私と彼の決定的な違い。
そしたらね私は「何でヤマトの彼が」というふうには思わないよ。
そういうふうにして自分たちがやるべき自分たち先輩が後輩に対してやるべき事をねヤマトの彼がやったすごい事だと思う。
私これだけはねああこの人すごいなと思ったよ。
2010年80歳になった東松は人生最後の地として再び沖縄に移住します。
そんなに長く歩けないのでもう休む所決まっててこの上に座ったりして。
体力は落ちても何度も休憩を挟みながら近所に撮影に出かけたといいます。
お気に入りの椅子とかいくつかあって。
おうちまでやっぱり帰れない時はここで。
これはかなり力…何回も撮ってましたねここの風景。
もういろんなものがほんとにごちゃごちゃと来てますからねそこの何と言うのかな面白さというか。
ここはかなり力を入れて撮ってました。
特にこの辺ですね。
ここの扇みたいになってるとことか。
ほんとに車がとってもここ危ないんだけどどうしても撮るっていうふうに聞かないんですよね。
どうしても撮りたいと。
そうですそうです。
もうとにかく太陽の光とかその辺を全部見て何時がいいからという事でその時間帯に来てそれで撮って帰るという。
晩年の東松が見つめたのは沖縄ではどこでも見かける花や草木などの亜熱帯の植物でした。
ガジュマルはやっぱりよく撮ってましたね。
夕方の光なんかできらきら光っててすごいきれいです。
金色に光ってる。
やっぱりそういうのを感じてたんじゃないかなと思いますけどね。
だんだん自分の体が動かなくなっていくわけですからその中でのこういった植物というのは生命力がすごく感じられるし力を感じますよね。
ほんとに何か写真を撮るために生まれてきたような人じゃないかなと思うぐらいもう撮るのがすごい好きでしたよね。
ほんとに「撮りたい撮りたい」と言ってましたからね。
カメラをやっぱりずっと持ち続けたいと言ってましたので。
最後に撮影したのは路上の花でした。
これですね。
初版の「太陽の鉛筆」。
1975年に生まれてますけどほんとに画期的な写真集です。
壮大な生命のね何と言うんですか歴史それをね東松さんの写真一枚一枚がどこかで証言してる気がするんですよ。
だからこれはもう全然写真の歴史日本の写真というものに対しての予備知識であるとかそうしたものと関わりのないところでね我々はその東松さんの写真一枚一枚と対話できるそこに通路があると思うんですね。
そういうある意味でみずみずしい形で写真に接して頂けるような方にこそ東松照明さんの世界を知ってもらいたいなと思うんです。
東松照明にとって沖縄とはどのような存在だったんでしょうか?そうですね…やっぱり好きというよりはもうすごい沖縄を愛してるんじゃないかなというそういう感じでしたよね。
そうですね私が感じたのはそんな感じを受けましたね。
沖縄を愛している。
好きを通り越して。
うん。
ここまでやってこれたんじゃないかなという。
それでなければできなかったんじゃないかなと思いますねうん。
アハハハ…分からないですねそれは。
一方的な事ではできないしだけど…思いとして。
うん。
すごい。
今日の「アートシーン」は明治時代世界を席巻した日本の超絶技巧。
2014/06/29(日) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「沖縄へのラブレター〜写真家 東松照明〜」[字][再]
戦後日本を代表する写真家・東松照明。死の寸前まで撮り続けたのが沖縄。東松の足跡をたどり、沖縄で何を見つめ何を愛したのか、その写真が今何を語るのか、探っていく。
詳細情報
番組内容
戦後日本を代表する写真家・東松照明(1930〜2012)。死の寸前まで撮り続けたのが沖縄だ。1950年代から<占領>というテーマで日本各地の米軍基地周辺を撮影し高い評価を受けていた東松は、初めて訪れた沖縄で<占領>をはねかえす自然や、たくましい人々の営みに出会い衝撃を受ける。以降、彼は沖縄を撮り続ける。東松の足跡をたどり、沖縄で何を見つめたのか、その写真が今何を語るのか、森山大道らの言葉から探る。
出演者
【出演】写真家…森山大道,映像評論家…仲里効,東松泰子,写真家…石川真生,【司会】井浦新,伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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