明日へ−支えあおう− 証言記録東日本大震災30▽双葉町 放射能にさらされた病院 2014.06.29

未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第30回は福島県の沿岸部に位置する双葉町。
東京電力福島第一原発が立地する自治体です。
双葉町には5号機と6号機が建ち事故を起こした1号機から4号機と町の中心はおよそ4km離れています。
原発と共に暮らしてきた町は2011年3月11日を境に一変します。
これは町で唯一の総合病院が震災直後から記録した膨大な写真です。
原発事故に翻弄された双葉町が写し出されていました。
病院は避難者や津波の被災者の対応に追われます。
その時原発に危機が迫っていました。
病院に緊急避難を促したのは院長の友人からの電話でした。
病院からの緊急脱出が始まります。
その移動のさなか…。
福島第一原発1号機の水素爆発。
病院の緊急避難用のヘリに一般の住民も殺到します。
そのため寝たきりの患者や看護師など50人余りが取り残されてしまいました。
放射能にさらされ被ばくした患者と看護師たち。
原発事故で緊急脱出した病院の葛藤の記録です。
原発事故により全町民が避難した双葉町です。
あの日から3年以上の月日がたった今も放射線の線量が高い地域があるため立ち入りが厳しく制限されています。
町並みは震災当時のままの姿を残しています。
震災前の人口は6,800。
住民の多くが原発関連の仕事に就いていました。
事故を起こした原発からおよそ4kmの場所にある双葉厚生病院です。
ここは15の診療科目を備えた総合病院でした。
病床数は260。
震災当時病院内には職員と患者合わせて400人ほどがいました。
巨大地震が病院を襲います。
地震の強さは震度6強。
1時間後沿岸部には最大15mの津波が押し寄せます。
病院は建物の一部が破損。
内部は医療器具が散乱するなど混乱状態に陥ります。
スタッフは真っ先に病院内にいる患者の安全確保に走ります。
町の避難場所でもあった病院には時間の経過と共に周辺の住民が次々に避難してきました。
病院は津波の被災者が運ばれて来る事を想定した会議を開きます。
看護部長だった西山幸江さんは日が暮れてから徐々に増え始めた患者に対応します。
病院は炊き出しの準備を始めます。
しかし厨房は使えませんでした。
そこで通りを1本挟んだ場所にある特別養護老人ホームに応援を要請します。
この施設は救急対応などでふだんから病院と連携し合う関係でした。
炊き出し要請に応じた…そのころ原発は津波による電源喪失という事態に見舞われ危険な状態に陥っていました。
日付が変わった3月12日早朝。
政府の避難指示がそれまでの3km圏内から10km圏内に拡大します。
福島県の災害対策本部から町役場に連絡が入ります。
双葉町では原発事故を想定した訓練が毎年行われてきました。
しかしその訓練は原発から3km圏内の住民が避難する事を想定したものでした。
そのため3kmよりも離れた町の中心部は原発事故から避難する訓練は行ってきませんでした。
更に政府から安定ヨウ素剤について確認の電話が入ります。
安定ヨウ素剤は甲状腺に悪影響を及ぼす放射性ヨウ素が体内に蓄積される事を予防する薬です。
双葉厚生病院も3km圏の外にあるため避難をする事を想定していませんでした。
防災無線と警察の巡回により町の北西およそ40kmに位置する川俣町への全町民避難が指示されます。
しかし屋内で夜を徹しての被災者対応に追われていた病院には防災無線の声は届いていませんでした。
午前6時半。
突然防護服に身を包んだ警察官が現れます。
政府が会見を行います。
病院避難用に手配された車両は観光バスでした。
寝たきりの重篤患者の乗車が難しかったため歩ける患者の移動から始めました。
しかし直後に思わぬトラブルが発生します。
患者だけを乗せたバスが出たあとスタッフは警察から「バスが出発できない」と告げられます。
原発内の圧力を下げる作業が始まり放射性物質が漏れる可能性があるため屋内退避の指示が出されたのです。
結局スタッフが出発したのは最初のバスが出てから2時間ほど後になりました。
先行したバスを追いかけます。
スタッフを乗せたバスは避難車両で渋滞する道を5時間以上かけ川俣町に到着します。
しかしそこには患者だけが乗ったバスはいませんでした。
そのあと患者たちは4日間行方不明になります。
病院には寝たきりの重篤患者を搬送する移動手段がなかったためスタッフと患者100人ほどが残っていました。
避難が一段落したあとの静寂を打ち破ったのは病院にかかってきた一本の電話でした。
電話の相手は重富院長の大学の同期生だった…田勢さんは福島県庁に設置されていた災害対策本部で病院避難の支援を行っていました。
直後病院に残っていた100人ほどを搬送する救助ヘリ7機が手配できたと連絡が入ります。
1kmほど離れた高校への緊急搬送が始まります。
移動をしているまさにその時でした。
病院の炊き出しをしていた池田さんも移動の途中でした。
緊急脱出用のヘリポートに指定された高校のグラウンドです。
到着した人々は体育館への屋内退避を指示されます。
この時重富院長は目の前で起きている事態に驚かされます。
避難の遅れた住民が続々と集まってきたのです。
皆放射能という見えない恐怖に追われます。
午後6時過ぎ大型双発機が到着します。
高校に集まった避難者は200人ほどに増えていました。
患者に混じり住民も乗り込んでいきます。
午後8時半過ぎヘリの音が消え辺りが静まり返ります。
西山さんたちは校舎に併設された茶道室に身を寄せます。
取り残されたのは56人。
病院の重篤患者16人と特別養護老人ホームの利用者など災害弱者たちでした。
朝方一人の患者の容体が急変していきます。
夜が明けきった頃取り残された人々を救助するためのヘリが到着します。
西山さんは歩み寄る自衛隊員に一つの願いを伝えます。
患者の命を救うために奔走する中で起きた悲劇でした。
震災当日から膨大に写し出された病院の記録。
これはその中で唯一残された記念写真です。
取り残された人たちが救助ヘリが来ると分かった時に撮影しました。
ヘリコプターで搬送されたのは原発から50km離れた二本松市の公共施設でした。
ここで新たな現実と向き合います。
待ち受けていたのは医療関係者ではありませんでした。
被ばくした人が一度に大量搬送されるという初めての事態に現場は混乱します。
重篤患者を含む全員が除染の対象となり冷え切ったテントの中で体を洗われ衣服の交換を余儀なくされます。
避難者が身を寄せたホールにはベッドも医療器具もなく点滴は椅子を重ねてつるします。
そしてホールは汚染区域として隔離され出はいりが制限されます。
行方不明となった患者を追いかけていた看護師の渡部さんも駆けつけます。
しかし転院先との交渉は難航します。
間接被ばくの可能性を恐れて受け入れを拒否する病院もありました。
この場所で4人の患者の命が失われていきます。
治療が満足に行えない現場。
出はいりが制限され狭いホールに閉じ込められたスタッフの疲労が蓄積されていきます。
3月15日一つの朗報が入ります。
行方不明となっていた患者のバスが見つかったのです。
搬送先となったいわき市の高校に渡部さんと西山さんが向かいました。
離れ離れになって4日がたっていました。
精神科の患者の中には興奮状態でけいれんを起こしている人もいました。
3月17日双葉町から緊急避難した136人の入院患者全ての転院先が決まりました。
そして病院は解散しスタッフも家族の元に帰りました。
医療スタッフが現場で奔走する中その家族も深刻な状況と向き合っていました。
渡部さんの夫隆さんは44歳の時に発症した脳出血の影響により介助が必要な体。
双葉町では高齢の両親と4人で暮らしていました。
仕事が忙しい渡部さんを気遣って両親は双葉町の住民と一緒に埼玉県へ避難する決断をします。
離れ離れの生活を始めて1か月。
肺炎をこじらせての事でした。
渡部さんは患者たちが転院先で落ち着いたのを見届けたあと今年3月看護師の仕事を離れました。
今は夫と母と過ごしています。
特別養護老人ホームの職員だった池田さんは原発事故の影響の恐ろしさに直面しています。
避難生活を始めて3か月。
一本の電話が入ります。
検査結果は2か月後に伝えられました。
震災前池田さんは夫と9歳になる長男と3人で暮らしていました。
池田さんを悩ませたのは被ばく検査の結果とほぼ同時に判明した妊娠でした。
2012年5月男の子を出産します。
2歳になった…病院の緊急避難の中で亡くなった患者は7人。
その後避難生活の中で亡くなった患者もいて震災関連死と認定されています。
重富院長は今もあの時の判断が正しかったのかを自問します。
何の準備もない中で行われた病院の緊急避難。
そしてそのさなかでの被ばく。
原発事故に襲われた人々は3年たった今も放射能の不安の中にあります。
原発事故の情報が十分に伝わらない中で緊急避難を強いられた病院。
一人一人の証言が強くあの日の出来事が今もはっきりと心に刻まれているという事がよく分かります。
震災後に出産したお母さんがいらっしゃいましたよね。
子供が産まれてうれしいというあの笑顔が本当に印象的でした。
それだけに「被ばくの不安は一生尽きない」という言葉が心に響きました。
さて東日本大震災の復興支援ソング「花は咲く」を皆さんに歌って頂く「100万人の花は咲く」。
たくさんのビデオが寄せられています。
これまで1,800組およそ7万5,000人の方々に参加して頂いているんです。
映像と共に「花は咲く」へ寄せる思いも届いています。
まずは佐賀県から届いたビデオです。
・「真っ白な雪道に」神埼小学校では震災の翌年から福島県の尾小学校と交流が始まりました。
福島から佐賀に招いて一緒に勉強したり遊んだり熱気球体験をしたりして楽しく過ごしたそうです。
避難生活をしている尾小学校の皆さんが一日も早くふるさとに戻れる事を願って歌ってくれました。
・「誰かの笑顔が見える悲しみの向こう側に」さあ続いては三重県津市の高田中学校の皆さんです。
世界の人たちにメッセージを伝えたいと習いたての英語で「花は咲く」を歌ってくれました。
英語版の「花は咲く」2か月間早起きして自主練習を重ねてきたそうです。
これからもさまざまな機会で歌っていきたいという事です。
・「they’llbloomagainuntil」・「there’snomissingsorrowandnoreasonlefttomourn」・「they’llbloom,yestheywill−andthey’llbloomagainuntil」・「you’llliveandrememberandloveusforevermore」もう一組紹介しましょう。
長野県松川高等学校ボランティア部と宮城県水産高等学校JRCクラブの皆さんです。
震災後に長野から特産のりんごや花を贈ったりあるいは清掃のボランティア活動をしたりして2つの学校の交流が始まりました。
3月に水産高校の皆さんが長野を訪れた時に歌ったのがこの歌。
「花は咲く」はこれからの交流を誓い合う絆の歌になったそうです。
・「花は花は花は咲くわたしは何を残しただろう」「100万人の花は咲く」皆さんの参加をお待ちしています。
詳しくはホームページをご覧になって下さい。
では被災した地域で暮らす皆さんの今の思いです。
小高駅の駅前で旅館をやってます。
まだ小高は住める地域じゃないですけれども震災で壊れた旅館をいつでも再開できるように直してます。
この度小高はボランティア有志でこの6月から養蚕を始めました。
もともと小高町は養蚕の盛んな地域でしたので先輩方のアドバイスを受けながら毎日試行錯誤の連続です。
ここの仮設に来て3年になりますが避難区域の小高にはまだまだ戻れそうにありません。
それでもいつまでも避難者ではいられないので地域と交流をしたり苗を販売したり自立の道を模索しています。
2014/06/29(日) 10:05〜10:53
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう− 証言記録東日本大震災30▽双葉町 放射能にさらされた病院[字]

福島第一原発の間近にあった双葉厚生病院は、緊急避難の最中に水素爆発に見舞われる。さらに搬送用のヘリに乗り切れず、患者が取り残された。放射能にさらされた病院の証言

詳細情報
番組内容
東京電力福島第一原発が建つ双葉町。町で唯一の総合病院だった双葉厚生病院は、あの日津波の被災者の対応に追われていた。翌朝、原発事故による緊急避難の指示を受け、寝たきり患者など40人を搬送していた。その最中に水素爆発に見舞われる。さらに患者のために用意されたヘリに、逃げ遅れた一般の住民が殺到し、病院関係者など56人が取り残された。後の検査で全員の被ばくが判明する。放射能にさらされた病院の証言を記録した
出演者
【キャスター】畠山智之

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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