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2014.08.03

人はなぜ不運を自分の能力の欠如だと思うのだろうか?

 世の中には、そしてもちろんネットにも、名言集というのがある。覚えておくと便利だったり勇気づけられたり、あるいは手短で洒落た皮肉な言い回しに人生の真実を感じさせたりといったものだ。ツイッターの投稿などにも、これは名言だなというのもある。
 で、例えば……という一例の名言をここに書くかというと、その前にだ、私は名言集というのが好きではなかったという話を書く。中学生のころその手の類をいろいろ読んで、たまたま学校にもっていって読んでいたら、友人がそれ貸せというので貸したところ、友人から友人へという連鎖で読まれていった。彼ら、なにやら名言集に感得しているのである。その様子を見ながら、自分もああいう読者の一人だったんだと妙に醒めた思いがした。以来、その手の本を読むのをやめた。概ね。
 名言集の名言というのがきらいになった。格言、アフォリズムといったものは、知性の軽薄なありかたにすぎないと思っていた。「結婚は人生の墓場だ」で?
 だが、いつからか、そうでもないなと思うようにもなった。30代だっただろうか。人生が自分のなかにワインの澱のように貯まりだしたのと関係しているのだろう。
 私は何が言いたいのか? 名言というのは、無理して読もう、知ろうとしなくても、自然に心がキャッチして、反芻することがあると思うようになったのだ。例えば……そう、最近のそれをご紹介。ビジネス英語の教材にあったものだ。

The easiest thing to do, whenever you fail, is to put yourself down by blaming your lack of ability for your misfortunes.

失敗したときにする一番簡単なことは、不運について自分の能力が足りなかったと自分のせいにして、いじけることだ。


 作家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving)の言葉とされている。
 訳がつたないのだが、ようするに、不運を自分の能力の欠如だとして自分を責めるのは安易なことだ、というのだ。
 不運は不運としてある。別に能力の欠如で不運がもたらされたわけではないよ、と。
 自分の能力を信じていたら幸運なときには成功するかもしれない。不運について自分をそう責めるなよ、ということ。
 ただし、英語で読んだときは特に違和感なかったが、ちょっと試訳を添えようとしたら、意外に難しかった。"put down"と"blame"が意味的に重なっているのに気がついた。どっちも自分を責めるということなので直訳すると意味がまどろっこしくなる。あと、ふと"ability for your misfortunes"という解釈はないよなあと思った("blame for"だから)。
 英語の話はさておき、この名言がなんとなく最近、心に引っかかっていた。
 心に引っかかっていた理由は、自分でもわかった。私は、自分の不運をみんな自分の能力の欠如が理由だと考える人だからだ。
 自著にもなんたら書いたが、私は人生の失敗者だと自分を思っていて、その理由は自分の能力の欠落だと思っている。
 そう思おうとしている、と言っていいかもしれない。自分がたまたま不運だったのだとは思わないようにしている。そう思いながら、世の中の成功者の多くは幸運だっただけなんじゃないかなともなんとなく思っている。
 さて。
 自分の能力とか「私は人生の失敗者だ」とかは、とりあえずどうでもいいとして、なんで自分はそう考えるのか。つまり、先の名言でいうところの、「一番簡単なこと」を私はつい選択してしまうのだろうか?
 別の言い方をすると、なぜ自分は、不運を能力の欠如と見たがるのだろうか? そしてたぶん、それは自分だけの傾向と限らないだろう。
 人はなぜ不運を自分の能力の欠如だと思うのだろうか?
 先の名言の文脈でいえば、それが「一番簡単なこと」だから、ということだが、それもちょっと違うなという感じがしていた。
cover
脳科学は人格を
変えられるか?
エレーヌ・フォックス
 心のひっかかりをぼんやりと見つめていると、ああ、そうかと思う。
 先日読んでちょっとひねくれた書評も書いたのだが、『脳科学は人格を変えられるか?(エレーヌ・フォックス)』(参照)に、この件で関連することがあったのだった。この本、オリジナルタイトルが、悲観的な脳=雨降りの脳(レイニーブレイン)対楽観的な脳=お天気な脳(サニーブレイン)とあるように、人間の脳の、悲観・楽観の自然的な対応について論じたものだ。
 そのなかで、いろいろと楽観的な脳=お天気な脳(サニーブレイン)について脳の解剖学的な枠組みで挿話を並べたのち、こうある。

 サニーブレインのしくみについて、解剖学的に考察した結果は以上のとおりだ。楽観とはいつもただ上機嫌でいるだけではなく、意義深い生活に積極的にかかわり、打たれ強い心を育み、「自分で状況をコントロールできる」という気持ちを持ち続けることだ。これは、「良いことも悪いことも受け入れる能力があってこそ、楽観はプラスに作用する」という心理学の研究結果とも符号する。


 これは、多くの自己啓発本にあふれる「ハッピーな思考はすべての問題を解決する」というアプローチとは似て非なるものだ。ポジティブに考えるかネガティブに考えるかはもちろん重要だ。だが、単にいつも「こうなってほしい」と期待するのが真の楽観主義だと思ったら、それはおおまちがいだ。


楽観的なリアリストは、自分の運命は自分でコントロールできると意識の底で信じているのだ。

 つまり、物事をポジティブに考えればうまくいくというのではなく、不運があってもそれを自分が乗り越えられるという核心が楽観だというのだ。
 そうなんだろう。
 そして、私は悲観的なリアリストとして、自分の運命は自分でコントロールできると意識の底で信じているから、自分の能力で対処できない不運まで自分の能力で対応しようとして、そして結局できないから、自分の能力の欠落だと思うようになってしまう。
 と、いうことなんじゃないか。
 こうした考えが正しいかどうかというより、ああ、俺、年取ったなあという思いともこれが呼応していた。
 私はこの夏、57歳になるのだが、「人生の失敗者」とかほざいていても、今日までそれなりに生きて来て、ここまではいちおう生存を達成した。
 達成の繰り返しから、「不運があってもなんとかやってきたじゃん、だから、まあ、これから人生そう長くもないけど、適当なとこまでなんとかやってけるんじゃね」という楽観みたいなものも持つようになった。
 それと、ここまで生きてみると、「ああ、不運というのは、純粋に不運だ」と素直に思えるようになった。これは他人の人生を見ていても思う。「ああ、あれはかわいそうだ、あれは不運すぎる」というのを随分、見た。
 人生ってなんじゃこりゃというくらい、不運の駒を背負ってこの世にやってくる人がいて、しかもその不運がなかなか他人から見えない類のものがある。人生とはそんなものなんで、成功した人がこうすれば成功できるとか言うと「嘘だろそれ」とかつい思う。
 この話にオチは特にない。
 みなさんはどうですか。とかね。でもしいていうなら、不運のときは、いろいろ理屈を考えるより、しばらく時が過ぎるのを待ったほうがいいんじゃねくらいは思う。
 暑いときは、水分補給をしてぐったりと休みましょうとか。
 

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