「100分de名著」。
松尾芭蕉「おくのほそ道」。
その旅を俳人の長谷川櫂さんと女優の内山理名さんがたどります。
いろいろ旅してきて人生のようですね。
芭蕉自身も多分そう考えていて人生というのは突き詰めて言うと別れであると思ってたと思うんですよ。
繰り返される人との別れ。
芭蕉が行き着いた「かるみ」とは?「おくのほそ道」に込められた人生の向き合い方を読み解きます。
(テーマ音楽)今回のスタジオは江東区芭蕉記念館。
芭蕉ゆかりの品が展示され句会が開かれるなど地元の人々に親しまれています。
芭蕉の「おくのほそ道」も第4回を迎えました。
アナウンサーの武内陶子です。
一緒に旅をしている気分で参加してるので少し痩せました。
伊集院光です。
ほんと?さあ今回は指南役には俳人の長谷川櫂さんそして長谷川先生と一緒に旅を追体験して下さったのは女優の内山理名さんです。
(一同)よろしくお願いいたします。
まずは皆さんこちらをご覧下さい。
江戸時代150日ほどかけて東北地方2,400kmほどを巡った芭蕉。
第四部最終章はこちらの越後の市振の関から美濃の大垣まで日本海側をぐ〜っと行くという。
新潟辺りがすごく天候が悪くて大変だったと書いてますけどそのあとは天気はそれほど悪くはなかった。
秋の初めですね。
体の方は?体の方もそれほど悪くないんじゃないかな。
芭蕉は少なくとも。
「芭蕉は少なくとも」あたりに今日のキーはありそうですね。
こちら旅のテーマでございます。
第三部では「宇宙の旅」。
芭蕉が感じたのは「不易流行」という考え方。
そこに至ったという事ですが。
要するに宇宙というのは太陽が巡り月が巡るように全て刻々と変化しているように見えるけど実は何も変わらないんだという芭蕉の宇宙観ですね。
これを芭蕉は俳句に応用していったと。
そして今日最終回は第四部。
一旦宇宙まで行きましたが戻ってまいりましたね。
浮世の世界へ戻ってくるわけです。
ここで今度芭蕉の人生観がつづられていくと。
いろんな人との別れをこの第四部の中に盛り込んで書いているわけです。
さあどういう事になるんでしょうか。
それではまず最初の別れをここ市振の関で経験しております。
日本海に沿って歩く芭蕉と曾良。
北陸一と言われる難所親不知をなんとか通り抜けます。
そうしてたどりついた市振の関。
宿で寝ようとしたところ隣の部屋から女の声が聞こえてきます。
若い2人の女それに年老いた男の声が混じります。
どうやら越後の国の遊女らしい。
「この手紙をふるさとに届けておくれ」。
「へえへえ分かりました」。
「ああそれにしても無事に伊勢参りを果たす事ができるだろうか」。
そんな声を聞きながら寝入ったのです。
翌朝。
旅立ちに際し遊女たちに声をかけられます。
「先の道筋も分からぬ心細さ。
見え隠れになりともお供してまいりとうございます」。
涙ながらに頼む女たちを哀れに思うものの…。
「私たちは途中ところどころで滞在する先も多い。
同じ方向に旅する人々の行くのに従って行きなされ。
神様のお守りによってきっと無事に着く事ができるだろう」。
そう言って出てきてしまったのです。
急に何ですかここ。
パンチの利いた登場人物が出ましたね。
遊女。
ここのところの句を見てみましょうか。
萩が至る所野山に咲いていてちょうど月も出ていると。
実にしっとりとした秋の句がここに置いてあるわけです。
これでも今のシーンだけ見たら連続ドラマだったら何かエッチな事起こったりしますよ。
このざわざわはなかったやつですよ今まで。
本当は「と」だったのかな?
(内山)ちょっとてれ隠し。
これ実は「おくのほそ道」には実際の旅ではこういう事はなかった。
つまり遊女がいたとかそういう事はなかったらしい。
出た!この番組の1回目で言ってたフィクション部分ですか。
フィクションという事はなぜ分かるんですか?曾良の日記というのが別に「随行日記」があってそれには全く遊女がいたとかそういう話もない。
本文では「この句を曾良に言ったら曾良が書きつけた」って芭蕉は書いてるんですけどそういう事は曾良はしていない。
何で入れたんだろう?何で遊女を入れたんですか?だから遊女というのは非常に虐げられた人たちでいわば人間界で最も苦しんでる人たちであると。
それを宇宙からの旅の終わりと同時に出してきて。
要するにこれからは浮世の旅というか人間界の旅が始まるんだぞとガツンとやってるわけですよ芭蕉が。
ここで仕切り直してるわけですね。
それにつけても浮世だと。
浮世だという事なんです。
この第四部は実はたくさんの別れの場面があるんです。
ちょっとまとめてみました。
こちらご覧下さい。
まあ続いていくんですが…。
気になるのがもう既にありますけど。
こんなに別れがあるという事が。
そうですね並んでる。
3番気になりすぎじゃないですか。
曾良ですよ。
次の一笑そして曾良との別れちょっと見てみましょう。
倶利伽羅峠を越えて一路金沢へと向かう芭蕉たち。
芭蕉にはこの地で会いたい人がいました。
金沢の俳人一笑。
会った事はないけれど俳句熱心な若者だと聞いていました。
7月15日金沢に到着。
人に聞くと「去年の冬一笑は亡くなった」。
「一笑の墓よ動いてくれ。
秋風のようにすすり泣く私の声が聞こえるなら…」。
金沢を出て芭蕉と曾良が山中に到着したのは7月27日。
山中は1,300年もの歴史を持つ古くから人気の温泉町です。
芭蕉も湯を楽しみこんな句を詠んでいます。
「湧き出る湯の匂いは菊よりもかぐわしい」。
旅の疲れもとれたに違いありません。
町にある芭蕉の資料館。
ここに貴重な資料が残されていると聞き訪れました。
きれいにお庭見えますね。
きれいな庭ですね。
すてきなお部屋ですね。
このお軸は?
(内山)初めて見ました。
芭蕉直筆の2つの句。
芭蕉は宿泊した宿の主人と句を楽しんだといいます。
芭蕉はここにはどれくらい泊まられてたんですか?もうずっと…昔は建物もなかったですからもうすぐせせらぎの音も聞こえて。
すぐそこが川なんですよね。
そうです。
川の方に遊んだという事も書かれてます。
芭蕉が。
随分何か少年に返ったような形で。
芭蕉も遊んだという鶴仙渓です。
およそ1kmにわたって眺めの美しい散策路が続きます。
わ〜!きれいですね。
透き通ってる。
山中をのんびりと楽しむ芭蕉。
しかしここで大きな別れが待っていたのです。
曾良が病気になり旅を断念。
養生のために伊勢の親戚のもとへ行く事になったのです。
別れに際し曾良はこんな句を残しました。
「この先どこで行き倒れようともそこは萩の原。
それも本望です」。
それに対して芭蕉はこう返します。
「今日からは君と別れて一人旅になる。
笠の同行二人の文字も消す事にしよう。
別れの涙のような笠の露で」。
いろいろ旅してきて人生のようですね。
いろんな事を感じて…。
やっぱり別れって人生の中で必ずあるし旅するといろんな発見が自分の中にあるんですね。
芭蕉自身も多分そう考えていて人生というのは突き詰めて言うと別れであると思ってたと思うんですよ。
人生に満ち満ちている別れをどのようにして乗り越えていったらいいかというのが彼の大きなテーマでそれを乗り越えていく方法がないかと彼は模索しながらずっとこの旅を続けてきたんじゃないかなと思うんですね。
フィクションではなく実際の別れ?そういう事ですね。
ビュービューと吹く秋の風とその中にお墓が建ってて…。
何かすごいゾクゾクとしました。
(伊集院)悲しくて。
あとまさかの曾良との別れですね。
芭蕉の方もすごく悲しくて「大空を鳥が迷うような気持ちである」というような事を本文の中に書いています。
別れたくなかった。
でも別れ際の詠み合っているのが残されていたのが。
曾良はちょっと熱めじゃないですか。
感情的。
野たれ死んでもいいって。
もしそれが萩の原っぱだったら風流人がそういうとこで死ぬのはむしろよかったって思うべきなんだからって。
芭蕉の方はちょっと引いて別れるという事自体よりもそれにあるちっちゃな作業笠から名前を消すっていう静かでちっちゃな作業に万感を入れてくみたいな。
曾良がいなくなって芭蕉はこれからどうするんですか?曾良がいなくなって実際は金沢から北枝という人がついてきててこの時も北枝はいるわけです曾良と別れた時も。
だけどそれは「おくのほそ道」には全く書いてなくて後で出てくるんですね北枝が実はついてきてたというのは。
これも文章構成の基本的なあやですよね。
ここで北枝を出したらもう一人いるじゃないかという話になるから。
そうじゃなくて曾良と別れて私は天涯孤独の身になるというふうに書いてるんです。
ドキュメンタリー映画の編集みたいなところってあるじゃない。
記録映像だったら一切そのまま流れていくけどドキュメンタリー映画としてちゃんと映画の形をしようと思ったらナレーションでなんとかしなきゃいけないところもあれば抜いちゃうシーンも出てくるし。
最小限にはとどめておくべきだろうけれどやっぱり演出は入ってくる。
そういう感じですね。
しかしすごいね。
別れ続ける。
北枝とも別れるんですね?北枝ともこのあとまあ北枝は金沢の人だから加賀の国の間は見送っていくんだけど福井に入るところでもう別れるんですね。
芭蕉はこの世の中というものを最終的には別れであると感じてたんじゃないかと思うんですよ。
つまり人間って我々が考えても最後は死ぬわけですよね。
出会った人とは最後は別れなくてはいけないと思っていて。
芭蕉はこれ解決できるんですか?その前に「不易流行」という事を第三部で気付いた。
だから宇宙というのは…こういう安心の境地を彼はそこで得てる。
これを今度別れに満ちた人間界に当てはめる。
そうすると人間界も別れに満ちているけれども実はそれほど悲しむ事ではないんだと。
そこから「かるみ」というものが実は生まれてくる。
「かるみ」?「重い」の反対で「かるみ」です。
重い軽いの「かるみ」?ええ。
「かるみ」というのは何かそこに至るきっかけみたいな事はあったんですか?恐らく金沢での一笑の死というのがやっぱり大きなきっかけになってると思います。
一笑の死によって人の世の定めなさというか別れに満ちてるんだという事につくづく何ていうかな心を痛めたんだと思います芭蕉は。
でもこれ重みが分からないとその軽さって出せないじゃないですか。
そうです。
そこが大事で重みが分かった人でないとつまり人生の苦しみとか悲しみが分かった人でないと「かるみ」というのは分かんないんです。
最初から「かるみ」というのはありえないんです。
心の中には人との別れという重いテーマがあるわけですね。
すごいですね。
芭蕉はその「かるみ」という考え方この「おくのほそ道」の最後の方でどうもその境地に至ってだんだん形になってきたらしいんですが終着点の大垣で詠まれた俳句をご覧頂きましょう。
芭蕉が大垣に入ったのは8月21日の事。
馬の背に乗って大垣に着くと弟子たちも次々にやって来ました。
弟子の如行の家に集まります。
一日中親しい人が訪ねてきてくれます。
まるであの世から生き返った者に会うかのように無事を喜んだり疲れをいたわってくれるのです。
やがて芭蕉は伊勢の遷宮を拝もうと旅立ちを決意。
再び船に乗って出発します。
これで「おくのほそ道」は終わりですか?終わりなんです。
うわ〜いい終わり方ですね。
俳句で終わるというのはいいですよね。
実はね「おくのほそ道」を全体を眺めると最初に江戸の門弟たちと別れる時に詠んだ句があるんですね。
最後がこの大垣の人たちと別れる時の句が…この最初と最後の句を並べてみると芭蕉がこの「おくのほそ道」で得たものがはっきり分かる。
まず「行春や」の方は漢字だらけですよね。
字面だけ見ても。
それに対して「蛤の」の方は平仮名。
「ふたみにわかれ」という中の。
ゆったりした平仮名の部分がある。
何か柔らかく感じますね。
これが「かるみ」なんですよね。
中身を更に言うと「行春や鳥蹄魚の目は泪」というのは春が行くように私たちはこれからみちのくへ旅立つ。
君たちと別れるんだけれども鳥は啼き魚は目に涙を浮かべてるというかなり大げさな別れの詠み方ですよね。
それに対してこっちの「蛤の」の句の方は蛤がまるで身と蓋を引き裂かれるように君たちとの別れは悲しいって言ってるんだけども何かふわっとしてるでしょう?句自体が。
そうか…引き裂かれるようなというような事を詠んでいつつでも柔らかい感じがしましたよね。
しますね。
ついでにその「ふたみ」という言葉が伊勢の有名な二見浦。
二見へこれから行くという事と蛤が蓋と身に分かれるというこれは遊びも入ってるんですね。
蓋と身に蛤が分かれるという事と江戸時代の遊びの貝合わせ。
蛤って蓋と身を分けても合う蓋と身はこれしかないから絶対他のとは合わないというルールの下の遊びなんだけどそう考えるとこれ軽くて深い。
その遊びの話が入ってるとね。
合う運命のやつは合うでしょう合わないやつは合わないでしょうみたいな事がもしここに入ってるとしたらより「かるみ」の境地で面白い。
人生で苦労しないあるいは悲しみを持たない人の「かるみ」というのは逆になくて。
そういうのは何でもないんですよ。
ただ軽薄なだけなんですよ。
だけどいろんな辛酸をなめてきた人生をある程度経験した人たちが初めて「かるみ」が分かるんじゃないかなと思うんですね。
軽いけど浅くはないという事を575に詠み込むというのは並大抵の事じゃないですよね。
だと思います。
すごいなと思うのは世の中自体はまあ流れてきましたよ。
いろんなテクノロジーもどんどん…はやり廃りもいっぱいあって。
だけど全体的に人が思う事に関してはちょっと「不易」だったり感じたりする事に関しては変わってないんだみたいな事が実証されたなって思いました。
ほんとですね。
そして今回はスペシャルにお二人に一句詠んで頂きました。
これが無ければよかった。
何でしょうかこの局の人は。
お願いいたします。
私は旅に出て感じた一句です。
私は雨が実は好きではなくて。
ロケに行った時も雨が一日降っちゃって嫌だなと思ってたんですけども木々を見てるとすごく生き生きとしていて。
自然の中に入ったらこの子たちにとってはありがたいのかな喜んでるのかなと思う気持ちにさせてくれた旅で。
旅の途中で雨上がりのねほんとに喜んでる木々にたくさん出会いましたね。
杉であったり松であったりねたくさん出会ったんです。
さあそして締めは…。
じゃあ僕も。
これは万年後にも誰かにあの575がしみ入るんだろうなと。
もしかしたら蝉なんか絶滅しちゃってるかもしれないんだよ。
だけども何か代わりのものとか心の変化だけは俺も分かるという。
すごい。
未来を感じます。
すご〜い!ほんとに今回は「おくのほそ道」の旅を通して今の私たちにも…「こそ」と言うべきかメッセージがたくさんあるなと思いました。
別れに満ちたこの世をどうやって生きていくかというのが最終的な彼の「おくのほそ道」に込めたメッセージだと思うんですが別れというのは全く現代も変わらないんですよね。
極めて現代的なテーマを扱っている書いている本じゃないかと思うんですね。
ずるいな一人だけ詠まないの。
私司会ですので。
本当にありがとうございました。
楽しゅうございました。
人生って儚い。
そうですね。
アメリカカリフォルニアに食で世界を変えようとしている料理家がいます。
2014/07/13(日) 16:15〜16:40
NHKEテレ1大阪
100分de名著・選 おくのほそ道 <終> 第4回「別れを越えて」[解][字]
女優の内山理名と俳人の長谷川櫂が、おくのほそ道の旅を追体験!深川の芭蕉記念館をスタジオにして伊集院光・武内陶子アナと共に句にこめられた芭蕉の人生観について語る。
詳細情報
番組内容
東北を離れた芭蕉は、北陸へと向かう。北陸で芭蕉は、さまざまな人との悲しい別れを体験することになるが、別れを通して思索をさらに深めていった。人生は思うようにならない悲惨なものだ。しかし、その現実を静かに受け止め、時々めぐってくる幸福を楽しむような、達観した句を作るべきだと考えたのだ。のちに芭蕉は、この境地を「軽み」と称するようになる。第4回では、芭蕉が最後に達した「軽み」とは何かを探る。
出演者
【ゲスト】俳人…長谷川櫂,内山理名,【司会】伊集院光,武内陶子,【語り】森山春香,【朗読】麻生智久
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
趣味/教育 – 生涯教育・資格
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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