水俣で人気を博しているお笑いトリオ「やうちブラザーズ」。
トリオの設定は水俣のキャンプ場で暮らすハワイ生まれの漁師と水俣に流れ着いた漂流者です。
この日は地元の結婚式に呼ばれました。
皆様おめでとうございます。
リーダーは水俣の漁師杉本肇さん。
すいませんねこんな格好で。
新郎新婦に呼ばれて参りました。
水俣のスーパースターやうちブラザーズです!
(歓声)「二人は一つ」。
(太鼓)「やうち」とは身内という意味です。
杉本肇さんと弟の実さん親戚の鴨川等さんの3人で14年前に結成しました。
(杉本)水俣のおじいちゃんちは裏山にミヤマクワガタがとれます。
子供たちはお母さんの悪口ばっかり言ってお母さんを悩ましているけどもほんとはほんとにみんなお母さんが大好きです。
肇さんたちが大切にしているお母さんの曲があります。
新郎と新婦のお母さんに捧げる歌「Welovemymother」という曲をお送りしたいと思います。
・「WelovemymotherWelovemymother」・「Welovemymother」杉本肇さんの家は水俣で代々続く網元です。
肇さんの両親そして祖父母も水俣病に冒されました。
母親の杉本栄子さんは6年前に亡くなりました。
重い症状と周りからの差別に苦しみながらも決して人を恨んではいけないと言い続けた母でした。
水俣病と闘いながら網元の娘として強い責任感で生き抜いた母。
杉本さんの兄弟は幼い頃からそんな母親を見てなんとか笑顔にしたいといつもおどけてみせていました。
それがやうちブラザーズの原点です。
…という事を考えたんですね。
水俣を受け継ぐ杉本肇さんたち次の世代。
避けようもない水俣病と向き合いふるさとである「水俣」に生きています。
水俣病多発地域の一つです。
水俣病はチッソ水俣工場からの排水に含まれていた有機水銀が魚介類を汚染しその魚介類を食べる事で脳や神経が冒される有機水銀中毒です。
杉本肇さんは同じやうちブラザーズのメンバー弟の実さんと一緒にこの海で漁をして暮らしています。
かつては魚が湧いてくると言われるほど豊かだった海不知火海。
しかし水俣病が発生してからいくら魚を獲っても売れない時期が長く続きました。
杉本さん兄弟が狙っているのはカタクチイワシの稚魚です。
今恵みの海がよみがえりつつあります。
昭和34年30軒の漁師を束ねる網元杉本家を水俣病が襲いました。
祖母のトシさんが茂道地区で最初に発病。
肇さんが生まれる2年前の事でした。
その後祖父の進さんも発病。
肇さんが8歳の時に亡くなりました。
水俣病での祖父の死は肇さんに大きなショックを与えました。
更に父親の雄さん母親の栄子さんも発病しました。
栄子さんは激しい体の痛みや両手の麻痺などに悩まされ苦しみました。
3回の流産。
ようやく生まれたのが肇さんです。
(栄子)私だけが膝が曲がらんかったんです全然。
伸ばしっぱなしのようなこつで。
ここも曲がらんかったしですね。
まだここ現在曲がらんとですけどこげんとこから水がたまるというような時から私が何回も転げてほら妊娠したち思えばころころ転げよったでしょ。
だからすぐ流産しよったんですよ。
もう尻を打ったり頭打ったりして流産が続いたんですよね。
そん船に乗っとるはずはですね健康な時だっただけに素直に受け止めたじゃばってん激痛の波はもうとにかく哀れだったし。
魚が売れず家族7人の生活は困窮を極めました。
昭和44年肇さんが8歳の時杉本さんの一家は他の27世帯と一緒にチッソの責任を問う裁判に踏み切りました。
しかし周囲からは「チッソに逆らうのか」「騒げば魚が余計に売れなくなる」と激しい言葉を浴びせられいわれない嫌がらせがあったといいます。
仕事の事で言えば…そん時は自分だけ孤立しますもんね。
そういう考えの時はもう。
みんなが自分たちを攻撃するような形に見えてしまうんです。
でも子供にはそういうつらさを言えんしひもじい思いもさせられんしいかにこうすまして生活をしているかという方な見え方にせんばいかんしですね。
(取材者)当時は思い悩んだ時もあったんですか?やっぱりな家内が一番最初やったけど…そのころからな2年ぐらいはちょろっと暇が…暇がっちゅうか考えがつかん時はそげんと口にしよったもんな。
肇さんは幼いながらも網元の長男として水俣病に苦しむ両親を支えました。
学校に行く前に海に出て懸命に網を引きました。
しかしそんな毎日の中でも母親が見せてくれた優しさを肇さんは今でも忘れる事ができません。
運動会があって明日運動会の弁当ば作るけんというふうに言われて「え〜?」と思ったんですけど。
おにぎりがやっぱこう取ると取れないんですよ。
重箱にくっついててそれでぼろぼろというふうにこぼれてしまうんですよ。
握力のない手でやっぱり握ったのでおにぎりが崩れてしまって。
重箱にくっついたまま取れないというか崩れてしまって。
でもありがたいなあと思いましたねその時に。
こうやって子供のために作ってくれるというのは。
ほんとに自分の体を押して作ってくれた事にはほんとにうれしかったしですねその事をずっと忘れない日でいようと思った瞬間ですね。
もう泣けてきてですねその時に。
「なん泣きよっとか」とか言われてですね。
すいません。
私こういう風貌をしていますけども怪しい者ではありません。
この日やうちブラザーズは熊本市で開かれた医療関係の大学の同窓会に呼ばれました。
(杉本)やっとホッとしましたか?ありがとうございます。
私ボーカルの「はぁちゃん」と申します。
よろしくお願いいたします。
(拍手)そしてメンバーを紹介したいと思います。
こいつとこいつです。
(笑い)やうちブラザーズも今年で14年目を迎えました。
肇さんにとって水俣は水俣病だけの町ではありません。
父や母家族の思い出がいっぱい詰まった「ふるさと」です。
肇さんはその事を歌と笑いに乗せて伝えているのです。
・「えらいなとこれ住んどんない」
(鴨川)アー…。
はいそんぐらいでよかと思います。
・「えらいなとこれ住んどんない」・「えらいなとこれ住んどんない」・「マジ」・「えらいなとこれ住んどんない」・「えらいなとこれ住んどんない」昭和48年裁判で杉本家をはじめとする患者側が勝訴しました。
肇さんが12歳の時でした。
補償金が入り一家は食堂を始めました。
魚は売れず両親は漁を続けられる体ではありませんでした。
肇さんは父親から「もう漁はしなくていい」と言われました。
「これでもう苦労しなくてもいいんだ」という思い。
ただ行き場のないやりきれなさが肇さんを包みました。
(杉本)漁からもう手を引いたというのが自分としては心の支えがなくなったなあという気がしましたね。
朝早く学校に行く前から家族で一緒に漁に行って学校に行ったりしていたんですがその事で自分としてはいろんな事を支えにしてたのが漁業だったのかもしれません。
家族を要するに自分の力で支えているというようなそういう事があったのかもしれません。
裁判の事も考え始めて人が病気になったり人が死んだりする事をお金に換えていいんだろうかという事にもこう疑問が中学の時にあってですね。
水俣のその構図というかそれが嫌になってしまって。
やたら頑張って頑張ってまあお金を稼いでという事ではなくそれで今のまんま水俣はもう暗いまんまというか病気の事で全国に蔓延をしてる水俣の事がみたいな事があって。
この町って何かあんまり好きじゃないなと考えて。
自分の中でも家族の事は支えてはいたんだけども楽になると楽になったで何かじゃあ俺は要らないんじゃないかという事を考え始めたんですよ。
じゃあ俺はもういいかっていう話になって。
肇さんは高校を卒業すると水俣を離れ東京に出ました。
アルバイトをしながら仕事を探しインテリア・デザイナーの職に就きました。
水俣市に隣接し数多くの水俣病の被害者がいます。
ここにも水俣病の次世代を生きる人がいます。
通所介護施設を経営する川本愛一郎さんです。
愛一郎さんの父川本輝夫さんも水俣病患者です。
愛一郎さんは作業療法士として30年にわたって高齢者や障害者のリハビリを支えてきました。
この日は一緒に夏野菜の苗を植えます。
作業療法の一つです。
水俣病患者や体に障害のある人がその人らしい暮らしを送れるようにと愛一郎さんは続けてきました。
私の母がですね畑をしよったんですよ。
その手伝いはしよったですね前から。
若か時からしてました。
父親がですね口癖に言ってたのが「人は幸せになるために生まれてきたはずだ」ちゅうのはよく言ってましたね。
幸せになるために生まれてきたんだとよく言ってましたね。
ですので目標はそこでしょうね。
幸せな人生を一人一人が送って頂きたいと。
まあ少しでもお手伝いができればというのがここで実践してる事になります。
愛一郎さんの父川本輝夫さんは自身も水俣病患者でありながら地域に埋もれている患者の掘り起こしに生涯を懸けて取り組みました。
水俣病は国の基準で認定されないと患者と認められません。
輝夫さんの父親は激しい症状がありましたが水俣病とは認められませんでした。
輝夫さんはその無念を晴らしたいと行動を起こしました。
仕事を終えたあと地域の家を一軒一軒回りました。
昭和43年国は水俣病の原因はチッソの工場排水であると認めました。
しかし補償交渉は一向に進みませんでした。
昭和46年12月川本さんたちはチッソの東京本社前で座り込みます。
企業責任の追及と具体的な補償についてチッソと直接交渉するためでした。
しかし交渉は遅々として進まず座り込みは1年7か月に及びました。
川本さんは深刻な水俣病の被害の実態そして認定制度によって水俣病ではないとされる被害者の現実を訴えかけました。
昭和48年7月ようやくチッソとの補償協定が成立。
川本さんはその後も生涯にわたって患者の掘り起こしを続けました。
川本さんは患者の先頭に立ち国やチッソと激しいやり取りを重ねました。
一方水俣では川本さんたちに対する反発の声が広がります。
チッソの最盛期には社員やその家族など水俣市民のおよそ7割がチッソと何らかの関わりがあると言われました。
川本さんたちを非難するビラが新聞の折り込みで配られたり誹謗中傷する葉書が自宅に送られてきたりしました。
水俣病の闘士としてテレビに映し出される父輝夫さんの姿。
しかし息子の愛一郎さんにとってはとても子ぼんのうで時にユーモラスな一面も見せてくれる愛すべき父親でした。
ハーモニカが好きだったんですね。
ハーモニカが好きでですね…。
これ「ハーモニカ振興会指導課程」といって認定証までもらってきてですね焼酎飲んでですね気分がいいとハーモニカを吹いてくれるんですよ。
でその…講釈たれるんですよねハーモニカ吹きながら。
金玉ころころば歌いますので。
ハーモニカですから金玉ころころはあとでまた…。
(愛一郎)講釈はよかがってみんなでブーイング言うんですけどもそのブーイングに負けずに講釈をしっかり最初から最後までしてから吹きよったですね。
まあそういう人柄です。
だから何かこう面白いんですよ。
私父親をやっぱ好きですね。
何かこう…一つにまとまってないといいますかね。
(「靴が鳴る」)
(拍手)5月1日は水俣病が公式に確認された日です。
川本愛一郎さんにとって今年の5月1日は特別な日になります。
水俣病犠牲者慰霊式で患者・遺族の代表として「祈りの言葉」を述べる事になったのです。
水俣病をめぐっては今も400人以上が裁判で争うなどとても問題が解決したと言える状況ではありません。
生涯を懸けて闘い続けた父親の思いを受け継ぎ「祈りの言葉」に込めたいと考えています。
水俣事件の言ってみれば父親たちの闘いというのはそういう尊厳を取り戻すと。
一人一人の名前を持ったですね一人一人の手に奪われた尊厳を取り戻すというのが父親たちのやってきた事とそれが目指したものだというふうに…。
それを今度は自分たちが引き継いでですねやっぱり長い闘いという時間がかかる中でもやり続けるという意志確認ですね。
意志の表明だったような気がしますね。
この日川本愛一郎さんは近所に住む水俣病患者の緒方正実さんを訪ねました。
おはようございます。
建具店を営む緒方正実さんは3年前に慰霊式で「祈りの言葉」を述べました。
緒方さんの祖父そして母親も水俣病患者です。
父親にも症状がありました。
緒方さん自身も7年前49歳の時に水俣病に認定されました。
(愛一郎)根底に置いたのがやはり時間ですよね。
長いっていう…本当に長い闘い。
今58年たってる。
そういうもう半世紀以上たってもですねまだ終わらんと。
緒方さんもじいちゃんから考えればもう三代目ですよね。
そうですね。
三代という形で…。
私もじいさんから数えると三代目なんですよね。
そうですね「四世代」というふうにここに表現されていますけどもまさにそのとおりだと私はいつも思ってるんです。
私で終わりじゃなくて自分の子供もいろんな形でやっぱり影響を受けているんですもんね。
例えば病的なものばかりじゃなくて偏見差別をほんとに間違いなく受けているんですもんね。
そういうふうな事考えれば四世代。
だけども四世代で食い止めなきゃというような思いで…。
(愛一郎)第四世代ここで食い止めたいという事ですよね。
私は単に長い闘いがこれからも続くんじゃないかという事を考えて書いたんですがもっと主体的に私たちが関わる事でこれ以上負の遺産を食い止めるっちゅう事ですよね。
(緒方)そうですね。
世代を超えて水俣に関わり続けているのは患者の家族だけではありません。
この日原田利恵さんが水俣病患者の通所施設を訪れました。
利恵さんの父親は50年以上にわたって水俣病と向き合い続けた医師・原田正純さんです。
すみません今日は大勢で。
原田さんはおととし白血病で亡くなりました。
77歳でした。
利恵さんは幼い頃から患者さんとその家族に寄り添う父親の姿を見てきました。
その影響を受け去年まで2年間水俣に住み地域再生の調査・研究に取り組みました。
どうぞどうぞどんどんどうぞ入られて下さい。
この日は福島の原発事故の影響を調査している研究者などを連れてきました。
しのぶさ〜ん東京で以来ですね。
ありがとうございました。
坂本しのぶさんは母親の胎内で水銀に侵された胎児性水俣病患者です。
幼い頃から原田医師に診てもらってきました。
(利恵)今日はやっぱり時間に限りもあるし人数も多かったしという事なのでこれをきっかけでまた個別に訪れたりとか交流をしたりという事で広がっていけばいいのかなという…。
ねしのぶさんももともとの夢が幼稚園の先生でしたっけ。
今日お子さんたちが来てるのでニコニコされてたのかなって思いますけど。
やっぱり…利恵さんは大学院の修士論文で水俣病第二世代に焦点を当てた論文を書きました。
水俣病の被害は社会的な影響も含めて世代を超えて続いているという思いからでした。
川本愛一郎さんなど親が水俣病患者で水俣病問題の初期に子供時代を過ごした人たちへの聞き取りをしてまとめました。
話を聞くうちに第二世代の人たちは自分の父親や母親が水俣病患者である前に一人の人間として生きた事を誇りにしていると感じました。
「原田正純の娘」と言われ過ごしてきた日々。
水俣病患者の次の世代の人たちの思いを伝えるのが自分の役割だと利恵さんは思いました。
「水俣病の原田先生の娘さん」というふうにほんとに幼稚園小学生ぐらいの時言われるのは嫌だったように思い出します。
あの…「何で自分はおどろおどろしい感じの水俣病と自分は関係ないのにどうしていつも『水俣病の水俣病の』って言われて自分にもついて回るんだろう」というようなところはあって…。
今は全然もちろんそんな事は思わないんですけど患者さんだったり患者さんの家族だったりいろんな方がですね私にまでよくして下さるというか「お父さんにお世話になりました」みたいな形でいい思いをする事の方が多くて…。
肇さんたちはもうスターですしね地元では。
親世代も同志みたいな感じで思ってた部分があると思うんですが私の中でも何となく同志的に思ってみんなそれぞれ頑張ってるなという…。
自分ももっともっと頑張んないとという気持ちもありますし…。
高校卒業後東京に出た杉本肇さん。
インテリアデザイナーとして忙しい日々を送っていました。
しかし離れてみて初めて自分のふるさとは水俣なんだと実感しました。
やっぱり東京にいるといろんな楽しい事もたくさんあるんですけれども最終的にはやっぱりヨットに乗ろうとかボートに乗ろうとかいう話になってですね。
あと海っていいなあという事も感じ始めたし。
やっぱり仕事をしていて週末に海に行って魚を釣っておみそ汁を食べて船の上でですねそんな事をやり始めると友達もそうなんですけども「こういう事が毎日の生活だったらな」みたいな事を言いだすんですよみんな。
「えっこんな生活でいいの?」みたいな話をしだすんですが。
そんな事を俺はやっていたなというふうに逆に考えると贅沢な日々を送っていたのかなと思っていて。
「え〜そうなの。
俺子供の時からこういう事ばっかりやってたんだけど」とか言うと「羨ましいですね〜」みたいな事をみんな言い始めて。
お金はなかったんですけども豊かさって何だろうという事も考え始めて。
こういう事もやっぱり一般的には贅沢なのかなあという事も考え始めて。
それが収入が伴って生活ができるんだったらそれでもいいかなあと考え始めたやさきの出来事でした。
「帰ってこいよ」って言われたのは。
一度は漁を諦めた杉本雄さんと栄子さんでしたが再び海に出る事にしました。
平成2年借金をして新たに3隻の船を造りました。
5人兄弟の中でただ一人水俣に残っていた四男の実さんが漁師になる事を決心してくれたからです。
水俣病の症状は相変わらず続いていました。
しかし栄子さんにとって漁に出られる喜びは何物にも代え難いものでした。
幼い頃から網元の娘として船に乗っていた栄子さん。
魚がどこにいるのか海の地形がどうなっているのか体が覚えていました。
いただきます。
うまい!栄子さんは東京にいる肇さんにもう一度家族で船に乗ろうと連絡しました。
東京に出てから14年肇さんは32歳になっていました。
子供の頃味わったあの空間が更に自分の体に降り注ぐというのはすごく心地が良くて日の光のまぶしさとか風の心地良さとか夕日のきれいな所ではやっぱりこんな所で生活をするのが一番だというふうに思いましたしやっぱり一日海にいられるという事と家族で仕事ができるというのはやっぱりありがたい事ですよね。
こっちでよか。
ありがとうございます。
栄子さんは隣近所を一軒一軒回って獲れた魚を売り歩きました。
水俣病が起こる前のように明るい笑顔が行き交う地域を取り戻したい。
それが栄子さんの願いでした。
ならね〜!どうも。
この日杉本肇さんは熊本市にいました。
医療関係の大学の同窓会で水俣についての講演とやうちブラザーズのショーを依頼されました。
肇さんは平成20年から語り部の活動をしています。
自分が体験してきた水俣病や母親の事を語っています。
皆さんこんにちは。
・こんにちは。
今紹介して頂きました杉本肇といいます。
今日はよろしくお願いいたします。
実は私水俣で漁師をしています。
母さんは一番下の弟が生まれたのが昭和44年でその時にもう既に体が言う事をきかずに足指のしびれ手のしびれはありましたが一番不安だったのは朝起きてですねとてもやっぱり体調が悪い時には母は目も開けられないぐらい弱っている時があります。
「栄子栄子!」って怖い父さんの大きな声が聞こえてその時にはドキッとして目覚めながら弟たちを起こして御飯を食べさせて学校に行こうとすると「救急車ば呼ぼか」っていうふうに言われます。
それで僕はすごくこう心臓が破裂しそうになってまたじいさんのように運ばれていって母さんが今度は亡くなるんじゃないかなというそういう不安に襲われます。
栄子さんは平成7年から12年間水俣病資料館の語り部をしていました。
水俣病を知らない世代にここで何が起こったのかを伝えなければならないとひたすら語りました。
「村から出ていけ」って言われる口々の中に言葉の中に母を連れて親子3人漁もできない体になって出ていくっちゅう事は死にに行かんばならんちゅうような事まで話し合ってそれよりも耐えていこうわいってこらえていこうわいという父の言葉でした。
若い人たちに水俣を伝えたい。
その願いを胸に平成20年2月杉本栄子さんは亡くなりました。
69歳でした。
杉本肇さんはその年から母親の遺志を受け継ぎ語り部を始めたのです。
何でかって言うと手は痛いし汚か話お尻を拭いてあげんばいかんし体を拭いてあげんばいかんしもうやかましか事ばっかり言うしですねもう入院してくれとった方がよかってうちにおらん方がよかというふうに思いましたが弟たちにとってはやっぱりすごい大きな存在でした。
帰ってきてから「母ちゃんお尻ば拭いてあげようかい。
体を拭いてあげようか」って言ってる弟に申し訳ないなと思いながら。
水俣病の患者さんは「病気の事ばっかりじゃなかですよ。
差別された事が一番つらかったんですよ」というふうに言ってました。
なのでやはりこの事は伝えなければいけないという事で語り部を12年間やってきました。
未来につなぐにはあった事を事実を伝える事が大事だという事を伝えていました。
水俣病の症状に苦しんだ母親。
でも海の上ではこの上ない笑顔を見せた母親。
その母親が残した言葉のひと言ひと言を肇さんは深く胸に刻んでいます。
この人の言葉をちゃんと残しとかないとと思って。
最後にでも言った言葉が「もう少し生きたい」というふうに言ったんですよ。
…というふうに言われた時には逆によかったなあというふうに思いました。
この世に執着をしたのかなあというふうに思っていて若い頃は僕が小学生の頃はマイクを向けられて「死にたいっていうふうに思った事もある」と言われて非常にショックだったんですけども。
最後に「まちっと生きろうごたっ」と言われた時には僕は安心しました。
ああ幸せだったんだなあというふうに思ってですね。
最後はだからそんなふうに思ってくれたのかなと思っていて看取りましたけども。
本当はもう少し長生きをしてもらいたかったんですがそんな言葉を残してくれましたね。
その時からやっぱり何か知らないですけども改めて会話するような亡くなってからの方が何か自問自答しながら母親と相通ずるものが芽生えてきたというかそんなふうに何か思ってます。
どんなふうに考えるんだろうとかこの事をどう思うんだろうとか原発の事をどう思うんだろうとかう〜ん…どういうふうに見てるんだろうとかこれからの水俣の事をどういうふうに思うんだろうとかですね母親の事を考えるような事がとても多くなったような気がしますね。
(波の音)5月1日水俣病犠牲者慰霊式の当日です。
川本愛一郎さんは患者・遺族代表として祈りの言葉を述べます。
愛一郎さんは10日かかって患者・遺族の祈りの言葉を紡ぎ上げました。
水俣湾の埋め立て地で行われる慰霊式。
ここはかつて最も汚染がひどかった海が埋め立てられた場所です。
水俣病が公式に確認されてから58年がたちました。
母親の胎内で有機水銀に侵され生まれながらに水俣病を背負った胎児性患者の皆さんはその多くが間もなく60歳を迎えます。
川本愛一郎さん杉本肇さんも献花を行いました。
川本愛一郎さんは祖父が亡くなった時の父・輝夫さんの無念の言葉から語り始めました。
祈りの言葉。
「『俺が鬼か。
おやじは69で死んだぞ。
精神病院の畳もなか部屋で牢屋のごたる檻の中で誰にも看取られず一人で死んだぞ。
痩せ細ったおやじの体を抱いて俺は情けなくて一人泣いたぞ。
ひとさじなりと米のかゆば口に入れてやろうごたった。
その米を買う銭もなかった。
分かるかな社長』。
自主交渉派のリーダーとしてチッソ本社に座り込んだ父・川本輝夫は行き詰まった交渉の席で島田社長に対して祖父の事を涙にむせびながら独り言のように語りかけました。
父の闘いは不条理に奪われた人間としての尊厳と生活を名前を持った一人一人のその手に取り戻す事にありました。
小学5年生の男の子が『川本輝夫さんは長い闘いをしてこられたのですね』という感想を述べました。
『長い闘い』なんという言葉でしょう。
未来を託す子供たちに『長い闘い』と思わせる事に大人として言葉にできない悔しさと責任を痛感します。
加害責任が確定した国や県チッソもそれぞれの立場でこれからも長い闘いをしていかれるのでしょうか。
これからも被害者は被害者であるがゆえに己の人生を懸けて『長い闘い』をしていかなければならないのでしょうか。
水俣病事件の教訓とは何でしょうか。
私は未来を担う子供たちに『長い闘いがあったが当事者が真実に生きる事で過ちは謝罪され罪は償われ責任は果たされた。
そして皆が幸せに暮らせるようになった』と胸を張って言えるような水俣をそして日本を受け渡したいと切に願います」。
水俣病の公式確認から58年。
生まれた時には既に水俣病があった世代の人たち。
一人一人が重い課題と責任を背負ってふるさと水俣を生きています。
この日大学生たちが水俣の杉本肇さんを訪ねてきました。
福島の復興支援の活動で知り合った福島や東京の学生6人が水俣に学びたいとやって来たのです。
よろしくお願いします。
肇さんはこれまで何度も福島に足を運んできました。
この子が2年生であとみんな4年生。
実は12月23日に福島の方に行ってきました。
浪江町の人たち全国に避難している方々とお会いしました。
話を聞きましたが水俣とはやはり違います。
30年後やっぱり帰れるだろうか100年後帰れるだろうかというような状況の中でふるさとがなくなってしまうというようなそんなところなので僕たちが役に立てるかどうかは分かりませんが非常にやっぱり重いというふうに思いました。
大変だなというふうに思ったし。
でもその中で感じた事はみんなが話し合う中で言葉のキーワードというか見つかったのはそんな中でも「希望」を持ち続ける事だと感じました。
受難の中でも希望を持ち続ける事と。
これから水俣の歴史を聞く中で「長かったですね」という話をされてました。
もっともっとやっぱり福島・浪江町は大変だと思います。
そこにはやっぱり覚悟を持つ事が大事なのかなあと思います。
それでもう一つはやはりその中で自分ができる事を魂を込めてというか丁寧にやっていく事がとても大事なのかなあというふうに思います。
「希望」という事とそして「覚悟」という事そして「魂を込める」という事が3つ出てきました。
その事はやっぱり水俣がやってきた事だしこれから福島が歩んでいく中でそういう事が大切なのかなあという事を考えて帰ってきました。
家族がもう一度海に出る夢を実現へと導いた実さん「みぃちゃんの歌」です。
・「ハンマレ漕げ漕げハイヤッピーヤッピーヤー」・「前へ前へ前へ前へ」・「一人では寂しくないかい?だいじょうぶだいじょうぶ」・「僕にはお友達がいることそして家族がいること」・「またみんなと楽しく会える日を」・「いつも夢見ているから」・「暗闇は怖くはないかい?だいじょうぶだいじょうぶ」・「お日様は必ず沈むしそして必ずまた昇る」・「暗闇は朝が近いことつまりそういうことだから」・「ハンマレ漕げ漕げハイヤッピーヤッピーヤー」・「ハンマレ漕げ漕げハイヤッピーヤッピーヤー」・「前へ前へ前へ前へ」2014/06/28(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「ふるさと“水俣”に生きる〜次世代からのメッセージ〜」[字]
水俣で人気のお笑いトリオ「やうちブラザーズ」。リーダーは漁師の杉本肇さん。水俣病で苦しむ母や周囲の人たちに笑顔を届けたいと始めた。故郷で生きる次世代を見つめる。
詳細情報
番組内容
水俣で人気のお笑いトリオ「やうちブラザーズ」。リーダーの杉本肇さん(53)は漁師で、両親と祖父母が水俣病患者。水俣病で苦しむ母・栄子さんや周囲の人たちに笑顔を届けたいと活動を始めた。今年5月1日、水俣病犠牲者慰霊式で「祈りの言葉」を述べたのは川本愛一郎さん(56)。水俣病患者で、埋もれた患者の掘り起こしに取り組んだ父・川本輝夫さんの思いを言葉に込めた。ふるさと水俣で生きる次世代の人たちを見つめる。
出演者
【出演】水俣病患者家族…杉本肇,杉本実,鴨川等
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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