100分de名著・選 おくのほそ道 第2回「時の無常を知る」 2014.07.13

1689年3月。
松尾芭蕉はみちのくへと旅立ちます。
目的は心の世界を詠む新たな俳句を作り出す事。
「100分de名著」。
今回は松尾芭蕉「おくのほそ道」。
俳人の長谷川櫂さんと女優の内山理名さんが芭蕉の旅をたどります。
人間の営為が儚く潰えていった跡であると。
何かちょっと胸にくるものがありますね。
旅の中で芭蕉が感じた人の世の儚さとは?「おくのほそ道」時の無常を探ります。

(テーマ音楽)江戸の頃芭蕉が住んでいた深川。
今回は深川にある芭蕉記念館がスタジオです。
さあ伊集院さん松尾芭蕉の「おくのほそ道」第2回が始まります。
第1回は松尾芭蕉さんについての予備知識とかあと白河まで行くとこは教わりましたけどあそこは芭蕉たちにとっての旅の準備期間であり禊という事ですから本番です。
この先が本番。
さあ今回も指南役として俳人の長谷川櫂さんそして女優の内山理名さんにお越し頂きました。
今回長谷川さんと内山さんには芭蕉の足跡をたどって頂きました。
さて旅を始めました芭蕉と曾良ですが芭蕉46歳曾良41歳。
これで2,400kmおよそ5か月にわたる旅をしたという。
先生これで全部ですか?実際はもう少しあったのかもしれないですけれどもそんな荷物はたくさん持っていかない。
現地で調達するという事がたくさんあったんだと思いますね。
それは持ってるでしょうね。
何しに行ったんだか分からなくなるから筆記はしとかないと。
旅行の時期とも関わりがあると思うんですけど春に出て秋に帰ってくるわけでちょうど荷物が少なくていい。
少なくとも服はあんまり持っていかなくてもよかった。
「おくのほそ道」旅の行程をちょっと振り返ってみますと芭蕉はこの2,400kmをおよそ150日をかけて歩きました。
旅はこのように長谷川さんが四部構成で考えて下さいました。
第一部は江戸・深川から白河まで長旅の安全を願う禊の旅と。
第二部が白河から尿前の関までみちのくの歌枕の旅と。
結論から言うと架空の名所である想像上の名所である。
「結論は架空の…」ってどういう事です?つまり想像してみるといいんだけど当時の王朝時代の歌人たちはほとんど貴族たちなんですよ。
そうすると貴族たちは実際その歌枕に出かけていって歌を詠むわけじゃないんですね。
風の便りにそういう場所があると聞いてそれで歌を詠むわけです。
実際にある所もあるんですか?実際どこにあるか分からない。
そうするとある歌枕は実はここであるというふうに現実の方を後から探す合わせるそういうものまで出てくる。
現実が後からついてくる。
歌が先にあってそれに合わせて歌枕が作られる。
「湖の横で紅葉がきれいだな」と詠んであったら後に行ってピッタリな所があったら「きっとここで詠んだに決まってるよ」と。
そうです。
現実よりも言葉による想像力の方が先なんです歌枕は。
芭蕉にしてみれば困っちゃうのはその歌枕でも自分のやり方の俳句が作れる事を試しに行く。
でも実際歌枕は想像だけで…芭蕉はそういう歌枕の仕組みを知ってたと思うんですね。
架空のものであると。
だからそこで自分の開いた蕉風つまり心の俳句を試してみたいと思ったと同時にそういう想像で出来た名所をたどるというのは不可能であるという事を実際に旅して分かるわけですね。
やっぱり結構衝撃は…。
衝撃を受ける。
実際にそういう所もあるんですよね。
あるんですね。
これは王朝の歌人が詠んだ歌。
「陸奥のしのぶもぢずり」という石に模様を描いてその上に布を置いて草でたたくわけ。
そうすると模様が布にうつりますよね。
そういうものを言ったと思うんですけどもその石を訪ねたくだりが「おくのほそ道」にあるんです。
どうなっちゃうんでしょう。
どんな衝撃が待ってるんでしょう。
歌枕に詠まれた文字摺りの石を訪ねて芭蕉と曾良は信夫の里を訪れました。
小さな村里でやっとその石を見つけると…なんと半分土に埋まっていました。
村の子供たちが言うには…。
「昔は山の上にあったんだけど旅人が畑の麦をちぎって石で模様を摺ってみたりするものだから村人たちが怒って落っことしたんです」。
果たしてこんな事があっていいのか!?かつての風情は今や残っていないのです。
形跡あったからまだましな方かなって感じですよね。
こんなにぞんざいに扱われてたこの石は!みたいに幻滅して…。
このほかにもいろんな芭蕉が失望したような歌枕があって例えば「末の松山」という有名な歌枕がありますけれどもこれは行ってみると「末の松山波越さじとは」って「私の恋がある限り波がこの松山を越える事はないだろう」と歌われた有名な松山なんですが実際行ってみると墓場になってしまってるという記述があるんです。
お墓?ショックだな〜。
恋の成れの果てはお墓。
何里も歩いてずっと憧れ続けて今回の旅ではそれを見る事で自分は何をインスピレーションを受けるんだろうと思って行った先のよりによって墓場になってる事はないだろうと。
「おくのほそ道」の中で松尾芭蕉はこのように書いているんですね。
ほとんど崩れてしまってると跡形もないと言ってるわけでつまり芭蕉は「おくのほそ道」の歌枕を旅するつもりで旅に出たんだけど実際は…あまりにもあまりなので良かったという所はないんですか。
あるんですよ。
もうほんとにそんな歌枕の旅の中でその存在が芭蕉に喜びを与えたという所があります。
松島でございます。
宮城県。
芭蕉と曾良みちのく歌枕を巡る旅。
2人は塩竃から舟を雇い松島に向かいました。
5月9日昼ごろの事です。
長谷川さんと内山さんも2人に倣って船で松島に渡る事に。

(内山)何かさっきから小さい島大きい島これ島なのかなというぐらいこんもりとした岩ぐらいのものにたくさん鳥が止まってたりしてすごい幻想的で不思議な風景でこれは昔芭蕉が見たものと変わってないんですよね。
ほとんど変わってないですよね。
奇跡的といえば奇跡的ですね。
260もの島々が浮かび独特の景観をつくり出す松島。
憧れの歌枕を芭蕉はこんなふうに描写しています。
「数限りない島々の中には天を指さす島があれば波に伏しているものもある。
二重三重に積み重なる島。
左は途切れているかと思えば右はつながっている。
小さな島を抱き子供や孫をかわいがっているような姿もある。
その景色は見る人をうっとりさせ美人が更に美しく化粧をしたかのようだ」「おくのほそ道」の中でここの辺りの描写というのはとても生き生きしてるんですよ。
へえ〜!ここに来て初めて…それがとてもうれしかったんじゃないかと思うんですね。
旅の中で歌枕に幻滅してきた芭蕉が心から喜んだ松島の風景です。
松島で船を降りた芭蕉と曾良は雄島という小さな島に渡ります。
すごい幻想的。
ええ。
芭蕉はお昼過ぎに塩竃を出て夕方にここに着いたらしいんですね。
かれこれするうちにだんだん月が昇って夜になって昼間見る景色とはまた違う夜の景色がすばらしいという事を「おくのほそ道」に書いてるんですね。
じゃあここで月明かりを眺めながら…。
そうですね。
うわ〜。
波にきらめく月光を。
ここで見たら感動しそうですね。
すごいロマンチックですね。
宿に戻った芭蕉は窓から月の輝く海を眺めます。
「大自然の中で旅寝をするのはまるで仙人の世界にいるかと思うほどすばらしかった」。
そして次の一句が詠まれます。
「ほととぎすよ松島の景色にふさわしく美しい鶴の姿になって鳴いておくれ」。
しかし…。
芭蕉ではなくて。
芭蕉は詠まなかったんですか?芭蕉は松島で実際に句は詠んでるんですけれども「おくのほそ道」の中には入れてないんです自分の句を。
憧れの歌枕の地松島を堪能した芭蕉。
おっ何か謎が…。
大きな謎ですね。
句は詠んでるけどあえて「おくのほそ道」には入れてない。
ちょっと思い出したんですけど…。
あんまりすごいからこんなの作っちゃいましたって松尾芭蕉の話じゃないんですか?それね実は違って江戸時代のもっとずっと後の人で田原坊という狂歌師がいて「松島やさて松島や松島や」という句を詠んだんですね彼が。
それがいつの間にか松島のくだりに芭蕉の句がないからそれを芭蕉が詠んだというふうに話がすり替わっていく。
今でいう都市伝説じゃないけど噂が噂を呼んで変にはまっちゃっただけで。
うわっ謎だな〜。
長谷川さんが「残ってるのが奇跡的だ」とおっしゃいましたが今回の東日本大震災でも松島はやっぱり残って。
古代からの歌枕がどんどん消えていったというのもいろんな自然のいたずらとかいう事があってでも残ってるというのにはやっぱり芭蕉も感動はしてたんでしょうね。
そうですね。
実は芭蕉がそこで詠んだ句が本当はあってそれがこういう句なんですね。
「松島の島々はたくさん砕かれたように夏の海に散らばってる」という句なんですね。
すてきじゃないですか。
すてきですよね。
だけど…なぜならば「おくのほそ道」に芭蕉が旅に出た理由というのは「古池」の句で開いた心の世界を開く。
それをいろいろ試してみたいと思ったはずなんですけど実はこれは松島の風景を詠んでるだけで。
目の前に見てるそのままを描いているように見えます。
「千々にくだきて」って見たままですよね。
それと千々に砕けて島々が散らばってるというのは本文で書き尽くしてしまってるんですね。
これを入れると屋根の上に屋根を重ねたみたいになるからこれは要らないやと思ったはずなんですね。
こっちはどうですか?そういう思いもあったかもしれないです。
それに関わる一つのエピソードというか証拠が…。
富士山。
これは安藤広重という人の「東海道五十三次」の中に出てくる富士山の絵なんですが富士山というと普通ちゃんと頂上を描いて入れるんですね。
ところがこれはあえて頂上を外してるんですね。
つまり富士山がこういうふうにはみ出してしまうとすごく大きく見える。
実際中に入ってしまうとこぢんまりと見えてしまう。
フレームに収まっちゃうのを嫌うんだ。
多分これと同じ発想が芭蕉のここで働いててつまり松島の所でみんなが期待している松島の句を入れてしまったらそれはみんなの予想どおりにうまく収まるんだけどもうまくまとまるだけの話で何の面白い事はないと。
ここはいろいろ想像ができるんですけど多分そういう事ではなかったかと。
つまり松島の美しさをたたえるのになまじ句を出すべきではないと思ったんだろうと思うわけです。
でもそれを書かない事が一番自分の心の部分を表現してるとするとこれはこれで完成してるとも言える。
そうですね。
575どころか。
ゼロ表現と言っていいと思うんだけど…そういう極めて高度な表現技術を芭蕉はここ使ってるんですね。
確かに亡くなる寸前までいろいろな所を直してるにもかかわらずやっぱり入れないって考えるのはやっぱりあえて。
効果をねらってると。
では「おくのほそ道」歌枕の旅最終地平泉に歩みを進めてまいりましょう。
芭蕉と曾良は平泉を訪れました。
ここは栄華を極めた奥州藤原氏が源氏と戦い滅亡した場所です。
2人はまずあの源義経が討ち死にしたという高館を訪れました。
うわ〜すごい!「口ずさみながら笠を敷いて腰を下ろし時がたつのも忘れ涙を落とした」。
「兵ども」というと義経とかあと藤原氏の人々も含めていいと思うんですけどそういういろんな…ここで同じふうに見ながら「夏草や兵どもが…」と詠むとちょっと胸にくるものがありますね。
何か夏草が違う風景に見えて…。
なるほど。
何だろうちょっと儚く切ない。
高館を下りた芭蕉と曾良が向かったのは中尊寺です。
奥州藤原氏が建てたこの寺は長い年月を経て芭蕉が訪れた時には一面の廃虚となっていました。
その中で残っていたのが金色堂です。
うわ〜!だんだん光が。
まぶしいですね。
ほんとに輝いてます。
いや〜!まさに金色堂ですよね。
芭蕉と曾良は金色で装飾されてて実に昔の栄華をそのままとどめているのに感心していて「千年の形見」という言葉を使ってるんですよ。
つまり1,000年間もずっと長らえてきた記念物であるという言葉を使ってて感動的にこの光堂との出会いをつづってるんですね。
「光堂の四方を新たに囲み屋根で覆って雨風をしのぐ。
つかの間かもしれないがそれでも千年の形見となっているのだ」。
時間の猛威というのに人間の生活もそういう人間の作ったさまざまな歌枕も流されてやがては消えていくんだけど中には…そういうかすかな希望を芭蕉は光堂の前で抱いたのではないかと。
そうか。
すごい生命力を感じますね。
何かここまで来るのにさっきの北上川の方では儚さを感じてここでは希望を感じて残りの「おくのほそ道」の旅を続ける事ができたのではないかなって。
2つ紹介してもらった句がほんと対照的ですね。
そうなんですよ。
「夏草や兵どもが夢の跡」というのは全てそういうのが滅んでしまったと。
時間によって流されてしまったという句で一方の光堂の句はそれでも残ってると。
あってほしいのに無いものだったりあるにはあるけどがっかりしたりとか行ったはいいけど句を作らないという事があった中で信じられない光景だったような気がしますね。
「五月雨の降のこしてや光堂」の「降のこしてや」という表現がすごい…。
私もそればっかり残って。
この句をじ〜っと心の中で描いてると時間が降り注いでるみたいなね。
時間が物を朽ちさせていくみたいな感じがしてその中でも更に光堂だけは残ってるとそういう感じもしてくるんですね。
時間が全てを流していくというのがみちのくのこの第二部のくだりの基調なんですがじゃあそういう時間の中で我々人間はどういうふうにして生きていったらいいかというのがやっぱりこの平泉で彼が抱いた思いじゃなかったかと。
やっぱり基本無常であるという。
基本無常であるという事は考えながら思いながら歩いてるんですね。
と思います。
その思いを胸に今度また次の日本海側へ進んでいくわけです。
でもここでこれだけ大きい無常感を感じてるのにこの先まだ半分以上旅はあるわけでしょう。
どういうふうに続いていくんだろうか。
次回は芭蕉がその無常感をどう解決したかが明らかにされます。
第三部は日本海側まで横断する旅になります。
さて芭蕉は一体何に出会うのでしょうか。
お楽しみに。
皆さん今日はどうもありがとうございました。
何か一個一個の島が生き生きとしていて立派。
自然にはかなわないなって思っちゃいます。
うわ〜すごい!2014/07/13(日) 15:25〜15:50
NHKEテレ1大阪
100分de名著・選 おくのほそ道 第2回「時の無常を知る」[解][字]

女優の内山理名と俳人の長谷川櫂が、おくのほそ道の旅を追体験!深川の芭蕉記念館をスタジオにして伊集院光・武内陶子アナと共に句にこめられた芭蕉の無常観について語る。

詳細情報
番組内容
東北での旅で芭蕉がまず知ったことは、人間の営みが、いかにはかなく、もろいものであるかという現実だった。松島に着いた芭蕉は、その美を流麗な文章でたたえるが、何と芭蕉は自分の句を「おくのほそ道」に載せなかった。その真意とはいったい何なのか? さらに北へ進み、平泉に着いた芭蕉は、中尊寺金色堂で、ひとつの希望を感じることになる…。第2回では、無常という世の厳しい現実を、芭蕉がどうとらえていたかを探る。
出演者
【ゲスト】俳人…長谷川櫂,内山理名,【司会】伊集院光,武内陶子,【語り】森山春香,【朗読】麻生智久

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
趣味/教育 – 生涯教育・資格

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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日本語(解説)
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