NHKアーカイブス「夢を追いかけた男たち〜日本人大リーガー50年〜」 2014.07.13

今からちょうど50年前の1964年1人の日本人がメジャーリーグのマウンドに初めて立ちました。
村上雅則投手。
貴重な左ピッチャーとして中継ぎやストッパーで活躍します
(村上)何か俺はどえらい事しちゃったかななんていう。
メジャーで投げたんだという。
しかしそれに続く日本人の選手が現れたのはおよそ30年後でした
プロ野球入った時から大リーグでやってみたいという夢を持ってましたから…。
野茂英雄投手。
独特のフォームから放つフォークボールで並みいる強打者たちを抑え込みました
(実況)空振り三振!スリーアウト!
その人気は社会現象にまでなりました
もちろんその自信はありますし皆さんに喜んでもらえるように精いっぱいやりたいと思ってます。
イチロー選手はシーズン最多安打を84年ぶりに更新するなど数々の記録を打ち立てています
アメリカメジャーリーグでプレーするという事を望みその道を選びました。
松井秀喜選手はニューヨーク・ヤンキースで主力打者となりワールドシリーズのMVPも獲得します
こうして日本人の選手が当たり前のようにメジャーリーグに挑戦するようになりました
その中にはオールドルーキーと呼ばれたベテランやプロ野球経験のない若者もいたのです。
今日は夢を追って挑戦する2人に密着した番組をご覧頂きます
アマチュアから直接メジャー契約を結んだ日本人初のピッチャー。
2年後3年後のメジャーデビューを目指して田澤はマイナーでじっくりピッチングを磨こうと考えていました。
まあ勝ち抜くっていうか。
みんなライバルだと思うのでなんとかはい上がっていけたらいいなと思います。
ニューヨーク・メッツ高橋建投手。
日本人最年長40歳でのメジャーデビューです。
40になってもこうやってできる姿ってのももし皆さんにいいように映ってたら本当うれしいし…。
日本人メジャーリーガー誕生から50年。
今日は夢を追った男たちの姿を見つめます
アメリカメジャーリーグでは間もなくオールスターゲームが開催されます。
今年はこちらダルビッシュ有投手そして上原浩治投手がメンバーに選ばれまして今からワクワクしています。
今日は大リーグに挑戦した日本人選手を見てまいります。
ゲストご紹介致します。
お二方をお招き致しました。
まず私のお隣です。
元プロ野球選手の小宮山悟さんでいらっしゃいます。
ニューヨーク・メッツでも活躍されました。
ありがとうございます。
どうぞよろしくお願い致します。
そして日米の野球事情にも詳しいスポーツ評論家の玉木正之さんです。
どうぞよろしくお願い致します。
小宮山さんは2002年にメッツでプレーされました。
その時のお姿いかがでいらっしゃいますか?懐かしいですね。
懐かしいです。
本当に…。
どんな場所でした?メジャーリーグ…。
本当に憧れを持ってたのでそれが実現できたっていう瞬間のあの喜びっていうんですかね。
これは本当に何物にも代えがたいっていう雰囲気もありましたしとにかく楽しくて楽しくてしょうがなかったです。
中にはもうとんでもない選手がいますから…。
例えば…?我々が日本で培ってきたもの全てをぶつけたところでそれをいとも簡単にはじき返すようなそんな選手が各チームに1人2人いましたのでそういう選手とまともにやって勝ち抜くっていうのは相当きつかったですね。
結局のところ彼らにやられたので。
僕の場合は…。
もう本当にいろいろといい経験をさせてもらいました。
はい。
玉木さんは…?日本人選手が今活躍をしてますがどんなふうに選手たちの姿挑戦の姿ご覧になりましたか?その当時はもちろん僕初めて行った時は日本人選手が活躍するなんて考えもしなかった事だったですね。
それが野茂投手が活躍した頃にはピッチャーはいいけれどもバッターは駄目だろうといわれてそのあとでイチロー選手がすばらしい活躍をしたのでその時でもう外野手はいいけど内野手は駄目だろうと。
…で内野手もまた活躍したら今度は内野手はできてもキャッチャーは駄目だろうといわれたらキャッチャーも出てきたという。
城島選手がね。
そしたらもうほとんどある意味で肩を並べたというか日本人選手も大リーグで普通に活躍できる時代が来た事だけは確かですね。
このメジャーでプレーした日本人選手調べましたらこの50年で50人はもう超えているんですね。
こうした日本人選手の先駆けとなったのが村上雅則さんだったんです。
当時のお話伺ってまいりました。
日本人メジャーリーガー第1号の村上雅則さん
村上さんは南海ホークスから野球留学という形でアメリカに渡ります。
当初はマイナーリーグでプレーしますがシーズン終盤には実力が認められメジャーリーグに昇格しました
「いや〜すごいな〜」とスタンドを見ながら「いやこれ硬くなるのかな」なんて…。
もうスタンドからうわ〜っとピーピー何かやっとる訳ですよ。
耳に入るんですよ。
でも「あれ?これで硬くなっちゃいけないな」と思ってとっさに…。
当時は向こうでも「SukiyakiSong」ってのは「上を向いて歩こう」がはやってましたからそれちょっとハミングしながらリラックスしてね第1球目本当にアウトコースの低めバチッと決まりまして三振取りましてほっとした感じでしたけどね。
自分で感激したというその感情がわいてきたのは終わってからですね。
何か俺はどえらい事しちゃったかななんていう。
メジャーで投げたんだという。
村上さんの活躍は現地の日系人たちに勇気を与えたといいます
敗戦国の日本人という事でもうアメリカ人からは本当に…私も聞いたんですけど「おいこの色はシルバー…」。
シルバーなんですけどね。
シルバーなんだけど「これはゴールドだろ?ゴールド?」って言ったら「ノー」と言えないんだってね。
そのぐらい怖かったというかそういう時代で逆らう事はできなかったという…。
バカにされてた…。
ある時にドジャース戦でロサンゼルスで私が第1球投げたら真ん中の甘い所低めの所へいい所へストライク。
…と思ったのはアンパイアがキャッチャーの頭で見えなかったか分かんないけどあんまりいいんでキャッチャーがフッとこうなったから見えなかったか分かんないけど「ボール」って言ったから私がパッと3歩ぐらい行って「Why?」ってこうやったんですよ。
何日かして町へ食事しに行ったんです。
日本のレストランに…。
入り口におじいちゃんがいたんです。
「村上さん!」って言うんですよ。
「何ですか?」って言ったら「ユーはよくやってくれたのう!」って言うんですよ。
俺たちにはできなかったんだ。
ああいう事が。
今までね…。
戦後約20年できなかったよと。
それをお前はテレビの中でやってくれたと。
いや〜よかった。
戦後の20年のこの胸のつかえが取れたよって言って…。
あの言葉を聞いた時に自分もこんな事で彼らの気持ちが癒やされたという事は非常に感激もしたしじゃあとにかく一生懸命やってそして地元の人たちの日系社会の人たちに喜んでもらえたらいいなというそういう気持ちはだんだんだんだん強くなってったというかそういうのはありましたね。
日本人メジャーリーガー第1号の村上さんは野球留学から実力を認められてのデビューだったんですね。
スポーツの力っていいですね。
やっぱり活躍して日本人を力づけるっていうね。
かなり重たい話になりましたがとにかく必死になってというところが日系人の方々が見て本当に頑張ってくれっていう応援もしてくれたでしょうしね。
すばらしいと思いますね。
1964年っていうのが東京オリンピックの年なんですよね。
東京オリンピックの直前にこのニュースが来たのを私は小学校6年生で覚えているんですけれども映像はないんですね。
それこそ新聞でこんなん書いてあって写真があった程度なんですね。
でも東京オリンピックがもうすぐある時にこういう事も起きたというのが何かこう世界に対して日本が胸張れるような時代が来たようなそんな雰囲気はあったように思いますね。
野球の力量自体やっぱりでもまだまだまだまだ全然…。
まだまだ差があって…。
これは僕も知らなかったんですけど川上哲治さんという方が後に本に書かれてるんですけど巨人がドジャースで…ドジャータウンという所でキャンプを張ってるんですね。
その時に長嶋さんと王さんだけがやっぱり優秀だからってドジャースのチームの中に入って練習をしたと。
そしたら遠くから見てるとちょっとバットの振りが遅い選手が2人いるって川上さんが書いておられて…。
それが長嶋さんと王さんだったというような事が書かれていたような時代で。
日米の格差がグ〜ンとあった時代ですね。
そういう中で第1号が誕生した訳ですけれどもその次がおよそ30年間が空いて野茂さんなんですね。
1995年ですよね。
ドジャースに入ったのは…。
彼の投げる試合はほとんど全てと言っていいぐらい中継をやってくれてましたのでそれを見てましたね。
それぐらいやっぱり彼は我々にとっても希望の星だったのでかなり熱心に応援してましたね。
日米貿易摩擦なんかが騒がれた時代だったですよね。
その中で最高の輸出品だと言ったんだけども。
当時大統領はクリントンでしたけれどもね。
アメリカでは…。
でも日本人にとっても当時あれは神戸の大震災とか…。
1995年はそうでしたね。
サリンの…ありましたしね。
だからそういう中でかなりいい話題。
もうみんなが元気になれる話題。
それこそ近所のおばあさんまでが朝から野球を見る時代が急に訪れたっていうか。
最初のうちはでも少し批判も…。
少しじゃないですね。
かなりありましたよ。
日本の野球に対する裏切りであるとか行っても通じないのに何を偉そうな事を言って行ったんだとかっていう。
ところがドジャースで球場が映ってそこで投げてる姿を見た途端に雰囲気変わっちゃいましたね。
これはすばらしい事だというふうに変わりましたね。
さあその野茂さんが1995年ですが…。
小宮山さんは先ほどもちょっと申し上げました。
2002年に36歳の時だったんですね。
メジャーリーグに挑戦されました。
夢に描いてたメジャーというのが現実のものになるという事に対して非常に喜んでおります。
小宮山さんはかつてロッテで共に戦ったバレンタイン監督の下で2002年メジャーリーグに挑戦しました。
抜群のコントロールで鳴らした小宮山さん。
頭脳派の投球でメジャーリーグの強打者に挑みます
「男は生きざま」だと…。
でも後ろには「気合」という…。
初登板は1回を3者凡退で打ち取り上々のデビューを飾ります
やったという感じですかね。
本当に優勝を争うような展開になってマウンドに上がれる事ができたらこれ以上の幸せは恐らくないだろうというふうに思ってますのでそうなれるように頑張ります。
しかし次第に打ち込まれる事も多くなり通算成績は0勝3敗。
1年間でメジャーリーグを後にしました
懐かしいですね。
そもそも小宮山さんはどうしてメジャーリーグに挑戦と思われたんですか?僕の場合もそれこそ1995年にバレンタインが監督として来た時にアメリカの野球を監督として現場で指揮を執った人が我々のチームに来て監督として指揮を執るというところが本当に新鮮でしたし今までやってた日本の野球と物の考え方がちょっと違う訳ですよ。
日本はとにかく必死になって体を動かして練習をして…。
その先に試合がある。
そうなんですよ。
アメリカの考え方にはそれがないんですね。
試合がもう全てですから。
練習はあくまでも試合のための準備なのでそこまで一生懸命やる必要はないんです。
あっそうなんですか。
そういう中で新鮮な野球を1年経験できたのでその時にやっぱりアメリカの野球って実際どうなんだろうなというのはかなり気持ちの中に大きくなりましたね。
挑戦のタイミングとしては36歳ですよね?これはもう完全にタイミングを逃したという感じですね。
要は行こうと思ったら行けたとは思うんですけどもそのチャンスを自分でふいにしてた部分があったので最後に挑戦するというふうになった時にはアメリカに行って最後だと…。
引退しようという事で腹をくくってフリーエージェント手を挙げて渡米したんですけども。
実際のところはやめずにまた日本に戻ってプレーしてますから。
そう。
そこなんですよね。
戻ってこられて1年浪人といいましょうかそのあとまた6年間現役を続けられましたよね。
その気持ちとしてはどういう…?アメリカに行って仮に先発を経験してたらやめてたかもしれないです。
アメリカに行って先発ピッチャーとしてなんとかっていう思いが強かったもんですからその先発する機会がなく1年終えたので…。
メジャーではね。
なので何か中途半端なんですよね。
やめようと思って行った割には不完全燃焼のような感じになってたので気持ちのどこかで「クソ!」という思いがやっぱりあったんだと思うんですよね。
なのでもう一度ユニフォームを着てやるっていう考えでしたね。
でもどうでしょう?当時野茂選手がとにかく道を開いてから2002年ですから7年たってますよね。
2000年の初めの頃っていうのはどうなんでしょう?メジャーリーグってどういう状況で…?メジャーはどんどんどんどん発展している状況で選手が欲しいという事もあったんですよね。
ヨーロッパからも中南米からもそれからアジアからもたくさん選手が必要だと。
それも優秀な選手が必要だと。
それには日本の選手はかなり優秀だというふうにして積極的にスカウティングの目が東洋に向けられた事も事実ですね。
また日本の選手たちも物おじせずにアメリカの選手と…アメリカの超スーパースターを除けば勝負になるぞという事が手に取るように分かったというか。
実際WBC勝ってますからね。
2連覇して…。
平気で挑戦に行けるような時代になったと言えると思いますね。
日本人メジャーリーガーが誕生してから50年です。
今では当たり前のように日本からメジャーに挑戦するようになっている訳なんですけれども小宮山さんのようなベテランの挑戦も相次いでいますし一方でプロ野球の経験のない若者も挑戦するようになっています。
今日はベテランと若者対照的な2人の選手の挑戦を追った番組をご覧頂きます。
今年注目のルーキーがメジャーリーグに挑みました。
田澤純一投手23歳。
日本のピッチャーでは初めてアマチュアから直接メジャー契約を結びました。
不安はすごいあるんですけど監督といろいろ相談してすごい挑戦してみたいという気持ちが強くなったので結果に表せたらいいなと思ってます。
そしてもう一人。
ひっそりと海を渡ったルーキーがいました。
高橋建投手40歳。
プロ野球広島出身のサウスポーです。
未知の世界なのでどんな世界なんだろう?という感じですごい興味がわいたのはやっぱりメジャーリーグの世界だったんで。
世界最高峰の舞台に挑んだ年齢も経験も異なる2人のピッチャー。
そこに立ち塞がる高い壁。
そして彼らを支えた絆の存在。
遠く離れた家族。
「なんとかなるから大丈夫だよ」。
なんとかなるように…。
「頑張って」。
うん。
ありがとう。
先輩ピッチャーからのアドバイス。
(斎藤)田澤は本当にルーキーとして今頑張ってるからなんとか少し助けてあげれたらな…。
夢のメジャーリーグに挑戦した2人のルーキー。
その闘いの日々を見つめました。
メーン州ポートランド。
この町にボストン・レッドソックスのマイナーチームシードッグスがあります。
期待の大物ルーキー田澤純一のシーズンはここから始まりました。
アマチュアから直接メジャー契約を結んだ日本人初のピッチャー。
2年後3年後のメジャーデビューを目指して田澤はマイナーでじっくりピッチングを磨こうと考えていました。
メジャーはそんなに甘いとこじゃないと思っているのでそんな簡単にうまくいくと思ってないのでやっぱり下からしっかりやっていった方がいいのかなとは自分の中では思います。
やっぱり練習をして成長して…。
まあ勝ち抜くっていうか。
みんなライバルだと思うのでなんとかはい上がっていけたらいいなと思います。
去年都市対抗野球での活躍で一躍脚光を浴びた田澤。
主な武器は切れ味鋭い変化球。
特にスライダーは一級品です。
優勝の立て役者となりプロ野球ドラフトの注目株と見られていました。
そんな田澤にメジャー入りを勧めたのはチームの監督です。
日本よりアメリカでプレーする方が田澤は成長できると考えました。
何となく人見知りするというかおとなしい一面も持ってるので日本で優遇されるよりはあえてそういう厳しい道を選んで行くのも自分が成長する過程において大事なんじゃないかなという…。
あえて厳しいメジャー挑戦を選んだ田澤。
実はもう一つ理由があります。
優れた選手育成のノウハウです。
スタンドの上に並ぶのはマイナーで育った選手たちの背番号。
レッドソックスの守護神パペルボンや左のエースレスターなど今を時めくスター選手ばかりです。
なぜ名選手を生み出し続ける事ができるのか。
そこにはアメリカでも指折りの育成システムがあります。
まずは徹底的なデータ収集。
さまざまな筋力を定期的に計測します。
それをコンピューターで分析。
数字には表れない技術や性格も考慮しながら選手一人一人の課題とトレーニング方法を割り出すのです。
田澤に与えられた課題。
球数を減らす事。
振りかぶって投げるモーションを身につけるなどフォームの矯正。
そして初球はストレートを投げる事。
ところがこの中の「初球はストレート」という課題が田澤に重くのしかかっていきます。
日本では変化球を得意にしていた田澤。
初球からストレートを投げ込みますが相手バッターに狙われてしまいます。
力を十分に発揮できず悩みました。
育成育成って言われても実際マウンド立ってみたら打たれたくはないってあるんですけど最初からストレートばっかり投げなきゃいけないというのがすごい不安というか嫌だったんで…。
その点はすごい戸惑いはあったのかなと思います。
決め球スライダーを使えば抑えられる。
田澤はコーチ陣に訴えます。
しかしコーチはあくまで投球の軸となるストレートを磨いてほしいと説得しました。
本人も「ここでスライダー投げたら簡単に抑えられるのに」というところであえて難しくストレートだけで勝負させたりと…。
メジャーに上がるのが目標ではなくメジャーで活躍するメジャーでずっといて何年もメジャーで必要とされる選手プレーヤーになるって事を目標にしてるので今は染み込ませる段階ですよね。
基本というものを…。
この方針を受け入れた田澤。
ストレートでいかに抑えるか考え始めます。
そこで重視したのがコントロール。
もっと厳しいコースで正確な投球を心掛けました。
成果は徐々に数字に表れます。
2か月で6勝2敗。
結果を出した事で田澤の心に変化が見え始めました。
気持ち的に打たれるんじゃないかって投げていたのがだんだん打ち取る事によって気持ち的にもいけるというふうになっていたのとやっぱりしっかりコースに投げれば打ち取れるなっていうのは少し感じたかなと思います。
戸惑い悩んだ末に乗り越えていった最初の壁。
アメリカに渡って4か月。
田澤は自らの投球への手応えを感じ始めていました。
同じ頃もう一人のルーキーがメジャーリーグの歴史に名を刻みました。
ニューヨーク・メッツ高橋建投手。
日本人最年長40歳でのメジャーデビューです。
3回ワンアウト満塁。
絶体絶命のピンチでマウンドに上がりました。
その初球。
ダブルプレー。
打球はおなかを直撃。
しかしすかさず拾い上げてピンチを切り抜けました。
続く4回。
去年ホームランと打点の2冠王に輝いたハワードと対戦。
追い込んでからの5球目。
渾身のストレートで打ち取りました。
見事なメジャーデビューでした。
40になってもこうやってできる姿ってのももし皆さんにいいように映ってたら本当うれしいし…。
まあとりあえずほっとしてます今。
(観客)高橋建!高橋建!高橋建!高橋は広島カープ一筋14年。
先発中継ぎ抑えとさまざまな役割をこなし建さんの呼び名でファンから親しまれてきました。
おやじでも頑張ってるっちゅうところがいいと思います。
いや〜もう壮快ですよ!あのアウトコースの「ピャ〜!」いうね!あのシュート!最大の武器は外角ギリギリをつくコントロール。
この球で厳しいプロの世界を生き抜いてきました。
そして去年FAとなりアメリカへ。
そのきっかけとなったのが後輩黒田の活躍でした。
去年のプレーオフ。
ドジャースの黒田は2勝をあげる大活躍。
満場の喝采を浴びるかつてのチームメートの姿に心を動かされたと言います。
憧れたというか未知の世界なんでどんな世界なんだろうという感じですごい興味がわいたのはやっぱりメジャーリーグの世界だったんで。
野球とベースボールどんだけ違うのかとかそういうの全く分からなかったのでそこら辺がすごい興味深かったんですけど…。
自分の力を試したい。
メジャー挑戦を心に決めた高橋は家族にその決意を打ち明けました。
やっぱりいろいろ考えましたけど…。
頭の中では…。
でも行くって本人が決めたんでもう何も…言いませんでした。
「行ってきて」みたいな。
ハハハ…。
(高橋)「向こうで頑張ってきて」だよね?うん。
そうだよね?僕と一緒に…だと思うんですよね。
いつか上がれるだろうってそうやって思っててくれたとは思うんですけどね。
2月にマイナー契約から挑戦をスタートした高橋。
3か月かけてメジャーに昇格しました。
目標はまず1勝。
家族にウイニングボールを届けたい。
高橋がチームから与えられた役割は中継ぎ。
特に左バッターを抑えてほしいと期待されていました。
ライバルも多く競争が激しいメッツ投手陣。
毎日がメジャー生き残りを懸けたギリギリの闘いでした。
自分で言い聞かせて「今このポジションなんだ」と…。
まあ若干敗戦処理みたいな厳しい中継ぎのブルペンにいる選手の中で下から1番目か2番目。
順位づけするとそんな感じなんで…。
なんですけど投げたらとにかく必死に抑えにいくというようななんとかパフォーマンス出せるようにやってますけども…。
ところが6月半ばのフィリーズ戦。
メジャーの洗礼が待っていました。
同点で迎えた延長10回。
ランナー一二塁。
打席にはホームラン王争いを繰り広げる強打者…その3球目でした。
外角いっぱいを狙ったボール。
コントロールミスが命取りとなったのです。
試合数が増えていくうちにやっぱりホームランも打たれましたし長打も何本か打たれてるんでやっぱり怖さっていうのはどんどんどんどん感じますね。
期待された左バッターへのピッチング。
しかし成績は4割2分9厘と打ち込まれてしまいました。
厳しい闘いを続ける高橋。
アメリカでは1人ホテル暮らしを続けていました。
そんな彼の楽しみは広島にいる家族とのパソコンを通じたやり取りです。
いやパソコン…今年からです。
初めてこうやってアメリカ来てからやりましたね。
メカ音痴なんですよね。
メカというか…。
長女の優さんから届いたメール。
「7月入ったらまたテストがあるけえ」。
広島弁です。
うれしいですね。
絵文字とか入れてくれたり。
僕らこんなのできないんでね。
家族からもらったお守りも見せてもらいました。
これなんですけど…。
来る時に「これつけていって」と言って…。
写真が…見せちゃっていいのかな。
2人が僕行く時僕の携帯勝手にいじくって表紙になってたんですよね。
親としてやっぱり一緒にいてあげられないんで心配ですね。
ところが…厳しい現実が待っていました。
(取材者)いつ今日報告というか通知を受けたんでしょう?今日1時間前ぐらいですかね。
そのぐらい前に呼ばれて…。
もちろんマイナーでやるつもりはなかったんでメジャーで頑張りたいという気持ちが大きいんで頑張っていきたいですけどね。
知らせを受けたその日のうちに荷物をまとめてマイナーへ。
40歳の挑戦者高橋。
頑張れ!建さん!8月の初め突然のニュースが駆け巡りました。
マイナーでトレーニングしていた田澤がニューヨークに呼び出されたのです。
思いもかけない…レッドソックスはヤンキースとの首位攻防戦の真っ最中でした。
初めて目の当たりにする華やかなメジャーリーグの世界。
心が躍りました。
ところが思わぬ運命が待っていました。
試合は両チーム一歩も譲らない激闘。
延長に入っても決着せず次々と投手が送り出されていきます。
ブルペンに残されたのは斎藤と田澤2人だけ。
延長13回。
その斎藤もマウンドに向かいます。
それでも決着はつきません。
残されたのはマイナーから上がったばかりの田澤ただ一人。
ついにメジャーデビュー。
勝負の行方を左右する緊迫の場面でした。
最初に迎えたバッター…一発出れば試合は終わります。
押し潰されそうな重圧の中メジャー1球目。
ストレートは力が入り過ぎ低めに外れました。
そして3球目。
なんとか最初のアウトを取ります。
しかし続く15回。
メジャーリーガーの力を思い知らされます。
ヤンキースのキャプテン…ストレートをはじき返されます。
そして迎えた4番バッター。
メジャーを代表するスラッガー…コントロールが乱れ思うようなピッチングができません。
カウントを悪くした田澤。
ストライクを取りに行った4球目でした。
(歓声)初登板で浴びたサヨナラホームラン。
打たれたのは自信を持っていたスライダー。
あまりにも痛烈な一打でした。
(取材者)いきなりタフな状況でタフな相手に投げた訳ですけども…。
まあそうですね。
…けど任されたところだったのでピッチャーがあれだけすごいよくつないできた中で自分もつなげたらよかったなと思うんですけど続けなかったという点に関してはすごい投げたピッチャーに関して申し訳ないなって気持ちがすごい強いかなと思います。
本当野球の神様がいるならば何でこんなに大変な事を…試練のような事をルーキーに与えるんだろうというのは本当思うんですけど…。
まあでもこれもまた彼の野球人生なのできっとここから何か彼なりに立派な野球人生を歩むんだと思いますから…。
やはりメジャーでは通用しないのか。
自信を失いかけた時励ましてくれたのはチームの先輩斎藤隆でした。
斎藤はしばしば田澤を食事に誘いアドバイスを送りました。
俺は36歳でルーキーを経験したので田澤は本当にルーキーとして今頑張ってるからその事をなんとか少し助けてあげれたらなという思いはあるんだけどなかなか…うまく教えられない部分もあるので。
ちょっと先生としては50点ぐらいしか自分ではあげれないかなという感じはしてますけど…。
あのサヨナラ負けのあと田澤を勇気づけたのも斎藤の言葉でした。
今までどおりで大丈夫だからと言われたのでそれで自分を信じてまた次一人一人バッターを抑えていきなさいと言われてたので…。
そういったアドバイスもらいました。
サヨナラ負けの4日後田澤はメジャーで初めて先発を任されます。
自信を持って投げる。
もらったアドバイスを糧に思い切り腕を振ります。
伸びのあるストレート。
マイナーで培ったコントロールがさえ渡ります。
打線も好投するルーキーを援護します。
自らのピッチングを貫いた田澤。
メジャー初勝利を手にしました。
まさか本当に初めての先発で初勝利できると思ってなかったのですごいうれしいですね。
そして8月22日。
再びあのヤンキースとの対戦が訪れます。
試合前田澤は前回の悪いイメージを必死で振り払ったと言います。
初回いきなりあの男との対戦が待っていました。
デビュー戦でサヨナラホームランを打たれたアレックス・ロドリゲス。
恐れる事なく真っ向勝負を挑んだ田澤。
マイナーで鍛えたストレートで打ち取りました。
そして3回。
再びロドリゲスを迎えます。
その2球目。
今度はホームランを打たれたスライダーでした。
そしてフルカウントからの6球目。
キャッチャーのサインは再びスライダー。
見事三振に打ち取った田澤。
しっかりと雪辱を果たしました。
ヤンキースを相手に6回を無失点。
2つ目の勝利を手にしました。
アマチュアから一気にメジャーの世界に駆け上がった田澤純一のルーキーイヤー。
悔しさもそして喜びも味わった一年でした。
プロを経験していなかったので社会人から行ってもなんとかメジャーで試合を作れたという事に関しては…すごいよかったなと思うので…。
社会人のレベルでもメジャーでそうやってできるんだよというのを証明できた事はすごいうれしかったなと思います。
毎日毎日経験した事がない事が起きたりとかそういうのがすごい多かったのですごい楽しかった一年だなと思います。
(取材者)楽しかった?そうですね。
なかなかこういった経験もできないなと思うのでその点に関してはいい一年だったなと思います。
ニューヨークからおよそ600km離れた町バファロー。
6月高橋はここにいました。
来ちゃいました。
メッツの2軍に当たるマイナーリーグのチームです。
40歳の高橋。
一回り以上も年が離れた若手に交ざって再びメジャーを目指します。
高橋の課題はメジャーで打ち込まれた左バッターをしっかり抑える事。
外角ギリギリをつくコントロールに磨きをかけます。
更に配球を考え技術を見直すなど試行錯誤を続けました。
懸命に闘う高橋を支え続けたのはやはり広島で待つ家族でした。
それじゃまた…。
ひと言ひと言本当うれしいですよね。
本当に家族っていうのはね…。
やっぱり離れたらより一層感じるものってありますね。
8月の終わり高橋はメジャー再昇格を果たします。
2か月ぶりのメジャーのマウンド。
相手は左の強打者が並ぶフィリーズです。
マイナーでの成果が試されます。
満塁のピンチ。
迎えるのは3番オールスター常連の…外角のストレートで打ち取りました。
実はこの日高橋はマイナーで培った新たな投球を実践していました。
それはマウンドの立ち位置です。
左はこの試合。
右は以前のもの。
重ねてみると足の位置を約1足分左側に移動している事が分かります。
そのため球を離す位置も左に移りより打者の背中側から投げ込む事ができるのです。
(高橋)プレートの位置を変えたりとかやっぱりクロスに入るように対角線上に左打者のアウトコースにより遠くに見えるようにとか…。
やってきた事は間違ってなかったなと思うんですけどね。
迎えたバッターは2か月前に勝ち越しホームランを浴びた…因縁の相手に得意の外角球で勝負を挑みます。
そして3球目。
最後は外角の変化球でした。
この試合以降左バッターとの対戦成績は向上。
40歳にして成長した姿を見せたのです。
10月長いシーズンが終わりました。
28試合に登板して防御率2.96。
目標とするメジャー1勝は果たせませんでした。
それでもメジャーリーグで闘った経験は確かな手応えとなって残りました。
やはり当初はまずメジャーに上がれる事が目標でもあったしそれで達成できたあとはステップアップできて今度は結果を求められるようになってかなり僕の中では満足できるような投球が結構できたので本当にもう少し投げたかったなというのはあったんですけどもね。
メジャーの舞台にいられたというのは僕にとって大きな財産なので…。
再会を誓う仲間たち。
しかし高橋の契約は1年で終了。
またゼロからのスタートです。
田澤純一23歳。
メジャーの厳しさを味わい明日への自信をつかみ取りました。
高橋建40歳。
汗と泥にまみれながら飽くなき挑戦の喜びを手にしました。
激動のルーキーイヤーを駆け抜けた2人のピッチャー。
来年へ向けた闘いはもう始まっています。
番組後の2人なんですがまず高橋投手はこの翌年広島カープに復帰するんですが1年で現役を引退していらっしゃいます。
田澤投手は今もメジャーリーグで貴重な中継ぎ投手として活躍をしています。
まず田澤投手。
田澤さんは日本のプロ野球を経験しないでメジャーリーグに行きました。
これをどんなふうに…?まあ当時いろいろ批判もあったりもしたんですが私はメジャーという場所があって日本という場所があってあるいはまた中国という場所があって韓国という場所があってオーストラリアという場所があっていろんな場所で野球していてその中でどれかを選んだだけだという考えしてるんですよ。
その中で一番技術的にもレベルが高く球場環境もいい所を目指してトップを目指したんだなと。
それに対して日本が直接行くのはあんまりよくないからメジャー終わって日本に帰るといっても3年間は契約しないとかね。
そういうルールを作りますよね。
それは僕は違うと思うんですよね。
メジャーが魅力があるとみんなが思ってメジャーに夢を懸けようなんていう事を言うんだったらもっと夢のある…日本のプロ野球を夢のあるいいものにする努力をしなきゃいけないと思いますね。
アメリカの大リーグに日本人が当たり前のように行くようになりましたと。
それはなぜそうなれたのかその辺りはどんなふうに思われますか?これはもう昔と違って今は全て手に取るように分かるような感じになっていますよね時代が。
なので小さい頃からアメリカの野球というものの存在が日本の子どもたちの頭の中にももう芽生えているので何の違和感もなくという事じゃないですか?だから田澤投手なんかも野茂投手の時代からアマチュアの国際試合で彼はメジャーだと。
俺は彼に対してここまで投げられると。
だったら自分もいけるかなというようなそういうはかり方ができるようになった時代に入ったと思いますね。
さあ一方で高橋選手ですが高橋選手は40歳。
当時ももちろん挑戦の最年長で現在もそうなんですがその挑戦については?やっぱりスポーツをやっている人は上のレベルを目指す。
いい環境を目指す。
これは当たり前の事でね。
何も不思議な事ではないし環境が選手つくりますからね。
レベル高い人がいっぱい集まっていったら自分もそこで負けるかもしれないけどもそこでやっぱり引き上げてもらえるかもしれないですよね。
自分の実力をね。
高橋選手は電話でお話を伺ったところメジャーリーグに挑戦した事で弱気になるなと。
堂々としていようという考えを強く持つようになったとおっしゃってるんですね。
今少年野球の指導でもそれを伝えてらっしゃるという事なんですが。
やっぱりメジャーという新しい環境に行ったら心もすごく新鮮になって新しい挑戦が始まるんでしょうね。
だって日本のプロ野球で長くやっておられた人でしょ。
だからルーチンになるところってあると思うんですよね野球が。
日常的になってしまってて。
それがレベルの高いところにステップアップするとすごく本当にルーキーの気持ちになっていろんな大事な事が体に染みるように入ってくるんじゃないんですか。
今まで自分がやってきたものを振り返って改めて恐らくそれを痛感したんだと思うんですよ。
とにかく勝負事なので相手に隙を見せるなっていうのこれ僕も学生時代から教えられた事なんですが。
隙を見せないようにするという事がいかに大事かっていうところで言えばまあ弱気になるなっていうのもそこに含まれると思うので。
厳しい状況になればなるほど自分の事を奮い立たせるようにしないといけないんだという事なんだと思うんですよ。
それを子どもたちに教えるという事で言うと小さいうちからそういう気持ちを持てるようになればちょっとやそっとじゃへこたれないでしょう。
そういう事なんだと思いますよ。
大事なところって。
今日本当にず〜っと夢を追ってメジャーリーグに挑戦した選手たちを見てきたんですが改めて夢を追う事その事についてどんなふうに思われますか?夢を追ってる人っていうのは目が生き生きとしてますよねとにかく。
現状でいいとかっていうのはやっぱりスポーツしてる人は誰も思わないですよ。
何かレベル上の事を目指すというのが夢を追う事だと思うんですよね。
だから考えようによってはスポーツマンにとってはスポーツをするっていう事が既に夢を追ってる事で。
それが夢を追えるって事はすごく幸福な事で。
というのは僕は取材していてそういう事を感じたんですがどうですか?おっしゃる事よく分かりますね。
挑戦する挑むという事が本当に尊い事なんだというのは終わった時に分かるものなんですね。
やってる最中はとにかくがむしゃらになって一つでも先に一つでも前にというそういう思いでやりますから終わったあとに自分がやってきた事に対して誇りを持てるようなそういう選手でありたいなという事ですかね。
そういう意味で本当に今小宮山さんのお顔もそうですしここに出ている夢を追った日本人のメジャーリーガーたちそして番組に出ていた選手たちみんな顔が表情が輝いていますよね。
それが何か物語ってるなと今改めて思いました。
本当どうも今日はありがとうございました。
2014/07/13(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「夢を追いかけた男たち〜日本人大リーガー50年〜」[字]

大リーグで日本人選手がプレーするようになって50年、様々な選手が自分の実力を最高の舞台で試したいと海を渡った。夢を追った選手たちの挑戦を振り返る。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】スポーツライター…玉木正之,元プロ野球選手…小宮山悟,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】スポーツライター…玉木正之,元プロ野球選手…小宮山悟,【キャスター】桜井洋子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – スポーツ
スポーツ – 野球
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
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