NHKスペシャル シリーズ故宮 第1回「流転の至宝」 2014.06.28

(谷原)
台湾に連日行列が絶える事のない場所がある
中国の歴代皇帝の宝物を集めた博物館。
この先に待ち受けているのは一番人気のスーパースターだ
へえ〜。
これが白菜ですか。
(シア)この翠玉白菜は…で私みたいな…。
今回私を案内してくれたのは中国の歴史に詳しい台湾の女優シア・ルージーさん。
彼女によるとこの作品は玉と呼ばれる美しい一塊の石から作られたという
この玉の白い部分は白菜の芯にそして緑の部分を葉っぱに見立てて彫刻されているんですね。
そうですね。
更に皇帝の宝物ならではのエピソードも教えてくれた
白菜の上に留まっているキリギリスとイナゴ見えますか?キリギリス?あっ!確かに葉っぱの間にうまく隠れてますけどこれキリギリスなんですね。
(シア)そうですね。
へえ〜。
あとイナゴがいるんですか?あっ…ごめんなさい。
あっ!いた。
あれでしょ?シアさん。
翠玉白菜は清の第11代皇帝光緒帝のお妃の嫁入り道具だったともいわれている。
子宝に恵まれ王朝が末永く続いてほしいという願いが込められていた
故宮。
それは皇帝が暮らしたかつての宮殿を意味しています。
谷原章介さんが訪れたのは台北市にある故宮博物院。
ここには宋の時代以来歴代の皇帝が収集した作品を中心におよそ70万点が集められています。
中国の歴史や文化を象徴するものばかりです。
シアさんこれすごい迫力ありますね。
そうですね。
清の時代に作られた屏風。
クスノキと緑色の玉の板48枚で作られ細部まで彫刻が施されています。
同じく清の時代。
究極を求める皇帝のプライドによって奇跡の超絶技巧が生まれました。
更に時を遡って明の時代。
強さと美しさを備えた磁器は世界中に技術力の高さを示しました。
今回こうした故宮の名品が初めて日本に来る事になりました。
NHKスペシャル「シリーズ故宮」。
皇帝たちの宝物を巡る物語。
急げ。
よ〜し。
気を付けろ。
第1回は激動の20世紀故宮の至宝がたどった流転のドラマです。
多くの困難に直面しながらも歴史の遺産を守り抜いた人々の知られざる姿が明らかになりました。
繰り返された戦争。
宝物を守るために…。
ピンチを救った起死回生のアイデアとは。
歴史の遺産を守ろうとする人々の熱い思いとは裏腹に宝物はその一部が世界に流出していました。
売り渡していたのはあの有名な皇帝。
皇帝の至宝に人生をささげたミスター故宮とも呼べる人物がいました。
動乱の中で苦悩の末にたどりついた彼の結論とは。

(扉が開く音)物語の始まりは中国の首都北京にある紫禁城から。
ここは15世紀から20世紀初めまで明と清の皇帝が暮らした宮殿です。
紫禁城の主たちは中国の歴史や文化を象徴する最高級の品を代々受け継いできました。
1925年紫禁城の中に故宮博物院が造られました。
清の王朝が滅び中華民国となって皇帝のコレクションは文化財として市民に公開されたのです。
しかし平穏な日々は長くは続きませんでした。
故宮の倉庫には古びた木箱が保管されています。
1930年代に入り故宮の文化財を北京から避難させるために使われたもの。
当時故宮の文化財は祖国と共に存亡の危機に立たされていました。
(爆撃音)柳条湖での爆破事件をきっかけに日本軍が現在の中国東北部にあたる満州を占領。
日本軍はその後も侵攻を続け1933年までには故宮博物院のある北京近くまで迫りました。
当時中国の最高指導者は蒋介石。
蒋介石率いる国民政府は故宮の文化財を日本軍から守るため上海に避難させる事を決めます。
この時運搬の責任者だったのが学芸員の…故宮の文化財の保護に人生をささげたいわばミスター故宮です。
運搬の準備を進める私たちを国民政府の幹部の言葉が駆り立てた。
国土は失ってもいずれ取り返せる。
人間は敵と戦う事ができる。
しかし文化財だけは破壊されてしまったら元も子も無い。
まして故宮の文化財は何千年という文化の結晶であり減る事はあっても増える事はないのである。
おい。
これでいいのかな?私たちは陶磁器や絵画などを一つ一つ丁寧にこん包していく事にした。
おいいくぞ。
せ〜の!最も戸惑ったのはこうした作業の経験者が一人もいない事であった。
多くの文化財が長い長い時を経ており不用意に扱えば壊れてしまうおそれがあった。
そ〜っと積み上げろ。
慎重にこん包作業を進めていくと木箱の数は全部で1万3,491箱となった。
あ〜こんなにあるのか!?この時荘さんは複雑な思いを抱えていました。
日本は1928年から2年間考古学を学ぶために留学をした国だったからです。
「道を尋ねるといつも丁寧に答えてくれる。
時には目的地まで連れていってくれる事もあるのだ」。
「東京に来て以来いつも夕方に風呂に入る。
これはすっきりする」。
父は京都が好きでした。
歴史や古い文化を好んでいた父でしたからね。
日本の文化はとても優雅だと言っていました。
すき焼きが大好きでした。
日本から鍋を持ち帰り帰国したあとも自分で作っていたくらいですよ。
しかし感傷に浸っている余裕などなかった。
よしっ!1933年2月ついに出発の時を迎えた。
木箱を荷車に載せ深夜になるのを待ってひそかに天安門を出た。
(汽笛)駅に着くと木箱を貨物列車に積み替え上海に向かった。
こうして全ての文化財を運び終えた2年後私は今度はロンドン行きを命じられたのである。
それは故宮の文化財が初めて海を渡った出来事でした。
イギリス・ロンドンにある王立芸術院。
ここで1935年11月からおよそ100日間中国芸術国際展覧会が開かれました。
故宮の文化財の中でも特に価値の高い735点が披露されました。
荘尚厳さんは故宮から派遣されたほかの4人の仲間と共に会期中ロンドンに滞在しました。
父は光栄だと言っていました。
初めて中国の代表として海外で披露できるんですから。
非常に誇りを感じながらロンドンで仕事をしていました。
父はより多くの方たちに中国の文化や芸術に親しんでもらえたらと思っていたんです。
荘さんたちが展示した作品の一つが18世紀における技術の高さを物語るこの磁器です。
清の第6代皇帝乾隆帝が鑑賞用に作らせた瓶。
外側の瓶の首を回すと金魚が描かれた内側の瓶が回転する二重構造です。
これは4つの部品をはめ込んで作っています。
外側の首の部分肩の部分台座そして内側の瓶。
少しでも焼き方を誤ればずれが生じ回す事はできません。
谷原さん。
はい。
ロンドンでの展覧会には紀元前1300年から1100年ぐらいに作られたこの青銅器も出品されたんです。
この青銅器紀元前1100年から1300年ぐらいに作られてたという事は今から3,000年ぐらい前?そのころってまだローマ帝国とかもない頃じゃないですか?うん。
へえ〜。
そりゃあイギリスの人たち驚いたろうな〜。
これお酒入れてたんですか。
うん。
いや〜でもこれかなり細工も細かいですけどこの上の方のこの飾り何ですかね?羊ですよね。
羊?その隣は鳥?鳥だ!Excellent!すばらしいわ〜。
驚いた事に展覧会を訪れた人々は42万人に上った。
我が国は1840年のアヘン戦争以来イギリスに蔑まれてきた。
しかし紀元前からの宝物を見て我々の歴史の長さと文化の豊かさを感じ取ってくれたようである。
(拍手)イギリス人が書いた中国美術に関する本も100種類近く書店に並んでいた。
展覧会のポスターも街じゅうに貼られ宋の時代の皇帝の姿が話題を呼んだ。
いや〜すばらしい。
こんなの見た事ない。
チャイニーズスタイルなども流行し展覧会を訪れたイギリス人の声も数多く新聞に掲載された。
「中国でこれらのものが作られた頃は我々の先祖は裸の野蛮人だったのだ」。
「これほど美しいものをまとめて見る事ができたのは生まれて初めての経験である」。
実はロンドンで展示された故宮の文化財はイギリスの軍艦で運ばれていました。
このものものしさは一体何を意味していたのでしょうか。
ロンドン大学で東アジアの歴史を研究する…ベスト博士はこの展覧会には日本と戦う中国政府の戦略があったと分析しています。
ロンドンの展覧会については中国側の史料で政府の直属機関である中央古物保管委員会の幹部が日本を明確に意識した発言をしていました。
「以前日本人はヨーロッパで展覧会を開催し積極的に影響力を広げようとした」。
「我々もこの機会に絶対彼らに負けてはならない」。
「イギリス社会に我が国の文化を理解してもらうのだ」。
中国政府は文化的なプロパガンダを行うために故宮のコレクションを利用していたのです。
今で言うソフトパワーです。
つまり日本との文化面での戦争でもあったのです。
そもそもこの展覧会はイギリスの中国美術コレクターが開催を呼びかけたものでした。
しかし蒋介石たちはイギリス政府に両国主催の展覧会にする事を求めました。
この機会に日本を支持するイギリスの有力者を中国の味方に変えようとしたとベスト博士は見ています。
一方展覧会の開催を知った日本政府は危機感を募らせます。
その具体的な理由が日本の史料から明らかになりました。
これは日本の外務省の史料でロンドンの展覧会について書かれたものです。
ここにリットンという名前が書かれています。
実はあのリットンが展覧会に関わっていたのです。
リットンとは満州事変が起きた際国際連盟の調査団団長を務めたイギリス人リットン卿の事です。
調査団の結論は日本の実質的な満州支配は認めながらも満州国の独立を否定したものでした。
(ベスト)リットンの名前が準備委員会のリストにあった事で日本は初めて警鐘を鳴らされたと感じたのでしょう。
日本側はリットンが関わると政治的になり過ぎると心配していました。
この企画からリットンを外そうと圧力もかけていました。
日本政府が強い警戒感を抱く中で行われた展覧会。
ベスト博士は中国側のもくろみは一定の成果を上げたと分析しています。
(ベスト)展覧会はイギリス社会の特に知識階級の人たちにとって魅力的でした。
ですからそのあと日中が全面戦争になった際には中国を支持する人が増えたという印象を私は持っています。
しかし文化財を政治的な目的で使う事に違和感を持った人がいました。
荘尚厳さんです。
「冷静に振り返ると戸惑いが残る。
展覧会はイギリスで話題にはなった。
しかしこれで国と国との友好関係が深まり国際的な地位を高められると思ったならそれは鏡に映る花や水に映る月のような絵空事にすぎないのである」。
皇帝たちの宝物はイギリスの人々を感動させた
しかし政治とは決して無縁ではいられなかった故宮の文化財
このあとも続いた日中の戦いの中でいかにして戦火をくぐり抜けたのだろう
ロンドンでの展覧会から1年と4か月。
日本と中国の戦いはついに全面戦争に突入しました。
かつて日本に留学していた荘尚厳さん。
日中のはざまで戸惑いは一層強くなっていました。
当時故宮の文化財は上海から南京に移されていました。
しかし日中戦争の戦火はたちまち南京にも及びます。
荘さんたちは日本軍の空襲を避けるため故宮の文化財を更に内陸に移す事を決断します。
1939年私たちは文化財と共に3,000kmという長い疎開の旅を続けていた。
ようやくたどりついたのは貴州省安順の洞窟。
ここなら日本軍の空襲から文化財を守れると考えた。
気を付けろよ。
ああ。
私は故宮の文化財のうちロンドンに持っていった名品たちを守る役目を担っていた。
しかし…。
お〜?洞窟は湿度が高かった。
このままでは大切な故宮の文化財にカビが生えてしまう。
一体どうすればいいのか。
よ〜しこっちだ。
いいぞ〜!一つの解決策を思いついた。
洞窟の中に運び込んだのは材木。
高床式の倉庫を組み立てた。
少しでも地面から離して文化財を湿気から守ろうとしたのだ。
後に父が書いた書物の中にこの倉庫についての記録がありました。
倉庫は日本の奈良にある正倉院を模倣して造ったのです。
8世紀から東大寺の倉として多くの宝物を湿気や虫の害から守り続けてきた正倉院。
荘さんは日本に留学していた時正倉院を訪れていました。
その時目を奪われた高床式の建築技法。
日本との戦いのさなかにもかかわらず荘さんは迷わず取り入れたのです。
日中両国が戦う事に対し一介の国民としてはどうしようもありません。
父はただ自分が管理している文化財をどうすれば守れるのか。
純粋に知恵を絞ったのでしょう。
日本で学んだ事を生かすのと両国が戦っている事とは別問題だと思います。
父が文化財を見る時はよいものにしか目を向けません。
故宮に勤めて身につけたのはよいものとは何かを見極める力だったのです。
ですから日本に留学して日本のよいところに学ぶべきだと素直に思ったのでしょう。
こうして守る事ができた作品の一つが…元の時代の4大画家の一人黄公望が描いた山水画の傑作です。
風景を写実的に描くのではなく作者の心情を風景に託す手法は当時大変画期的でした。
中国絵画の歴史を変えた作品の一つといわれています。
高床式の建築技法が救った故宮の文化財の数々
私は大切な事を学んだ
それはまさに日中対立の時代にあってもよいものはよいとする荘尚厳さんの姿勢だった
日本の文化と中国の文化。
台北故宮の責任者馮院長はこう語ります。
日本文化の中の多くの要素は古い中国と関わりがあります。
例えば中国の古い時代に既に漆の器が存在していました。
この技術が日本に伝わり更なる発展を遂げました。
中華文化の中には日本文化の色が混じり日本文化の中には中華文化の色も混じっているんですよ。
確かに中国の皇帝も日本を代表する漆の工芸蒔絵を集めていました。
この蒔絵の箱は清の皇帝乾隆帝が使っていたもの。
歴代の皇帝の中で特に文化への造詣が深かった乾隆帝も日本の漆に魅せられていたのです。
…でこれをこっち?
(シア)はい。
何でこんな事するの?匂いどうぞ。
匂い?あ〜いい香り。
おいしい!フフッ。
いや〜でも興味は尽きないですね。
あっ僕あの展示面白いと思った。
あの展示って?ああほら嗅ぎたばこの小さな瓶がズラ〜ッて並んでたじゃないですか。
(シア)ああ私も大好き!すごくかわいらしいでしょう?あれって清の時代から盛んに作られるようになったんでしょ?細工が細かかったなあ!
(シア)いろいろな材質のものがあったでしょ?今まで見てきたみたいなスケールの大きなものから嗅ぎたばこの瓶みたいな小さくてかわいらしいものまで中華の文化っていうか中国の人々の大胆さと繊細さを感じました。
シアさんが興味深い事を教えてくれた。
荘尚厳さんたちが命懸けで守った故宮の文化財。
しかし実はそれでも守りきれなかったものがあるというのだ。
一体どういう事なのか
その宝物が今あるのは…。
イギリス・ロンドンの大英博物館。
(ピアソン)大英博物館のこの展示室には中国の陶磁器の名品が集められています。
ここに溥儀の時代に手放されたといわれる品も数多くあるんです。
溥儀とは清朝最後の皇帝ラストエンペラーとして知られる宣統帝溥儀です。
溥儀は生活費を確保するためいくつもの銀行から借金をしていました。
その際抵当に入れたのは皇帝たちの宝物でした。
これらがイギリス人の中国美術コレクターの手に渡ったんです。
3歳で皇帝になった溥儀は7歳の時その座を追われます。
1912年中華民国が誕生し長きにわたった中国の王朝に終止符が打たれたのです。
ところが溥儀は皇帝の座を失っても紫禁城にとどまる事を認められ宮廷での暮らしを続けました。
しかし中華民国政府から与えられた予算は限られていました。
次第に生活資金が底をついていきます。
そんな中で溥儀は歴代の皇帝から受け継いだ宝物を次々と手放していきました。
アメリカ中部の町カンザスシティにあるネルソン・アトキンス美術館。
ここにも溥儀が手放した皇帝の宝物があります。
これがラストエンペラー溥儀が所有していた絵です。
タイトルは「蓮の生涯」。
14世紀に始まった明の時代の作品です。
つぼみが現れ満開となりやがて朽ち果てていく。
これがまさに溥儀の印。
最後の皇帝宣統帝溥儀がこの絵を所有していた証しです。
溥儀は将来紫禁城を追われる事を予想し弟を使って宝物を天津に運んでいました。
それを我が美術館の学芸員ローレンス・シックマンが1931年に天津を訪ねた際に溥儀から手に入れたのです。
シックマンはこう語っています。
「私たちは溥儀のところに出かけていきいくつかの絵巻物を見た。
部下の学芸員が交渉に応じた。
溥儀自身は絵にはあまり興味がなかったようだ。
新しく買ったオートバイに乗り時折我々の肩口から様子をうかがっていた。
結局我々は4つほど絵を買った」。
荘尚厳さんも溥儀の行動に強い関心を持っていました。
(荘霊)父は戦争の時代に故宮の文化財を守るため全身全霊をささげていたのです。
溥儀が故宮の宝物を勝手に売ったり自分の親族や部下たちにやってしまった行為によってその多くが散逸してしまいました。
父はその事を決して許さなかったはずです。
憤慨していたと思いますよ。
一たび皇帝が手放せばあっという間に消えてしまう文化の証し。
私は改めて歴代の皇帝たちが宝物を守り伝えてきた事の重みを感じた
えっ?これもお宝なんですか?
(シア)もちろんですよ。
「肉形石」っていいます。
「肉形石」?まるで何か食品サンプルみたいですね。
「肉形石」はラストエンペラー溥儀によって売り払われる事なく紫禁城に残っていたもの。
シアさんの話を聞くと深い意味のある作品だった
(シア)この石は…へえ〜。
確かにきれいに層になってる。
つまりこの豚肉の赤身とか脂身の部分っていうのはもともとこの石が持ってた自然がつくり出した模様なんですね。
(シア)そうですよ。
このブツブツは人の手が入っているんですか。
清の時代に作られたこの作品には昔からずっと大切にされてきた美意識が表現されていた
それは人と自然の調和をはかるという事。
歴代の皇帝も「肉形石」のように材料の持つ自然な形や色を活かした作品を好んでいたという
さまざまな困難を乗り越えながら荘尚厳さんたちの熱意によって守られた故宮の文化財。
しかし1945年に日中の戦争が終わっても更なる苦難が待ち受けていました。
中国国内では蒋介石率いる国民政府と毛沢東率いる共産党の主導権争いが激しくなりました。
それは歴史的な遺産の正統な継承者は誰かという事も意味していました。
1948年に入ると共産党の軍は攻勢を強めます。
青島瀋陽などの都市を次々と占領。
そして故宮の文化財が保管されていた南京の近くで大規模な戦闘が起きたのです。
危機感を募らせた蒋介石たち。
故宮の文化財の中でも名品と考えるものだけを選び国民政府の新たな拠点となる台湾に運ぶ決断を下しました。
これにより故宮の文化財は全体のおよそ3割が台湾に行き残りは大陸にとどまりました。
ミスター故宮荘尚厳さんは海軍の船で文化財を運ぶ使命を担いました。
(汽笛)1948年12月私たちは台湾に向かう第1便に文化財を載せようとした。
ところが一日も早く大陸を離れようとする人々で船はあふれてしまった。
故宮の文化財を優先させましょう。
俺たちはどうなるんだ!見捨てる気か!あなたたちにも船は用意します。
しかしまずは故宮の文化財です。
どうなってる!乗せてくれないの!?もしも文化財を南京に残したら永遠に失われてしまうと考えていた。
気を付けろよ。
大丈夫か?文化財か。
あるいは人々か。
つらい選択であった。
5日間の航海の間ずっと海は荒れ船は激しく揺れていた。
皆台湾という未知の場所に行く不安を抱えながら文化財を必死に押さえ続けた。
このあと更に2隻の船も動員。
故宮の文化財3,824箱分を台湾に運び終えました。
その8か月後。
1949年10月毛沢東率いる中華人民共和国が成立。
故宮の文化財は大陸と台湾で別々に管理される事になりました。
台湾に移って12年がたった1961年荘尚厳さんはアメリカに向かう準備を進めていました。
故宮の文化財をアメリカで展示する事になったのです。
イギリスでの展覧会に次いで西洋文化を代表する国であるアメリカでも展覧会を開く事ができたんですから。
それが自分が故宮にいる間に実現でき父は非常に誇りを感じていました。
海外の方々に中国の文化を伝え理解を深めてもらう仕事ですからね。
ニューヨークサンフランシスコなど5つの都市を1年にわたって巡回した中国古芸術品展覧会。
荘さんたちは絵画陶磁器青銅器など253の品を展示しました。

(シア)谷原さん。
はい。
アメリカでの展覧会にはこの散氏盤という青銅器も出品されたんです。
散氏盤。
今から2,800年ぐらい前に作られた水を盛るための容器なんです。
2,800年前。
うん。
それでここの350文字にすごく重要な事書かれてたんです。
その内容とは領地争いに関するものだった
当時そくという国がさんという国と領地の奪い合いをしていた
結局そくはさんに一部の領地を明け渡す事になる。
その際この散氏盤が作られたというのだが…。
何とも意外な役割を果たしていた
へえ〜契約文書。
うん。
この青銅器契約文書なんですか。
そうですよ。
シアさんアメリカって契約社会っていうじゃないですか。
でもね2,800年前の中国に契約という概念があってなおかつその内容がこの青銅器に書かれてるって知ったらアメリカの人もさぞ興味かきたてられたでしょうね。
(シア)そうですね。
1年という長丁場のアメリカでの展覧会。
荘尚厳さんは一時疲れから入院もしましたが中国の文化について懸命に伝え続けました。
これは荘さんたちが展示した作品の一つ「文会図」。
作者は宋の時代の皇帝徽宗と伝えられています。
描いたのは庭園に大きなテーブルが置かれ文人たちが茶会を開いている様子。
今から900年ほど前に豊かな文化があった事を伝えています。
(荘)故宮が所蔵している宋の時代の絵画は状態が決してよいものばかりではありませんでした。
しかし父は海外で中国の文化を紹介するにはなくてはならないものと考えていたんです。
当時は台湾でも破損してしまう事を心配しこれらの絵を海外に持っていくべきではないとする反対意見もありました。
それでも父は展示する事を決めたんです。
253の作品がアメリカに与えた強いインパクト。
来場者は70万人に上りました。
これをきっかけに中国の歴史や美術の研究が急速に進んでいきました。
それから3年後の1965年故宮の新たな建物が台北市の現在の場所に完成しました。
荘尚厳さんは副院長として中国の文化を伝える仕事に邁進しました。
その合間を縫っては書道の研究を進め皇帝たちが残した作品の意味を問い続けました。
その後時代は進み…。
近年はさまざまな国や地域の人々が台北故宮を訪れています。
その数は年間450万人に上っています。
私は愛知県の一宮市です。
東京の板橋です。
岐阜県の多治見市です。

政治と無縁ではいられず流転を繰り返してきた故宮の文化財
しかしそんな中でも文化の価値を知る人々の努力によって守られてきた
それが今も見る者の心を大きく動かしているのだ
ミスター故宮荘尚厳さん。
およそ半世紀故宮の文化財にささげた人生を終え1980年80歳でこの世を去りました。
この日荘さんの墓を訪れた息子たち。
墓前で報告をしたのは荘さんとゆかりのあった日本で今年故宮の展覧会が開かれる事でした。
父は日本人ならこの機会に中国の文化を深く理解してくれるはずだと考えていると思います。
文化は政治を超え地域を超えるものである。
そう父は確信していますから。
父はきっとこう言うでしょう。
互いが理解し合うには互いが持つよいものに目を向けてそれについて話し合いどうやって受け継いでいくかを考える事が重要です。
台北の故宮のコレクション。
紀元前の古いものから歴史に名だたる傑作まで70万点が収められています。
これは4,000年以上前に作られました。
古代の神事や祭事に使われたもので表面に神の使いとされる鳥鷹が刻まれています。
こちらはおよそ3,000年前の青銅器。
殷の時代の儀式に用いられた酒の器で漢字の原形とされる記号が記されています。
時がたち漢字が芸術の域まで高められた唐の時代の書です。
変化に富んだ筆遣いは今も草書体の理想とされています。
中国伝統の磁器も時代ごとで最高のものが集められました。
およそ1,000年前のこの青い器。
現存するものが70点余りしかない幻の青磁です。
皇帝のおもちゃ箱とも呼ばれる珍しい収蔵品もあります。
数cmサイズのミニチュアの置物が30個近く収められています。
こうした膨大なコレクションは歴代の皇帝たちによって集められてきました。
それはいつ誰によって始められたのでしょうか。
今からおよそ1,000年前。
コレクションの収集は北宋の都開封から始まりました。
最も栄えていた頃の開封を描いた絹の絵巻です。
当時開封は人口およそ100万。
夜間でも城門が閉められる事のない自由で活気ある街でした。
そんなにぎやかな街へ夜な夜な宮殿を抜け出し放蕩三昧を繰り返していたという皇帝がいました。
北宋の…彼こそが故宮の原点となるコレクションを始めた皇帝です。
風流天子とも呼ばれていた徽宗は一流の芸術家でもありました。
徽宗自身が描いた作品です。
北宋時代の最高傑作の一つとされ当時の画家たちの手本となりました。
書にも秀でていた徽宗は痩金体という独特の書体も編み出しています。
徽宗は文人の理想とされた詩書画の全てを究めた文人皇帝でした。
文化と経済が栄えた北宋でしたが周囲を武力に勝る異民族の強国に囲まれていました。
都開封から北へ600km離れた北宋時代の国境線です。
かつてここから先は遊牧騎馬民族の支配地でした。
北宋は毎年大量の絹や銀を北方の強国に送り平和を維持していく事になります。
そんな外圧の中で王朝の求心力をどのように保てばいいのか。
徽宗はそれを優れた芸術品に求めていきました。
徽宗は天下に号令を発し国中に宝を探し求めます。
それが膨大な故宮のコレクションの最初の一歩となりました。
徽宗が特に熱心に集めたのが紀元前の古い青銅器でした。
古代中国において青銅器は権力の正統性を示すもの。
古代王朝の青銅器を集める事で北宋が権力の正統な継承者である事を内外に印象づけるねらいがあったと考えられています。
中国に花開いた最高峰の芸術品も集めました。
4世紀の伝説の書家王羲之の「快雪時晴帖」。
散逸していた王羲之の書243点を集めています。
山水画の先駆者ともいわれる趙幹の作品。
現存するものは徽宗が集めたこの一枚しかありません。
初雪の舞う長江のたたずまいが克明に描かれています。
徽宗が集めた名宝は実に6,000点を超えました。
更に同時代の新しい芸術作品も積極的に集めました。
代表的なものが北宋の時代に生まれその後こつ然と姿を消したこの青磁です。
幻の青と称される独特の青い色。
今もこの色を出す方法は分かっていません。
徽宗はこうして集めた名宝の数々を積極的に公開しました。
宋王朝は単に持っているだけではなくてそれを臣下や外国使節に公開したというか見せた。
これによって統治にも使っていたというふうに考える事ができると思います。
それぞれの時代を代表するものを持っているという事によって時代を掌握している歴史を掌握しているという事を外にもまた内にも知らしめるというそういった意味合いがあったのではないかと…。
中国の歴史そのものとも言える収蔵品を並べ王朝の権威を示す。
皇帝のコレクションはこうして始まったのです。
それではなぜこのコレクションはその後の王朝にも引き継がれていったのでしょうか。
徽宗はその継承の現場にも居合わせる事となりました。
徽宗の治世25年目北方で異変が起きました。
勇猛な北方の民族が興した国金が勢力を強め南下を始めたのです。
しかし繁栄を謳歌していた都開封に危機感はなかったといいます。
正月を祝う行事を1か月も延長させていたほどです。
宮殿では身分に関係なく酒が振る舞われたと伝えられています。
攻めてきた金の圧倒的な武力の前に北宋はあっという間に滅亡します。
そして徽宗のコレクションは征服者によってはるか北方へと持ち去られる事になりました。
金の捕虜となった徽宗は失意のまま8年後に死去。
しかし徽宗のコレクションは皇帝亡きあとも生き長らえる事になるのです。
徽宗が集めたあの趙幹の山水画です。
金の皇帝によって所有者が自分である事を示す皇帝印が押されています。
金は徽宗の名宝をそのまま継承し活用する道を選びました。
その後この名画には中国を支配した元明清の皇帝印が押されていきます。
この名宝を持つ事が王朝の権威の証しとなる。
極めて特徴的なこのシステムは1,000年にわたって引き継がれる事になったのです。
中華民族が残した遺産を掌握する。
その象徴としての文物というふうに捉える事ができると。
その民族が生み出した最高のものそれは文化の結晶でもある訳ですけれどもそういったものを持っているという事が王朝にとって最も重要な要件の一つであったと。
時が下っても皇帝たちはそれぞれの時代の名宝をコレクションに加えていきました。
明の時代に加わった白地に青が鮮やかな磁器。
当時中国だけが作りえたものでした。
これも明の時代の山水画。
日常の風景を生き生きとした筆遣いで描いています。
こちらは清の時代の作品。
1本の象牙が極限まで精巧に加工されています。
そして翡翠の色合いを生かした彫刻。
皇帝の絶対的な力によって収蔵品の数は飛躍的に増えていきました。
実はこうして集められた作品の一つ一つに皇帝たちの深い思惑が秘められているのですが…その辺りのお話は明日の夜お伝えしましょう。
2014/06/28(土) 19:30〜20:45
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル シリーズ故宮 第1回「流転の至宝」[字]

歴代皇帝たちが集めた中国文明の至宝。戦争や内戦によって流転を繰り返す数奇な運命をたどったが、政治の道具ではなく文化としての価値を命をかけて守り抜いた人々がいた。

詳細情報
番組内容
台湾から歴代の皇帝たちが集めた中国の至宝が初来日する。激動の20世紀、故宮の文化財は日本との戦争や国共内戦などで流転を繰り返した。荘尚厳さんは散逸の危機から文物を守り続けた故宮学芸員の一人。日本留学の経験があった荘さんは両国のはざ間で苦悩しながらも、故宮の品々が政治の道具ではなく文化そのものとして楽しんでもらえる日を夢見ていた。故宮の至宝が日本に来るまでの波乱に満ちたドラマをたどる。
出演者
【出演】谷原章介,シア・ルージー,【語り】貫地谷しほり,勝部演之

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:1855(0x073F)