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健全(=安全)な批判の提言日々見ていると「批判/悪口」の境界が曖昧と言うか、その辺りの軸が明確でない輩がたまにいる。
増田主が非常に解りやすく書いていたのだけれど、
1.真実の(少なくとも真実らしい)事実に基づくものである
2.必要もなく個人情報に言及しない
3.罵倒や人格攻撃でない
1ももちろん大事だが(大前提)特に大事なのは2、3。
たとえば将棋をやってるとしよう。
書き手と読み手は、盤面(エントリー)を挟んで相対している。
そのときに批判を行うのであれば、相手の打ち手に対して手を返すのが正当なのは当然。
にも拘らず、
「お前バカか?」
「嫁さん不細工だよなー」
「浮気してるって聞いたぞ」
などただの悪口や私生活について相手にヤジったり、あるいは急に殴りかかったり、将棋台ごとひっくり返したりすればそれはお話にならない。罵倒や人格攻撃、と言うのは打ち手ではない。
それが実際の事実かどうかなんて関係ない。
書き手:○○はAだ!!→ ←読み手:え?Bだろ(批判)
書き手:○○はAだ!!→ ←読み手:頭悪いカスだこいつ死ね(悪口、個人攻撃)
しかも、ブログは将棋ではない。
誰かに戦いを挑んでるわけではない。
(煽ったり、特定個人を指名したりしていない限りは)
お互いに手を打ちあう必要すらなく「○○は○○だと思う」とブログ主が書き「いやそれは違うだろ」とコメントがつき、それに応えブログ主が「え?違わないよだって…」などと返さなければならないという決まりはない。
コメントした方が答えないからと
「俺のコメントに対して返さないからこいつは逃げた!ひきょう者だ!」
とか思うひとは、とりまお薬をもらってきてください。
何さまのつもりなんだか。
ブログの書き手は読み手の疑問に対して答える義務がある、なんて規定はどこにもない。
お前の中の勝手なお前ルール。
1000人が読んで1000人納得する記事なんてまずない。
いちいち素人記事の不満に対して返してたら、毎度補足記事で溢れかえる。
毎日完璧な記事が書けるならそれで食ってるわ。
単なる悪口
で、はてなと言うのは
「おそろしいコメントの荒れ狂う修羅の棲む限界集落」
と思われている側面はありつつも、前述したような的外れな個人攻撃や悪口と言うのは案外と少ない。
その辺りの切り分けをできている人が(比較的)多い。
【きっとツンデレ】否定的なブコメを考える - ままのおと
誰かの目に触れるはずの感想で、否定的なブコメをする人は何なんだろう。
幸い私はそう言ったコメントを付けられた事ないんですが
読者さんの多いブログでは見かけますよねー。
煽り抜きに単純に否定的なブコメをする人の気持ちが分からない。
それは、それだけ書き手も主張が強いということですね。
(当然、読み手も主張は強い)
主張が強く、しかも突っ込める要素が満載、みたいなツッコミ待ちでウェイト状態な記事を見るとついつい「ニイタカヤマノボレ?!」と突撃体制をとってしまう習性がある。
書く側にしろ大筋(主論)程度は補強出来ていなければならないのかも知れません(余談に隙がある、なんてのはまだしも)。
フェイスブックなんて自分の顔をさらして「死ぬまで絶対許せない!」「もう死ねよ」とかタレントの浮気ニュースにコメントしてたりする。
あんなものの方が直情的で短絡的、よほどひどい。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問に答えても返す必要はない
「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない - はてな村定点観測所
ここで一例として、心の広いネトクラ氏の大人気記事を挙げてみます。
(読んでいる人が多いので例として挙げやすい)
先日言及して記事にしたので、もはや批判でもなんでもない。
この記事をざっくり要約しつつ、自分の視点でに突っ込んでみると、
※要約は”・”部、ツッコミは、”→”部
・殺人は、戦争や死刑で合法になる
→戦争状況の殺人と犯罪を前提とする死刑では行為が異なる
・「共同体の歴史文化的な人を殺してはいけない理由」が社会通念なら社会を維持できる
・通念が神話(虚構)であることが明らかになったなら、人を殺してはいけない理由を説く根拠は存在しない。
→通念が神話になった?なぜ?いつ?なにが?
→「人を殺してはいけない理由」は社会的レイヤーだけに存在するわけではない
・家族が悲しむから?遺族が憎んでいるという理由で死刑も許容する社会
→そういう理由ではない
・死刑廃止国でも戦争になれば人を殺す
→前述したようにパラダイムが異なる(絶対ではないのは当然。社会的なレイヤーと生物的、倫理的レイヤーでの理解は異なる
・快楽殺人などくだらない理由で人は人を殺す
→倫理観の劣るイレギュラーな殺人と一般通念的な「殺してはならない理由」を並べるのはまずい
・はてなー的にも、人を殺してはいけない明確な理由はないっていう共通理解だと思うけど、どうだろうか?
→反応して記事が多数書かれた
こんな感じになります。
まず「これってブログで書くこと?」「何周目だよ?!」「夏だね」というツッコミは当然入ります。
人を殺してはならない理由、ということに対し、社会的、状況、パラダイムによる変化、感情・感覚(遺伝子生物学的)とさまざまあるしひとつの絶対の答えで言いきれるわけはない(そもそも人間が認識し、言語化できるのは世界の一部でしかない)。
さらに事件を起こしたのは高校生であることから、学習と倫理、学習の限界、学校教育などなど考えられる。
これも一元的には語れません。
よく揚げ足とり、とも言われますが、反対を言えば揚げ足を取られるようなことを書いているということでもあり、言及し意見を出すこともブログの文化なのでしょう。
それにこのカオスっぷりを掲げた上で
「誰も答えられない」
と自信満々勝手にクローズしちゃってるわけで、そりゃあ突っ込みも入る。
氏は多分、意識しているし一歩間違えば釣りだの煽りだの言われかねないですが、記事の理論武装が重厚(そう)なのでそういうツッコミは少ないですが。
言及して記事を書くこと
ここでは、受けて生物(感覚)と社会的レイヤーでの記事を書きました。
他ブログでは、教育などについても書かれていたのを散見しました。
600以上ブクマされていても、ツッコミどころは多い。
本人は納得してても、厳密には主張は明後日の方向。
逆にツッコミが少ない記事は伸びないかもしれません。
その後にネトクラ氏は「命の教育なんかより社会学とかゲーム理論とか教えれば?」みたいな記事をありますが……。
とりま滝行か、ブロガー食事会でも楽しんでください。
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このネトクラ氏に対して「なんだよそのサイバーサングラスwww」
と言うのは個人攻撃ですからよくありません。
あくまで記事に書かれた事柄に対して「え?なに??」「お、おま、あれ、え、おい」というのが筋でしょうし、今回のように元記事から派生して色々と記事が書かれればそれはそれで「ブログの波及効果」と言える。
読んだブログの書き手が同じテーマで言及し記事を書く、というのはオーソドックスな手管。
「俺はこう思う」に対して「え?でもボクはこう思う」は必ずしも批判ではない。
真正面からぶつかるなら批判でしょうが、認識の多様性は認められる。
少なくとも元記事が書かれたリソースに対し、言及記事を書くというのは等価もしくはそれ以上のリソースを使っている。
読み込み解釈したうえで独自の解釈を新たに提示してる。
是であれ否であれ(筋違いな個人攻撃など含まないのであれば)それは良い繋がりかと思われます。
リンクだって貼ってある。
その上それなりにPVも誘導される(嫌な相手にはリンクを貼らない、言及しない)。
まとめ
かくのごとくめんどくさい人間が多いからこそ、
「ラスト・オブ・モヒカン」
「修羅の限界集落」
などと呼ばれ、こじらせた彼が
「ボクぐらいの書き手になればなんだって書けるしボクみたいな優秀な書き手がいないから仕方ないんだよ、みんな食事会来いよ!」
と煽ってるんだか手斧振りかぶってるんだかよくわからないこじらせっぷりを披露したってそれなりに許容されるし参加者も十人を超えた。
……あの辺は深淵なので立ち入らないのが無難ですが(くわばらくわばら
ツイッターが、安易な直情バカや低リテラシーで燃えるのに対し、はてな周辺ではもっとこじらせたものに手斧が刺さるのかも知れません。
マトモに相手をするの話して解る相手だけ。
バカの薄っぺらい悪口は、相手にする価値すらない。
煽っても相手にされない、というのはそういうことです。
地獄インターネットを体現し「平和でみんな仲良くしましょうね」「みんなそれぞれ良いところがあるんだ!褒め合おう!!」が通じない界隈ですから、せめて名誉棄損だのガイドラインから外れた個人攻撃を行わないようにしましょうね、くらいのもの。
皮肉や爪の立てあいはじゃれてるみたいなモノ、と認識されているのでしょう。
おそろしいおそろしい。