まどかの章 21 ☆☆☆ インキュベータ社(特別来客室)
すみませんサキエル様。ほむらは只今、会議に出席しておりまして…。会議が終わるまで、しばらくこちらの部屋でお待ち下さいませ。
くくくっ。重役会議ですかな。九兵衛社長がお亡くなりになられた今、次期社長の座を巡って激しいやり取りがなされておるのでしょうな。ソファーにトスン。
さぁ、どうでしょうか。会議の内容は私には分かりかねますので…。前を失礼します。コトッ。カチャ。
くくくっ。ほう…。素晴らしい香りがするコーヒーにございますね。戴いてよろしいですかな?
冷めない内にどうぞお召し上がり下さいませ。
くくくっ。コクコク…。深く濃い山野が果てしなく…その中にひとつの清流あり、流れ辿り着くカフカの混沌…。そのディラックの湖畔に佇みニーチェの詩集を読みふける貴婦人の如く端麗な味が微かに…。モカですね?
はい。このコーヒーは…。
くくくっ。シーッ。お静かに…。
……。
くくくっ。コクコク…。はい…分かります…。ただのモカではありませんね。その角の取れたまろやかな苦味は、まるで億万年の歳月を経て円熟の丸みとなったムーン…。我々の頭上遥か遠くの彼方からささやかな引力となって、ムーンの苦味は舌の奥底で秋の小波のように人知れずあらわれてはサッと侘しく引いていくのです…。間違いありません、これはジャコウ猫のウンチから出た豆を引いてますね? それも軟便からでた豆を厳選している。違いますか?
…さ、さぁ。どうでございましょう。私はドトールでモカブレンドを買ったつもりだったのですが、もしかしたら道を間違えて東急ハンズに行ってしまいジャコウモカを買ったのかも知れません。汗汗…。
くくくっ。軟便の?
はい。軟便のジャコウモカをです…。
くくくっ。有り得ませんな。東急ハンズにもドトールにもそのような高価な品は売っておりません。ジャコウモカは銀より値が高く、軟便ともなれば金にも匹敵しましょう。
すみません、私、話を合わせる為に適当なことを…。
くくくっ。構いませんよ。わたくしも適当なことを喋っているだけにございますので。
……。
くくくっ。コクコク…。
そ、そうですよね…。ジャコウ猫のウ、ウンチからコーヒー豆を取り出すだなんてあり得ませんよね…。私は物を知りませんのでついサキエル様の冗談を真に受けてしまいました。お恥ずかしい限りです。
くくくっ。いえジャコウ猫の話だけは本当の事にございます。
……。
くくくっ。気になさることはございません。このようなこと普通に生活する分にはなんの必要もない知識でございます。稀にテレビの娯楽番組で面白おかしく取り上げられたりもしますが、所詮その程度のことにございますよ。
……サキエル様は博識でいらっしゃいます。
くくくっ。わたくし執事をやっておりますので、こういったことには長けております。主を喜ばせる為にはどうすれば良いのか、日々、そればかりにございますよ。コーヒーも最高の物をお出ししたい、その一心から段々と詳しくなり、今ではジャコウ猫を庭で飼う程に…。くくくっ。わたくしその糞から豆を取るのが毎日の日課となっております。
サキエル様の主となられた方はさぞ美味しいコーヒーを毎日飲まれるのでしょうね…。羨ましいですわ。
くくくっ。羨ましい? では試されますか?
えっ…。
くくくっ。いえ今朝採れたての何粒かが確かポケットの中に…。ゴソゴソ。それを口に含んで噛み砕いてみれば普通のモカとの違いが分かると思いますので…。どこでしたか…。ゴソゴソ。
い、いえ。私はコーヒー豆を生のまま口に含んだことなど一度もございません。きっとどこがどう違うのかは分からないでしょう。ですので、それはちょっとご遠慮させて頂きます。
くくくっ。私としたことが、すみません。その通りでございますね。ローストしてないと味も匂いも分かりようがございません。
えぇ、残念です。ホッ…。
くくくっ。それではローストしてからお渡ししましょう…。ゴソゴソ。おおっ、ありましたぞ。ではこのまま手の中で…。はいロースト。 ……パチッ☆
……。
くくくっ。ささっ、お手を出して下さい。はい、どうぞ。黒い粒をポロポロ。
……。
くくくっ。それを口に含んで…。
……口に含んで。
くくくっ。噛み砕いて下さい。
……噛み砕く…カリッ。
くくくっ。如何にございますか?
うぇっ…。味は少し市販のコーヒーより苦味が走ります。うぇぇえっ…。ケホケホ…。匂いは…かなり違います…野性味があるといいますか…。うぇうっ…。サキエル様よりお聞かせ戴いたお話の印象が残っているのか私にはやはりどこかウンチのような臭いに…い、いえ失礼しました…。えぇ…素晴らしい香りです。これがジャコウモカの香りなのですね。
くくくっ。ジャコウモカ? いえいえ違いますよ。名称は特にないのですが、この豆、強いて言えばサキエルモカにございますかな。
……。
くくくっ。どう致しました?
……軟便の?
くくくっ。はい。軟便のサキエルモカにございます。
うげぇえっえ…ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。
くくくっ。お口に合いませんでしたか?
ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。
くくくっ。色々と試した結果、ジャコウ猫よりもわたくしの腸で長く熟成させた方が、さらに円熟味が増すことが分かりまして…。
うげぇえぇぇえ…ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。
くくくっ。わたくしの知る限り、これがルーン最高のコーヒーにございますよ。
ケホケホ…。ケホケホ…。あ、あなたの主はこれを毎日…? ケホケホ…。ケホケホ…。
くくくっ。いくらなんでもそれは無理にございます。毎日、軟便という訳にもいきませんので。
……。
くくくっ。どうされました。お顔の色がさらに青く…。
す、すみません。また気分が…。し、失礼します。
くくくっ。お手洗いですかな?
うぇうっ…。
くくくっ。もしや貴女もお腹の中でコーヒー豆の熟成を?
違いま…すう…うっ、げぇえぇぇえ…ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。ゲロゲロ…。
くくくっ。冗談が過ぎたようです。すみません。サキエルモカなどございません。まさかここまで本気になさるとは思いませんでしたので、つい悪戯心が芽生え、やり過ぎてしまいました。お詫びします。背中を摩り摩り。
ケホケホ…。本当ですか? よ、よかった…。ケホケホ…。ケホケホ…。
くくくっ。えぇ、アレはそもそもコーヒー豆ではないのでございますよ。くくくっ。実は今朝方、3週間振りにお通じがございましてな。その出た宿便がまるでウサギの糞のようでございましたので記念に取って…って、聞いておられますか? もし? おやおや気絶されてしまわれましたか…。くくくっ。ただのコーヒー豆を数粒ポケットに忍ばせておくだけでこんなにも楽しく時間を潰せるのですから、人間ほどに面白い玩具はございませんね。
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