認知症であるとも、認知症でないとも言えない89歳の父をめぐるあれこれ

2014年07月18日(金) 川口マーン惠美
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お年寄りには多くのクラシックファンがいる

日本滞在中は、老人ホームによく通うので、いろいろなことを考える。父が以前お世話になった老人ホームで、ある日、ボランティアの人たちのコンサートがあった。リーダーの女性が、曲の合間におしゃべりをする。そのとき、チェロのことを、「この楽器、何だか知っていますか? バイオリンの親分のようですねー。チェロという楽器ですよ」と言ったのには、かなりびっくりした。老人と幼稚園児を間違えている。

多くのお年寄りは、身体の自由が効かなくなったり、滑らかに言葉が出てこなくなったり、物忘れが激しくなったり、また、感情が希薄になったりはしているが、けっして知能が幼稚園児と同じになったわけではない。たとえば父は、若いころからずっとコーラスをしていて、リタイアした後も、ずっとアマチュアのコーラス団で歌っていた。大きな演奏会で、オーケストラと数々のレクイエムを歌い、家でも、よくオーケストラの総譜を見ながらCDを聴いていた。

父だけではない。この世代の人たちの中には、私たちの世代よりもずっと多くのクラシックファンがいる。その人たちに向かって、「バイオリンの親分のような楽器」とは恐れ入る。老人をバカにしてはいけない。

春に、大学生の三女が日本に来ていた。「もうすぐ死んでしまうかもしれないから、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行く」というのが訪日の理由。かなりダイレクトな言い方だが、真実ではある。その彼女が、「おじいちゃんは音楽が好きだから」とバイオリンを持参した。バイオリンを飛行機で運ぶのはけっこう面倒なので、その思いやりに私はちょっと感動した。

彼女が、老人ホームの隅っこで父にバイオリンを披露していたら、スタッフがやってきて、ホールで弾いてくれないかと尋ねたらしい。OKすると、たちまち館内放送がなされ、車いすの人たちがホールに結集した。

あとでそれを聞いた私はちょっとあきれて、「いったい、何を弾いたのよ?」と尋ねると、「困っちゃってさ、モーツァルトのコンチェルトのカデンツァを弾いたり、バッハの無伴奏を半ページ弾いたり、あとは即興かな」と答えた。

しかし、そうするうちに、リクエストまで来て、にっちもさっちもいかなくなったので、明日、もう一度来ますと言って帰ってきたそうだ。「だから、ママ、明日、一緒に行って伴奏してよね。ピアノはあるから」とのこと。恐る恐る、「どんなリクエストが来たの?」ときいた私は、返ってきた答えに驚愕した。「いろいろあったよ。ベートーヴェンもあったなあ」。

「今の私たちに、ベートーヴェンが弾けるわけないでしょう! スプリングソナタでもやろうって言うの、楽譜もないのに!?」と、思わずどなると、娘が、「歓喜の歌ぐらいなら、何とかならない?」と提案した。皆が楽しみにしてくれているので、やらないわけにはいかないのだそうだ。結局、翌日、練習もなしに、かき集めの即興コンサートをでっち上げたのだが、そのときも、お年寄りは童謡や懐メロを聴きたいわけではないのだと、強く思った。

父の認知症の話に戻ると、最近、弟が面会に行き、「100-7」をやってみたという。すると、全然、できなかったそうで、その夜、電話で、「あの日は、奇跡が起こったんだな」と笑っていた。「かわいい娘がいたので、張り切ったのね。あなたじゃダメよ」と私。

遠く離れたドイツでこれを書いていたら、無性に父に会いたくなってしまった。

パパ、もう二度とテストなんてしないから、私が行くまで、のんきに暮らしていてください!

 

著者: 川口マーン惠美
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