お年寄りには多くのクラシックファンがいる
日本滞在中は、老人ホームによく通うので、いろいろなことを考える。父が以前お世話になった老人ホームで、ある日、ボランティアの人たちのコンサートがあった。リーダーの女性が、曲の合間におしゃべりをする。そのとき、チェロのことを、「この楽器、何だか知っていますか? バイオリンの親分のようですねー。チェロという楽器ですよ」と言ったのには、かなりびっくりした。老人と幼稚園児を間違えている。
多くのお年寄りは、身体の自由が効かなくなったり、滑らかに言葉が出てこなくなったり、物忘れが激しくなったり、また、感情が希薄になったりはしているが、けっして知能が幼稚園児と同じになったわけではない。たとえば父は、若いころからずっとコーラスをしていて、リタイアした後も、ずっとアマチュアのコーラス団で歌っていた。大きな演奏会で、オーケストラと数々のレクイエムを歌い、家でも、よくオーケストラの総譜を見ながらCDを聴いていた。
父だけではない。この世代の人たちの中には、私たちの世代よりもずっと多くのクラシックファンがいる。その人たちに向かって、「バイオリンの親分のような楽器」とは恐れ入る。老人をバカにしてはいけない。
春に、大学生の三女が日本に来ていた。「もうすぐ死んでしまうかもしれないから、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行く」というのが訪日の理由。かなりダイレクトな言い方だが、真実ではある。その彼女が、「おじいちゃんは音楽が好きだから」とバイオリンを持参した。バイオリンを飛行機で運ぶのはけっこう面倒なので、その思いやりに私はちょっと感動した。
彼女が、老人ホームの隅っこで父にバイオリンを披露していたら、スタッフがやってきて、ホールで弾いてくれないかと尋ねたらしい。OKすると、たちまち館内放送がなされ、車いすの人たちがホールに結集した。
あとでそれを聞いた私はちょっとあきれて、「いったい、何を弾いたのよ?」と尋ねると、「困っちゃってさ、モーツァルトのコンチェルトのカデンツァを弾いたり、バッハの無伴奏を半ページ弾いたり、あとは即興かな」と答えた。
しかし、そうするうちに、リクエストまで来て、にっちもさっちもいかなくなったので、明日、もう一度来ますと言って帰ってきたそうだ。「だから、ママ、明日、一緒に行って伴奏してよね。ピアノはあるから」とのこと。恐る恐る、「どんなリクエストが来たの?」ときいた私は、返ってきた答えに驚愕した。「いろいろあったよ。ベートーヴェンもあったなあ」。
「今の私たちに、ベートーヴェンが弾けるわけないでしょう! スプリングソナタでもやろうって言うの、楽譜もないのに!?」と、思わずどなると、娘が、「歓喜の歌ぐらいなら、何とかならない?」と提案した。皆が楽しみにしてくれているので、やらないわけにはいかないのだそうだ。結局、翌日、練習もなしに、かき集めの即興コンサートをでっち上げたのだが、そのときも、お年寄りは童謡や懐メロを聴きたいわけではないのだと、強く思った。
父の認知症の話に戻ると、最近、弟が面会に行き、「100-7」をやってみたという。すると、全然、できなかったそうで、その夜、電話で、「あの日は、奇跡が起こったんだな」と笑っていた。「かわいい娘がいたので、張り切ったのね。あなたじゃダメよ」と私。
遠く離れたドイツでこれを書いていたら、無性に父に会いたくなってしまった。
パパ、もう二度とテストなんてしないから、私が行くまで、のんきに暮らしていてください!
著者: 川口マーン惠美
『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』
(講談社プラスアルファ新書、税込み880円)
この本を読むだけで、われわれ日本人が夢のような国に住んでいることがよくわかる---ドイツ在住30年、現地で結婚し、3人の子供を育てた著者の集大成、空前絶後の日独比較論!!
amazonはこちらをご覧ください。
楽天ブックスはこちらをご覧ください。
- オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』を聴いて、古事記の世界に思いを馳せる (2014.08.01)
- ドイツとの協調路線に軋轢を生じさせたアメリカの"スパイ大作戦" (2014.07.25)
- 認知症であるとも、認知症でないとも言えない89歳の父をめぐるあれこれ (2014.07.18)
- 日本を停電する国に後戻りさせないために、いま私たちがすべきこと (2014.07.11)
- 地球はサッカーで回っている!? きな臭い世界で唯一の平和イベント・W杯を見て感じたこと (2014.07.04)
-
長谷川幸洋「ニュースの深層」「圏子(チェンツ)」の概念で読み解く 周永康・前政治局常務委員の本質 (2014.08.01)
-
牧野 洋の「メディア批評」マレーシア航空機撃墜事件の報道から考える海外特派員の意味 (2014.08.01)
-
-
-