認知症であるとも、認知症でないとも言えない89歳の父をめぐるあれこれ

2014年07月18日(金) 川口マーン惠美
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その夜、私は、「誕生日なんて、私だってときどき忘れそうになる。だいたい、売主は売りたくて、買主は買いたいのでしょ。私たちがパパを騙してやっていることでないのは一目瞭然なのに、何が問題なのよ!」と、腹立ちを電話で弟にぶちまけた。そして、司法書士が買主の親戚だったと聞いて、余計に訳が分からなくなった。

とはいえ、「こんな契約なんかこちらから願い下げだ!」とやけになるわけにはいかない。法律は法律だ。こういう場合は、成年後見人を立てなければ契約ができないらしい。成年後見人は、手続きがけっこう面倒で、経費はもちろん、時間もかかる。そして、成年後見人を立てるためには、今度は、父が認知症であるという証明が必要になるのだ。

認知テストの「100-7」が気になる

5月末に日本に戻った私は、もろもろの雑用を弟より一手に引き継いだ。日本にいる間は、私が両親の担当なのだ。そこで、さっそく、認知症の診断書が必要だということを老人ホームに連絡し、お医者さんがみえる日に出向いた。

優しそうなお医者さんは父に向かって、「少し質問しますよー」と言い、「川口さん、おいくつですか?」

なんと、父はこの日はちゃんと、「89歳」と答えている。続いて、「じゃあ、今日、何日ですか?」とか、「今から言う言葉、覚えておいてくださいね。桜、猫、電車。後でもう一度尋ねますからね」。わー、こりゃダメだと、私は心の中で匙を投げた。

あとで知ったのだが、ふつう、認知症のテストは、既存の簡易チェックシートに基づいてなされるらしい。20個くらいの質問があり、満点が30点。20点以下は認知症の疑いが濃いということになる。

「今日は何日ですか?」という質問に、父は、何月、何日は正しく答えていたが、何年というのは、「千九百・・・、えーっと」と、いまだ前世紀にいる模様。曜日を聞かれると、しきりに私のほうを見たので、これはまずいと思って、席を外した。

しばらくすると、お医者さんが私のところへやってきて言った。「お父さんねえ、認知症でないとは言えませんが、認知症であるとも言えませんねえ」。青天の霹靂とはこのことだ。

聞いてみると、父は暗算ができたのだそうだ。テストには、「100-7は?」というのがあり、それができると、「じゃあ、93-7は?」と、何度か7を引いていくという。父はそれができて、それから「桜、猫、電車」もできて、それで点数を稼ぎ、おそらくぎりぎりセーフで21点以上になったようだった。

そこで私がお医者さんに、家の売却の意思確認がままならなかったという事情を話すと、「もちろん、老人性の健忘症はありますよ。脳こうそくの後遺症の言語障害もあります。でも、暗算はできるし、不動産の売買契約についての判断能力ならあるでしょう」とのこと。そして、その趣旨の診断書を書いてくださった。信じられない!  逆転満塁ホームランだ! お医者さんが仏様に見えた。

そんなわけで、紆余曲折の末、家はめでたく売れたのだが、あの認知症テストが今も気になる。まず、今の若い人が年をとったとき、「100-7」ができるかどうか。そうでなくても、暗算は日常生活から消えている。

買い物に行くと、お金を払うほうも受け取るほうも、おつりの暗算などしない。私が確認するのは、渡したお金がレジに正しく打ちこまれているかということと、ディスプレイに表示されたつり銭の額と、自分が受け取った額が合っているかということだ。この調子では、私たちには暗算は無理だ。だから、おそらく将来の認知症テストから暗算はなくなる。その代わりに、スマホの操作方法とか、何かほかの質問が組まれるのではないか。あ、私はそれもできない。

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