穴太遺跡から見つかった石室遺構。渡来系の様式で造られている=大津市穴太で
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大津市中心部の琵琶湖西岸に位置する穴太(あのう)遺跡と南滋賀遺跡から、古墳時代の石室や建物跡、土器など、古代人の生活の痕跡が見つかった。いずれも中国大陸、朝鮮半島の文化を色濃く反映した様式をしており、調査を進める大津市教育委員会は、一帯に渡来人系の大規模な集落が広がっていたと考えている。
穴太遺跡からは古墳時代後期(六世紀)に造られたとみられる円墳と、古墳時代前期(四世紀)の竪穴建物が見つかった。
円墳は内部に幅二メートル数十センチ、長さ三・六メートルの石室を持ち、地域の有力者と家族らの墓だったとみられる。一メートル近い花こう岩を高さ三メートルのドーム型に積み上げており、この時期近畿地方に移り住んだ渡来人系の遺跡で見つかっている石室と同じ特徴を持つ。遺跡周辺の山すそには一千基の古墳があるとみられているが、最も低地で見つかった古墳となり、琵琶湖の近くにも多くの墳墓が造成されていた可能性が高まった。
竪穴建物は六メートル四方のほぼ正方形型で、同時に出土した土器の種類などから、祭祀用の建物だった可能性も考えられる。
南滋賀遺跡からは、立てた柱の間を土などで埋めて壁にする渡来系様式の「大壁(おおかべ)建物」や柱を直接地中に立てて造る「掘立柱建物」などの計五基の建物遺構と柵の跡が見つかった。いずれも古墳時代に建てられたとみらる。
両遺跡は、大化の改新を遂げた天智天皇が奈良・飛鳥から移した都「大津宮」周辺にある。遷都には一帯に住む渡来人が関わったとされているが、遷都の素地となる渡来系集落が、さかのぼる時代から繁栄していたことが分かった。
市教委は、一般向け現地説明会を穴太遺跡で八月二日午前十時から、南滋賀遺跡で同日午後一時から開く。
(中尾吟)
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