私の通っていた小学校には年下の知的障害を抱えた双子の兄弟がいました。
私は当時、ガキだったということもあり、知的障害を「精神病」と言ってしまって、先生に叱られた記憶があります。
(今思うと、それはそれで精神障害者に失礼だよな、とも思うけれど。)
そんな環境で学校生活を送っていたり、私の通っていた学校自体が障害者福祉についての教育を道徳の時間などによく行っていたというのもあり、私は小学生の頃から漠然と「障害者を差別してはいけない」
ということが考え方に染み付いていました。
ある日、道徳の時間に身体障害者の女性の方(確か、足の不自由な方で車椅子で移動していたと思います。曖昧な記憶ですが。)の質問でこのようなものがありました。
「障害者を”可哀想”だと思いますか?」
そこで私は、
「本人はそれが普通なのだと思うから、可哀想だとは思いません。」
と答えた記憶があります。
私自身は本音で話しただけで、特別に気を使った発言などをしたわけではないのですが、それがかえってよかったのか、後日、担任の先生から、
「お前の発言、障害者の女性の方がとても感動していたぞ。」
という言葉をいただきました。
その頃から、障害者だからといって、同情して欲しいと思っている人は少数派なのだな、と思うようになりました。実際、私の周りの障害者は、障害者だからといって負けてくない、というハングリー精神の強い人間も一定数います。もちろん、「障害」に心まで負けてしまっている人も一定数いるのですが……。
勿論、障害者にたいして、その人の障害に合わせて配慮は必要です。手の不自由な人に重い荷物を持たせるのはただの虐待だし、足の不自由で二足歩行の出来ない人に自分の脚で二足歩行をしろというのも虐待ですよね。でも、例えば、足が不自由だけれど自分の脚でなんとか歩けるレベルの人が、自分の脚で歩いてごみ捨てに行きたい。手伝いはいらない、といえば、それは手伝うほうが失礼にあたるのではないでしょうか。無意識のうちにバカにしているような態度になってしまっているのではないでしょうか。
障害者が世間的に生き辛い人が多く、可哀想に見えるのは、人々に障害者に対する差別の心が無意識のうちにあるからであり、見下しているからではないのか。
「健常者」という多数はの作り上げたルールで少数派である障害者(精神障害者や発達障害者を含む)を縛り上げている為、障害者が「可哀想」な状況に追い込まれてしまっているのではないでしょうか。あなたの中でだけでの話ですがね。
自分の子供が障害者である、と医者に告げられた時にそれを受け入れたくない、そういう親心、分からなくもないですが、それも障害者に対して差別や偏見があるから出る言葉ですよね。
障害者として生きることは辛いことも多いけれど、その辛い中でも楽しんで生活している障害者も大勢います。
まず、「障害者」と「健常者」の間にある「壁」を取り除くことが、本当の意味でもノーマライゼーションになるのではないでしょうか。ユニバーサルデザインだとか、物理的なものは後付けでよくて、「心」と「心」を近づけること、それが本当の意味で、健常者と障害者の共存に繋がると、私は思っています。
だいちゃん(∀)
聴覚障害者とそれをいじめていた男の子の愛の物語。
障害者に対するイジメなどの問題についても書かれている問題作。本当にオススメです。