「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明」

「命の教育」はQC活動じゃない

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2014年8月1日(金)

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 佐世保市の県立高校1年生が殺害され、同級生の少女が殺人容疑で逮捕された事件は、日々拡大しつつある。

 第一報が届いた時点では曖昧模糊としていた犯行の詳細が、翌日になってから、少しずつ明らかになる。続き物のドラマみたいな展開だ。

 あわせて、容疑者の少女に関する周辺情報が、様々な方向から漏れ出してくる。

 画面のこちら側から見ていると、まるで、犯罪ドラマの演出に精通した人間が、事件に関する情報の出し入れを、クライマックスに向けてコントロールしているようにさえ思える。
 それほど、小出しにされてくる情報のいちいちが扇情的にデザインされている。

 そんなわけで、事件が起きて以来のこの数日、報道の量は、むしろ増加している。
 特に地上波テレビの情報番組は、スタジオごと佐世保に移転したみたいな勢いで、関係者のプライバシーを掘り起こしにかかっている。

 スタジオで画面に登場する人たちは、異口同音に

「衝撃を受けた」
「ショックだ」
「理解できない」

 といったあたりの言葉を繰り返すわけなのだが、その前置きを言い終えると、容疑者の少女の内心を憶測し、被害者との関係について自分なりの推理を並べはじめる。でもって、コメントの行間に現代社会批評をにおわせつつ、最終的には自分が心を痛めている旨を申し述べて最初の前提に戻る。そういうシナリオになっている。

 いや、コメンテーターの先生方が残酷だとか不誠実だとか、そういう意味のことを申し上げているのではない。

 彼らは、視聴者の気分を代弁している。
 優秀なコメンテーターは、自分の考えを述べない。

 コメンテーターは、スタジオの中に「空気」として反射してくる視聴者の反応を、わかりやすい言葉に翻訳するタスクを担っている。そういう意味で、あの人たちは、正しい仕事をこなしている。

 「ショックを受けた」こと自体もウソではない。
 というよりも、視聴者やコメンテーターがショックを受けているからこそ、番組のテーブルは、興味本位に流れざるを得ないのだ。

 自分一人の頭では処理しきれない出来事に直面した時、私たちは、その話題について、誰かと意見交換をしたり、嘆き合ったり、驚きを共有したりして、とにかく自分の中の感情を整理しようとする。

 テレビの情報番組は、そういうことをするための場所だ。

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