今のテレビが面白くない、最近のゲームが面白くない、近頃の邦楽はさっぱりいい曲が無い、昔の○○のほうが面白かった……っていう意見をけっこう耳にします。
でも、ときどき思うんですが、こういうのって評価してる側に「楽しむ能力が無い」、あるいは「無くなってきた」ってことはないのかな??
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昔のものがそんなにすごかったか?
たとえばテレビに関して言えば、昔のテレビがそんなに極端に面白かったとは思わないんですよ。
でも、当時は他に娯楽もなかったし、そもそもあら探しをしながら見るようなことも(そんなに)無かった。出されたものを素直に「おもしろい面白い」と言って楽しんでました。
ゲームに関してもそうで、オレはスーファミ世代だからスーファミのゲームが一番面白かったと今でも思っているけど、システムとか完成度とかユーザビリティなんて今のゲームに比べたらヒドイもんです。
それでも心の底からどっぷり浸かって楽しめたのは、まだ幼かった自分には存分に「楽しめる能力」があったからじゃないかな?と思うんですよね。
批評は受け身、楽しむことは能動的
オレは昔Amazonのカスタマーレビューとか、映画の批評とかをガンガン書いて悦に入ってた時代があるんですけど、ふと「これはつまらない、面白くない、楽しくない……って言いまくるのは、自分に面白がる能力、楽しむ能力がありません、って言ってるようなもんじゃないかな?」と思うようになったんです。
オレは別に批評家じゃないんだし、採点や批評をするよりも、一見つまらないものも、工夫して楽しむ、あら探しをしない、積極的に面白がる……そういう気持ちでいるほうがずっと豊かな心になるんじゃないだろうか??
批評が好きな人はそれはそれで良いんです。「あら探し」って言葉悪いけど、そういう風にして楽しいっていうのも、悪いわけじゃないんだよね。
ただ、何でもかんでも楽しくない面白くないつまらなくなった……と言ってるだけ、ってのはちょっとかっこ悪くないかな?
自分で能動的に面白さを見つける、積極的に楽しもうという気持ちを持つのもいいんじゃないかな?と、ふと思った次第です。
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