神田雑学大学第233回 平成16年9月24日(金)講義録
   企業の縮図はプロ野球


講 師 千原 雅生氏 




自己紹介
私の生家は大分市で150年以上続いている割烹料亭の共楽亭です。 相撲界の荒法師、玉の海嶽太郎は、うちの店の板前さんの息子で、父が相撲界に世話をしました。戦後、双葉山で相撲界に復帰した彼は関脇まで出世し、片男波部屋を起こし、横綱玉の海を育てました。片男波親方の葬儀には、一門の代表、二子山親方の後、私が弔辞を読みました。

進学した大分商業で私は野球をやり昭和17年、甲子園の土を踏みました。 エースは私の一年後輩で、後年、星野組、毎日オリオンズで“火の球”投手として活躍した故荒巻淳氏でしたが、甲子園では体調を崩して四球を連発して自滅し仙台一中に3対1で惜敗しました。私は四番打者で二塁を守っていました。 当時、法政大学から推薦入学の懇請をうけましたが、兄が入隊のため家業を手伝うことになり、戦争の激化とともに鹿児島海軍航空隊で、11ヶ月間予科練習生として訓練を受け 門司港から舟で日本海をわたり中国の青島に行きました。当時の日本近海はアメリカの潜水艦が出没し、多くの船が犠牲になりましたが運がよかったのでしょう。 青島では偵察要員として猛訓練を受け、アメリカ戦闘機の攻撃で多くの仲間を失い、ガソリンの不足から飛行もできないまま終戦を迎え帰国することができました。



プロ野球選手への道
 終戦後の日本は空襲で焦土と化し、人々も呆然自失の状態でしたが、ようやく復興に立ち上がりスポーツでは野球が復活しました。別府の星野組と植良組は米軍の工事受注で景気がよく硬式野球チーム組織しました。戦前のプロ野球選手はプレーする場所を求めて続々このようなノンプロ球団に入り都市対抗野球が盛んになりました。 この星野組、植良組に入団したのが巨人・白石、阪神・藤村、阪急・西本、南海・岩本 永利、今久留主兄、私(千原)などです。  星野組は全国制覇まで成し遂げ、黒獅子旗を先頭に流山通りを優勝パレードしましたが、その時の市民の興奮は大変なものでした。

昭和21年1月、私は大分鉄道管理局に入社し。エース投手として活躍しましたが翌年 植良組に入社、都市対抗野球で活躍しましたが、昭和24年岩本義行氏とともに松竹ロビンスに入団しました。この球団は岩本、小鶴、大岡などの重量打線、真田、大島、江田、小林などの投手陣を擁し、小西監督の采配でセントラルリーグで優勝しました。

翌25年、私は戦力補強のために国鉄スワローズにトレードされ三塁手のレギュラーとして活躍しました。私がプレーしていた頃は巨人の第一期黄金時代で、与那嶺、千葉、青田、川上、宇野、南村、平井、楠ら、投手は別所、中尾、藤本、大友、松田、多田といった豪華メンバーで監督は水原でした。 阪神の藤村富美男、隆男兄弟、金田、後藤、渡辺、梶岡。中日の坪内、原田、西沢、杉山 児玉、牧野、野口、服部、杉下。広島の白石、武智、長持など。一緒にプレーした懐かしい仲間です。当時の私の月給は4万円でした。



TDK入社
昭和32年10月、当時典型的な中小企業で月商僅か4千万円、町工場だったTDK(東京 電気化学工業に入社しました。ラジオがスーパーになり、白黒テレビ、カラーテレビ、ステレオなどを中心とした家電製品の需要が活発になり、エレクトロ二クス産業の発展と共にフェライトを中心とした電子部品の需要が飛躍的な成長発展を遂げつつあった時代です。 勤務した市川工場は4百坪くらいの土地に木造の工場、事務所、開発研究所があり通信機用フェライト課,ダスト課、電器課,総務課などがありました。 ここで私は市川工場野球チームの監督になり、天皇賜杯全国大会で二年続けて4位、8位の好成績をあげました。

ある日突然、技術者でない私に「マグネット製造課長をやれ」とのトップからの任命があり新しい人生が出発しました。独身だったこともあって、それから私は5年間、一日も 休まず、無我夢中で製造に没頭し、生産技術の確立に若い技術者とともに頑張りました。 努力を重ねた結果、「フェライト製造のポイントは分析にあり」との私なりの製造のノウハウを会得することができました。 私が貪欲に技術を吸収し、生産技術の改善改革に思い切った手腕を振るえたのは、量産技術が確立していない揺籃期だったからといえます。


マグネット18年の歩み
マグネット事業部が最高の純利益を確保したのは、オイルショック後の昭和51年、52年の2年間で、売上平均14億5千万円、本社費として売上高の10%を引いた月4億 6千万円を最高額に、月平均3億円以上の純利益を確保し続けました。 海軍・プロ野球での体験を生かし力量を発揮し、夢の展開、作戦展開、戦闘体系・エース中心の展開を図りマグネット事業を世界最大の事業となし、ロマンとビジョンを実行した18年間でした。

事業も野球と一緒で素晴らしいエースがいることとチームワークが発展の基本です。 本八幡工場時代は,焼成不良や加工研磨での研磨滓などで10〜15%を廃棄していましたが、ここで,全てのロスを無駄なく使い、腕と包丁さばきで金にするふぐ料理の智恵を応用しました。ふぐ具はは全く捨てるところがなく、全部が金になります。 鰭は鰭酒、皮と腸とエラは刺身の添え物に、肝は熱湯で茹でて裏ごししてポン酢を入れて刺身にするとおいしい。頭のアラと中オチはふぐチリにして、一匹全部が無駄なく金になります、板前の腕次第で、刺身は薄く切れば切るほど美味しくいただけます。 静岡工場はふぐ料理の原理で一切の材料の無駄をなくしました。


ルスナー燃ゆ
世界一のフェライトメーカーを目指して挑戦したルスナー法による複合酸化鉄の製造は 約30億円をかけた大プロジェクトでした。廃酸液(Fec12)を精製し、それに天然マンガンを溶解してできた塩化第一鉄と塩化マンガンとの混合液をルスナー炉で仮焼するものでしたが、私は頼りになるエースに全幅の信頼をおいて全てを賭けました。 神秘的なエメラルド色をした溶解液に魅せられ、必ず成功するとの信念を持って強引に実行した計画でした。  約3年間悪戦苦闘の連続でしたが遂に技術者の理論値を上回るパワー材H7CX材を作る ことに成功しました。



川崎製鐵入社
平成元年、私はTDKの取締役を辞任し川崎製鐵に入りました。TDKの組織が大きくなりすぎ管理手法による制約が私のロマンと合わなくなり、理解してくれない上司もいたので何人かの子飼いの技術者と一緒にフェライトの開発を目論んでいた川崎製鐵に移ったのです。 大手鉄鋼会社は以前から新規事業に参入していますが成功したものは殆どありません。 名門大学の秀才をたくさん揃えてエレクトロニクスを中心に開発してきましたが、成功した例は殆どありません。これはプロジェクトにふさわしいロマンを持ちうる人間を選ばないから失敗するのです。経歴や学歴や能力ばかりを重視し、人間臭い、心に熱いロマンや夢を抱く「心の問題」を軽視したからです。 私はここでマグネット事業を立ち上げるために川鉄マグネットという会社の社長に就任して,私なりの考えでフェライト事業を成長させました。



企業の縮図はプロ野球
私はTDKの揺籃期に、フェライトという磁性材料で壮大な体験をすることができました。千葉の町工場から世界一のフェライト工場に成長したわけですが、事業はプロ野球と同じで、理解のあるオーナーがいて、優れた監督がいて、エースがいて強打者がいてはじめて強いチームとなれるのです。企業の経営者は野球の監督と同じで、いかに将来性のある選手をみつけてきて育て上げ、チームプレーに徹する野手を配しながら戦っていくということではないでしょうか。 了




   
      文 責 : 得猪 外明  会場撮影 : 橋本 曜  HTML作成 : 上野 治子