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ひょっとするとこの号(『Journalism』7月号)が出るころには、「美味しんぼ騒動」なるものの賞味期限も切れているかもしれない。それくらい、おいしいものの賞味期限は短い。ニュースのネタもまるで人々の日々の消費の対象品であるかのように扱われ、ものごとの考え方や智恵を深める方向に進まないのが常だ。ありていに言えば、飽きられればもう誰も振り向かないような扱いに堕している。だが「美味しんぼ騒動」が提起した問題は深くて広い。
雁屋哲氏の『美味しんぼ』は1983年から漫画週刊誌「ビッグコミックスピリッツ」に連載されてきた人気漫画で、単行本の累計発行部数は1億2千万部というから、国民の間ではよく知られた人気漫画だろう。残念なことに僕は定期的に漫画雑誌を読む習慣をかなり前に放棄してしまったので、この人気漫画のファンではない。
けれども、この漫画のあるワンシーン(福島第一原発を取材した記者が原因不明の鼻血を出すシーン)に向けられた一部のメディアの取り上げ方の姿勢には、大いに違和感を覚えた一人である。
この欄はテレビについての批評が主眼だが、今回の現象の範囲はテレビ、週刊誌、新聞、ネットを巻き込んだ大きなうねりとなって、結局のところ、福島で起きていることについて表現する自由を著しく狭める、萎縮させる効果をもたらしたのではないか。二つの論点からこのことを考えてみたい。
一つは「権力監視」というジャーナリズムの機能からみた今回の騒動への対応ぶりである。同漫画に対して「風評被害を助長する」として抗議文を送ったり、遺憾の意を表明したりした行政の首長、大臣や省庁らの動きがあった。福島県知事や、双葉町町長、大阪市などがコメントや抗議文を送付するなどのアクションをみせたのだ。
佐藤雄平福島県知事は5月13日、「風評被害を助長するような印象で、極めて遺憾」と批判した。同月12日の定例記者会見で、菅義偉官房長官は「住民の放射線被ひ曝ばくと鼻血にまったく因果関係はないと、専門家の評価で明らかになっている。そうしたことを政府としてしっかり広報、発信していくことが大事だ」と述べた。
また、5月9日には石原伸晃環境大臣が「専門家によって、今回の事故と鼻血に因果関係がないと既に評価されており、描写が何を意図しているのか全く理解できない」と語った。
住民の不安の根底に行政の不十分な対応
ちょっと考えてみればわかるが、これらの大臣や省庁、行政の長は、本来ならば、住民の健康をしっかりと管理し、住民の不安をとり除く義務を負っている公務員たちである。そして現に福島第一原発の事故の被災地の住民たちが、さまざまな健康に対する不安や心理的・社会的な不安を払拭できずに暮らしているという重たい現実がある。
行政や政府・省庁が十分な対応を取っていないことが、不安のすべての根底にある。情報を十分に開示しない。不都合な情報は隠ぺいする。事故後に安全基準を変えるなどの本来ならばあり得ない措置を重ねてきていることに対して、住民たちは不信を募らせている。
ところが、そのことを少しでも口にしようものならば、不安を助長する、復興に汗を流している時に不謹慎だ等の同調圧力が加わるメカニズムが、いつのまにか出来上がっているのだ。
それを作り上げるのに加担したのが、僕らメディアの同業者たちであったりすることも問題なのだが、不安を払拭することと、不安をなかったことにすることとは全く異質の事柄だ。
たとえ少数でも鼻血等の被害を訴える人が実際にいるという現実もまた受け止めなければならない上に、「専門家」によって「因果関係はない」と既に評価されていると政府が断じるのは、いくら何でも行き過ぎではないのか。
もっと現実を謙虚に真摯に受け止められないものだろうか。いわゆる「専門家」のなかには「因果関係があるかもしれない」としている者もいるし「因果関係は絶対にありません」と断定する医学者もいる。「まだ因果関係については、はっきりとわかっていない」というのが誠実な姿勢というものではないのだろうか。それをまるで未解明のものは全て非科学的と断じるような態度はどうなのだろう。
これらのコメントや発言の多くは、メディアの求めに応じ発せられたのであり、それを質問して引き出した記者たちはどのような姿勢で彼らと向き合っていたかが問われるというものだ。
「権力監視」の姿勢がもともと欠如していて、ニュース価値を大きくするために批判的なコメントを引き出そうなどと、まさか思っていたわけではあるまいと信じたい。欧米先進国で、あのような表現の根源的自由にかかわる発言を安易に行う政治家や権力者がいたら、即座に(むしろメディアが率先して)批判を浴びせていただろう。それを僕らの仲間たちはありがたく拝聴していただけとは思いたくないのだが……。
「市民科学者」という立ち位置を危うくした騒動
もう一つは「市民科学者」という視点からみた今回の騒動の「反動性」についてである。3・11が完膚なきまでに露呈させた「知の権威」の失墜は、原子力ムラという閉鎖集団によって築かれてきた安全神話を後戻り不能なほど破壊したはずだった。
残念ながら、原子力ムラの住人たちにとっては、市民のことなどハナから頭になかったことがわかった。彼らにとっては、あえて極論してしまえば、私利私欲と社会的な名誉と富がすべてだったのだ。
そうした科学者のありように対置して、故・高木仁三郎氏が提唱した「市民科学者」という概念がようやく3・11以降根付き始めていたものと思っていたが、今回の騒動はそうした「市民科学者」という立ち位置をも危うくしているように思える。
専門家や権威が独占していた科学的・医学的所見を表明する権利を、広く市民の立場から、市民自身が市民自身のことばで表明できる環境を作り上げること。市民の立場に寄り添う学者たちの存在を許容すること。これらの動向がとても重要になってくるはずだった。
「美味しんぼ」の問題の回に登場してきた実名の学者、福島大学の荒木田岳・准教授の「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います……」という発言シーンに対して、福島大学の中井勝己学長が「大学人の立場をよく理解して発言するよう教職員に注意喚起する」との大学としての見解なるものを出した。
あれは個人の見解で、大学の見解ではない、と強調したかったそうだが、そんなことは作品中でも「……と私は思います」と言っているのだから、読者は誰でも理解できる。
5月14日の定例会見で同学長は「(准教授の)発言の中身が不適切という趣旨ではない」と弁明しつつ、「福島大は地元の震災復興に関わってきた。一教員がそういう発言をしたことは非常に残念だ」と述べた。これは一体どういう事態なのか。大学において、学問・言論・表現の自由が保障されず、一種の言論統制がなされるとしたら……。
荒木田氏は「騒動」後も自ら見解を述べ、「住民も本当は不安で仕方ないが、『風評被害を招く』として、国に対する懐疑論は表に出てこないようになっている。いわゆる復興ムードが多様な考えを抑圧しているのではないか」と述べているという。
僕は以上のような、事実関係の割と細かな経緯を、FNN系列の福島テレビのローカルニュースで知った。同局は、この「美味しんぼ騒動」について最も熱心に取り上げていた局のひとつである。県内への旅行キャンセルが出ているというニュースも、他局より一足早く報じていた。
最も忌むべきことは議論封じる力に加担すること
ネット局ではTBS系列の「Nスタ」がこの問題を全国ネットで最も早く報じていた(4月30日)。そこで、締めくくり部分に、日大歯学部の野口邦和准教授の「鼻血と被曝との関係はない」「福島の人の不安を煽ることになるので、適当ではないと思う」との強い口調のコメントを紹介して終わっていた。
最も長い時間を割いてじっくりとこの問題を報じていた番組の一つが、「報道ステーション」(5月13日放映)だった。当事者である福島県民の声を丹念に紹介し、同漫画にも登場していた井戸川克隆・前双葉町長のインタビュー、チェルノブイリ事故の際の鼻血の訴えとの比較など多角的に報じていた。両論併記的な傾向も多分に感じられたが、風評被害につながると一方的に糾弾するトーンとは、さすがに距離を置いていた。
NHKの「クローズアップ現代」でも6月2日の放送で、原発事故と漫画表現という広い視点から、この「美味しんぼ騒動」について言及していた。スタジオ出演した漫画家のしりあがり寿は「基本的なことを言えば、僕は表現するのは本当はどこまでも自由であるべきだと思うんですよね。そして批判するのも自由だと。……表現をして批判をして、その淘汰によって、何か新しいもの、正しいものがみつかっていくと。そこに例えば権威とか国家だとかが予め、これは間違っているとか、こうしろと決めることじゃないと思うんですよね」と述べていたのが強く印象に残った。
最も忌むべきことは、議論そのものを封じ込めようとする力に加担すること、そしてその力に屈することである。
「ビッグコミックスピリッツ」編集部の見解が5月19日発売号に識者の批判・意見とともに掲載されていたが、編集部コメントは真摯にこの問題に向き合っていると思われた。その一部を引用しておきたい。
.……医学的、科学的知見や因果関係の有無についてはさまざまな論説が存在し、その是非については判断できる立場にありません。山田真先生から頂戴した「『危険だから逃げなさい』と言ってもむなしい」というお話には胸を衝かれました。遠藤雄幸村長の「対立構図をつくってはいけない」というお話からは、『美味しんぼ』について、ツイッター等で展開された出口のない対立を思いました。識者の方々、自治体の皆様、読者の皆様からいただいたご批判、お叱りは真摯に受け止め、表現のあり方について今一度見直して参ります…….(編集長・村山広氏の見解)
福島第一原発事故は、現在進行形であって、それをさっさと言葉の上だけで「収束宣言」なるものを発した政治家に対して、僕は強い憤りを覚える。被災地の住民だけでなく、自然環境全体で、今後いったいどのような被害や人体に対する晩発性の影響が出てくるのか、本当のところは誰もわかっていないのかもしれない。なぜならば、このような過酷事故は人類史上未曽有な経験だったのだから。
ただ、僕らにはチェルノブイリ事故での経験によって得られた知識・知見や、放射線医学の進展によって獲得されてきた所見なるものがある。ただ、後者のそれとて、原子力開発推進の論理によってバイアスがかかったものだとの指摘が聞かれる。
科学や医療の報道で問われる想像力の質
広島・長崎の被爆者調査から得られたデータの利用のされ方の歴史の一端を知るにつけ、また、現在では福島県立医大に所属する一部の人々の言動をみるにつけ、そうしたバイアスの存在に対する疑念は増すばかりだ。
科学や医学はいったい誰のためにあるのか。普通に暮らしている住民のためにあるのではないのか。だからその時々に果たすメディアの立ち位置や、報道姿勢、さらには記者、ディレクター、プロデューサーたち、放送、報道に関わる全ての人たちの想像力の質が問われる。
かつて、広島・長崎の原爆被害による後遺症状の一部=虚脱感、脱力感を「ぶらぶら病」と名づけられて詐病のごとく扱われたことがあった。それらの「因果関係は証明されていた」のか?
水俣病の有機水銀説を打ち消す有力な学説として、東工大・清浦教授をはじめとする権威ある学者たちが、今から考えるとトンデモない原因説を主張していた時代があった。それを報じた記者がいた。それらの「因果関係は証明されていた」のか?僕らの先輩たちの一部は結果的にその片棒を担いだことにならないか。そんなことが繰り返されてはならない。そう切に思う。
僕が個人的に信頼している福島の地元局の人物に話を聞いた。「あくまで個人的な意見ですが、僕の周りの福島県人たちは、みんな自分なりに勉強をしてきている人たちなので、何でまたこんな騒ぎになるの?って感じですよね。これを言われたから、また不安になってきた、風評が心配だっていうよりも、本音ではそっちの方が多いと思いますよ。雁屋さんがご自分の信念と良心に基づいて書かれたことはわかります、そして、確かに被災者の中には心理的な、心因性の症状というか、体調不良や疲労感、不眠などはあることは否定できないんですが、今度の騒動で、県民アンケートなんかでも、そういうことを記すことに環境の変化が出てきたら困りますよね」。僕も全くそう思う。
◇
金平茂紀(かねひら・しげのり)
TBSテレビ執行役員、「報道特集」キャスター。早稲田大学大学院客員教授。
1953年生まれ。東京大学文学部社会学科卒。TBS入社後は報道局社会部、「JNNニュースコープ」副編集長、モスクワ支局長、ワシントン支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長などを経て2010年9月から現職。著書に『二十三時的』(スイッチ・パブリッシング)、『テレビニュースは終わらない』(集英社新書)、『報道局長業務外日誌』(青林工藝舎)、『沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)など多数。
※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』7月号から収録しています。同号の特集は「ビッグデータ時代の報道とは何か」です
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