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赤い皇帝の愛したソビエト 作者:スターリン

プロローグ

スターリンの憂鬱こときれいなスターリンシリーズを連載化しました。
西暦1970年11月7日(十月革命当日)午前10時30分
『地球連合政府・ロシア地区』

別名『ソビエト社会主義共和国連邦』通称ソ連、またはCCCP

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国南部 ヴォルガ川西岸

「スターリングラード」

とある赤い皇帝の回想





 「ソビエト社会主義共和国連邦」
通称ソ連、またはCCCPとも表現されるこの大国は、
1922年に世界初の社会主義国として成立した国家である。
1922年から1040年にかけて多数の中小国がソビエト加盟国となり、一大共産圏を築いた。
国土総面積2240万2200k㎡(日本の45倍)、
総人口は1920年の時点で約1億5000万人以上、
ロシア時代よりソ連の国土は資源と人に恵まれていたが、
厳しい気候によって不凍港に恵まれていなかった。
第1回全連邦ソビエト大会が開催され、
12月30日にソビエト社会主義共和国連邦の樹立が正式に宣言された歴史を持つ。
そして現在は「地球連邦」政府を構成する主要国を占めるPECTO条約機構の宗主国として、
地球最強の大国として君臨している。
なおPECTOについては後で語述する。

本来であるならばソビエト成立の切っ掛けとなった、
ロシア革命の一連の流れの切っ掛けとなった「十月革命」の当日記念日であるので、
盛大な国を挙げての一大イベントとして大いに盛り上がり、
普段は無愛想に職務に当たる共産党幹部や、
泣く子も黙るソビエト連邦国家保安委員会(通称KGB)とソビエト連邦内務省(通称MVD)の職員らも、
今日ばかりはぎこちなく愛想を振りまきながら盛大にこの日を祝っていることであろう。 

しかし、
今年の十月革命の記念日は少しばかり様子が違った。
例年通りの十月革命記念日は、
ソビエト各地で何かしらのイベントの類が盛大に行われて、
大通りなどには大勢の民衆が溢れて一種のお祭り騒ぎとなるはずだ。
大きな建物には十月革命を称える垂れ幕がぶら下がったりするなど飾り物も多く飾られているはずだった。
だが各地の都市の大通りには人が溢れていなく、民衆は余程の用事がない限り自宅のアパートやマンションなど家に引き篭もり、
テレビやパソコンの画面に視線を釘付けさせている。
その表情はとても暗く、
何か歴史的な出来事に例えるなら
まるで1945年8月15日の日本、
そう我々の先祖が8年にもわたる大戦で完全敗北を決し、
降伏したあの夏の日のようだ。
あの日の皇居前には昭和天皇陛下に敗北を謝罪するかのように、
地面に跪いて泣きじゃくる女性の姿をとった写真が有名であるが、
それと似たような事をしだすかもしれないほど、
ソビエトの民衆は暗い表情であった。

そして特にそれが顕著に酷かったのが、
ソビエト南部を流れる大河・ヴォルガ川西岸に位置する、
この国のかつての指導者の名前を冠したスターリングラードであった。
かつてはツァリーツィンと呼ばれた古くから河川交通の要でもある大都市で、
人口を500万人も抱えて、
国内屈指の製鉄工場である赤い十月製鉄工場、
大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、
さらにスターリングラード・トラクター工場(別名 ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市でもあり、
ソビエト連邦の中でも有数の大都市であるこの都市では、
市民達が全て直接とある場所へと外出しており、
ある建物の前にたむろして集まっていた。
その建物とは市内を一望できるママイの丘に存在する大きな別荘であった。
その別荘の所有者が今まさに死のうとしていたので、
彼ら民衆は大いに悲しんでいるのだ。



 かつてグルジア出身と辺境の出身でありながらもこのソビエトの指導者として第二次世界大戦を勝利へと導き、
西はドイツからイタリア、
北は北欧3ヶ国、
南は東南アジアに南米諸国、
そして東は日本まで結ぶ一大国際同盟且つ経済同盟である『汎ユーラシア大陸条約機構
(Pan the Eurrasian Continent Treaty
Organization。
略称PECTO=ペクトー )』を結成して、
そのような人類史上最も世界有数な陣営の宗主国へとソ連を導き、
アメリカを超える国力と軍事力を持つ世界で最も一番最強な大国へと築き上げた男が今、
自分が所有する数ある所有地の1つであるこのスターリングラードのママイの丘に位置する別荘の寝室のベットで、
老衰であの世へと永遠の旅に出ようとしていた。
その男の名前は『ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン』
通称スターリンとして世界で最も有名なソ連人である。
彼にはいろいろと異名があり、
・「全てを見据える男」
・「ロシアが生んだ20世紀最高の指導者」
・「赤き全能者」
・「人民の救い主」
等などいろいろとあるが、もう1つ有名な異名がある。
それは「赤い皇帝」である。
その異名を説明するのにはまず彼が行った3つの偉業について説明しなければならない。

彼は共産主義に基づく革命を行ったレーニンの後継者であるので、
彼もまた共産主義に基づき宗教勢力や皇帝信仰ツァーリーニズムを否定し、
共産党と科学を絶対視する風潮を維持するかと思われた。
だが後継者に選出されてレーニンが死んだ途端、
彼は唐突に信仰の自由を許可して、色々と制約はあるものの正式に宗教を認めたのだ。

その制約の主な原理とは、
・親の振興する宗教に必ずしも子供が入信する必要はない。
子供に選択させなければならない。
・カルト教団の類は全面的に禁止である。そういった団体に入会したものは死刑判決を受ける。
・信教分離を原則とし、何かしら宗教と関わりのある政治/圧力団体が政治に関わるのを禁止する。

この3つが主な制約の原理である。
この3つを中心とした制約を守らせることで、
彼はレーニンによって弾圧されていた宗教勢力に取引を持ちかけたのだ。
この3つを守らなければどんな粛清をされても文句は言えなくなると、
大人しく地道に活動するのならばこちらも手は出さないと。
その結果ソビエト連邦ではまずロシア正教会と共産党の完全和解が進み、
司祭の弾圧が中止されるなどロシア正教会にとって待ち望んだ日が来ることとなった。
以前の帝政時代より幾分か財政状況や影響力は無いものの、
弾圧され続けるよりかはマシだとスターリンとの制約を受け入れた。
他の宗教団体もそのほとんどがしぶしぶ制約を受け入れざるを得なくなり、
こうしてソビエト政府に宗教事情は、史実に日本よりも信教分離が進んだ社会体制となった。
(今風に言うならば○○学会{専用の大学をも持っており、与党として今がんばっているあの党のバックボーンでもある}や幸福を求める団体などが党を結成しておらず、逆にその過激な勧誘や影響力に公安から目を付けられて解散させられたようなもの)

その代わりと言っては何だが、
彼は他にも個人崇拝や科学信仰を戒める声明文を発表するなど、
既存の国内のありとあらゆる人類の信仰対象へと喧嘩を売り、
その全てを論破して見事打ち破って見せた。
その姿から赤い皇帝という異名が名づけられたのだ。
全ての反対勢力を潰すイワン雷帝の様な独裁者、
共産主義のイメージカラーである赤のイメージが重なって出来たのだ。



 次に2つ目の彼の偉業は、
ロシア革命時において被害者を余り出さなかったことだ。
後世の歴史家は彼の偉業を褒め称える際には必ずこれについて言及する。
彼ら曰く、
スターリンがいなければ、ロシアの人口はおよそ1000万人ほど内乱によって死んでいた」と。
史実のロシア革命とその後の内戦から五カ年計画まで、
およそ約2000万人を超える死者が発生したが、
その死因の内、
戦争によるものが2割ほどで、
残りの7割は粛清や混乱による飢餓によってであった。
このようにソビエト連邦は第二次世界大戦前から既に多くに死傷者を出しておきながらも、
戦争中に約2000万人ほど死傷しても勝てたのだからもう日本人には理解できない世界である。
何せまず内乱の時から左翼家の党派では、
多数派で穏健派のメンシェビキと少数派で過激派のボリシェビキの対立が始まっており、
彼らに敵対する白軍勢力も皆別々の思惑でバラバラに戦うなど、
中国の五個十六国時代もかくやという有様であった。
そして農場で食糧生産に携わる農民や工場で製品を作る労働者らも、
それぞれ独自の考えで動いているので都市部と地方の対立が起きたりと、
もうカオスな国内情勢であった。
史実ではボリシェビキこと共産党が武力によって合法的に権力を握っているメンシェビキ系統の政府を崩壊させ、
白軍を自分の子飼いの赤軍で撃破して、
共産党の意に反する労働者や農民は赤軍と共産党員によって鎮圧された。

その結果、
共産党によるウクライナ地方の人工的な飢饉ホロドモールなどが独ソ戦前に勃発し、
多くの無実の人間が大量に死ぬこととなったのだが、
スターリンは謎の知識力と類まれなる説得術で、
白軍やメンシェビキなど共産党に反感を持つ連中を説得することに成功し、
それについて生ぬるいではないのかと不審に思い、
彼の事を裏切る積もりかと疑うレーニンやトロツキーなど共産党幹部の説得にも成功したので、
死傷者はほんの数百人程度で納まったのだ。
その結果ロシアに介入しようとした諸外国の勢力はろくな利益を出さぬままに撤退し、
ロシア帝国の遺産をそのまま全部引き継いだソ連は、
内戦後のインフラ整備などで時間やコストを掛けなくて済んだのであった。
無論帝政時代の負の遺産も引き継ぐこととなったのだが、
内乱によってインフラ状態が壊滅した状態でそれと向き合うよりはマシであったので、
4~5年ほどで直ぐに解決したので彼は讃えられているのだ。



 そして3つ目の偉業だが、
これはこの話の前半部分に書いたように、
彼の手によってソビエト連邦がユーラシア大陸、
いや、
地球そのものを支配下に納めたことであろう。
彼は書記長へと就任したときから従来のロシアの政策を放棄して、
穏健な手段による拡大を訴えて、
それが功を制したのだ。

「無理押しはせず。」

それが当時から今に続く今のソビエト流外交戦略だ。
積極的な経済戦略と情報工作活動が盛んで、諸外国を武力ではなく商売で次々と配下に入れていた。
ソ連は資源大国で、バクー油田などの歴史は古く、
1830年代から1930年代の100年間世界の石油産出量の90%を誇り、
20世紀中には依然世界最大の産出量である60%を占め、
ソ連の国内石油需要の80%近くを補っていた。
その他にも天然資源に恵まれ、
鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達しているウクライナなどは、
世界最大の鉄生産量と品質を誇っていた。
周辺各国は安くて品質の良いソ連の資源を求めて経済的に癒着し、実質的な衛星国として機能していたのだ。
例えばポーランドやフィンランド、トルコやイラン、
そして日本などかつての敵対国家などもソビエトと段々と癒着するようになり、
今ではPECTOを構成する重要な国家となっている。
彼はこのように資源による穏やかな武力によらない侵略で国際影響力を増していき、
次々とソビエトの国際的地位を上昇させることに成功したのだ。 

さらにソ連以前のロシア帝国時代から続く不凍港を求めて南下政策に代表される様式美とまで言われるほどの拡張主義を取りやめて、
更にある程度ウクライナや中央アジアなど古来からロシアの領土ではなかった地域や、
ソビエトに多数存在する少数民族の自主性をある程度認めてロシア人の優位性を廃止したので、
帝政時代からロシアを悩ませていた独立運動は次第に下火になり、
治安が安定することで治安維持のために使用されていた費用などの分が浮くようになり、
さらに治安維持が行われないため住民の国に対する感情の改善など良い事尽くめであった。
そして周りのポーランドやバルト3国、
それにトルコやイランなどロシアの動向にピリピリしていた周辺諸国も、
拡張主義をやめたソ連に対して次第に好印象を抱くようになり、
周辺諸国との関係も大いに改善されて最終的にはPECTOに加盟してくれるぐらいにまで至った。
それゆえ彼の支持率は更に高まり、
もはや彼は神救世主のように崇められていた。

本来であるならばそうやってゆっくりと影響力を増すことで、徐々に世界のトップに立つのが彼の予定であったのだが、
予想外の出来事が起きたのだ。
それは何かというと、


第二次世界大戦の勃発だ。



 皆さんもご存知の事なので詳しいことは書かないが、
この世界戦での流れを簡単に説明する。
スターリンは政権を握ってから幾度もドイツに訪問することが多く、
そこでは国防軍高官との面会が多かったが、
その際に必ずとある人物についての忠告をするのが定番であった。
どんな忠告であったかというと、

「これからオーストリア出身の伍長上がりのちょび髭がこの国を支配するときが来る。
その時彼は君達プロイセンの伝統あるユンカー(エルベ川以東の東部ドイツの地主貴族)を敵対視しすると同時に、
自分の手駒にしようと、
かならずそうしたユンカーが多く在籍する軍部に何かしらの粛清を試みるであろう。
その際に国外逃亡したければ我がソ連へ是非御越しになってください。
我々は盛大に歓迎するでしょう。」


このような忠告を受けた国防軍の高官たちは、
不思議に思いながらも「その時が来たらよろしくお願いします」と一応笑顔で答えたのだが、
後に1933年の選挙で、
国家社会主義を掲げる「国家社会主義ドイツ労働者党」通称ナチスが政権を握り、
その党首のアドルフヒトラーの姿と経歴がスターリンの話した内容と一致したことで急変する。
ヒトラーは自分には向かう可能性のある国防軍の影響力を低下させ、
自分の影響下に置く事を目論み様々なスキャンダルで国防軍を攻撃し始めたのだ。
彼の独自の軍隊として親衛隊と突撃隊が有名だが、
突撃隊のほうは親衛隊より使えないとして「長いナイフの夜」事件で粛清され、
親衛隊が生き残って武装親衛隊を編成するまで至ったが、
彼が何故わざわざ装親衛隊の様な第4の軍隊を編成したかというと、
国防軍を信用していなかったからだ。

元々ドイツ軍はその歴史の流れから分かるように皇帝に対する尊敬の念が強く、
そのせいもあってかドイツ軍の伝統には、忠誠対象を明らかにする忠誠宣誓が存在した。
ヴァイマル時代には国家と憲法に対して忠誠を誓うものであった。
ナチス政権が成立した後も国防軍将校団には独立自尊の風が強く、
アドルフ・ヒトラーは軍を完全には掌握できなかった。
また、ワイマール共和国時代からの慣習により、陸海軍の統帥権は国防相から各総司令官に委任するという形式が取られていたため、特に陸軍の独立傾向は強かった。
当時の陸軍総司令官フリッチュは典型的なプロイセン軍人であり、将校団の信頼も厚く、
時にはヒトラーをも遠慮無く批判した。それがヒトラーにとってはとてもうざかったのだ。
彼にとって見ればそういったドイツ軍高官らは、
世界に冠たるドイツを負けさせた上でここまで失楽させた無能の集まりで、
さらに時代の流れについていけない老害の集まりでもあった。
それでいて更に彼らはヒトラーの事をボヘミアの伍長呼ばわりして信用しておらず、
いつ何時裏切るか分からなくて安心できない存在であった。
なのでヒトラーが首相となると民族と祖国に忠誠を誓うものとなり、国防軍の成立直前にはドイツ国と民族の指導者であり、同時に国防軍最高司令官であるアドルフ・ヒトラー個人に忠誠を誓うように変更された。
ヴァイマル共和国時代から軍隊の最高指揮権は国家元首の大統領に所在し、
国防大臣に権限を委託する形式であった。
ヒンデンブルク大統領が死去した後、ヒトラーはその権限を受け継いだ。
1938年にヒトラーの戦争政策に反対する戦争大臣ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将にスキャンダルをでっちあげ、失脚させた(ブロンベルク罷免事件)。
ヒトラーはブロンベルクの進言により後継の戦争大臣を指名せず、
新たにヴィルヘルム・カイテルを長官とする国防軍最高司令部を設け、直接国防軍三軍を指揮する仕組みを作ったのだ。

こうした一連の流れを受けて、
ヒトラーは自分の影響下に完全に国防軍を置いたかと思われたが、
とある急報でその喜びも瞬く間に消えうせることとなる。
それは史実ではなかったブロンベルク元帥とフリッチュ上級大将2人がソ連に亡命したことだ。
1939年1月早々の出来事であった。
彼らはスターリンの話を覚えており、
彼の援助を借りてヒトラー率いるナチスに支配されたドイツを解放しようと思い、
ベルリンに潜伏していたソ連側のスパイの力を借り、
東プロイセンからバルト3国を経由してソ連へと国外逃亡したのだ。
そしてソ連に入国して早々にスターリンによって準備されたラジオのスピーカーの前で、
大勢のソ連国民やマスメディア、
それに緊急に招かれた海外のBBCやニューヨークタイムスといった著名なマスコミを前に、
捏造したスキャンダルで自分達の様な国防軍高官を罷免したヒトラーに対する抗議の声明と、
彼に反抗することはプロイセン軍人としての義務であるという国防軍のクーデターを促す声明文を発表して、
世界中にそれをラジオによって放送してしまったのだ。
その結果、
世界中からナチスとヒトラーは嗤われて彼らの国際的名声は著しく低下し、
ヒトラーとナチスの国防軍高官に対する不信は更に高まることとなった。
一応ドイツ国民は宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスの巧みな宣伝とヒトラーの演説で、
それほどナチスとヒトラーに対する不信は高まらなかった。
そして国防軍高官はマンシュタインやグデーリアンなど精神的に典型的なプロイセン軍人の伝統を守る将軍たちは、
2人の声明文でますますヒトラーの介入が強まる事を腹立たしく思い、
余計な事を仕出かしてくれたとぼやいたが、
ルートヴィヒ・ベックやハンス・オスター、
ヴィルヘルム・カナリスやフランツ・ハルダーといった「黒いオーケストラ」の主要なメンバーらに代表される、
反ヒトラーグループにとって大きな期待をもたらす事となった。
スターリンの力を借りれば代償にドイツの国力や影響力は下がることになるが、
間違いなくヒトラーとナチスから政権を奪取して、
正しき本来あるべきドイツを取り戻すかもしれないと思ったからだ。
実際に彼らにスターリンは接触することで、
独ソ戦を終結する切っ掛けとなったワルキューレ作戦が生まれることになる。
このようにヒトラーは史実よりも大きな不安要素を国内に抱えることになり、
それが彼の不安とあせりを助長させる原因の1つになった。


 そして2つ目のヒトラーの焦りと不安を助長させる原因は、
ソ連側の圧倒的軍事力と同盟だ。
軍事力について詳しくは作者の著作である「スターリンの憂鬱」シリーズを読んで頂ければお分かりになるが、
1939年以前の時には素手のソ連の軍事の技術力は1950年代のレベルまで到達しており、
他の国より遥か先に進んでいたのだ。
それに加わりソ連には汎ユーラシア大陸条約機構(PECTO)が1938年に結成され、
結成当時から北欧3カ国にバルト3国、大日本帝国とポーランドにユーゴスラビアが加入しており、
オブザーバーとしてトルコも参加していたのだ。
こうしてソ連を盟主とする一大軍事同盟がドイツの前に立ち塞がり、
さらに同盟国であるはずのイタリアの独裁者『ベニート・ムッソリーニ』がソ連ともコンタクトを取っているという情報が彼に更なる焦りを生んだ。

ムッソリーニは意外なことにヒトラーを嫌っており、かなりの暴言(ヒトラーは血の巡りが悪いetc)を吐いているので有名で、ナチスによる人種差別も批判的であった。
ローマ帝国の子孫を自称する彼にとって見れば、
ドイツ人はローマ帝国時代では蛮族であったゲルマン人とフン族の混血の子孫に過ぎず、
世の中の真理を述べたつもりでいる可哀想な連中でしかなかった。
その点、
イタリア人は敵国や敵対民族を無条件に貶めるナチスの一般親衛隊のような連中とは違った。
だからこそ、数カ国語を操る教養人でありながらも街頭行動部隊「黒シャツ隊」を率いてローマ進軍を成し遂げ、
かのレーニンをして「彼がいなければイタリアでの革命は起こらない」といわしめた社会「趣味」者でありながら王党派であるムッソリーニが長期政権を築いていたのだともいえる。
そしてそんな彼だからこそ、
自国を蝕むマフィアという名の毒を一掃して、列車を時間通りに越させるという奇跡を引き起こしたのだ。
なので今でもヒトラーと比べて彼のラベルの貼られたワインが売られていたり、
お墓に多くの花が手向けられているのも納得である。
そんな彼はイタリアの地中海での権威の確立のために、
スターリンと秘密外交を交わしていたのだ。
イタリア海軍の造船技術と引き換えに、
彼はスターリンから資源と陸軍の戦車の設計図などを譲り受けて、
自国の富国強兵に励んだのであった。
その結果イタリア陸軍の兵器と機械化は史実アメリカ陸軍並みに至り、
ヘタリア化せずにローマ帝国の後継者を自称してもおかしくないレベルにまでなった。
海軍や空軍のほうも史実日本海軍ほどのレベルまで至り、
地中海世界では敵なしの存在に自他共に認める国となった。




 このようにドイツは対外的にもソ連による対ドイツ包囲網で西以外の全ての近隣諸国を敵に回し、
西もイギリスを中心とした連合国に包囲されるなど四面楚歌の状態に陥ったのだ。
一応ハンガリーやルーマニアなど、
中欧の史実枢軸陣営の国はこの世界でもドイツの味方となったが、
状況が最悪なのは一向に変わりなく、
まさに真綿で首を絞められているような状況であった。

この状況を打開すべく、
圧倒的にPECTOよりも軍事的に弱い西の連合国に目を付け、
彼は1939年9月に突如ベネルクス3国とフランスに宣戦布告したと同時に、
奇襲攻撃を仕掛けたので第二次世界大戦が勃発した。
戦争は6ヶ月ほどでドイツ側の完全勝利で終わり、
史実と同様にフランスとベネルクス3国は亡命する破目になり、
またヴィシーフランスも史実どおりに誕生してしまったのだ。
一応ベネルクス3国を除いてフランスは列強の1つでもあるので、
最低でも1~2年は持ちこたえるだろうと連合国側から予想されていたが、
スターリンは違う予想を立てていた。

「半年保てば良くがんばったといえるだろう。」

彼はそう閣僚達の前で言ったといわれている。
フランス陸軍はこのソビエトの影響で一応史実よりも機械化が進んでおり、
各部隊の連絡に伝書鳩を使わずに無線で連絡しあったり、
イギリスからライセンス契約を結んだ6ポンド砲を登載したソミュア戦車をフランス陸軍が保有する戦車の50%まで生産するなど、
史実よりも強化されていたのだが、
ドイツもまた史実よりも強化されていたのだ。 

スペイン内戦とソ連の軍事パレードへの訪問の結果、
ドイツ側もいろいろと部隊の兵器の改良に励んで、ヒトラーもそれに反対するどころか逆に積極的に賛成したのだ。
例えばアハトアハトで有名な88mm砲を対戦車任務に最初から運用したり、
長砲身の75mm砲(パンター戦車と同じ代物)を登載したⅢ号戦車の活用、
空軍は海戦当初から戦力で任務に励み、
史実ダンケルク撤退戦の様な醜態を見せずに、
戦術空軍らしく陸軍との念密な支援に当たった結果、
史実どおりにフランスは負けてしまったのだ。
なおイタリアは宣戦布告しておらず、中立をある期間まで維持し続けていた。

その際にソ連側はどういう対応を取ったかと言うと、
一応抗議の声明を文章を発表したが、
何か積極的な対応をとらずに静観していた。
ポーランドにも国教を厳しく固めるようにしか言わず、
基本的に見ているだけの対応をとったのだ。
理由としてはいろいろな説があるが、
やはり有力なのはドイツと連合国側の弱体化を狙って、
お互いの陣営が弱ったところを狙う漁夫の利を求めていたのだろう。
実際にスターリンは

「ドイツや連合国は簡単に倒せる相手だが、
連合国の背後に控えているアメリカが油断できない存在である。
彼らがどう動くかによって戦争は変わる。
なので我々がすべきことはただ1つ!
最高のタイミングで両方を横から一発でノックアウトする方法だ!!」

と述べており、
アメリカの動きを警戒しながらも、
漁夫の利を狙って連合国と枢軸を潰す策略を練っていたのだろう。
こうしてソ連を中心とするPECTO条約機構参加国は中立による静観を維持し続け、
逆に両国に史実アメリカの様にいろいろと交易による利権の獲得を狙っていた。



 そんな状態がフランス降伏後1年半ぐらい経過して、
史実どおり1940年バトル・オブ・ブリテンがイギリスの勝利で終わったところから事態は変化する。
イタリアが中立を維持しているので地中海の海上レーンはイギリス海軍とイタリア海軍の支配下であり、
史実どおりのタラント奇襲やアフリカ戦線は存在すらしていなかったが、
イギリスが勝利したことで戦線は膠着してしまい、
自然と停戦状態が発生することになったのだ。
当然両陣営の軍は兵士を交代させたり、
新しい装備を普及させたりと次の戦争に備えるのが普通であるが、
その分子要されるはずだった人員や資源が余ったので、
ドイツは更に軍備を増強し、
その強化された軍を見てヒトラーは今ならソ連にも互角に戦えると思ったのだろう。

1941年5月3日
突如ドイツは先の戦争と同じく、
ポーランドに宣戦布告したと同時に奇襲攻撃を仕掛け、
ここに独ソ戦とまで言われる東方戦線が勃発したのだ。


ヒトラーは先の戦争よりも厳しいたたかいなると予測しており、
彼なりに増強された自軍の準備が整うまで耐えていたのだろう。
何しろナチス・ドイツにとってポーランドの背後に控えるソ連は、
イデオロギー的にも国際政治的にも完全に潰さなければならない敵であり、
国民感情の面においても、
ソ連との戦争を望む声は大きかったからだ。
連合国との戦争が一時的に停戦状態となり一応余力が出来たことで、
ドイツ伝統の電撃戦でソ連を降伏させるにまで行かなくともポーランドからウクライナまでの領土を勝ち取ることで、
自国に大量の労働力とそれをまかなえるだけの大量資源の確保を目的とし、
さらに史実よりもナチスへの信頼が薄くなっている自国民からの指示を回復するため、
また己の掲げた「東方生存圏」の獲得に向けてナチスドイツの支配者ヒトラーが西欧どころか東欧にも手を伸ばしたところから伝説は始まった。

彼がソビエトに宣戦布告してポーランドに侵攻した時、
敵対していたイギリスを中心とする(後にアメリカも参戦)は大いに喜んだ。
何よりまずナチスドイツの抱える戦線が増えたことで彼らの負担も大きくなったのと、
連合国首脳陣は最終的にはソビエトが勝つと思っていたので、
ドイツが自分から滅びの道へと向かっていたことにほくそ笑んだのと、
ドイツとの戦争によって多少なりともソビエトとその同盟国の国力の低下を望めたからだ。
戦後を見据えればナチスが滅んだ後の西欧の主導権は、
会戦しなければソビエトの陣営のものになるのが簡単に予測できたので、
多少の被害が生まれればそのソ連の影響力も低下して、
こちらの影響力も多少は残せるはずだと思っていたからだ。
しかし、
事態はそのように彼らにとって都合の良い方向へと進まなかった。
逆に反撃を食らったのだ。

史実ではポーランドはドイツ側の電撃戦による奇襲攻撃をまともに喰らったのと、
途中からソ連が秘密協定に基づき介入してきたこともあり、
碌な対応が出来ぬ間にポーランドは約一ヶ月ほどで降伏する破目になり、
その後は東側をソ連が占拠して西側を総督領として2つに分割される破目になったのは、
世界史を知っている人なら知ってて当たり前の話であろう。
他にも自由ポーランド軍やワルシャワ蜂起などいろいろな話の種はあるが今は置いておこう。
肝心なのは史実ポーランドはドイツより弱かったということだ。

ドイツ側は名将グデーリアン将軍の考えた電撃戦に基づき、
現在の装甲車レベルの武装と装甲しか持ってはいないがちゃんとした戦車部隊を多く持ち、
33年からワイマール時代よりも大きく拡大した陸軍に、
地上部隊との援護を念密に行う急降下爆撃機部隊を中心とした空軍など、
この戦争前のスペイン内乱でも経験を積んで精強化したドイツ軍に対して、
ポーランド側は独ソ両国に挟まれたお国柄、
また長年の宿願であった独立を守るためにも東欧随一とまで言われたポーランド陸軍を保有していたが、
悲しいことに国土の大半が独ソ両国の戦車部隊が万全に活動できる平野ばっかだったことや、
平和を愛する国民感情とインフラ整備などで予算が無く、
戦争勃発時には二流の装備しかなかったこと。
約20年前のソビエト・ポーランド戦争で騎兵部隊が活躍したことが原因で、
このときでも未だに騎兵部隊に予算を割いてしまい、
余り機械化や自動車化に予算を割かなかったことなど、
多くの要因が原因でポーランドは惨敗してしまったのであった。

だがこの世界でのポーランドは違う。
史実では約39個師団程の歩兵を中心としたポーランド陸軍であったが、
この世界ではソ連の援助のおかけで機械化に成功しており、
機甲師団を中心とした機械化師団6個と自動車化師団30個と、
編成の数の上では減少したが史実よりも大きく戦力が向上していたのだ。
彼らは親しんだポーランドの平原を縦横無尽に駆け巡り、
無事にソ連軍が介入してくるまでワルシャワを守りきることに成功する。
空軍も2個師団ほどの戦力を保持し、
ドイツ空軍を何とか食い止めるほどの戦闘を繰り広げる事になった。
海軍は元々陸軍国家であまり重視されておらず、
この世界でも余り重視されていなかったので、
海戦と同時に直ぐに乗せられるだけの民間人と物資を運搬しながらソ連の領海へと逃げ込んだ。




 このように史実よりも強化されたポーランド軍にドイツ軍がてこずっている間、
史実より早くイランの首都テヘランでPECTOと連合国、
それにアメリカを加えた3大巨頭によるテヘラン会議が1941年5月9日に行われ、
そこでPECTOが正式に連合国と共同でナチスドイツを中心とする枢軸陣営と戦うことが決まり、
さらに連合国側にアメリカが参戦することも決定した。

その際にアメリカ代表のルーズベルトはソ連と日本に民主主義の普及とアメリカの中国大陸への介入を認めるように強く迫り、
その際に特に日本に貿易の中止などをチラつかせて認めさせようとしたが、
ソ連代表のスターリンとイギリス代表のチャーチル、
そして自由フランス代表のドゴールに「空気を読め!」と一喝され、
話しは無かった事にされたのであった。
これが後の太平洋戦争の原因へと繋がるのだが、今は置いておこう。
こうして5月15日には東と北からソ連陸軍を中心としたPECTO条約機構軍およそ300万人がポーランドの救援として参戦し、
翌日の16日にはイタリアやトルコまでもPECTO側に立って枢軸陣営に宣戦布告した。
さらに18日には連合軍によるノルマンディー上陸作戦が始まるなど、
ドイツにとって最悪の一週間となったのだ。



 こうして瞬く間に全方向から敵の大軍と戦う破目になったドイツは、
瞬く間に窮地に陥ってしまった。
一応戦車はフランスとの戦争時よりも進歩しており、
88mm砲を搭載したⅣ号パンター戦車や、
105mm砲を搭載したⅤ号ティーガー戦車など、
連合国の17ポンド砲搭載したシャーマン戦車や、
90mm砲搭載したセンチュリオン戦車など、
連合国の戦車より幾分か強力な戦車を持っていたのだが、
この時既にPECTO側は史実T-55戦車並みのスペックを誇るT-40主力戦車の量産に移っており、
その戦車も史実の様な貧弱な光学機器などを装備しておらず、
日本とフィンランドに魔改造された光学機器を装備しており、更にヘリコプターの運用も始める有様で、ほとんど無敵状態であった。

さらに今がチャンスといわんばかりに黒いオーケストラに代表される反ナチス・ヒトラー勢力が盛大に暗躍して、
その結果、
僅かポーランド開戦後の4ヵ月後、
8月11日にワルキューレ作戦が行われて見事に成功し、
ヒトラーとヒムラーの両者の同時暗殺に成功してしまったのだ。
そしてドイツの無条件降伏を訴えると同時に、
暫定政府「ドイツ共和国」のトップに元ケルン市長で、
反ナチス色の強い政治家コンラート・アデェナウァーを擁立した。
史実で西ドイツの初代首相になった人物でもあるので、
スターリンは他の連合国のチャーチルやルーズベルトなど誰よりも早く、

「ソビエトは暫定政府のドイツ共和国をドイツにおけるただ1つの主権国家と認め、
直ぐにPECTO構成国も貴殿らを認めるだろう」

という電報を送り、
直ぐに暫定政府の確保に向かうよう軍に指示を出した。
この時PECTO側はルーマニアとハンガリーの占領に成功し、
これからチェコスロヴァキア解放へと向かうところでその報告を聞いたので、
慌ててチェコスロヴァキアとオーストリア解放をやりながら同時にドイツに向かうという、
ブラック企業も真っ青な3つの作業を同時進行しながら、
何とかエルベ川にまで進出したのであった。

連合国側は大損害を出しながらもようやくフランスの首都パリに入場した所で、
直ぐにドイツへと侵攻しようとしたが、
損害の補充による部隊の解散や再編成に増強、
フランスの再建に支援を要請するドゴール将軍のわがままなどで時間を費やしてしまい、
PECTO軍がベルリンに進行して暫定政府側の国防軍と合流した場面を従軍しているマスメディアが写真に収めたころには、
マーケットガーデン作戦よろしくオランダを解放したばっかりであった。
なので新しくナチスドイツ崩壊後に建国された『ドイツ連邦共和国』には、
一切連合国の影響力は全くなく、
こうしてドイツまでもがPECTOに加盟することになったのだ。



 このようにして第二次世界大戦は僅か2~3年で終結し、
欧州と世界には股平和が戻ったかに思われた。
だが、
何時の時代も平和というのは、
一握りの人間の思惑で簡単に破壊されてしまう。

1942年3月11日

この日、
アメリカ合衆国から日本とソ連に対してアメリカ大統領直筆の一通の文章が送られる。
その内容はそれぞれ違っており、
まず日本向けに送られた文章について説明しよう。
意訳するとこんなことが書かれていた。

「・日本は速やかに天皇制による専制君主政治を取りやめ、
速やかに合衆国の顧問団の指揮の下、
合衆国の様な議会政治を取り入れるようにしろ。
・日本の領土は本州、北海道、九州、四国の4つの地域のみである。
それ以外の保有している領土は合衆国の管理下において、
何れ選挙によって独立させるので速やかに我執国に領有権を明け渡せ。
・保有している軍隊を現状の半分までにしろ。
・帝国軍の使用する暗号や基地の所在地など、軍事関係の情報を全て合衆国に提供しろ。

これらの事項が全て守らなければ、
合衆国は速やかに貴国を正義と自由の敵と認識し、
宣戦布告を行うものである。」

このように明らかに喧嘩を売っている内容で、
実際に当時の日本政府がこれを世界中に公表したときに、
ドイツ大統領アデェナウァーは、
この文書を七回読み直したという。
イタリア王国首相ムッソリーニは読んだ後、まだ酒が抜けてないようだとベッドに入ったが、
愛人に引きずり出された。 
大英帝国首相官邸では、朝一番の報告が平均より4分30秒ほど長くなり、
チャーチルは葉巻を普段よりも倍に吸った。
フランス共和国では、ドゴールの指揮によりアメリカに精神科の医者を大量に送る計画を練り始めた。
フィンランドでは、マンネルハイム元帥がシモ・ヘイヘを呼んで、
ルーズベルト大統領の狙撃は可能かどうか尋ねた。
トルコでは、引退した元大統領のケマルが密かに、
日本へ義勇軍を送れないかどうか検討し始めた。
スペインでは、必ず中立を保つことで自国を戦渦に巻き込まないことで有名なフランコ将軍が、
PECTOに今からでも参加できないのかと考え始めた。

そしてソ連側には、

「・ソビエト連邦政府は共産主義の考えに基づいた素晴らしい国家運営をしているが、
残念なことに日本やドイツなど録でもない国家と付き合っているので品格を落としている!
なのでPECTOを廃棄して合衆国と同盟を結んだほうがよろしいのでは?
・そうすれば地球上で西と東を貴国と我が合衆国で分け合うことが出来る!!
・それが無理ならせめて日本との同盟を破棄してください。
破棄してくれたらミッドウェイ級空母など好きな海軍の軍艦を格安で提供します。」

とまぁかなりへりくだった内容だが、
ソ連に今までの培ってきた信頼関係などを全てぶち壊して、
合衆国との同盟を誘う内容であった。
そしてソ連も日本に倣ってこの文章を世界中に公開した。

この2つの文章の公開で、
世界には大きな衝撃と嘲笑が走った。
何処の世界にいきなり自国の君主を退陣させて、
相手の言うとおりの政治体制を敷かなければと動く国があるのか。
何処の世界にいきなり自国の問題にもなっていない領土を差し出す馬鹿がいるのだろうか。
何処の世界にいきなり仮想敵国に脅されたからと言って、
自国の軍事機密情報を素直に教える奴がいるのだろうか。
はっきりと言って、
アメリカの狙いが見え見えで、
あまりにも露骨過ぎて嗤うしかない。
というかソ連を恐れすぎて日本とは丸っきり正反対の内容で、もう失笑するしかない。
それが世界各国のこのアメリカの文章に対する意見の総意であった。
スターリンも
「さすがにこれは酷い。
露骨過ぎてワロタwwwwwwwww。
自分、草生やしていいですか?」
と、謎のコメントを外務人民委員のモロトフの前で発言している。

この文章には流石に合衆国国内でも批判の声がおき、
多くの各分野の著名人や高官らが反対声明を出した。
文人では国務長官のコーデル・ハルや天才科学者のアインシュタイン、
軍人ではダグラス・マッカーサー、ハズバンド・キンメル、チェスター・ニミッツなど様々な軍高官も反対声明を発表した。
明らかに列強といわれる国が、
それも自由と正義を掲げる国がしてよいことではないからだ。
乗員と下院の議員達の中にも批判するものがおり、
アメリカ国内は大混乱に陥っていた。
これだけ自国からも激しい批判の声が高まっているのだから、
合衆国政府も直ぐにこの文章を撤回するだろうと世界はそう思っていた。
このようなおかしな文章を書いた大統領が退陣して、
まともな奴が大統領になって文章を撤回し、
この件についての謝罪会見などを行うだろうと。

だが3月15日、
突如として合衆国政府は時刻のそう言った反対声明を発表した連中や議員達を、
「国家反逆罪」の罪で起訴、または逮捕して刑務所に投獄しだしたのだ。
政府の言い分はこうだ。

「恥ずべき売国奴がこの世界に冠たる自由と正義の国に存在する!
そいつらは黄色いJAPというグーク(東洋人全般への蔑称)の連中から買収され、
共産主義という名の帝国主義に汚染されたソ連と通じている。
そういった連中を全て逮捕することで、この輝かしい白人の最後の楽園は守られるのだ!!」

とラジオで述べている。
そして更に大統領命令で合衆国全土に厳戒令が発布され、
陸軍と海兵隊が国土の治安を維持する名目で都市部に展開し、
海軍は合衆国の了解範囲に展開して臨戦態勢となるよう命令が下ったのだ。

これはルーズベルトの暴走かと思われたが、
実際には戦争特需を狙うアメリカを影から動かしてきた資本家達とそれに連なるマスコミや、
スターリンの現実と向き合った修正共産主義(社会主義に近い)を嫌ってアメリカに逃亡したガチの共産主義狂信者、
KKKの流れを含む白人至上主義者に政治票を集めたいポピュリストな政治家、
そして大陸への更なるアメリカの支援と投資を求める中国系のマフィアと、
ムッソリーニにより祖国への帰還を求めるイタリアギャングなどの犯罪者集団、
そして蒋介石ら煮ても焼いても食えない魑魅魍魎な大陸の有力者達の所為であった。

彼らはこのままではPECTOによって自分達の利権や、合衆国の権益が割り込める場所がなくなると判断しており、
その結果また恐慌が合衆国に襲い掛かると判断していた。
更にPECTOに加盟した仮想敵国の日本は、
ソ連からの物資輸入と機械など工業関連のインフラ整備支援により、
史実よりも早く高度経済成長が始まっており、
製品作りへのこだわりに関しては1流の日本人によって作られた製品によって、
次第に合衆国の製品が売れなくなってきていたのも原因の1つである。
そうすればこちらにとってとても都合が悪いから、
いづれこのまま放置していれば彼らの経済植民地になるので、
それよりかは一矢報いて合衆国の権益を広げようとし、
今は戦争からの復興で色々と連中が忙しい今がチャンスだと思い、
このように挑発行為と稀代の賭けに出たのであった。

世界中はこの一連の事に大いに驚愕し、直ぐにそれらの行為をやめるよう脅しを交えながら忠告したが、
逆に火にガソリンを注ぐ破目となり、
頑なにその忠告を無視し、
逆に合衆国に滞在している他国の人間を急遽作った収容所に収監しだして、
ますます世界の怒りを買ってしまった。 




 そして遂に
1942年4月7日

この日、
ハワイに展開していた合衆国海軍太平洋艦隊が日本の東京湾目掛けて出航したという情報が、
ソビエト連邦軍参謀本部(通称GRU)や内務人民委員部(通称NKVD)に伝わり、
すぐさまスターリンに伝達され、
彼はちょうどその時、
趣味の園芸をやっていたが直ぐに電話の受話器をとると時の大日本帝国総理大臣
「吉田茂」
に連絡を取り、
その旨を伝えたところ、
彼は物凄い大きな声で悪態をついた後、
慌てて感謝の言葉を述べて電話を切り、
直ぐに先の戦争用に結成された大本営の再結集を呼びかけた。

スターリンは吉田茂との電話を終えると次にPECTO参加国の首脳陣に電話をかけ、
合衆国太平洋艦隊の件について話して直ぐに戦争準備をするように指示を出し、
それを終えると控えていた内務人民委員ベリヤに更なる情報の入手を命じ、
その隣の秘書達に軍に兵士の大量動員とウラジオストックにいる艦隊の出港を命じろと指示を出した。
艦隊が出港したことが秘書から報告されると、
直ぐに自分から直接艦隊司令官に電話で、
日本の連合艦隊と合流するよう指示を出した。
彼はソ連太平洋艦隊と日本の連合艦隊の合同艦隊で、
東京湾に向かっている合衆国海軍太平洋艦隊を殲滅しようと試みたのだ。

さて、
なぜ合衆国海軍太平洋艦隊が東京に向かって出港したのかというと、
1週間前の事になるが、
太平洋艦隊司令官ウィリアム・パイ大将
(本来の司令官であるハズバンド・キンメルは本国に召還されて逮捕されていたので、急遽彼がしばらくの間勤まることとなった。なお司令官になるにあたり大将に昇格された)に対して、
大統領と愉快な悪党達がとある命令を下したのだ。

「合衆国に忠誠を誓った貴官に告げる。
一週間後に貴官の指揮下にある太平洋艦隊をジャップの首都東京に向けて出港させよ。
東京湾に奇襲攻撃を仕掛けて、
連中の首都を艦砲射撃と空母搭載機による空襲で焼け野原にするように。
なお、この命令を承諾しなかった場合には、
貴官を国家反逆罪として逮捕するつもりなので、
賢い選択を取る事を望む。」

このようにナチスを超える独裁国家らしい命令を下されたパイは、
自分達海軍の中性を捧げるべき愛する祖国が、
ここまで落ちぶれた事に涙を流さぬよう歯を食いしばりながら、
その命令をしぶしぶ承諾し、
部下の猛将ハルゼーやその相方で参謀長ロバート・カーニーのコンビや、
名将フレッチャーにスプルーアンス等の部下たちに事情を説明し、
彼らは自国に対する呪詛を呟きながらもパイに応えるために任務に参加する事を彼に伝えた。
彼らの気遣いに涙を流しながら感謝しながらも、
パイは自分の立案した作戦を彼らに話した。

作戦にあたり、
まず彼は太平洋艦隊を東京湾付近で2つに分ける事を提案し、
ハルゼーとカーニーのコンビにフレッチャーを加えた3人が東京湾に向かう攻撃部隊の指揮を取り、
残りの彼とスプルーアンスがその攻撃部隊の援護を担当することで決まった。
ちなみに彼が参加する理由は、
このふざけた作戦の責任者の義務を果たすのと、
どうせなら合衆国海軍の長年の仮想的であった、
日本帝国海軍(IJN)との決戦に臨みたかったからだ。

こうして合衆国海軍太平洋艦隊は、
絶望的な作戦である事を船員達も知りながら士気は高揚していた。
もし万が一、
日露戦争時の対馬海戦の様に奇跡が重なってこの作戦が成功したら、
合衆国海軍の歴史の中でも最も輝かしい歴史に、
いや、
世界の海軍の歴史においても最高の艦隊として、
歴史にこの太平洋艦隊の名が載るのは間違いなかった。
なので彼らは一種のハイの状態で東京湾に一直線に向かっていた。
だが、
彼らに勇者になれるチャンスは永久に来なかった。




 4月9日午前11時。
合衆国海軍太平洋艦隊に所属する4隻の戦艦と4隻の空母による主力艦隊に、
12隻の重巡洋艦と24隻の軽巡洋艦による護衛艦隊、
そして36隻の駆逐艦による駆逐戦隊によって編成された総勢80隻もの大艦隊は、
東の北西太平洋と西のフィリピン海の境界に位置する、
ミクロネシア北西部の列島であるマリアナ諸島のサイパン島付近に集結していた。
いよいよ作戦の目標である東京湾への奇襲に向けて、
作戦の最終調整と艦隊の整備や補給などで、
一旦この島に臨時に気づかれた港で色々と作業をしているのだ。
史実の太平洋戦争において激戦区の1つとして悪名高いこの島は、
この戦争においても激戦区として有名な場所として知られることになった。
この日のサイパン島を含むマリアナ諸島の天気はところどころに雲が見えるも晴れており、
合衆国太平洋艦隊は何も不安に感じる事は無く、
早く準備や補給が整うのを今か今かと待っていた。

そんな中、
いきなりレーダーが一斉に不調となり、
レーダーからの情報を映している画面が乱れるようになった。
担当士官があわてて復旧作業に移るもレーダーの不調は直らなく、
逆に画面は完全に砂嵐となってレーダーは使い物にならなくなった。

「慌てるな!!
これは日本軍の仕業だ。速やかに全乗組員に告げろ。
担当部署に配置に就けとな!!」

艦長や艦隊指揮官らはそう部下に告げて、
艦隊のパニックや士気の低下を何とか防ごうと試みるが、
運命の女神は彼らのその努力をあざ笑うかのようにさらなる悪運を彼らにもたらした。


「見えたぞ!!
11時方向のサイパン島付近に合衆国艦隊らしき大艦隊を発見!
どうやら本命の太平洋艦隊のようだ。
これより我々大日本帝国海軍航空隊は攻撃に移る!!」

「我々ソビエト海軍空母艦隊も同志である貴官らの援護に勤める。
存分に米帝の艦隊に爆弾の雨を歓迎の印にお見舞いしろ!!」

合衆国海軍を待ち伏せるためにハワイに向かっていた帝国海軍とソ連海軍の艦載機による連合艦隊の偵察隊に発見されて、
こちらの準備が整っていないうちに逆に艦上爆撃機による奇襲攻撃を喰らってしまったのだ。

レーダーが使えないことで双眼鏡などで辺りを見渡していた乗組員の報告で、
慌てて太平洋艦隊所属の艦艇は対空砲撃の準備の為に砲座の方向を対空用に高度に変えたり、
空母はその搭載している艦載機の発進準備に勤めるも、
彼らの努力もむなしく対空砲火が始まるまでに艦上機が急降下爆撃に移るのが早かった。
その有様はまさにミッドウェー海戦の逆展開に近かった。

まず最初に艦上戦闘機隊が急降下で太平洋艦隊に迫り、
装備している機銃による掃射で空母の甲板上の戦闘機や艦艇の対空用の機銃座などを破壊し、
続いて艦上攻撃機隊が今度は急降下爆撃で対空砲塔へ爆弾を落とし、
そして最後に艦上爆撃機隊が丸裸になった敵艦艇に水平飛行しながら魚雷や爆弾をぶち込んだ。
この一連の3つの攻撃で合衆国太平洋艦隊の被害は以下の様になった。

・空母4隻=1隻撃沈、2隻大破、1隻中破

・戦艦4隻=1隻撃沈、2隻中破

・12隻の重巡洋艦と24隻の軽巡洋艦=合わせて8隻撃沈、10隻大破、4隻中破

・36隻の駆逐艦=15隻撃沈、10隻中破

このように25隻も撃沈された壊滅状態となり、
どう誰が見ても任務を実行可能な戦力は残っていなかった。
更に何とか無事に残存している空母から艦載機を飛ばして付近の偵察に向かわせたところ、
北の海域に日ソ連合艦隊がこちらに向かっているという情報が無線で伝えられた。
高速戦艦と空母を中心とし、
大量の巡洋艦と駆逐艦で結成された護衛を連れた艦隊で、
明らかに健在の太平洋艦隊でも敗北しかねぬ大艦隊が、
既に瀕死の太平洋艦隊を楽にしてあげるためにこちらに向かっていたのだ。
この時彼らはとある選択を迫られることになった。

1つ目は降伏である。
ここまで戦力が低下している現状で、
今更任務を遂行できるだけの状態では無い事を彼らは熟知していた。
しかし心情的にはここまで惨めな目にあって、
おいそれと逃げるのは心情が許さなかった。

2つ目の選択は玉砕である。
残存艦隊や損傷した艦艇もすべて使い、敵艦隊との艦隊決戦に臨むといういかにも史実日本軍の好みそうな選択だ。
ヤケクソでしかない選択だが、
万が一相手の旗艦を撃沈できる可能性は0ではなくて、
どうせこのまま降伏しても祖国に残った家族は投獄されるだけだし、
自分達も敗残兵としての汚名を浴びたまま生きる死人のような人生が待っているだけだ。
ならば一層、
相手の艦隊に大打撃を与えてただでは死なないようにしようと考える者もいた。
自分たちは立派に戦い死んだものとして祖国に英霊となって帰ろうと思ったのだ。

そして3つ目の選択肢は撤退であった。
大破している艦艇や中破している艦艇で臨時に艦隊を編成し、
それらを殿としてその殿艦隊が敵艦隊とドンパチ戦闘している間、
他の健全な艦隊は太平洋艦隊の本拠地ハワイに撤退するという、
1と2の選択肢を混ぜた様な選択であった。
そしてそれはいかにもアメリカ人の好みそうな選択であった。
木津就いた戦士が健全な味方を生きて逃がすために時間を稼ぐ、
まさにお涙頂戴な映画の様な考えであった。
これならば単なる降伏ではなくちゃんと戦ったという結果を残せるし、
更に上手くいけば敵に少なからず打撃を与えることも可能であった。
だが、
同時にそれは殿となる残存艦隊に残った者は、
全員戦死する可能性があるということでもあった。
何せ時間を稼ぐためになるべく抵抗しなければならないのだ。
当然撤退に成功した艦隊を取り逃がした腹いせに、
過剰な攻撃が殿の艦隊に襲い掛かるのは目に見えていた。

果たしてこのうち3つの選択肢のどれを選ぶべきかどうか。

艦隊の指揮官である5人の将軍たちは激しい議論を太平洋艦隊旗艦で交わした。

ハルゼーとカーニーのコンビは撤退を選択した。
猛将と合衆国海軍でも名高い彼とそんな彼の仲裁役である2人だが、
流石にこれ以上の戦闘は無駄であるという認識を持っていた。
本来であるならばもう降伏するしかないが、
下手に降伏すると祖国に残した乗組員の家族がどんな目に遭うのか心配なので、
ここは最低限の乗組員と自分達2人で殿を勤めて、
他の3人に生存者と健全な艦隊を指揮して撤退してもらいたかった。
そうすれば一応敵と勇敢に戦ったという言い訳も出来るし、
何より圧倒的不利な状況下であるこの状況に対して湧き上がる高揚感を抑えるのでハルゼーは大変だった。

そして残りの3人は2人とは別に降伏を選択した。
もう既に勝敗は目に見えているからこれ以上の犠牲を出す必要はないと主張したのだ。
流石に自分たちが責任を取って辞任すれば、
政府の連中も自分達の部下まで処罰はできないだろうと述べ、
これ以上の無駄な戦いはやめて逆に政府へのクーデターを考えるべきだと主張したのだ。
5人の意見は平行線を辿り、
中々議論に決着が付かなかった。
それぞれの理性と感情に基づいて議論しているので白熱してしまい、
説得性のある意見が中々出にくいからだった。




 しかし攻撃から2時間後、
そうやって議論している所に一通の無線が入った。
通信士が慌てて受け取りながら討論している提督達にも聞こえるよう繋げながら聞いてみると、
とても重大なことが話されてきたのだ。

「残存している合衆国海軍太平洋艦隊の諸君に告ぐ!
先程1時間前に君達の祖国は内戦状態に陥った。
原因は刑務所に投獄された連中の同志達が彼らを釈放し、釈放された彼らを筆頭に反政府軍を結成したからだ。
君達もさっきの戦いで分かったように、君達の敵は我々ではなく祖国の自称合衆国政府であるのは思い知っただろう。
今すぐ我々連合艦隊に降伏し、
今すぐ我々と一緒に君達の祖国を蝕む連中を倒そうではないか!!」

それは合衆国で大規模な反乱が起きて、
アメリカ内戦が始まった事を知らせる無線であった。

遡ること2時間前、
ちょうど太平洋艦隊が攻撃を受けていたときの事だった。
アメリカ国内に潜伏しているソ連と日本の諜報員が合衆国内の投獄された連中の支持者と手を組み、
国内のラジオ局やテレビ局を占拠して一斉に国内中にとある内容を報道したのである。
それは合衆国太平洋艦隊による東京奇襲と、
それを待ち伏せた日ソ連合艦隊による壊滅を臨時ニュースとして伝え、
最後にこのような卑怯な真似をすることが合衆国の正義なのかと訴えて、
今こそ銃を持って立ち上がり、
独裁者達に支配されたこの国から愛する自由と正義と平和を取り戻せと主張したのだ。
この主張は覿面で、
一方的に奇襲を仕掛ける側が惨敗して、
尚且つ自国がそのような卑怯な事をしていた事を知った合衆国民の政府と軍に対する信用は失い、
政府に対する反抗心は高まり、
そうした反抗心を持った市民が自発的に武装して、
刑務所から開放された有識者達もその放送に賛同する意見を述べたことで、
民衆の政府に対する反感は有頂天に達したのだ。
政府を牛耳っている連中は何とか軍と警察に鎮圧を命じて、
そのような事実はなくこちらが勝っていると反論したのだが、
一部の子飼いの連中以外の者は一斉に反旗を翻して逆に反乱に参加する有様で、
彼らは一部の者しかワシントンから脱出できなかった。
そして取り残された連中は反乱軍によって悲惨な目に遭わされた。
彼らの悪行は世界中に知られているので、
そんな自国を世界の敵として世界から孤立させる原因を作った彼らを合衆国民が許すわけがなかった。 

彼ら取り残されてしまった連中は全て悲惨な死を遂げた。
あるものはワザと手足を打ち抜かれた状態で戦車のキャタピラに轢かれて死んだ。
あるものは家族揃って燃え盛る建物に閉じ込められて焼け死んだ。
あるものは全財産を地面に差し出して命乞いをしたが、手足を骨を順次に折られて最後に首の骨を折られて死んだ。

この日、
ワシントンに取り残された政府側の者たち総勢1万5345人の内、
生き残ったものは12人ほどで残りは全て惨殺されてしまい、
「ブラッディ・ホワイトハウス」と呼ばれるような大事件として歴史に名を刻むこととなった。

そして何とか脱出に成功した者達も南部のテキサス州の大都市ヒューストンに一堂は集結して、
最後の抵抗を試みながらどこか外国への亡命手段を考えるも、
近隣のカリブ海の島国はそれを察知してラジオで入国を拒絶する声明を発表し、
反乱軍や日ソ連合軍もそれを察知して合衆国を海上封鎖する形で包囲して、
彼らが海と空から国外に逃亡できないようにしたのだ。
そして反乱軍は投獄されていたヘンリー・A・ウォレスとトーマス・デューイという2人の穏健な政治家を担ぎ上げ、
彼ら2人こそが正当な合衆国大統領と副大統領としてマスメディアで主張し暫定政府を立ち上げ、
一時停船を日本とソ連に懇願してそれが受諾されると、
速やかに自分達の正当性をアピールすると共に国外からの協力を求めたのだ。
そして直ぐに諸外国は反乱軍こそが正統な合衆国政府として認識し、
逃亡したルーズベルト大統領ら一行を反逆者として認識したのだ。
その後暫定政府は合衆国陸軍に反逆者たちの立て篭もるヒューストンを幾多にも包囲するよう命じ、
釈放されたマッカーサー元帥を筆頭に合衆国陸軍は大いに気勢を上げながらヒューストンに向け進軍したのであった。

そして無線の事でためしに本国に連絡を取ったところ、無線で話された内容どおりになっていて、
パイ提督の家族も無事に保護されたという報告があったので5人は降伏する事を決断し、
ここに太平洋艦隊は降伏したのであった。
4月9日午後2時の事であった。



 こうして後が完全になくなった売国奴の一行は、
ヒューストン市内に篭って新生合衆国軍とにらみ合いとなり、
長期戦化する可能性も出てきたが、
2日後の4月11日午前10時に一発の銃弾を切っ掛けに銃声が市内から鳴り響き、
銃声が鳴り響いたことで合衆国軍が突入したことで現状は変わった。

市内に軍が突入するとそこは混乱の窮みとなっていた。
資本家達の私兵と思われる連中とマフィア連中が、
中国系マフィアと中国の有力者達の手勢と撃ちあい、
大統領に率いられた白人至上主義の連中が暴徒と化した市民に襲われていた。

何とか軍は暴徒と化した市民には速やかに家に帰るよう説得しながら、
他の財閥連中や大陸系の人間を逮捕することに成功し、
そして遂に大統領の確保にも成功した。
そして確保の報告が暫定政府の臨時首都ニューヨークの市庁舎内の一室で、
作戦の成果を待ちながら日本とソ連の外交官と何か話していたウォレスとデューイに伝わると、
2人は少し外交官達に少し席を離れる事を告げて部屋の外の廊下に出て、
長い溜め息をついて何かを考えるように黙り込んだ後、
部屋に戻り正式に日本とソ連の外務省に降伏を受け入れる通達をし、
両国はそれを受諾した。
こうして4月11日午後3時、
逮捕された連中によって引き起こされたこの日米戦争は、
たった1週間にも満たない先の欧州戦役よりも短い期間で終結したのだ。



 その後の話は言うまでもない。
日本とソ連は速やかにかつての政府首脳陣が逮捕された事を受け、
速やかにPECTOを中心とした国際連盟に変わる新しい組織、

「地球連合政府」

という地球上の国家を纏めた組織が結成され、
その新しい組織の呼びかけの下、
地球連合政府本部の置かれたチベットのラサに主な主要国の首脳陣が集められ、
今回の戦争の決算と今後の世界の動きについて話し合われた。
4月13日の事であった。

まずは何と言っても最初の行われたのは旧ナチスドイツと旧合衆国政府首脳陣に対する処罰と、
彼らの引き起こした一連の戦争の賠償についてだ。
とりあえず地球連合主催の名目でナチス首脳陣に対する裁判はドイツ南部のニュルンベルクで行われ、
旧合衆国政府首脳陣に対する裁判は合衆国西部カリフォルニア州のロサンゼルスで行われた。
この2つの裁判はそれぞれ裁判の行われた場所の名前から「ニュルンベルク裁判」と「ロサンゼルス裁判」という名前が付けられた。
そして以下の様な採決が下された。
まずはニュルンベルク裁判の判決だ。

・ドイツの領土は以下の様に割譲されることが決まった。
割譲される地域は東プロイセンとオーデル川より以東をポーランドに編入する。
そして併合されていたチェコスロヴァキアのズデーテン地方とオーストリアを独立させる。
そして傀儡国家のヴィシーフランスの完全なる解体を宣言する。

・賠償金は取らないがフランス侵攻やポーランド戦役で各国に与えた被害の弁償を命じる。
なお被害の計算は当事者の被害各国ではなく、
日本とソ連など第三者の国から派遣される顧問団によって計算される。

・国際平和に対する大きな犯罪として道義的責任を求める。

・ナチス党党首のアドルフ・ヒトラーと彼の側近である親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーに代表される全国指導者20名に死刑判決を処す。
そして親衛隊又は武装親衛隊の幹部はその罪状の応じて死刑又は無期懲役、
もしくは懲役20年以上の刑罰に処す。
そして国防軍の元帥または中将以上の地位を持つ将官は、
懲役30年か禁固30年の刑に処す。
なお経過によってはその罪も短縮されるか放免されることもある。

・貴国はPECTOに加盟しなければならない。
何か外交や貿易でPECTO加盟国以外の国と交渉する場合には、
必ずPECTO本部の会議で認められなければ交渉できない。


このようにかなり厳しい条約となったがベルサイユ条約に比べればかなりマシなほうだし、
外交の面においてかなりの制約を処せられたが、
連合国のイギリスやフランスなどがドイツを2つに分割する案を提案していたので、
ドイツ共和国はこの判決を受け入れざるを得なかった。

そしてロサンゼルス裁判の判決は以下の通りとなった。

・アメリカ合衆国はソビエト連邦に400億ドル相当の金塊を、
日本にも同じく400億ドル相当の金塊を賠償金として50年以内に払わなければならない。

・アメリカ合衆国は中米や南米に抱えていた海外利権を全てその国に返却しなければならない。

・アメリカ合衆国が管理を持っている「パナマ運河」の施政権はパナマにあり、
更にパナマは永世中立国としていかなる国の影響も受けない。

・アメリカの領土又は勢力圏は以下の様に割譲される。
ハワイ諸島以西の領土は全て割譲し、独立させる。
そしてハワイはハワイ共和国または王国として独立させる。
アラスカをソビエト連邦に割譲しなければならない。

・国際平和に対する大きな犯罪として道義的責任を求める。

・元合衆国大統領ルーズベルトと彼を操る背後にいた資本家と自称共産主義者のテロリスト、
そして蒋介石に代表される中国大陸の有力者やマフィアなど犯罪組織の者達は、
全て死刑または無期懲役に処せられる。
なお彼らの所有財産や家屋は全て合衆国に返還される。


これらかなり厳しい判決が下されて、
この判決は世界史でベルサイユ条約の次に厳しい制裁として悪名高いものとなった。
新生合衆国政府はいろいろと不満はあったものの、
旧合衆国の犯してきた罪は世界史上でも類を見ない大罪なので文句が言えない状況であり、
しぶしぶこれを受け入れるしか方法はなかった。

こうして裁判の判決に基づいた戦後世界の歩みは始まり、
全ての国は地球連合政府の指導の下で新しい世界を歩み始めたのであった。



 ここで新しく世界を支配する組織として誕生した地球連語政府について説明しよう。
地球連合政府はかつての国際連盟に代わり新しく創設された国際組織だが、
今のところ全ての国家よりも上に立つ存在であった。
何せこの組織が統治する範囲は世界中に存在する全ての国家であり、
一応世界中の国家はこの組織の命令で動くことになっているからだ。
なので当然各国の軍隊はこの組織が定めた規格の弾薬を使用する兵器を使用し、
お金の単位も現実のユーロみたく世界統一通貨を使用することになっているからだ。
事実上世界最強の組織でもあった。
だが実際のところ、
PECTOをより強化したような組織であるのでこの組織が世界を支配しているというより、
ソビエト連邦がこの組織を利用して世界を支配しているといったほうが良いだろう。
当然イギリスやフランスなどは反感を抱いていたが、
史実世界の様に結局は経済や軍事的にも圧倒的に差が付いているので屈服するしかなく、
組み込まれてしまった。

このような組織を作ったスターリンは、
書記長の地位の後継者として以前から指名していたフルシチョフに書記長を任せると、
自身はこの地球連合初代大統領として指名されたホー・チンミンと同じく初代首相として指名されたマハトマ・ガンディーの後見人として緩やかに政界から引退し、
静かに余生を妻達と過ごしていたのだ。
こうしてロシア主導に動く地球世界を作り上げた彼は、
ロシア史上最も偉大な指導者として尊敬され、
このように危篤状態に陥っている今、
多くのロシアの民に囲まれながら回復を祈られているのだ。

そして別荘の中の大きなベットで死に瀕している彼は、
ふと自分の今までの歩んできた道を思い返していた。

「何時のころだったっかな?
私がこの{鋼鉄のスターリン}を名乗ったころからだろうか。
日本人であった私が世紀の独裁者として歩む事を決めたのは・・・・・・」

彼はそう独り言を呟き、
かつて日本人であったときから今に至るまでの事を回想を始めた。



彼の名前はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン



元日本人で現グルジア人の赤い独裁者である。

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