以下のエントリーを読んだ。確かに今,テレビを見るとしたらCSだし,しかも昔のミステリーか映画かアニメである。私の小学校時代はドリフとひょうきん族全盛時代であり,どちらを見ているかで学校でのグループが決まるぐらいの影響力があった。その後もとんねるずやダウンタウンの番組をみんな見ていた。修学旅行はそれをみんなで見て盛り上がっていたのを覚えている。
でも最近は特にバラエティーは見なくなってしまった。この記事ではその原因を以下のように記している。
最近はテレビだけじゃなく、行政も何もかも、「そこまで怒らんでも」ってことに対して、怒りすぎ、「そこまできちきちせんでも」ってことで、きちきちしすぎなんです。
会議室の中で考えちゃうと、それでいいって思っちゃうんでしょうね。
違うんだよなぁ。
人間ってもっともっとリラックスして生きてます。本当はいろんなこと出来るのに、なんだか形上の「正論」にあぐらをかいて、単に決まりを作って、単にあれもこれも辞めるって決めて安心することに甘えて。
テレビがつまらなくなったのも、今の日本が息苦しくなっているのも、原点は同じだと思う。
なので、僕は今いる職場でそこを叩き潰してやろうと思う。
いわゆる自主規制で思い切った番組作りをしなくなった。結果,金太郎飴みたいな番組ばかりになってしまったという話。最初は視聴者の意見を反映した番組作りであったはず。視聴者の苦情にこたえ,より良い番組を目指したはずだった。こうしてテレビはいわゆる「健全な」テレビにはなったかもしれないが,面白くはなくなった。
またテレビの極端な自主規制は視聴者の要求に答えた結果であったのに,それを要求していたはずであった視聴者がテレビから離れていった。さらに今までテレビを見ていたコアなファンもテレビを見限り,誰も得しない結果になった。多くのファンを手に入れようとして足元のコアなファンに見捨てられてしまうという何とも皮肉な結果である。
そもそも何かを表現するということは人を不快にさせるということである。誰もが受け入れるような表現はする意味がないし,それはすでに誰かによって表現されていることだろう。もし人を不快にさせたくないのであれば沈黙するしかない。
しかし,人を不快にすることがあったとしても表現をするとするならば,それは相手を見て表現するのではなく,表現に対して自分がどのような態度をとるのかという問題である。つまりその表現の基準は外ではなく内にある。表現者はその自ら作った基準を守るという覚悟が必要だ。そうした覚悟がテレビの世界ではなくなっていったのかもしれない。
こうした流れが,次はネットの世界でも起こるかもしれない。いやすでに何年も前からブログやツイッターなど一部のサービスでは起こっている。自分は良かれと思った表現がそれを見ていた人を不快にしてしまった。もちろん表現をしたものには覚悟が必要であっただろうが,想像以上の非難が浴びせられれば,表現者の怒りは受け手に向かう。さらに収まらない非難・炎上。こういう状況を何度も見てきた。
その結果,表現者は自分の基準で語ることはできなくなり,表現を止めてしまう。こうしてネットを去る人がさらに多くなるならば,テレビと同様,ネットの世界も無機質なただの情報が流れる世界になるのかもしれない。それは結局受け手の利益にもならなず,「ネットつまらなくなったよね」と言う人が増えていく。ツイッターに関しては現にそういう議論が「オワコン」という形で出てきている。
Twitterと似た時期から隆盛を誇ったFacebookも現在、ネットで「利用者が減少」などが指摘されているが、Twitterでもユーザーから「多くの人が同意してくれると思うが、コンテンツサービスとしてのツイッターは、『終わりの始まり』が来ているように思います」「最近、いろんな人が終わりの予感を言ってますな」「完全に同意」「自分もTwitterはオワコンだと感じることはままある」と「Twitterの終わり」に同意する声が多数寄せられ議論に発展。
Twitterの「終わり」を感じている人たちからは「当面の後釜はLINEと顔本だな」「また新しいサービスがそれに取って代わるのです」などの意見が寄せられた。
Twitterオワコン説に「2chは10年前から終わり続けてる」 - 夕刊アメーバニュース
twitterのピークは過ぎました。このまま終わります。 - Togetterまとめ
一方でこういう流れがあっても代わりのサービスが生まれ,それが繁栄していくはずであり,ネットそのものが終わるわけではないという見方もあるかと思うが,本当にそんなことが繰り返されるのか。最終的に「ネットってつまらないよね」とはならないか。そうならないためには表現者としての覚悟だけではなく,受け手としての覚悟も問われているのではないか。きれいすぎるネットの世界は住みやすいようで実は居心地が悪い。そんなことを考えながらブログを書いているのであった。もちろん私はネットが存続して自分の居場所であり続けてほしいと思っている。