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2008年6月13日、大阪の西成で発生した日雇い労働者による暴動は6夜に渡って行われたが、機動隊により鎮圧され暴動は収束した。 この暴動は詳しく報道されなかった為、暴動の経緯どころか暴動の事実すら知らなかった人達が大半である。 イタリアの国営テレビがイタリア国内向けこの暴動を報道したが、日本の報道機関を沈黙を守った。 この構図は中国国内におけるチベットの騒乱を報道しなかった中国政府となんら変わらない。 暴動が発生してから警察は記者クラブを通じて報道規制が敷かれたのではという憶測が飛んでいる。 そして暴動が沈静してから、暴動の経緯を報道する事無く、労働者を支援してきた釜ヶ崎地域合同労働組合の委員長が逮捕された事を短く伝えているに過ぎない。 この暴動は1961年に西成で最初に暴動が発生してから24回目にあたる。今年の2月にも西成で暴動が起きたが報道したメディアはほぼ皆無である。背景には警察記者クラブのもと警察とマスコミが癒着関係にあり、警察から報道をしないようにと求められるがままに報道しなかったのではないかと憶測が飛んでいる。 今回の暴動の端緒は日雇い労働者に対して西成署員による暴行が行われたとし、日常的に労働者を支援してきた団体に相談したところ似たような体験をしたという労働者の声が上がり「今度こそ西成署に抗議と謝罪を求めよう」と街宣活動を始めた。その結果、日頃警察に対して不満を持つ労働者約二百名がこの抗議活動に参加し西成署を取り囲んだところ西成署は「暴行の事実は無い」とし機動隊を導入して、労働者を排除した。西成署へ向かう道路をは鎖され、5夜連続にわたり労働者と機動隊が小競り合いを繰り返し放水車まで登場し多くの負傷者と逮捕者が出た。 西成暴動の歴史を振り返ると最初に暴動が発生したのは1961年である。交通事故に遭った日雇い労働者を駆け付けた西成署の警官が勝手に「即死」と決め付け路上に放置して現場検証を行った。 本来であれば医師の判断を仰がねばならないにも関わらず、路上に放置された事に西成の日雇い労働者は怒り暴動となった。 多くの人達の記憶にあるのは1990年に起きた第22次西成大暴動であろう。西成署の刑事が暴力団から約一千万円以上の金銭を受け取っていた事が発覚した。日頃、労働者は暴力団からわずかな給与の一部をピンハネされていた。そのカネの一部が警察に渡っていた事に激怒した日雇い労働者は西成署を取り囲み大規模な暴動へと発展し約一週間続いた。 当時は大々的に報道された。 今年の2月に発生した暴動はほとんど報道されなかったが、酩酊状態にあっったホームレスの労働者が救急車で病院へ搬送されたが、身元引受人がおらず警察が引き取ったが、引き取りに行った西成署員はホームレスの労働者を高架線の下に放置した。その労働者は約25分後に呼吸停止した状態で発見され、死因は凍死であった。この事に抗議する労働者が西成署へ押しかけ暴動へと発展した。 日頃西成署員は日雇い労働者を「450」つまり「汚れ」と隠語で呼び不当な扱いをしてきた。ある日雇い労働者が路上でひったくり強盗に遭って西成署へ被害届けを提出しようしたが、西成署員は「そんなところにいたお前が悪い」などと吐き捨て被害届を受け取らないなど不当な扱いを受けてきた。 このような警察の不当な差別とマスコミがまともに取り上げない事に対する怒りが日々蓄積され、沸点が高まっている。その為、些細なトラブルから暴動に発展するケースが多いようだ。 警察やマスコミが日雇い労働者を一般市民と同等に扱わない限り、多くの負傷者が出る暴動は繰り返し起こるのは間違いない。 生きさせろ! 難民化する若者たち
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