http://b.hatena.ne.jp/entry/www.open.sh/entry/20140728/1406552151
記事としては「倫理」や「常識」は時と状況によってゆれうごくあやふやなものだという主張だが、
それが主張したいならそう主張スべきであって、いちいちナゼコロ問題を取り出すのは卑怯。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない
主語を伴わなければ行為そのものには絶対的な是非など無い。
「殺す」に限った話ではない。
「なぜ人を愛してはいけないのか?」でも主語がなければ同じ。
たとえ大多数が「愛してもよい」といってもその人が納得してないなら無駄。
さらにいえば、答えられないのではなくて、受け入れる気がないだけ、という意見にも同意。
疑問には誰でも答えられる。それを主体が得心していないため答えじゃないとしてるだけ。あらゆることが後付の理由なのに生死のことだけ特別扱いするのはいかがなものか
ナゼコロ問答に答えが無いのは「倫理的理由」「経済合理性」「宗教上の観点」「生物学的本能」のいずれを挙げても「そもそもどんな答えがきても納得するつもりなく問うているから」に尽きる。尽きたので以上
ただ、主語をつけると属人問題にされてしまう。
「なぜ私は人を殺してはいけないのか?」と問うと、すぐに
「じゃあお前は殺されてもいいのか」と言うことになる。
「なぜ私以外の人は、人を殺してはいけないのか」なら答えは明白だ。
純粋に行為の意味を問いたいなら、問い方というものがあるのだろうし
その作法を守らないものに問いかけをしても無駄ということだろう。
はてなのようなオープンスペースでこういう問いかけをすること自体無意味なのだろうか