価値のない話

「夢と違うじゃねえかよお!」

命の教育の話

 命は大切にしましょう。

 命はこの世でいちばん大切なものです。

 命は地球より重いのです。

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 そんな言葉で「命の教育」と言っているなら、それは「子供ではないものの自己満足」だと思う。「命の教育」という言葉自体おかしい。そもそも「命は大切である」と教育しなければいけないこと自体がおかしいからだ。

 

 地球上に生きる生命は、「生命を維持すること」を目標として生まれている。生まれ、栄え、子孫を残して死んでいく。そのサイクルで何億年もやってきた。増えすぎて種の保存が難しくなると本能的に数を調節したり、環境に応じて適応する形に進化することで命の継続を図ってきたから、今の我々がいる。ところが我々が生命維持を放棄しようとしている。これは生き物全体にとっての反逆行為だ。

 

 そもそも「何故生きなければならないのか」「どうして死は訪れるのか」という問い全てが生命に対する反逆だ。「どうしてりんごという果実が存在するのか」という問いに最終的な答えが存在しないのに、何故か人類だけが神から特別に存在を許可された存在だと思っている。神を試したり疑ったりしてはいけない。生と死の存在を考えた瞬間から、人類は答えのない問いと戦い続けなければならなくなった。それが知恵をつけた人類全体の罰かもしれない。

 

 命の重みを知るということは、同時に命はとても軽い存在であると認識することだと思う。本当にわずかなことで生きものは死んでしまう。とても軽い存在だから、大切に扱わなくてはならないというのが本来の「命の教育」だと思う。誰しも幼い時、昆虫や小動物をむやみに殺した経験があるだろう。アレと全く何も変わらない。命はとっても軽い。故に重いものである。

 

 ところが、学校教育の現場ではおそらく「命の軽さ」までは教えていないのではないだろうか。「命の尊さ」という言葉は教えるけれども、何故尊いのかは教えていないのではないだろうか。「いのち」とは何か大切なもので、それが損なわれることは非常に重い罪であると感じた子供たちは、「いのちがなくなったらどうなるんだろう」と思うだろう。オトナ達がひた隠しにしている「命の汚さ」を知らないから、「命の重さ」の向こう側の「命の軽さ」に目を付けるのではないだろうか。

 

 「命の尊さ」というのは、「失われたら戻らない物語」と変わらない。本当は誰だって自分そのものに価値がないことくらいわかっている。それではやるせないから「誰だって生きているだけで価値がある」と思い込んでいるだけだ。でも生きていることに価値を見いだせないから、人間社会では歪んだ形で噴出する。「オトナ」という存在は理性も感情も全てがコントロールできると思っている節がある。命は大切だけど、命のコントロールの仕方は知らないのではないだろうか。つまり、「死にたくなったらどうするか」「生の執着により他人を殺したくなった」という面倒くさい感情に蓋をして、「命は大切です」などというきれいな言葉で誤魔化している。自分と言う生命と本気で向き合えないのに、他人の命がどうのこうの言う資格はない。自分の命の面倒くらい自分で見たほうがいい。

 

 痛みを知らない子供たちが、都合のいいように心をなくした大人たちによって痛みへの好奇心を増幅させられているのだとすれば、自発的に命への痛みを感じたがる。「自分を受け入れてくれる優しい物語」をみんな求めているだけなのだ。まるで何が言いたいか自分でもわからないけれど、結論もなくここでバイバイするのはよくないことだけはわかっている。でも、結論をどうしたらいいかわからない。多分この問題に決着がついたとき、きっと人間は人間じゃなくなって、生も死も超越した何かになっているんだろう。その時まで、別に生きていなくてもいいや。生や死には執着したいから。それが人間だと思うから。