戦後日本を代表する写真家の一人で、半世紀にわたり本県の被爆者や沖縄を撮影した東松照明(82歳、昨年12・14)は1月7日に訃報が伝えられた。名古屋市出身。1961年、写真家土門拳が広島、自らが長崎の被爆者をそれぞれ撮影した写真集で注目された。98年から約10年間、長崎市に拠点を移し、若手写真家の育成と文化振興にも寄与。2010年秋に沖縄に移住した。76年芸術選奨文部大臣賞、95年紫綬褒章、05年長崎新聞文化章。
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)顧問で元代表委員の山口仙二(82歳、7・6)は日本の被爆者援護運動、反核・平和運動をけん引した。海外でも繰り返し被爆の実相を伝え、82年には第2回国連軍縮特別総会で演説。自らが負ったケロイドの写真を掲げ「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と世界に訴えた。05年ノーベル平和賞候補。10年長崎新聞文化章。
鎌田信子(79歳、1・13)は長崎平和研究所を夫定夫と設立し、常任研究員として運営を支えた。夫の死後も10年の閉所まで中心的役割を果たした。
「被爆体験者」の小川博文(70歳、5・23)は被爆者健康手帳の交付を求めた第1陣訴訟の原告団長、全国被爆体験者協議会長。志半ばで、胃がんに倒れた。
舶用電子機器メーカー、古野電気(兵庫県西宮市)の創業者で名誉会長の古野清孝(92歳、10・4)は南島原市出身。地元でラジオ修理販売業を始め、48年に弟の清賢氏と世界で初めて魚群探知機の実用化に成功した。
あたご自動車学校代表取締役会長、五島自動車学校代表取締役社長の井口光夫(87歳、3・17)は1年間無事故無違反だった卒業生に「SD(安全運転者)カード」を贈る運動を77年に始めた。互譲の精神を柱にした安全運転教育で全国に影響を与えた。
元山下医科器械取締役会長の山下登(86歳、5・1)は72年から97年まで代表取締役社長、06年まで取締役会長。01年勲五等瑞宝章。
スーパー地場大手、エレナの創業者で取締役相談役の中村義治(90歳、5・22)は長崎・佐賀両県で35店を展開する礎を築いた。
安達会長の安達健治(86歳、9・11)は安達社長、長崎商工会議所副会頭、長崎市選挙管理委員、長崎法人会副会長などを務めた。
五島旅客船社長の安田政男(67歳、3・17)は安田産業汽船専務取締役などを歴任。07年5月から長崎旅客船協会長を務めた。
元林兼石油社長の江原源太郎(88歳、4・2)は社長を85年から4年間、会長を89年から2年間務めた。
諫早観光物産コンベンション協会長の瀬頭昭治(68歳・8・16)は諫早市の酒造会社「杵の川」の元社長で、取締役相談役だった。
九州中世史研究の権威として知られた長崎大名誉教授の外山幹夫(80歳、4・26)は、膨大な文献を基に戦国大名の大友、大村、松浦、有馬各氏の実態を解明した。原城や平戸オランダ商館など県内各地の史跡保存計画策定に関わり、文化財保護に尽力した。
県文芸協会長の田中正明(78歳、1・23)は県立高校長を歴任。定年後も県立美術博物館長、長崎女子短大学長を務めた。源氏物語に造詣が深く、30年以上にわたりカルチャー講座を主宰し市民への普及に力を注いだ。文芸誌「随筆ながさき」を創刊した。
本県を代表する書家の一人で、県美術協会名誉会長の大浦澄泉(92歳、7・5)は68年に発足した漢字の研究グループ墨融会会長。75年の県書道展立ち上げに尽力した。県展副会長、県美術協会長、県現代作家美術展会長などを歴任した。
声優の石森達幸(81歳、6・5)は本県出身。テレビアニメ「ONE PIECE」のセンゴク役で知られた。「ミスター味っ子」「キン肉マン」など多くの作品に出演した。
長崎くんちの踊り町の一つ、長崎市銀屋町の自治会長、吉村正美(74歳、9・3)は「鯱(しゃち)太鼓」を町の出し物として確立させ、07年の旧町名復活に尽力した。
芥川賞作家、村上龍の父新一郎(88歳、6・7)は画家で元中学美術教諭。二紀会会員、佐世保文化協会常任理事や佐世保市児童文化館長を務めた。
対馬新聞元社長の明石雅操(91歳、8・31)は64年に海上保安官が武装不審船の乗組員から銃を突きつけられる事件をスクープ。国会で取り上げられ、巡視艇の武装が強化された。
旧南高深江町長の横田幸信(72歳、12・3)は雲仙・普賢岳の大火砕流後、大野木場地区などを警戒区域に設定。町民の避難場所の確保や政府への支援要望など復興に尽力した。
馬場重雄(66歳、8・4)は91年から大村市議を連続5期20年、01年5月から2年間は議長を務めた。
県スケート連盟会長の徳勝宏子(51歳、10・28)は04年から2期8年、佐世保市教育委員を務めた。
久志冨士男(77歳、1・28)は農薬がミツバチの生態に与える影響を研究し、警鐘を鳴らし続けた。
【編注】江原源太郎の原は白が日、源は白が日