不惑の年になったら、本当に惑わなくなるのだろうか。
そんな人、いるのだろうか・・・。
— りょう (@ogataryo) 2014, 7月 28
↑きっと、そんなことはないのだと思う。
こんばんは。
不惑の歳になったので「死ぬ準備」について考えた話 - ネットの海の渚にて
こちらの記事を読んで思ったことをつらつらと書きたいと思います。
でも、記事の内容とはあんまり関係ないかもしれません。あるかもしれません。
小学生の頃、大人の社会は完璧なシステムで成り立っていると思っていた。
たとえば、掲示物。
期限が過ぎてもずっと貼りっぱなしにされている掲示物をみて、大人の世界では、キチンと期日になれば剥がされるものだと思っていた。
たとえば、文字。
私の周りの大人たちはみんな字が綺麗で、大人になったら、みんな完璧に綺麗な字がかけるようになると思っていた。
大人たちはみんな完璧で、間違えなんかおこさないと思っていた。
小学生の頃、中学生は随分と大人に見えた。
実際に自分が中学生になってみると、案外小学生の頃と変わりなかった。
中学生の頃は高校生が、高校生の頃は大学生が、専門学生の頃は社会人が。
随分と大人に見えたけど、なってみたら案外「こんなものか」と思った。
成長は常に地続きで、肩書きが小学生から中学生になったとしたって、昨日が今日に変わっただけで、変化を感じるには僅か過ぎた。
でも、小学生のあの頃と、アラサーとなった今を比べれば、やっぱり全然違うのだ。
ただし、やっぱり、あの頃思っていたような、完璧な大人なんかになれているはずはなく。
ただ、歳を重ねて、「完璧なんてない」と知っている程度には、大人になれているのかもしれない。
これから数年後に不惑を迎えるにあたって、たぶん、不惑になったって、私は惑い続けるんだと思う。
これはもちろん、平均寿命が伸びたせいで、論語の時代は死を間近にした世代だったのが、今やただの折り返し地点となっている影響もあるのだろうけど。
やはり、私は惑い続けるのだ。
きっと、生きている限り、ずっと。
完璧な大人なんてないって、もう知っているけれど、それでも少しでも、完璧な大人に近づけるように。
ちなみに、私が初めて完璧な大人なんていないかもしれないと気づいたのは、小学校の給食室の前の本日のメニューを書いたボードに、明らかに大人の字で
黄桃(きもも)
ゲームやりたくて探して見たけど、PSPはACアダプタが見つからず、DSは充電切れてるとかね・・・。・゜・(ノД`)・゜・。
— りょう (@ogataryo) 2014, 7月 28
↑そんな大人もいる。