硫黄島:「きれいごとじゃない」兵士の話 作家が小説化

毎日新聞 2014年07月28日 15時00分(最終更新 07月28日 15時22分)

硫黄島帰還兵を「発掘」した児童文学作家のかわなさん
硫黄島帰還兵を「発掘」した児童文学作家のかわなさん
「硫黄島では疲れ果て、食べることしか考えてなかった」。95歳ながら、鮮明に当時を記憶して証言する山口周一さん=南房総市千倉町の自宅で
「硫黄島では疲れ果て、食べることしか考えてなかった」。95歳ながら、鮮明に当時を記憶して証言する山口周一さん=南房総市千倉町の自宅で

 太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で生き残った、数少ない元日本兵のうちの一人の体験談を基にした書籍が30日、刊行される。千葉県南房総市の児童文学作家、かわな静さん(77)が、同市在住の山口周一さん(95)から聞いた話を小説化した。「硫黄島の戦闘について一兵士の証言はほとんどなく、山口さんの話は貴重」(かわなさん)。これまで口を閉ざしてきた山口さんも、8月に市民団体主催の講演会で69年前の過酷な体験を初めて披露する。【中島章隆】

 山口さんは1944年6月、2度目の応召で硫黄島に送られた。本土防衛の要として、島には陸海軍計約2万人が投入された。約8カ月間、来る日も来る日も地下壕(ちかごう)の掘削作業を続けた。重労働に加え、水も食料も不足していた。

 45年2月19日に米軍が上陸作戦を開始。既に疲労と飢えで山口さんらに戦う余力は残っておらず、壕の中で砲撃に耐えるしかなかった。兵には自決用の手投げ弾が配られた。敵に撃たれるか、自決するか、餓死するか。選択肢は限られていた。

 同3月13日。山口さんは仲間8人分の水筒を抱え、水を求めて夜の海に出たところ米兵に見つかり、捕らえられた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本軍の「おきて」は知っていたが、動けないほど飢え、渇いていた。その4日後、日本軍はほぼ最後となる総攻撃を始め、ほとんどが戦死した。

 捕虜になった山口さんは米国本土で終戦を迎え、47年に送還された。故郷の千葉県旧千倉町(現南房総市)にたどり着いたが、誰も迎えに来なかった。45年3月17日付の戦死公報が両親に届けられており、墓も建てられていた。両親と再会し、涙を流した。

 かわなさんが地元の老人介護施設に勤める友人を介して、山口さんと知り合ったのは昨年春。施設で硫黄島の戦闘を題材にした映画が話題になったところ、「そんな(きれい事で語れるような)ものじゃなかった」と口にした高齢者がいたと友人に聞かされ、引き付けられた。かわなさんは山口さんの元に何度も通って話を聞き、約1年かけて山口さんが「ひ孫」に体験を語るという形で小説「ひいじいちゃんは硫黄島の兵隊だった」(精文社刊、税抜き700円)にまとめた。30日から南房総市や館山市の書店で約600部が並ぶ予定だ。

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