私は日本SF作家クラブ第16代会長になった際、クラブがどのように運営されているのかを、ある程度深くまで知ることができた。今回はなぜクラブの運営がうまくいかなくなってしまったのかについて私見を述べてみたいと思う。ただしクラブの内部事情を節操なく公開することはしない。一般的な常識の範囲内で書くつもりだが、一部では踏み込んだ部分もある。それは、いままでクラブの内部事情がほとんど外部には明らかにされておらず、それがかえって無意味な憶測や疑心暗鬼を呼ぶことが多かったように思えるからだ。一端を明らかにすることでSFコミュニティを風通しのよいものにしたい。そのような気持ちで書いてみる。
私は1998年に『BRAIN VALLEY』で日本SF大賞をいただいたので、その縁で日本SF作家クラブに入会した。日本SF大賞を受賞すると無推薦でクラブの総会に諮られる権利が与えられる。入るか入らないかは受賞者次第であり、実際に受賞しても入会しなかった人もいる。
私は自分が会長になるまで、クラブがどのような組織編成で、どのような意思決断のもとに運営されているのか、まったくうかがい知ることができなかった。年に数回、事務局通信というのが送られてきて、そこに決定事項や入会推薦のことなどが書かれているのだが、そもそもこの「事務局」というのが何であり、誰がメンバーなのかもわからなかった。年に1回の総会と、1回の臨時総会があるのが通例だが、そこではかられる事案もどうやって上がってくるのかさっぱりわからなかった。
いまでもこの事情はさほど変わっていないかもしれない。私は顔の見える事務局をつくりたいと思い、自分の会長時代に会長と事務局員全員の名前を出した上で、元日に新年の挨拶文を会員のMLで送ったことがある。それでも誰がどんな役割を分担しているか、多くの会員はわからないだろう。そうした役割表も含めて事務局の顔を会員に見せるべきだと私は思っていたが、なぜか事務局メンバーは消極的で実現できなかった。
高千穂遙第14代会長時代に「タンポポ村」という会員専用の非公開のSNS形式ウェブページが作成され、停滞していたクラブの親睦の活性化が図られるようになった。初期のころは活気もあったようだが、私の会長時代には書き込んでいる会員はごく一部で、覇気はなくどんよりとしていた。(そもそもどうやってタンポポ村を使ったらいいのか分かりづらかった。初心者でもわかるようにタンポポ村のマニュアルをつくったのはこの私である)
この高千穂会長時代から、「タンポポ村」のさらに非公開の場で、事務局メンバー同士の連絡が掲示板方式でおこなわれてきた。会長と事務局メンバーが話し合うのはこの掲示板と、あとはこれらメンバーが入っているMLの場だ。私はなるべく過去を遡って、かつての会長、事務局長らがどのような運営をしてきたのか知りたいと思ったが、驚いたことにそうした記録はアーカイブ化されておらず、高千穂会長時代以降の会話しか見て取ることができなかった。過去の事務局通信もいまの事務局に受け継がれているわけではなく、昔のことを知るのは容易ではなかった。私は総会の場で、アーカイブをつくりたいからかつての事務局通信をお持ちの方は提供してほしい、と提案したこともあったが、会員からの反応はゼロであった。これでは過去の知恵を未来に活かす運営はとうていできない。2年ごとの会長・事務局交代でつねに記憶がリセットされているようなもので、逆にいえばおかしな噂話や誰がつくったかわからない「不文律」が幅を利かせる、不健全な運営の温床になっていると感じた。
よく知られるように、かつて日本SF作家クラブでは、会員のひとりでも反対すればその事案は否決されていた。新規に会員を入れたいと思っても、誰かひとりが反対すれば入れなかったわけだ。しかし山田正紀第12代会長時代に会則検討委員会が設けられ、この会則が改訂された(2005年)。この会則検討委員会の議論については何とか当時のMLが発掘されてその全容を知ることができた。
現在、会員になるには三名以上の会員の推薦が必要で、その推薦文がまず事務局に届られ、その内容は事前の事務局通信に掲載される。会員から異議申し立てがあった場合は「事務局」が検討する。そうした上で問題ないとなった場合は総会に諮られ(少なくともひとりの推薦人が総会の場で推薦の辞を述べることが必須)、一定以上の賛成で入会が可決される、という手順だ。ただしふしぎな「不文律」がある。プロとして一冊以上の単独著書があることが前提条件だというものだが、誰がいい出したのか定かではない。一部のアマチュアSFファンダムを排除するための方策であったともいわれるが、こうした会則に明示されていない不可解な「不文律」の存在は、会長時代にクラブを運営するにあたり大いに悩まされることになった。私としては会則の文面が何より第一であり、事務局内の作業マニュアルなどは現場に応じて臨機応変に変えればよいことだと思っていたからだ。しかしクラブ内では会則よりもこうした「不文律」や、その場しのぎの「マニュアル」を、会則と同等かそれ以上に重視する傾向が多々見受けられ、戸惑わされた。
そもそも会長になって会則を熟読して驚いたのは、会長の役割が明記されていないことである。会則によれば、会長ができることは次のふたつしかない。ひとつ、委員会を設置できること、ふたつ、臨時総会を招集できること。これだけである。一方、事務局長には絶大な権限が与えられている。総会や日本SF大賞の運営のみならず会計の決定権も事務局長にある。しかも総会では事務局長が議長を務めるのがなぜか通例であり、委任状として議長に投票権を預けた者は、自動的に事務局長に賛同したことになる。これはほぼ事務局長の独裁政権が可能な体制であり、それゆえ事務局長職に就く者は誰よりも優れたバランス感覚の持ち主でなければならない。そしてもっと驚くべきことに、会長と事務局長の関係がどのようなものであるかさえ、会則には明示されていないのである。極端なことをいえば、事務局長は会長の意思を確認することなくクラブを運営し、金を動かすことが可能である。
日本SF作家クラブウェブページの「沿革」を見るとわかるように、かつてクラブには事務局長しかいなかった。この事務局長職は、国連事務総長をモデルにつくられたという小松左京さんの談話が残っている。かつてSF作家はひとり1ジャンルといわれ、それぞれに熱心なファンクラブがついていた。各会員はそうした「国」の代表者であり、事務局長はそれを取りまとめる国連事務総長というわけだろう。初期のクラブが国連ごっこをしていたと思うと微笑ましいが、このモデルは50年を経た現在、約250名を擁するクラブの運営にそぐわないものとなっている。
実際、私が会長の時代、大森望氏の入会推薦がうまくいかなくなってからは、事務局との間に深い溝ができるようになってしまった。「事務局員は事務局長の下につくのであるから、たとえ会長といえども口出しをしないでほしい」といったクレームを事務局メンバーの一部から受けたこともある。私は孤立化し、運営に口出しすることがほとんどできなくなったので、この硬直した事態を改善するためには新会長を立てて自分が退く道を選ぶほかはなかった。
では、なぜ会長職ができたのかというと、はっきりしないのだがどうもかつてクラブが某出版社と揉めたことがあり、その出版社に正式にお詫びをするため、クラブの代表者を立てなければならなくなった。そのため星新一さんが初代会長になったのだという話を聞いたことがある。つまり当初から会長職はお飾りであり、クラブが何か問題を起こした際に謝罪する係でしかなかったようだ。
さて、先に書いた「事務局」が検討する、という会則の文面は、実際には「事務局長」が検討すると読むのだと教えてもらったことがある。それほど遠くない時代まで、事務局といえば事務局長ひとりだけだったからだ。事務局補佐員が増えたのはここ数代のことであるが、ここにもねじれた経緯がある。かつては事務局のことはほとんど事務局長が決めていた。しかし高千穂会長時代、第18代の事務局長であった久美沙織さんは、いろいろと自分だけで決断するには自信のないことも多かったのだろう、他の事務局補佐員に意見を求めることが多かった。ここから、事務局のことは事務局メンバーが話し合って決めるという雰囲気が醸成され、次の新井会長時代の第19代井上雅彦さんのときには、井上さんの仕切りで事務局メンバーに意見が求められ、その合意を新井会長が承認する、というかたちが取られるようになった。この習慣は善い面と悪い面をもたらした。つまり仲良しクラブであるという面が強調され、事務局全員の合意がなければ事案が通らない、という悪い側面をもたらすようにもなったのである。
新井前会長と私が会長の時代、新規会員の推薦事案で、2名が却下されている。松崎有理さんと大森望氏である。松崎さんは創元SF短編賞の受賞者であり、「あがり」という短編で受賞したとき、ほどなくして入会推薦の話が会員から出た。なぜかこの事案は新人賞検討委員会に持ち込まれ、後に述べるA氏が「一冊以上の単著があること」という不文律を持ち出し、「よくよく検討する必要がある」と慎重案を提示して、入会推薦は総会に諮られることなく却下された。後に松崎さんは単著『あがり』を上梓し、そのときに入会推薦が認められている。
創元SF短編賞はSFの新人賞であり、通常の感覚で考えるなら日本SF作家クラブは協力の立場を採ってよいはずだが、クラブはその立場を採っていない。自前の日本SF新人賞はともかく、小松左京賞にも積極的な協力をし、現在のハヤカワSFコンテストにも協力の立場を採っている(これは私がそのようになるよう仕向けた)のに対し、奇妙な立ち位置である。
さて大森望氏の場合である。大森氏を嫌っているクラブ会員のA氏とB氏について、なるべく中立な立場で述べてみたい。大森氏は一度、1992年に入会推薦が総会に諮られ、却下されている。ふしぎなことにこのときの事務局通信は発行されておらず、この総会に関する公式な議事録はクラブに残っていない。しかも推薦者は総会を欠席している。総会ではA氏が熱弁を振るい、会員にふさわしくない旨を語ったそうだが、その理由について具体的なところは他の会員はよくわからなかったようである。私の印象では、A氏はかつてある文章によって大森氏にプライドを傷つけられたと強く感じ、大森氏を嫌うようになった。時が経ってもその態度を覆すことは、後のご自身のプライドが許さなかった、ということだと思っている。若いころの大森氏がやんちゃで、問題のある発言をしていたことは事実のようであり、そのことはご本人もいまは反省されているようだ。
私は当時出席していた複数の会員に聞き取り調査もおこなったが、各人の印象はまちまちであった。議事録が発行されていないのだから、当時総会を欠席した会員にはなおさら事の次第はわからなかったであろう。現在の大多数の会員が1992年当時のことを知らないのは仕方がないことで、事務局内でもそれは同様であった。あまつさえ、当時のことを
2011年の2012年3月総会(*1)に向けた推薦人らに、事前に知らせたり忠告したりするのはまず不可能であったといえる。
2011年2012年に再び大森氏の入会推薦が提出された際、私たちは通常の形式に則って、総会前の事務局通信にその推薦文を掲載した。会則に則ってB氏を含む複数のクラブ員から異議申し立て文があった。私は会長職として会則に則り、「事務局」全体でこの異議申し立て文を検討するとともに、そこに書かれていた内容や1992年当時の状況を正確に知るべく、できるかぎりのことをした。1992年の総会について議事録を探し、当時の会員に聴き取りをしたことは前述の通りである。もうひとつ、B氏が大森氏を信用しなくなった理由についても、私のできる範囲で事実関係を確かめようとした。
事の次第はこうである。1997年、ある出版社の宴会が催され、そこに多数の書き手が集った。その一部の人たちが、B氏を揶揄する替え歌をつくったのである。それを山形浩生氏が、問題のある文脈で、ある雑誌に書いてしまった。山形浩生氏のテクハラ裁判の件についてはここでは省略するが、B氏はこの替え歌づくりに大森望氏も関与していたと後に考えるようになった。かなりはしょって書いたが全体像としては間違っていないと思う。
私は会長として、B氏と大森氏の双方から詳しい話を聞いた。またB氏の異議申し立て文の内容も事務局内全員で精読された。事務局内のおおむねの評価は、B氏の異議申し立て文の内容は多くが伝聞に基づくものであり客観的な評価が困難であるというものだった。大森氏から訊いたところでは、確かにその宴会には参加したが、替え歌をつくった人々とは席が離れており、替え歌づくりにはまったく関与していなかったとのことであった。私はB氏に電話し、大森氏の意見も伝えた後、なぜ大森氏が替え歌事件に関わると考えるようになったのかと尋ねてみた。「あなたは裁判をする人を間違えている。テクハラ発言を言いふらしているのは大森氏だ」という発言をB氏はある人から聞き及び、それ以来、大森氏を嫌うようになったとご本人が述べていたからだ。
B氏に尋ねると、その発言をした人物とは作家の友成純一氏であるとのことだった。私はこれに驚き、友成氏に事実を確認していいかとその場でB氏に尋ねたが、返答ははぐらかされてしまった。(*2)
以上のB氏とのやりとりは、しかし収穫もあった。B氏は「大森氏に、私はまだこんなに怒っているんだ!」と伝わってほっとしたと私に感謝の意を述べていたし、異議申し立て文の全文を会員に公開する必要はないもののB氏がテクハラ裁判の件に関わる真相を知りたがっており、そのわだかまりがずっと残っているという点を多くの人に知ってもらいたいと考えている点では私も共感し、理解したからである。
友成氏は海外に暮らしているし、私はその連絡先も知らないので、確認のしようもなかった。しかしいつか友成氏に会う機会があったら尋ねてみたい。なぜB氏にそのような話をしたのかと。そうすることによって少なくとも事の真相の多くは明らかにされ、B氏の心の中にたとえわだかまりは残るとしても、おかしな噂話がSFコミュニティ内でひとり歩きすることはなくなるだろう。そうなることを私は願っている。
さて
2011年2012年のとき、このような聞き取り調査をおこなったにもかかわらず、結局のところ、大森氏の入会推薦は見送られた。それは事務局メンバーのひとりから、「クラブは親睦団体であるのだから、このような異議申し立て文が出た時点で、クラブを混乱させるかもしれない人物の入会検討は見送るべきだ。事務局はこの一件から速やかに撤退した方がよい」との意見が出たためである。私の会長時代、事務局長はなぜかわからないが新井会長・井上事務局長時代の事務局員をそのまま登用することにこだわり、全員の合議によって物事を進める雰囲気がすでに出来上がっていた。ひとりでも反対意見があれば「事務局」の総意は得られない。そのため総会の前日に、入会推薦の案件は事務局判断によって見送られることになった。私は最後まで、「これは推薦の取り下げではなく、事実関係の確認が為されるまでの保留事項である」と主張したが、議長でもある事務局長は総会の際、「この推薦は取り下げられました」とさらりといってのけた。
私は少なくともクラブの会則は抜本的に改定するべきだと思っているし、実際会長職の間にはそうしたところにも手をつけたいと思っていた。会則そのものより「不文律」が幅を利かせる雰囲気もまずいと感じており、もっと風通しのよいクラブにしたいと考えていた。しかし1年や2年でできることではない。今後のクラブ員の良心に期待するほかない。
会長と事務局長はつねにバディとして行動すべきだというのはもっともな意見だと思う。しかしそれがいったん破綻したとき、クラブの運営はたちまち立ちゆかなくなる。そうした危機的状況の際に、本来ならば会則に立ち戻り、事態が回復されるべきであろう。いまはそのようになっていない。これがクラブの信頼をじわじわと50年にわたって失墜させた原因でもあると私は思っている。そしてこうした膿を生んだ背景には、残念ながら私が作家として敬愛する小松左京さんなどの言動が尾を引いたということもあるのではないか。
私たちは先達の善い面を受け継ぎつつ、反省すべき点は反省し、よりよい状況へと変えてゆく必要がある。私はそのことも会長辞任のスピーチで述べた。あとはクラブ員の自治性にかかっている。
私が会長時代におこなったもっとも重要なことは、会計担当と広報担当を事務局に戻したことだと思う。それまでクラブの会計は、高千穂会長時代に高千穂さんの知り合いである外部の方にお願いし、そのままになっていた。日本SF作家クラブのウェブページも、多くのSFプロ作家が懇意にしている外部の方にその作成と管理をお願いしていた。しかし会計と広報は、クラブの内側と外側を繋ぐ、もっとも大切な部分である。こうした重要な役目を、クラブは外部に任せっきりにしていたのである。(それまで会計と広報を担っていただいた外部のおふたりは、人間的にもよい方々であり、私はいまも感謝している。ウェブ広報に関してはその外部の方にいまも一部の作業をお願いしているはずだ)
日本SF作家クラブは自由団体であるのだから、遊びも自分たちで責任をもっておこなうべきだと私は考えた。クラブ員をふたりスカウトし、会計担当になっていただいた。広報担当もスカウトし、Twitterを開始した。いずれも当初は仕事に慣れず、私との確執も生まれ、一部の担当者は途中で辞めてしまわれたが、私自身はいまも彼らに感謝している。50周年記念サイトもクラブ員の自主性によって管理・運営・更新できるようデザインした。事務局通信は数世代前から節約のためメールに切り替えられたが、一部の会員にはいまも郵送で送られている。この郵送手配もかつての会長の知り合いの会社に頼んでおり、それなりの経費がかかっていたが、自分たちでおこない節約に努めるようにした。実際は私・瀬名秀明自身が印刷し、封筒に詰め、郵便局に持っていくようにしたのである。いまはどうなったのか知らないが、そういうちょっとした改革は大切だと思っていた。ようやく日本SF作家クラブは自分たちの手によってクラブを運営し、遊べるようになったのである。地味ではあるが、これらの改革ができたことを、私は誇りに思っている。
あともう1回、気が向いたら「おたく文化」と「SF文化」の違いについて思うところを書くかもしれないが、本日はここまで。
【2014年1月2日追記】
*1 年を間違えていたので修正しました。
*2 2013年12月31日、評論家・翻訳家の尾之上浩司さんからご連絡を頂戴しました。尾之上さんは仕事の関係で友成純一さんにも私・瀬名にも繋がりがあるので、この件について尾之上さんが直接友成さんに知らせて、確認を取ってくださったのです。私はfacebookをやっていないので自分で見ることはできないのですが、尾之上さんと友成さんのやりとりは
こちらのリンク先で見ることができるようです。facebookに登録なさっている方はご覧下さい(私・瀬名は一度facebookに入ったのですが、ちょっとやってすぐに退会しました。なのでいまは自分のパスワードを入れても中に入れないのです。ただ瀬名のページ自体は残っているらしい?です)。
尾之上さんにご仲介いただいて友成さんのコメントを拝読し、私のブログに引用したりリンクを貼ったりしてよいかとうかがったところ、友成さんからご快諾をいただきましたのでそのコメントの一部(いちばん大切な部分)をここに引用します。友成純一さんがこのブログをお読みになってのご感想です。
(以下引用)
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Junichi Tomonari 読みました、読みました…全く根拠のないデマです。私、テク何とか裁判ってのも知らない。てっきり大森君、既に会員になってると思ってた。「今度の総会に出るの?」なんて訊いて、初めて未だだって知ったくらいで…唖然です。
何はともあれ、お知らせ有難うございます。
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(引用終わり)
ブログに書いたように、2012年3月の総会の議案事項であった大森望氏の入会推薦について、B氏から頂戴した異議申し立て文のもっとも重大な主張、かつ唯一の明確な論拠は、裁判期間中にとある「映画関係者」から「あなたは裁判をする相手をまちがえている、『(B氏はB氏名義の著作を自分では)書いてないよなあ』と言いふらしているのは大森望氏だ」と指摘されたため、自分は大森氏を信用することはできなくなった、このように問題のある人物は会員にふさわしくない、というものでした。異議申し立て文では重要人物である「映画関係者」の名が伏せられており、それで当時会長であった私は事実関係を確認するため、B氏に電話口で直接「この映画関係者とは誰か」と問い、友成純一さんであるとはっきりお返事をいただいたのです。(当時、私はそのメモを残し、事務局員と共有したので、私の記憶違いではありません)
ところが今回、友成さんからはまったく異なるお返事を頂戴しました。B氏の異議申し立て文の一番重要な部分が大きく食い違うことになったので、B氏の異議は客観的にその根拠を判定できないことになります。
なおB氏はもう一点、1992年にいったん入会拒否された案件をなぜ再審議するのか、という点も問うていましたが、否決された件を再審議してはいけないという会則はありません。当時の事務局や私がB氏の訴えに基づき慎重に、かつ懸命に1992年当時のことを調査し、議事録等が残っていないことなどを見出したのは既述の通りです。会員のごく一部には、ご自身の価値観に基づき、再審議すること自体を否定する方も確かにいらっしゃいました。しかしそれは多くの会員に共有されているクラブの「不文律」ですらありませんでした。人間は歳月を経ることによって反省し、成長し、変わりうるのだということを考え合わせると、たとえ再審議の事案であっても会長と事務局の判断によっては事を進めても構わない、あるいはそれに関する小委員会をつくってクラブ内で議論し、一歩ずつ物事を進めてゆくことはできる、というのが当時の私と事務局側の判断でもありました。
私が会長時代、いちばんの懸案事項であった問題が、これによって大きく進んだことを、いま私はとても安堵し、嬉しく思っています。貴重な証言をお寄せくださった友成純一さん、また仲介の労を取っていただいた尾之上浩司さん、本当にありがとうございました。
【2014年1月4日追記】
この件に関して友成純一さんと直接メールのやりとりをすることができました。友成さんのご許可を得て、友成さんから頂戴したメールの内容を「
2013年の終わりに際して(追記)」に掲載しましたので、ぜひご覧下さい。