qfwfqの水に流して Una pietra sopra

2014-07-27

この遠い道程のため――承前





 片岡義男鴻巣友季子『翻訳問答』について、もう一つだけ書いておきたい。前回の最後に引用した片岡義男のことば、「書き手が言葉を選んでつないでいくことが文章前進力になる」ということに関連して、片岡さんは一つの例を提示している。それは、金子光晴の「富士」という詩の、アーサー・ビナードさんによる英訳(『日本の名詩、英語でおどる』みすず書房、2007年)である。

 「日本語の作品を英訳する場合、ある作品を日本語で読み、その内容を摑んだうえで、それが形而上的な内容なら、内容に忠実に英語でリライトしなければいけない。英語の言葉の倫理に、日本語で書かれている内容を、取り込まなくてはいけないのです」と片岡さんはいう。「倫理」は「論理」の誤りだろう。「そのたいそう良く出来た例として」、片岡さんは、「富士」の最終スタンザのみ、原詩と訳詩を挙げている。以下のとおり。


 雨はやんでゐる。

 息子のゐないうつろな空に

 なんだ。糞面白くもない

 あらひざらしの浴衣のやうな

 富士。


 the rain has let up. Overhead

 the sky is empty, our son nowhere in sight.

 This is sit, and on top of it all,

 there’s Fuji, looking like a faded

 old bathrobe.


 ビナードさんの英訳では1行目の最後にOverheadを置いている。金子光晴は「頭上に」とは書いていないが、「Overhead の一語を使うことで、自然を頭上へ誘っていて、そこがすばらしい」と片岡さんはいう。そして、the sky is empty と「空だけが単独で問題にされ」、ついでour son nowhere in sight と「息子が問題にされて」いる。つまり「それぞれが並列の関係」であるが、日本語では「息子の」「ゐない」「うつろな」がずべて「空」にかかり、全体が「ひとつの名詞」になっている。「言葉のならびかた、つまり機能のしかた」が、英語と日本語とではまるで違っている。ビナードさんは金子の詩を「英語の言葉の論理」に取り込んで翻訳しているのであり、それが「内容に忠実に英語でリライト」するということである。

 「英語には輪郭や機能がはっきりした言葉のつながりがあるので、明確な前進性が出ます」と片岡さんはいう。the sky is empty, our son nowhere in sight. と、コンマで二つの状況を並列することによって「誰も止めることの出来ない前進力が生まれ」るのだという。

 鴻巣さんが「コンマは、日本語の読点とはまったく意味がちがう」というのは、おおむねわかるように思う。コンマは、読点のような息継ぎ(には限らないけれど)の役割でなく、論理的な分節の機能を果たしているということなのだろう。金子の詩は情を抒べるもので、論理的ではない。ビナードさんの英訳は、on top of it all(「直訳すると、こうしたことすべての仕上げとして、といった意味ですが」)ということばによって「糞面白くもない」と「富士」とを論理によって接合しているのである。このビナードさんの英訳を指して片岡さんは「偉人」の仕事であると絶賛する。


 ビナードさんの英訳詩集『日本の名詩、英語でおどる』は、面白い。『翻訳問答』のように、面白くてためになる。この英訳詩集には訳詩のあとに短いエッセイが附されていて、そこもまた本書の読みどころとなっている。

 ビナードさんは友人との会話で「高村光太郎のミチノリっていう詩は」と言って笑われたそうだ。『おっぱいバレー』という映画の冒頭、新米教師の綾瀬はるかが着任の挨拶で、光太郎の『道程』が好きだと言うと、中学生の男子がそのことばに過剰に反応して鼻血を出すという場面があったが、中学生の童貞君たちは「道程」を「ミチノリ」と読むことができるだろうか。ビナードさんはその時、来日してまだ三年ぐらいだったそうだ。

 友人に笑われた翌日、ビナードさんは正しい発音で読み直してみた。「ドウテイ」という発音に堅さを感じたが、「その堅さこそ「道程」という一篇のミソだったんだなと、納得がいった」と書いている。「道程」の最後の二行、「この遠い道程のため」の繰返しを、ビナードさんはこう訳している。


 for the long journey ahead,

 for this long journey ahead.


 ビナードさんが中原中也の「サーカス」の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」をどう訳しているかは、実際にこの本にあたっていただきたい。傑作というべし。


 さて、前回の『高慢と偏見』のThis was invitation enough.の邦訳について、いくつか追加しておこう。小尾芙佐訳(光文社古典新訳文庫)は「きっかけはこれでじゅうぶんである」。小山太一訳(新潮文庫)は「この程度の誘いでも、ミセス・ベネットが食いつくには十分だった」。柴田元幸訳は「これだけ誘われれば十分であった」。三者ともにenough=十分が共通している。いずれも「国内仕様」ではない。ちなみに、truth はいずれも「真理」「真実」である。

 柴田さんの訳は、『書き出し「世界文学全集」』(河出書房新社)より。この本は世界文学史上の名作の書き出しだけを翻訳したもので、70作以上が収録されていて読み飽きない。変わったところでは、『源氏物語』や漱石の『猫』の英訳を邦訳したものもあり、源氏ではアーサー・ウェイリーエドワード・サイデンステッカー、ロイヤル・タイラーの三通りの英訳からそれぞれ訳されていて興味深い。タイラー版源氏については以前ここでふれたことがある*1

 漱石の『猫』は「私は猫だ」という題名になっている。柴田さんの本では、日本語訳しか載っていないが、原文、英訳、そして柴田訳を並べてみよう。


  「吾輩は猫である」(岩波文庫

 「吾輩は猫である。名前はまだない。

 どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。」


  “I am a CAT”, Translated by Aiko Ito and Graeme Wilson, (講談社英語文庫)

 I AM A CAT. As yet I have no name. I’ve no idea where I was born. All I remember is that I was miaowing in a dampish dark place when, for the first time, I saw a human being. This human being, I heard afterwards, was a member of the most ferocious human species; a shosei, one of those students who, in return for board and lodging, perform small chores about the house. I hear that, on occasion, this species catches, boils and eats us.


  「私は猫だ」

 「私は猫だ。いまのところまだ名前はない。どこで生れたのか、見当もつかない。唯一覚えているのは、湿っぽい暗い場所でニャーニャー鳴いていたら、初めて人間を見たことだ。これは、あとで聞いたところ、人間のなかでももっとも獰猛な種の一員であった。すなわち、書生なる、ねぐらと食事を与えてもらう代わりに家のさまざまな雑用を引き受ける学生である。聞けばこの種、時おり我々を捕まえ、煮て食うという。」


 柴田さんは、この訳に次のようなコメントを附している。

 「原文を極力忘れるように努めて訳した。もっとも、原文を知らずに訳していても、この猫の個性が見えてくるうちに、「吾輩は猫である」という訳文にいずれたどり着いたかもしれない、とも思う。逆にいえば、「吾輩は猫である」も英訳すれば I am a cat になってしまうのか、英語とは何と貧しい言語か、などと嘆くのは間違っているかもしれない。実は I am a cat のなかに「吾輩は猫である」が隠れているのではないか。」

 「猫の個性」とは、言い換えれば、この小説の voice ということだろう。「吾輩は猫である」という小説の voice、一種の戯作であり滑稽味のあるやや大仰な一人称の語り、といった特徴をつかまえて翻訳すると I am a cat は「吾輩は猫である」という訳文になったかもしれない、と柴田さんはいう。上掲の訳文はいまだ voice が決定していないのでフラットな、もしくはニュートラルな訳になっているのである。

 英訳では「書生」を説明する文が加えられている。岩波文庫版では書生に注はついていないが、いまのおおかたの若い読者、中学生の童貞君たちには、注なしではきっとわからないだろう。


日本の名詩、英語でおどる

日本の名詩、英語でおどる

書き出し「世界文学全集」

書き出し「世界文学全集」

*1id:qfwfq: 20120211

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