「異世界もの」における描写についての雑記
「異世界もの」が多い、みたいな話を読みました。
コンテンツを最適化すると多様性は死ぬのか?(fladdict)
なんと人気ランキングの1位〜10位中、9本までが「異世界に飛ばされた主人公が(略)」というストーリーだった。
単純に考えれば、最近のヒット作を研究して物を書けば、上のような結果になるでしょう。特定のジャンルに向けて作品を作ると、自然に起こるものなのだと思います。
ジャンルは、本棚における配置を決めるだけではなく、読み手に「この作品はおそらくこういう感じだろう」という前のめりの期待感を発生させる機能もあります。
その期待感と実際の作風にズレが少ないほど、違和感なく本を読み進めることができます。『アリスの物語』なんかは、ジャンルとしてはライトノベルですが、作風がライトノベルの主流とは若干ずれているので、そこに違和感を覚えられた人もいるかもしれません。というような話は別にいいですね。
ジャンル、特に成熟化が進むジャンルがもたらす類型化、といった視点とはまったく別に、この「異世界ものが多い」という話が若干気になりました。
それは、描写における簡易化です。
その描写は「不自然」です。
たとえば、あなたがSF作品を書いているとしましょう。
2112年の地球が舞台です。その世界では、建物の材質が根本から変わり、「火事」という現象が一切消失しています。そういう世界では、ナチュラルに「火事場の馬鹿力」なんて慣用的表現を用いることはできません。少なくとも、昔こんな言葉があった、みたいな補足が必要です。
あるいは、こんな場合はどうでしょう。
舞台は火星。人類とはまったく別の文明的進歩を遂げてきた世界。主人公はおどろおどろしい形状をした無機生命体。その生命体は、火星の巨大トンネルの中で、一つの物体を見つける。色は白。サイズは、……頭ぐらい……誰の頭?人間?でも火星には人間がいない。だったら、手のひらに載せられるぐらい?誰の?そもそも無機生命体に手はあるのか。だったら、10cmと直接書けば?なぜ火星がメートル法を採用していると思った?えぇい、だったら比喩だ。「まるで豆腐ぐらいのサイズの」火星には豆腐など存在しない。
という風に、私たちが日常的に使っている描写・表現が、まったく異なる世界だと使えない(使いにくい)ということが起こります。
これはSFだけでなく、ファンタジーでも同じですね。魔法の世界と科学の世界は似ている部分もあるでしょうが、それぞれの世界にしか存在しないものもやっぱりあるわけで、一人称でも三人称でも、その部分を意識せざるを得ません。
読みやすさの提供
しかし、異世界は魅力的です。なにせ非日常的な冒険やワクワクがそこには広がっているのですから。それに、何が起きても「これは異世界ですから」ときっぱり断言することができます。
そこで、「異世界もの」です。
私たちと同じ世界で暮らしている主人公が、ある日突然異世界に飛ばされる。
すると、舞台は異世界であるにもかかわらず、描写に関してはこちら側の世界の「常識」を用いることができます。どれだけ非常識なことが起きてもストーリーに破綻はありませんし、描写に関してはわかりやすい日常的表現を用いることができます。
もちろん、こちら側の世界の人間が異世界にいることで生じる描写の難しさみたいなものも、きっとあるでしょうから、別に作者が手抜きしていると言いたいわけではありません。
そうではなく、日常的な描写を使えるのであれば、読み手が複雑な想像を働かせなくてもストーリーを読み進められる、というのがポイントなのです。
つまり、「無機生命体ラゴスが見つけたその物体は、まるで豆腐のようだった」と書くことができ、そう書けば、「うん、なるほど」と納得しやすいわけですね。作品の雰囲気を盛り上げる描写ではまったくありませんが__まったくSFっぽくない__、読まれやすいメリットはあるような気がします。
さいごに
というのは、私のまったくもって当てずっぽうの推論ですので、正しい保証はどこにもありません。それに正しいからといって、どう、という話でもありません。
でも、世界設定と描写の関係性はなかなか面白い話です。