5日ほど前に私の家の近くの道路でかえるが鳴いていた
4日ほど前になるとかえるは潰れていた。車にでも轢かれたのだろうか
3日ほど前になると小蝿が集りはじめた。幼子を連れた母親は汚いから近寄るなと幼子の手を引いていた。
2ほど前になるとかえるは原型を失っていた。ただの黒ずんだ塊になっていた。
そして昨日その道路にかえるの姿はなかった
かえるの一生に思いを馳せるのは私の気まぐれだろうか
...
足に蚊が止まったら叩き潰してしまう。
多分知らぬうちに蟻を踏んづけている。
わからなくなる、命の価値など。人の命だけ尊いなんてことはないはずだけど。
多分知らない見たことない聞いたことないAさんよりも自分の飼い犬の命に執着してしまうし、TVのニュースでどこか遠い街の人が交通事故で亡くなったと知っても「自分が救えることができれば」と後悔したりなんかほとんどしないだろう。
だってそうだろう。虫や動物、世界の人間の死を全て受け入れようとしたら私は私を保てなくなる。おそらく生より死と出会うほうが増える。心は死に侵されていく。私は自分の命を守るために本能的に全ての死を受け入れることを避けている。
そのことに気づき、情けなく思い、しかし私の選択肢はひとつしかないのだと改めて思い知らされるのだ。
私は父の死に執着しすぎているのではないかと感じることがある。自殺という死に心が侵されているのではないかと思うときもある。でもそれも仕方が無いことなのだ。だって父の死は現在の私を構成する一部に既になってしまったのだから。
だけど父が教えてくれたようなものだ。生命の価値を、そこにあるものの大切さを。私には全ての生命を救うなんて神様みたいなことはできない。でも身近で目に見える自ら消そうとしてる命に対しては手を延ばせるかもしれないと、父が教えてくれたのだ。
そのためになら醜いと言われても足掻き続けるかもしれない。
(´∩ω∩) 「非リアという現実」
— ポンコつっ子 (@ponkotukko) 2014, 7月 26