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2013年9月26日 (木)

行動主義と同一説がダメなわけ<心は実在するか9>

唯物論を考える

前節では実体二元論のダメなわけを考えたが、二元論がダメなのなら一元論が正しいということになるのだろうか。
一元論には一般的に、世界のすべては心からできているとする唯心論と、世界のすべては物からできているとする唯物論がある。
唯心論や独我論がどこまで正しくどこまでダメなのかは、本ブログのあちこちで主題として考えてきているので、本節では唯物論について考えたい。

 

方法的行動主義と論理的行動主義

唯物論では世界がすべて物的にできているのだから、唯物論世界は原理的にはすべて物理的に分析され得る。奇跡や神秘といった超自然的なものは現実の世界の成立とは関係が無く、世界は完全に自然的なものだけでできているので自然主義と呼ばれるものに分類されることが多い。

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唯物論の起源は古くギリシア以前から続くものであるが、現代の唯物論の流れを位置づけた一つがライルの「心の概念」だろう。この書でライルは、心と物が互いに作用しあい機能しあっているというデカルトの世界観では、人体という機械を動かすための幽霊が必要になってしまうと言って実体二元論を否定し、「行動主義」を主張した。「行動主義」はもともと心理学の研究方策で、心の内面を直接研究対象とすることができないので、人間の外面的行動を探ることで心を掴まえる方法として考え出された。この行動主義は心理研究のための方法なので「方法的行動主義」と呼ばれる。しかし、ライルの考え方は、単に研究方法としてのみの行動主義にとどまらず、もっと積極的に、「行動に現れない心などない。行動こそが心の本質である」と考えた。このライルの立場を「論理的行動主義」という。
論理的行動主義においては、心理状態とは行動や傾向性にほかならない。「傾向性」とは「もし○○の状態になれば、△△の行動を取るだろう」と予測される状態のことを差す。「傾性」とも訳されるが、まだ訳語がはっきりしておらず、「ディスポジション」とそのまま言われることも多い。
この論理行動主義においての心について、たとえば、「痛い」と感じている心の状態とは、怪我に顔をしかめることであったり、怪我の箇所を撫でることであったり、鎮痛薬があれば飲もうとしたりするような状態そのものであるのだ。たとえば、りんごを見てそれを赤いと感じる心の状態とは、その色を尋ねられたときに「赤色だ」と答えられたり、「燃える炎や血の色と同じだ」として色見本を選んだりする状態そのものだと考えるのである。
つまり、その心的表現に対応するような行動をしたり、心的表現に対応するような傾向性を示したりすることがそのまま心的状態とイコールであり、それ以上の、行動と結びつかないような内的な「思い」とか、行動と結びつかないような内的な「クオリア」などを心的状態として考えるのは無意味な勘違いだとするのである。

 

ウィトゲンシュタインの言語論的一元論

では、我らがウィトゲンシュタインはどうかと言うと、彼も行動主義に当てはめられることがある。ウィトゲンシュタインの言語ゲームでは「痛い」という語の意味は痛みに対する表出とその対応によるゲームによって決定され、「赤」という語の意味はその語に対応する対象の「もの」とを結びつけるゲームによって決定されるとする。それゆえ、人の心的状態を考える時にも、そのように行動と傾向性などによって考えなければ意味がないとするのだから、行動主義的だといえる。言語的な捉え方をした上での行動主義なので「言語論的行動主義」と名づけても良いかもしれない。しかし、僕は、言語ゲームと私的言語批判のアイデアによる心の捉え方は行動主義よりも機能主義やもっと広い意味での一元論に近いものとして考えるべきではないかと考えている。だからこのブログでは「言語論的一元論」としてウィトゲンシュタインを捉えて考えていきたいと思う。これについては心の哲学の地図を一通り見た後でまた考えるのでひとまず措いておく。

 

論理的行動主義のダメなわけ

さて、一世を風靡したライルの論理的行動主義は一つの大きな欠点があるとされて、ほどなく廃れてゆく。その欠点とは、行動で表出されない限りでの思考や感情や感覚の「感じ」が無いことになってしまうことであり、行動として何一つ表出しないような人を考えた場合にその人が心を持たないことになってしまうことである。
たとえば、深昏睡の患者は行動主義の立場では、定義上、赤いろの感覚や痛みの感覚を持ち得ない。また、たとえば、「なぜか全く痛そうな振舞いができないのだけれど、今、本当はモーレツに痛いんだ」と心の中で思ったとして、この言葉が意味を持ち得なくなってしまうということだ。だって、行動も傾向性も表出し得ないということはそこに心的状態は存在しないということなのだから。行動と傾向性だけが心的状態だというのであれば、そこに如何なる心も隠され得ないことになる。誰にも内緒の自分だけが知っている感覚など、原理的にあり得ない幻想になってしまうのだ。
論理的行動主義のこのダメさを揶揄した冗談を、サールは「マインド」で紹介している。「ある行動主義のカップルがベッドをともにした後『君はすごく楽しんだ。僕は楽しんでた?』」

 

タイプ同一説とトークン同一説

そこで、行動ではなく、人体そのものによって、心を位置づけようとする考え方が起こった。心とは脳の状態のことであるとしたのだ。これを「心脳同一説」という。同一説には、タイプ同一説とトークン同一説がある。タイプ同一説は脳状態のタイプによって心的状態のタイプが決定するという考えである。たとえば、「c神経線維の発火」とタイプ分けされた状態が「痛み」の心的状態そのものだと意味づけられるというような、心の捉え方である。この同一説によれば、行動主義の不具合はカバーできる。痛みの振舞いが表出できない深昏睡の患者であっても脳内でc神経線維が発火していることが確認できれば、そこには「痛み」があると言えるようになる。「なぜか全く痛そうな振舞いができないのだけれど、今、モーレツに痛いのだ」というような文も、その脳状態を調べることによって、有意味の文になり得る。実際に現状の脳科学レベルではそんな確認はできるわけがないが、原理的には可能であるのだから、「心とは脳の状態そのものだ」と言ってしまうことで「心」を定義できることになるのだ。

 

タイプ同一説のダメなわけ

でも、タイプ同一説にも問題がある。たとえば宇宙人の心が問えないのである。タイプ同一説は脳状態のタイプ分析によって心を決めるのであるから、脳の仕組みが違ってしまうと心を決めることができなくなってしまう。宇宙人の頭骨の中身がシリコンゼリーでできていたとしても、そいつが怪我を負っていたそうな振舞いをしているのであれば、その宇宙人は痛みを感じていると言っていいはずだ。でも、タイプ同一説ではそれを痛みだとすることができない。わざわざ宇宙人を持ち出さなくっても、犬のポチの話でさえそれが「痛がっている」という文は意味がなくなってしまうし、人間でも脳に奇形があればその人は「痛がる」ことが原理的にできなくなってしまう。

 

トークン同一説

この困難をくぐり抜けるためにトークン同一説が考えだされた。トークン同一説とは、脳状態をタイプ分けして考えるのではなく、その時その時の個別の脳の状態が一つ一つの心の状態に対応する、と考えるような心の捉え方だ。タイプ別に振り分けて心の状態を分析するのではなく、一場面一場面の心の状態を別々に捉えるのだ。
そうすると、脳状態がまったく異なっていても心の状態を問うことができるようになる。その時その時で個別に脳状態を対象にして考えることができるのだから、ある場合はc神経線維の発火が痛みであり、また、別の場合にはシリコンゼリーの沸騰が痛みであるとすることができるのだ。こうしてトークン同一説によってタイプ同一説の問題をクリアすることができた。

 

トークン同一説がダメなわけ

しかしこのアイデアにもやはり問題がある。そのつどそのつどの脳の状態のトークンと心的状態のトークンを、同一であるとしたり、同一でないとしたりして判断していくのであれば、新しい場面で一つの脳状態がはたしてどんな心的状態を持っていることになるのか判断するときにでも、その心脳の結びつきについて何の基準もなく新しく判断しなければならないことになる。だって、それまでの、あらゆる心と脳の結びつき方についてタイプ分けして考えることを排除してしまったのだから、既存の分析結果は心の状態を分析するための「目安」にはなり得ないことになってしまうのだ。結局、心的状態を考えるためには、そのつどそのつど心的状態を「定義」しなければならなくなるのだ。これでは、心的状態をテキトーにでっち上げているのと変わらないことになってしまう。

そこで、行動主義のいいところと同一説のいいところを取って、唯物論的な心の捉え方の決定版「機能主義」が生まれるのだが、それはまた次節で。

 

つづく

<心は実在するか>

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