セィゴドン?

投稿日: 2013年8月23日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

西郷隆盛 本当の顔 本物の写真 フルベッキ写真 13人撮り写真 

 

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※一般的な西郷隆盛の肖像写真。

今まで一般的に、西郷隆盛の肖像写真だと思われてきたものについて、近年疑問が投げかけられています。

西郷隆盛の本物写真、本当の顔はどれなのか?

西郷隆盛の姿については、上野の西郷隆盛の銅像の除幕式に立ち会った、妻の西郷いとが、「うちの人はこげんおひとじゃなか。」と言ったエピソードなどが有名です。

TOPに掲載した2枚の画像は、今まで学校の教科書にも使用されてきた、有名な西郷隆盛のイメージ写真ですが、「フルベッキ写真」の発見以降、本当に西郷隆盛なのか?ということが話題になっています。

imageこれがフルベッキ写真です。

image写っている人物の詳細はこちら。

この写真中央に写っている大柄ないかつい顔の人物が西郷隆盛だというのです。

この人物はまた、会津藩から見つかったいわゆる「13人撮り写真」にも写っており、西郷隆盛説がさらに盛り上がることになりました。

image※会津藩で発見された「13人撮り写真」。右端の人物がフルベッキ写真の西郷隆盛と同一人物。

写真を拡大して比較してみましょう。
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左:フルベッキ写真        右:13人撮り写真

これは同一人物のようです。

しかし、人相判断に勘のいい人はあきらかな違いに気が付くかもしれません。そう耳です。整形でも耳の形は変えにくいとされていますが、このフルベッキ写真と13人撮り写真でもあきらかに耳の形が異なります。

フルベッキ写真の方は耳たぶが伸びて、いわゆる福耳、一般的な西郷隆盛の肖像画に近い耳になっています。一方、13人撮り写真の方はいわゆる平耳です。

このことは13人撮り写真を発見した加治将一氏も言及していて、フルベッキ写真は修正されていると述べています。フルベッキ写真には「写真修正=田中」と書かれており、修正されたことがコメントされています。具体的にどこを修正したのかまでは不明ですが、それが西郷隆盛の耳だった可能性は否定できない、ということです。

後掲する2013年4月の読売新聞の記事に掲載された写真の「西郷隆盛」も平耳に見えます。

さて、はたして、この人物は本当に西郷隆盛なのでしょうか?

この記事TOPに掲載した一般的な西郷隆盛のイメージ写真は、西洋人画家キヨッソーネが親族の写真を合成したモンタージュであるといわれて言ます。

写真の上半分は弟の西郷従道、下半分は従弟の大山巌だという説が濃厚です。
 image
左:西郷従道                 右:大山巌

西郷隆盛と、西郷従道、大山巌の関係は次のようになります。
大山綱広━綱栄━綱道━綱毅━競子
              ┃
              ┣━━┳成美
              ┃  ┣巌━━━┳高
       西郷隆充┳大山綱昌 ┗誠之助 ┗柏━┳梓━━由美子
           ┃       ┃     ┣桂
           ┗吉兵衛┳隆盛━菊子    ┣檀
               ┗従道       ┗咲子
                          ┃
                          ┃
                          ┃
                 内田耕四郎━━大山健次

ここに、また新たな説があります。

西郷隆盛は暗殺を警戒して写真を残さなかったといわれています。しかし、江戸城の御用写真家で明治天皇の写真も撮影した内田九一が撮影した、薩摩藩士の集合写真に写っている人物が西郷隆盛ではないか、という説です。

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※薩摩藩士を撮影した古写真。右から二人目が西郷隆盛の本当の写真と言われている。

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※本物の西郷隆盛の写真。拡大図。

一体どの説が本物の西郷隆盛の写真を示しているのでしょうか?

このような中、2013年4月23日、読売新聞にフルベッキ写真に関する興味深い記事が掲載されました。フルベッキ写真は、従来言われていたような維新志士の写真ではなく、佐賀藩の藩校の生徒を映したものではないか、という説です。

この写真には、フルベッキ写真、13人撮り写真で、西郷隆盛ではないか、といわれていた人物がはっきりと写っています。
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※新たに発見されたガラス原版。右端が西郷隆盛とされてきた人物。フルベッキも写っている。

記事全文を引用します。

「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒

 佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830~98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。

 縦7・8センチ、横10・7センチ。個人所蔵の資料から倉持基・元東大特任研究員(歴史写真学)らが確認した。古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。

 興味深いのが、西郷隆盛や坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると言われる「フルベッキ写真」との関係。フルベッキを囲んで多数の武士が写るこの写真は、もともと明治時代に致遠館の生徒の写真として世に出ており、龍馬没後の明治元年に同館に留学した、岩倉具視の息子2人が写っている点などからも、志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。

 しかし、原板と比較した結果、伊東以外の6人が「フルベッキ写真」にもほぼ同じ姿形で写っていた。このため、二つは同時期の撮影と考えられ、高橋さんは「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」とする。

 原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)
 写真=見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる(倉持さん提供)
 写真=幕末志士の集合写真と言われている「フルベッキ写真」。フルベッキが中央部分に写っている(倉持さん提供)

2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

ますます、混沌としてきた西郷隆盛の真の肖像。

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