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【閲覧注意】日航機墜落事故の衝撃画像集

日本航空123便墜落事故の記憶が風化している方に観て欲しい画像集です。先日御巣鷹山に慰霊登山して色々と考えさせられたのでまとめました。ご遺体の画像もありますので、心臓の弱い方はご遠慮ください。

更新日: 2013年08月19日

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1985年(昭和60年)8月12日羽田空港18時12分発伊丹空港行のJAL123便が、18時56分に群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名で、死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多であり、単独機の航空事故としても死者数世界最多という最悪の事故となった。

<事故発生>
18時24分(離陸から12分後)123便の垂直尾翼は後部圧力隔壁の破壊により垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、油圧系統全てが制御不能となってしまう。
そのため両主翼にあるエンジンの推力調整のみでの飛行を余儀なくされる。

<機内の様子>
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、緊急放送が流れた。機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。

<墜落時の状況>
クルーの努力も空しくJAL123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触。18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で衝突、墜落した。
640km/hの速度で墜落した衝撃により、機体の大部分に数百Gの衝撃が加わり、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほどバラバラになり炎上した。
即死した乗員乗客も多かったものの、客室後部付近を中心に墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存しており、翌朝捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある。

<救助活動について>
墜落から約20分後の19時15分頃、アメリカ空軍のC-130輸送機が墜落現場を発見し通報。
アメリカ陸軍救難ヘリを現場へ誘導したが、日本側の要請により救助開始寸前に中止を命じられる。
19時21分頃、航空自衛隊のF-4戦闘機の2機も墜落現場の火災を発見して通報し、墜落から約2時間後の20時42分に百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターが現場上空に到着した。しかし、本格的な夜間救難装備が無いことなどを理由に、事故当夜には救難員が降下しての救助活動は行われなかった。墜落からおよそ14時間が過ぎた翌朝8時30分頃に、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近に降下し、その後陸上自衛隊第1空挺団員が現場に降下して救助活動が開始された。

実際に救助活動が行われたのが墜落から14時間経過した後であったことから、
救難体制の不備や、緊急時における縦割り行政の問題点が指摘された。

<事故原因>
運輸省(当時)航空事故調査委員会は、墜落より7年前に発生した尻もち事故の際、ボーイング社が行った修理にミスがあり、それが原因で客室と機体尾部を隔てる後部圧力隔壁が破壊され、事故が起きたと認定された。

JAL123便の交信記録とコクピットボイスレコーダー

▼当時の新聞

▼現場の画像

閲覧注意画像が多数ありますので、心臓の弱い方はご注意下さい。

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生きているっていうことは
カッコ悪いかもしれない
死んでしまうという事は
とってもみじめなものだろう

だから親愛なる人よ
そのあいだにほんの少し
人を愛するってことを
しっかりとつかまえるんだ



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